2011年03月23日

神仏は妄想である 337

マタイの福音
おのれを愛するように、おのれの隣人を愛しなさい

同じ視点は、当然、山上の説教にも出てくる。こちらはすでに詳しく扱ったけれども、5・17−20の要領的宣言の部分で彼は「パリサイ派、律法学者の義よりも大きな義」を実現することを課題としてかかげている。そしてその課題の具体的な内容を展開するのがいわゆる六つの「反対命題」の部分なのであるが、この部分の最後に彼は「敵を愛する愛」を頂点として置いて終わっている。
田川建三

マタイ福音
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい。

そして山上の説教全体の結びでも、いわゆる黄金律、すなわち「何か人にしてもらいたいと欲することがあれば、自分もまたそのように人にしてやるがよい」という句が置かれている。「愛」という単語は出てこないが、これも愛の精神の表明であって、この句は山上の説教全体をふりかえってもう一度その内容を一言で要約する趣旨のものである。
田川

そしてここでも、これが律法の根本原理であることを主張する一句が添えられる、「これこが律法であり、預言者である」
田川

実は、律法の根本原理という発想も、愛の戒めが、その根本原理であるする発想も、当のパリサイ派、またそれに限らず、ユダヤ教知識人一般の、共有財産なのである。

であるから、

その理解の仕方も、本質的にはなんらパリサイ派、律法学者と変わるものではない。
田川
となる。

それでは、二者の、相違とは、何か。

その相違はどこからくるのか。パリサイ派律法学者にとってはともかく彼らの社会的、宗教的生活のすべてを覆うものであった。それに対してマタイの方は、ユダヤ人としての法的発想の伝統をひきながらも、実際の生活の基盤は、「ローマの平和」のもとでの古代資本主義の繁栄期において、世界的な商業活動に支えられた知識人として生きているのだから、いかにユダヤ教の伝統から来る法的発想に固執しても、それが実際の社会生活の全体を覆うはずもなく、そこから生活の実態と知的イデオロギー的作業との乖離が生じる。

その結果、法的発想は純化されて、法の根本原理へと飛翔することができる。マタイが律法の根本原理をパリサイ派、律法学者よりも純粋に徹底して主張しえているのは、そのせいである。両者の相違は、両者のそれぞれが自覚的に展開して理論の相違ではなく、自覚的には同じことを考えていても、その社会的基盤からおのずと抽象度がずい分と違ってしまう、ということなのである。

そしてこの相違をマタイはそういうものとして自覚してとらえ返すことはできていないけれども、違うということだけは明瞭に感じ取っているから、パリサイ派、律法学者に対して近親憎悪的な悪詈を投げつけるのである。
田川 
読みやすく改行した

マタイの、愛という、律法の根本原理が、どのように、抽象的に作用しているのかは、これと、実質上同じ概念であり、具体的内容を示している、慈悲、憐れみと言う、概念を検討していくと、更に明瞭になる。

旧約、ホセア書
神が欲するのは慈悲であって、供儀ではない

話しは、少し変わるが、
当時も、今も、聖書全体の、一部を取り出して、自分に都合のよい、解釈に変更するという、作業が、延々と続けられている。

膨大な、旧約聖書の中からは、いくらでも、都合の良い言葉が、得られるのである。

そして、聖書に書かれているという、権威の下で、堂々と、考えを展開するという、方法である。

それには、呆れて、ものも言えない。
特に、聖書主義といわれる、プロテスタント系キリスト教は、それが、甚だしい。

聖書に書かれているから、正しいと、無反省に言葉を取り入れる。

神学というものが、いかに、不毛なものであるか、ということだ。

そして、実際、それは、盲人が、盲人を案内するのに、似る。
聖書を神の書としているうちは、それが、終わらない。
聖書を、文学とするときにのみ、それが、解決する。

さて、もう一度、田川氏の、論調に戻る。

この「慈悲」もしくは「憐れみ」は、より弱い者、しいたげられた者に対してキリスト教徒が持つべきものと考えられている。その限りでは、マタイの倫理は支配者の倫理ではない。それはいかにも社会的にしいたげられた者に味方する倫理であるかの如きである。むろん額面通りの主張からすればそうには違いない。しかし、社会的に抑圧された者をイデオロギー的にも搾取するのは、彼らを抑圧せよと、正直さをまるだしにして露骨にわめく者よりも、むしろ、抑圧された者たちの味方であるような思想をその者たちの前で並べながら、自分たちは決して抑圧される場にはいない者たちである。
田川

取税人レヴィの家で、食事をしていたときに、「あの男は取税人や罪人などと一緒に食事をする」とパリサイ派から、言われた。
それに対して、イエスは、「自分が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と、逆説的な言葉を返す。

要するに、自分は、お前らが「義人」と呼ぶ者たちなんぞ相手にするつもりはないので、お前らが「罪人」と呼んでお前らの社会秩序から排斥している者たちの側にいるのだ、という主張である。これは所詮逆説的発言の限界を出ていないが、「義人」「罪人」という秩序をさかさまに転倒してしまう、という反抗的主張となっている。「義人」よりも「罪人」のほうが正しいじゃないか、というひねくれた主張の裏には、「義人」「罪人」という区分けで社会的抑圧を増幅してきた大きな圧力に対する憤りがある。
田川

平たく言えば、イエスは、反骨精神丸出しの、説教を繰り返していたのである。
この世、当時の、ユダヤ教の、矛盾を徹底的に、突いたのである。

だから、何度も言うが、現在、イエスが、現れたら、現在の、キリスト教徒に、殺される。

教会という、既得権益の中にいて、のうのうとして、安住する、聖職者たちを、徹底的に、攻撃するだろう。

キリスト教、糞でもくらえ、この偽善者たちよ・・・
とでも、言うのだろう。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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