2011年03月17日

神仏は妄想である 332

新約聖書のどの文書も、多かれ少なかれ、それぞれが初期キリスト教内の自分とは異なる傾向に対する批判的対決を意識して書かれたものである。その限りでは、マタイが内教会批判をなしているからとて、別に特色のあることでも何でもない。しかしマタイでは、その内教会批判が独得の教会認識をつくりあげている。
つまり、他の著者たちの場合、教会内の「誤った」教えをいくら批判しても、教会自体の神聖性は理論的に前提にしている。教会は「選ばれた者」「聖なる者」の集まりである。
ところがマタイは、教会自体を善人と悪人の混合集団とみなしている。
この点にマタイの思想の非常に大きな特色がある。教会に属するということそれ自体は何の意味もないので、最後の審判の時には、教会に属する者でも悪人はみな天の国の外に放り出され、そこで嘆き歯がみしなければならないし、他方、教会に属さない者でもすぐれた実践者は率先して天の国に入ることができる。
田川建三 改行は、私。

教会を、善人、悪人の、集まりと、判定するマタイは、とんでもないということだ。

それが、大きな特徴というから、驚く。

マタイが、教会的独善を打ち破る思想を、教会内部に提出していると、田川氏は、言う。

これでは、教会の意義がなくなる。
よって、今までの、神学者、他の福音書の著者も、避けざるを得ないのである。

だが、そこに、マタイの、矛盾がある。
教会に属しても、属さなくても、関係なく、救いがあるということになるからだ。

田川氏は、教会を、マタイ的に言えば、善悪混合集団だと、言う。

マタイの福音から
イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。

その、説教が、繰り返されるのである。

とんでもないことを、書いたものである。
それでは、マタイは、何を、言いたかったのか。

話しを一気に進めると、マタイの教会観念は、今までは、イスラエル民族が、神の民であったが、これからは、教会が、真のイスラエルである、と、なる。

ユダヤ民族全体が、神の民ではなく、教会に属する、ユダヤ人が、真の民であるという。

つまり、意識としては相変わらずイスラエル民族意識をひきずっており、ただそれを現実のイスラエル民族全体とは同一視せず、教会と同一視する。「イスラエル」という概念をぐんと抽象化しているのである。
田川

ユダヤ民族を神学的にまとめて批判したマタイも、おのれ自身のうちにあるユダヤ民族優先意識を捨て切っていない。意識した宗教的イデオロギーの位相では、ユダヤ民族主義の偏狭さを克服したマタイも(ただしそれは、右に述べたように、ユダヤ民族主義を否定的に克服したのではなく、抽象化することによって拡大したのであるが)、彼自身の生活感覚としては「異邦人」に対する蔑視を捨てていないし、捨てるつもりもない。あきれるほどの図々しさで異邦人蔑視が口にされているのである。
田川

また、マタイは、世俗大衆に対する、蔑視も、捨てていないのである。

マタイは、パリサイ派律法学者に対して、
重い荷物をいろいろたばね、他人の肩にのせて背負わせるが、自分たちはそれを動かすのに指一本も使おうとしない、と言うが、それと同じ意識を、マタイも、その集団も持つのである。

それは、ユダヤ人社会での、ユダヤ教エリートの意識であると、田川氏が、言う。

今も、昔の、エリートも、変わらないのだ。

平たく言えば、私は、違うという、意識。
他の人と、私は、違う者だという、意識である。
実に、軽薄短小な意識である。

それが、宗教的妄想により、より、強くなる。
つまり、私は、救われる者であるという、意識。
自意識過剰なのである。

そして、なお、救いようが無いのは、それを、自覚できないということである。

自己暗示の、何物でも無い。

例えば、キリスト教徒は、笑うであろう、念仏のことである。
念仏をすれば、阿弥陀如来が迎えに来て、極楽浄土に連れていって、くれると、信じる。
私は、念仏を唱えているから、極楽に行けるという、妄想の信仰と、何ら変わらないということを、知らないのである。

人の信仰には、冷静になるが、自分の信仰には、冷静さを欠き、更には、妄想一杯に、天国を思うのである。

宗教の、役割は、成立以来、そうして、人々の心を、救ってきたのである。
それで、人々が、救われたか・・・
誰も、確かめる方法は無い。

死人に口なしである。
更に、死後、何処にいるのかも、解らない。
極楽にいると、思い込む、天国にいると、思い込む。
つまり、死んでも、救われていないのである。

まず、信じることから、始まるという、宗教家の言葉に注意せよ。
信じる者は、簡単に騙せるのであるから。

信じさせれば、こっちのもの。
いくらでも、尽す。
教団に幾らでも、金を出す。

更に、安心立命を得るということは、この世においてである。
この世で、安心立命を得るのである。
強い信仰は、いつも、火事場の馬鹿力である。

ホント、ご苦労様・・・





posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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