2011年03月16日

神仏は妄想である 331

権力が共同性と妥協して支配するという前提のもとに立つ限りは、法が支配するのは「当然」であった。しかし、上部構造中の上部構造たる宗教的イデオロギー集団において同じことが妥当するのは「当然」というわけにはいかない。
田川建三

問題は、社会関係の基礎構造から遊離した、宗教イデオロギー集団のことである。

それは、
宗教イデオロギーを共有するという点にしか本質的には共同性を持たない集団のことである。
田川

社会関係の基礎構造から遊離した宗教イデオロギー集団としておのれを大きく確立したのは、初期キリスト教がはじめてであった、と言える。
田川

更に
それがカトリシズムという形でもう一度大きく社会関係全体を覆うイデオロギーとなっていく過程を明らかにすることは、非常に面白い歴史研究の課題であると思われるが、初期キリスト教の右のような把握自体がまだまだおよそ十分になされていないのだから、そこから先はまだ未開の部分である。
田川

とても、大きなテーマである。

社会全体を支配する法がどのように転位して、社会関係から遊離した宗教集団の中に位置をしめるか、という転位の過程が明らかにされねばならない。そういった一切を無視して、教会も一つの「共同体」だから、マタイは教会的にものを考えている以上、法的に考えるのは当然である。などというのでは、幼稚すぎて、お話しにならない。
田川

類型論などとは、付き合わないと、田川氏は、言うのである。

鋭い指摘である。

上記、社会関係の基礎構造から、遊離した、宗教的イデオロギー集団として、大きく確立したのが、初期キリスト教と言う。

これは、注目に値する。
何故、そのようなことが、出来たのか、である。

マタイが、教会的な文書であるが、マルコ、ヨハネは、教会共同体という意識を、持たないのである。

マルコは、基礎的な社会関係の全体から、見る。
今までの、共同体という意識を、もう一度、基礎的な社会関係全体に、引き戻して、捉える。

そして、ヨハネは、徹底的に、神学的である。
神と、神の子に対する、関係に立つ人間という、宗教的に、抽象的な個人として、見る。

私は、マルコは、物語として、とても不細工な物語と、理解している。
ヨハネは、実に、個人的で、思索的で、全く、教会を意識するものではない。
無教会主義である。

マタイは、教会など、存在しなかった、時代に、すでに、福音書、教会という言葉を使っているのである。

田川氏の、注意である。
マタイにおける教会の問題を扱う時、マタイがこのように意識して教会を論述の対象としている部分よりも、彼の論述全体が教会の基礎から生じている、ということの方が重要である。
との、見解である。

マタイの、仕掛けが、分かったのである。

マタイの、18章全体が、そうであると、言う。

その中でも、特徴的な部分は、以下。

兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

上記は、イエスの説教という、形で、教会の権威、あるいは、集団の有り様を、示している。

この、章の最後には、
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。
と、ある。

何度も、言うが、イエスの教えではない。
聖書作者の、教えなのである。
更に、作者のグループの提案なのである。

聖書が、神の言葉を、述べているという、信仰からの、目覚めを、促す。
だから、信じる者は、騙されるのである。

信仰深い、キリスト教徒が、二人、三人と、集い、主の名によりて、と、祈る時、そこに、イエスが、存在するという、迷いは、如何ともしがたいのである。

すでに、主イエスという、妄想を抱くのである。
いないものを、いると、信じ込むのが、信仰と呼ばれる、蒙昧である。

ただし、それが、宗教ではなく、伝統的所作であり、それを守り続けて、民族、集団が、存在するというなら、話は、別である。
何故か。
無いものを、在るものと、想定して、人生が、成り立つからである。

それでは、信仰も、同じではないかと、言われるだろうが、違う。
信仰、宗教は、それと、同じ、信仰や、宗教に対して、非寛容だからである。

共生の思想が無い。
皆無である。

特に、一神教の場合は、それが、顕著であり、更に、そうでなければ、信仰が深まらないのである。

日本に、日蓮という、強迫神経症の、僧侶が、一人だけだから、良かったのである。
あれが、何人も存在したら、今頃、日本は、存在しなかっただろう。

毎日、戦いの繰り返しである。
そして、現状の世界も、そのようである。

田川氏の、論調から、飛躍して、私は、書いている。
だが、まだ、続ける。

追伸
福音書で、言う、兄弟という意味は、同じキリスト教徒に言えるのであり、他宗教の人たちではない。
異邦人と、同じように、扱うとは、異教徒と同じように、扱うという意味である。

ユダヤ、キリスト、イスラム教は、皆、そうである。
兄弟とは、同じ信仰を持つ者同士のことである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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