2011年03月19日

神仏は妄想である 334

聖書が、神からの霊感によって、書かれたものである、という、キリスト教の教えの、誤りを言う。

聖書は、その作者、また、その集団の言いたいこと、主張を書いたものである。

マタイ7章より
偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。

「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」というであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」

この箇所が、マタイの内教会批判を理解する鍵になる個所である。と、田川氏が、言う。

「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」という実践を強調する句と「岩の上に言えを建てる人」の比喩で終わっていたことは、ルカ六章の並行記事と比べるとわかる(この部分に関しては、はっきりルカによる修正とわかる点以外は、原則としてルカの方がQ資料をそのまま保存しているとみなすべきである)。そして、「良い木は良い実を結び・・・」と「岩の上・・・」の間に、伝承ではさらに実践を強調する句として、「我にむかって、主よ主よ、と呼びつつ、何故我が言うことを実践しないのか」という「イエス」の言葉をはさんでいる。
田川建三

Q資料において、すでにマタイに見られる、実践の強調、その実践の強調を、教会批判として、行うことの、二点が存在すると、田川氏が言う。

マタイは、Q資料における、二つの比喩の言葉の間にある、主よ主よと呼ぶ者の、批判において、更に、教会内の批判を詳しく展開するのである。

マタイは、「悪い実を結ぶ悪い木」とは、偽預言者のことであると、結びつけて、具体的に、相手を特定する。

マタイは、偽預言者として、批判する、一派に対して、Q資料から取られた、言葉を当て嵌めているのである。

そして、主よ主よという、言葉も、自分の主張にあわせて、作り変える。

Q資料では、「何故我が言うことを実践しないのか」という、非難を、マタイは、そういう者が、「みな天の国に入るわけではない」と、天の国に入る、権利を締め出すのである。

どういう者が天の国にはいれるか、もしくはしめ出されるか、という言い方もマタイの非常に好む言い方である。マタイはパリサイ派律法学者に対して「お前らは人々の前で天の国の戸を閉ざしてしまう。お前らが天の国にはいることはないのだが、はいろうとしてくる者まで邪魔をしてはいらせない」と悪態をつく。つまり、パリサイ派律法学者が、自分たちの評価基準にはずれる者たちに対して、ああいう者は天の国にはいれません、こういう者もはいれません、と好き勝手な断罪を言い立てているのを批判しているのである。けれども、そのように言うならば、自分としては、他人が天の国にはいれるかどうかなどという断罪行為に口をだすことはしません、と謙虚に言うべきだろう。ところがマタイはパリサイ派に対して自分が批判したのと同じことを、自分自身はけろっとしてやってのける。
田川

マタイは、自分が、神に代わって、決定する如くに、断定的に、言うのである。

マタイは、その自己矛盾に気づかない。

マタイ的キリスト教が、元祖とするのは、ペテロである。ペテロの権威を継承しつつ、自分たちが、天の国の鍵を握っている、つもりになっているのである。

更に、Q資料の句に、手を加えて、イエスの言うことを、実践する、を、神の意志を実践する、と、書き直すという。
こうして、山上の説教を貫くマタイの視点が、完成するのである。

イエスが、教えて、命じたことは、神の意志である。そして、それは、律法の一点一画もすたれずに、成就するということを、意味する。

イエスの教えと、旧約律法が、神の意志の概念により、一体化するのである。

一体、マタイは、誰を念頭において、批判しているのか。
それは、パウロ主義者たちである。という、学説があるという。

さて、平たく言う。
要するに、初期キリスト教会も、一枚岩ではなかったのである。
更には、主導権争い。

聖書が、神による霊感によって、書かれたという、お説には、賛成できないのである。

全くもって、作者と、その集団の、考え方を、イエスの言葉として、書き連ねたのである。

更に、聖書解釈をするという、神学者たちの、あまりの、妄想に、愕然とする。
学説などというが、神学が、学問足りえる訳がない。
勿論、哲学の一分野であるというならば、認めざるを得ないが・・・

聖書自体が、こうして、作られたものであることを、理解すれば、キリスト教の教義などは、虚偽であろう。

イエスの、本当の、教えは、何だったのか・・・
最も、素朴で、当たり前の疑問が、浮かぶ。

マタイは、同じユダヤ教民族の、近親憎悪丸出しである。
矢張り、キリスト教とは、ユダヤ教の、分派と、考えるべきである。

ユダヤ教から、抜けられないのである。

イエスは、旧約で、約束された、メシアであると、作られていった有様を、まざまざと見る思いがする。

そして、それは、イエスの教えに、全く反することになるものかもしれないのである。
キリスト教は、イエスから離れて、宗教として、成り立った。いや、成り下がったのである。
イエスは、どこにも、いない。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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