2011年03月21日

神仏は妄想である 335

マタイがシリア地方のどこかの大教会の伝統の中にいるとすれば、そのシリア地方ではすでにパウロの生前からパウロに対する強い批判が支配しはじめていた、という事実を考慮する必要がある。これはパウロ自身もガラティア書第二章で述べていることである。また場所はわからないし、時期もやや後だが、従って、パウロ自身の権威を承認しつつもパウロを批判する、という手のこんだ手法ではあるけれど、はっきりと名指しでパウロ主義を批判していた者たちもいた。従って、パウロ主義批判がパウロの生前も死後も、初期キリスト教内の相当な部分でひろまっていたこと、それも特定の一部分などというものではなく、さまざまな場所でなされていたことは明白である。
田川建三

マタイが、イエスを、ただ信じているだけでは駄目だ。実践こそが、天の国に入るか、入らないかの、唯一の決め手だ、と言うことは、パウロの信仰のみによる、義認の教えが、かなり広まっていた、初期キリスト教後期である。

田川氏は、ここで、神学者たち、護教論神学者たちの、批判を行うが、専門的なので、省略する。

ここでは、マタイと、パウロの違いから、マタイを見ることにする。

しかしそもそも、パウロがコリントス教会で相手にしていた「霊的熱狂」と、マタイが偽預言者批判で相手にしている者たちとを、同じ「霊」的な「熱狂主義」者とみなすこと自体に無理がある。確かに両者ともに「預言」をなし、奇跡的病気の治癒などをなす。しかし、コリントス教会の者やパウロ自身はそれを「霊の賜物」とみなしているのに対して(たとえば奇跡的治癒も「霊」の働きとみなされる)マタイの偽預言者批判には「霊」の問題は全然出て来ない。彼らは「主の名」によって奇跡行為をなす。「イエス」の名が奇跡的力を持つと広く信じられていたことは、たとえばマルコ9.38も示している。
田川

パレスチナ、シリアのキリスト教奇跡行為者は、イエスの名によって病気治癒の行為をしていたのに対して、ギリシャ、コリントスのパウロ信者たちは、霊の働きによって、病気治癒をなそうとしていた。

両者を、霊の賜物主義とは、呼べない。
これは、パウロ信者に言えることである。

田川氏は、パウロが、預言、奇跡、病気治癒などをなすという、霊的賜物主義を批判しているという、今日の神学者による、パウロ研究は、嘘であると、言う。

パウロは、実際、異言、預言、病気の治癒、悪魔祓いなども、霊の賜物としているのである。

それらは、皆、同じく、霊の賜物であるから、大切にせよ、というのが、パウロの教えなのである。

余談で、平たく言えば、パウロ自身が、死後のイエスが現れて、それから、キリスト教迫害を止めて、イエスを神の子として、信じるという、信仰主義を立てたのである。

その、イエスの霊が、イエスの霊なのか、どうかは、判定の仕様が無いのである。

それが、悪霊ならば・・・
有り得ることである。

コリントス教会に、異言、いご、といい、霊に憑かれたとして、わけのわからないことを、わめきちらす、行為を、持ちこんだのは、パウロ自身だった。

ちなみに、現在では、カトリック、プロテスタントの、合同の集いで、そのような、ペンテコステ運動のような、祈りの会などが、開かれて、異言なる言葉を、しゃべりだす者もいる。

誰も、それを判定できないでいる。
ただ、それを、霊的賜物・・・と、信じる人たちがいるということ。

マタイは、信仰のみが、必要であるといいつつ、やることは、預言やら、悪魔祓いやら、病気治癒でしかなく、肝心の、神の意志の実践から遠い、彼らを、批判するのである。

ところが、マタイは、主の名によりて・・・は、認めるのである。

ここでは、神学者同士の、お話しは、すべて、省略している。

さて、次に、田川氏は、
だがそういうマタイ自身どうなのだろうか。すでに奇妙なのは、あれだけ実践を主張するマタイが病気の治癒を実践とはみなさいことである。
と、言う。

病気の治癒などやっても、神の意志の実践をしなければならないのだと、言う。

ここにマタイの「実践」概念の観念化をとく鍵の一つがある。
田川

イエス自身はあくことなき病気治癒の実践家であった。それはまあ古代のこと(現代でもかなりそうだが)まわりにはいくらでも病気をかかえて苦労している人がいる。本気になって病気治癒の活動をはじめたら、次から次へと、きりがなくなったのも無理からぬことである。そして、一つの固定した社会体制の中では、病気で苦しむ者の多くはその社会の安定、その社会の「平和と秩序」の枠の外に置かれてしまう。その社会にとって役に立たない厄介者とみなされる。とすると、そういう者たちがそれこそ熱狂的に歓迎する病気治癒者の出現は、固定した社会秩序の維持者である「理性的」な支配者、支配層の利益を代表する社会的、宗教的イデオローグからは白い眼で見られ、時には露骨に弾圧がかけられることもある。そういう意味で病気治癒は、古代社会においては特に、極めて重要な実践でありえたのだが、マタイはそれを「実践」から除外してしまった。そうするといったい、マタイの主張する「実践」とは何なのか。どうもマタイは自分の生きている現実から実践の課題をとらえていくのではなく、観念的に徹底してとらえた実践理念から実践なるものを理念的に追求しているようなのである。
田川

ここで、さらに、平たく言う。
マタイは、ユダヤ教指導者にも、同じキリスト教会にも、批判するのである。
そこには、エリート特有の、やっかみ、僻みがある。

自己矛盾に満ち満ちている、マタイの福音書であるが、それをせざるを得ない、エリート意識なのである。

田川氏も、実践の観念論者の、やっかみを生むと、言う。

マタイは、ラディカルに、ラディカルにと、実践の観念論を吐き出すのである。
自分たちは、彼らと違う・・・

青年の主張である。
また、青臭い、エリートの悪足掻きである。

天にいます汝らの父が完全であると同じように、完全な者となれ
とは、マタイの叫びであり、イエスの言葉ではない。

イエスの、奇跡物語は、後で、付け加えたもので、それが、信仰の中心になる。
多くは、作り話であり、その奇跡物語を、信じるという形で、信仰が成り立つという・・・

裏は、見えているのである。
だが、人は、何かを信じて、安心したい。

その人の、安心感に付け込んで、教団が、大きくなる。
信じさせると、何から何まで、信じるようになる。
そうして、この五千年ほどの、人類の宗教に迷うという、歴史が作られてきたのである。

私は、神話や、伝説を否定する者ではない。
逆に、神話、伝説により、共同幻想を抱くことにより、国や、地域社会が、成り立つ。

それが、伝統行為として、所作に現れるのが、最も、理想的である。
宗教になると、堕落の一途を辿る。





posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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