2011年03月18日

神仏は妄想である 333

ただ今、マタイ福音書を、見ている。
聖書というものが、どのように、創作されていったのか、を、見ている。

神学者の田川建三氏の、マタイ福音書に寄せて、第三章実践の観念論を、基底にして、勝手に書き込んでいる。

彼は理論的には現実のイスラエル民族がそのままでは神の民ではない、と主張してみたものの、それに代わって登場した「教会」が、異邦人やら無作法な庶民やらをうじゃうじゃ含んでいることに、感覚的に我慢できない。それで彼は、せっかく新しい存在としての「教会」を主張するのに、大通りで無差別にかき集めたような集団としか表現できないのである。
田川

マタイ福音から
そして、家来たちに言った。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人たちは、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

次が、問題である。
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。せこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。

初期の、教会は、そのようであった。
誰かれなく、集めておいて、そのように対処する。
礼服も、着ない者は、放り出されるという、非情である。

つまり、マタイは、傲慢なユダヤ教徒の、エリート意識から、庶民を徹底的に、蔑視するのである。

イエスを使い、新しい教団を作るが、そこにあるのは、ユダヤ教の発想なのである。
しかし、ユダヤ教と、対立しなければ、ならない。
方法は、一つである。
その主は、キリストなのである。
その、権威の上に、マタイは、とても、傲慢じみた、福音書を書いたといえる。

マタイの福音から
あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

イエスの口を借りて、言いたい三昧である。

偽善者たちと、呼ぶ、ファリサイ派律法学者たちと、実は、変わらないのである。
イエスの口を借りて、彼らを徹底的に、攻撃するのは、近親憎悪である。

そして、その、批判の矛先が、同じキリスト教徒のグループである、パウロのグループなどに向けられているのである。

初期キリスト教は、最初から、混乱し、分派していたといえる。

いずれ、カトリシズムの、元になった、パウロについて、書くが、相矛盾する、書物を、聖書として、採用したキリスト教は、今も、そのまま、矛盾を抱え込んでいる。
しかし、信徒たちには、何の矛盾も、感じないように、説教を繰り返しているという、ずさんである。

ここで、益々、イエスの教えは、どこにあるのかという、疑問が湧く。
だが、それは、大変な労力がいることだ。

時代は、イエス本来の、教えは、何かと、問い続けるようになった。

聖書の、改竄、また改竄が、わかってきたからである。

キリスト教が、イエスの教えであるならば、今頃、ユダヤ教何々派として、存続しているだろう。

マタイの福音から
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替商の台や鳩を売る者の腰掛を倒された。そして言われた。「こう書いてある。
わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。

マルコも、ルカも、ヨハネも、同じく書くのである。

つまり、キリスト教の初期は、ユダヤ教の神殿を、神殿として、認めていたということである。

これは、イエスが、ユダヤ教徒として、教えを述べていたと、想像する。

ユダヤ教の、伝統と、伝承から、イエスも、抜けてはいなかったのである。

そして、イエスは、メシアではなかった。
一人の自由な、信仰者、あるいは、改革者、あるいは・・・

マタイが、今の、キリスト教を見たら、全く別物に感じるはずだ。
何故なら、一切の、ユダヤ教の、教養を身につけていないからである。

しかし、以前に書いたように、ユダヤ人以外の民族に、キリスト教を広めたという、事実が、マタイの福音には、ある。

そう、善人も、悪人も、一緒くたにして、集めたのである。
信仰の、深い、浅いも、関係ない。
そこで、田川氏の、実践の観念論という、論文が、生きてくる。

裕福で、知的な、ユダヤ教の、マタイ集団が、ユダヤ教の、傲慢な者たちを、批判する。そして、自分も、また、同じように、批判される立場に立つのである。

更に、同じ、イエスをキリストとして、創作する、集団に対しても、批判するという。

これが、宗教の創造性である。
と、いうより、人間の妄想性である。

そして、当時、様々に、説教をしていた、多くの預言者たちの中でも、イエスの存在は、群を抜いていたと、思われる。

イエスを、キリストとして、作り上げ、そして、そのイエスの口、言葉を、通して、言い分を書き付けるという・・・

ヨハネ教団から抜けた、イエスが、図らずも、新しい教団の、教祖として、祭り上げられたのである。

そして、である。
それが、現代でも、行われているという、仰天である。
あたかも、イエスが、話したというように、説教を繰り返し、更には、その中に、自分の都合の良いお話を入れるという・・・

ああ、無情。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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