2011年03月22日

神仏は妄想である 336

マタイ福音24・11,12
多くの預言者が起ち、多くの者をまどわすだろう。不法がはびこることによって、多くの者の愛が冷えるだろう。

ここでもまた「偽預言者と「不法」が結び付けられている(前にふれた13・41も参照)。七章では現在活動している「偽預言者」に対する警戒が語られるが、この個所では未来の予言という体裁をとっている。終末の直前に「偽預言者」が出現する、というのだが、七章とつなげて読めば、マタイがここで現在の教会の状況に対する内部的な批判を未来の状況に投影しているということがわかる。従って、マタイの内教会批判を理解するには、これらの個所を総合して見るべきである。
田川建三

マタイにとって、実践とは、法の完成であるから、実践に励んでいないと、みなした相手には、不法、という、レッテルを貼る。

田川氏は、ここで、重要なのは、愛が冷えるだろう、という、句だという。

ここにマタイの実践理解の鍵がある。つまりマタイがパリサイ派律法学者にも同僚のキリスト教徒にも不満でたまらなかった理由は、いかに旧約律法の一言一句を厳密に守っていると彼らが自称していても、あるいはいかに「主よ、主よ」と叫んで新しいキリスト教信仰に対する熱意を示していたとしても、その根本精神たる「愛」の実践をなしていない、と思われるからであった。マタイの実践概念は「愛」へと結晶する。
田川建三

愛の実践に、すべての中心が置かれて、それが、神の意志の、実践とみなされ。
そして、キリスト教信仰と密接に結びついて、彼らには、それで十分なのである。

この「愛」の実践が現実にはどういうものになってしまうか、ということはおよそ考察しようとしない。現代のにやけたキリスト教徒は「愛」と言えばもう鼻の下を長くして水づけになった乾パンのようにふやけてしまう。
田川建三

マタイの、そういう思想が、実際に、どういうものなのか、ということを、明らかにすることが、必要になる。

マタイ福音から
禍いあれ、汝ら偽善なる律法学者、パリサイ派よ。汝らは薄荷、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を神殿に献納しておりながら、律法のもっとも肝心な部分、すなわち公平、慈悲、誠実を放棄してしまった。

Q資料から取られた句である。
イエス当時まで、さかのぼる、伝承の一つ。

イエスの発想は、律法の実践に対して、律法の根本精神である、正義を忘れているのでは、しょうがないという、皮肉の意味である。

しかしイエスは、それを闘争的な鋭さにおいて発言した。つまり、あほらしいほど厳密な律法の実践を要求してくる社会秩序の力を転倒しようと刃向かったのである。
田川

当時、この十分の一の税こそ、ユダヤ社会における、神殿貴族の支配を支える、経済的基盤だった。

その量は、巨大なものだった。
大部分のパリサイ派律法学者たちは、神殿貴族を頂点とする、支配体制から、うまみを吸って生きていたもの達である。

だから、彼らは、その支配体制の維持を説教して、歩く。

「法と秩序」のイデオロギーの担い手の大多数は、いつもそのあたりにいる。
田川

イエスは、そのような、規定によって、抑圧される者の、怒りがあった。
イエスの、律法批判である。

ところがイエスの律法批判を継承したはずの原始キリスト教では話しが違ってくる。まず、イエスの言い方ははっきりと対決的であって、律法の根本精神を突き出すことにより、かえって、律法の重要項目の一つである十分の一税の権威がけしとぶ。十分の一税そのもののうさんくささが、イエスをしてこの言葉を言わしめたのである。
田川

だが、初期のユダヤ人キリスト教徒は、相変わらず、律法を尊重し、律法を中心とした、ユダヤ教社会に従順に、生きていた。
イエスに、露骨に言われては、困るのである。

こそで、Q資料の伝承者たちは、この句に続けて、それもなさねばならないが、こちらも見逃してはならぬ、と、一言付け加えたと言う。

しかし、マタイは、中途半端な言い方はしない。
律法を守ることを、徹底しようとする。

それは、典型的な観念的徹底であると、田川氏は言う。

正義と慈悲、律法のもっとも肝心な部分、と、律法の根本精神とみなし、律法の実践を、すべて、その原点的観点から、見るのである。

マタイは、神を愛することと隣人を愛することの二点を律法の最重要点とみなした伝承をそのまま書き写すだけでは満足せず、「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっている」という一句をつけ加える。
田川

さて、平たく言う。
要するに、福音書とは、それぞの、作者による、とても、拘った書き物だということである。

神の霊感によって・・・
そんなものではない。
生身の人間たちによって、手を変え品を変えて、作られていった過程があるということ。

神学者は、それらを、また、自分の思い通り、さらには、都合よく、解釈して、平然としているという、訳である。

そして、平信徒に、対座する、司祭、牧師は、また、それぞれ、小理屈、屁理屈をつけて、信徒に、説教するのである。

それが、本当か、嘘かは、どうでもいい。
信じたい人がいるのである。

字面だけでも、満足して、安穏とした、信仰という、生ぬるい世界に浸る。
勿論、そこに救いなど、あり得ない。

あるのは、寝惚けたような、自己暗示の世界、祈りの、世界である。

勝手に、感動して、勝手に、我を導いているのである。

主イエスと、共に・・・

だから、私は言う。
今、イエスが、現れたならば、キリスト教徒に殺される。
ユダヤ教徒に殺されたように、である。

何故か。
徹底的に、教会批判をするだろうから。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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