2011年03月15日

神仏は妄想である 330

マタイは観念的にはみずからをユダヤ教律法の尊守者と考えていた。そして実際にも、たとえば、安息日律法などに見られるように、それ以前の福音書伝承に対して、明瞭に律法尊守者としてふるまった。
田川建三

何故、マタイが、そのような主張をしなければならなかったのか。
田川氏は、第一に、ユダヤ教に対するキリスト教の護教論としてあり、第二には、キリスト教における内部批判としてある、という。

そして、ある学者の考え方を、痛烈に批判する。

この二点を論じる前に、類型論から、けりをつけるという。

集団が集団の倫理的規律として法を求めるのは当然である、という見解は、事実の認識として間違っているばかりか、不当なイデオロギーを撒き散らす作用がある、見解であると、言う。

マタイは、他の福音書よりも、抜きん出て、教会的な文書である。
それは、個人の実存より、教会という集団を常に考える。

さて、そこで、田川氏の、言い分である。
集団が集団であれば法を求めるのは当然だ、というのは間違っている。集団と共同性と法とは同一ではない。一つの集団が何らかの共同性によって成り立っているのは当然である。しかし、その共同性が「法」にまとめあげられるのは、当然のことではない。
田川建三

法は、集団の共同性の、一つの特定の、現れ方にすぎないのである。

そこには、二つの要因が働く、一つは、集団内に支配している権力を前提とする。
法には、強制力が伴う。
強制は、権力を伴わない限り、ありえない。

そして、二つ目は、権力があるだけでは、法は成立しない。
権力は、法を介在させずとも、支配することが、できる。

権力が、法につらなるのは、権力が、己の支配の正当性を弁証しようとするときである。

集団内の、万人に妥当する、正義が、支配するという、弁証を為すとき、その正義の、表現として、法が、作られる。

だから、法は、権力と共同性の妥協の、産物としてある。

万人に妥当する正義などがありようもない集団において、万人に妥当する正義の名において権力が支配する時、そこに法が成立する。
田川

さて、次に、マタイの、教団の集団としての質を考慮しないときに、安手の、類型論を、口に出来るという。

マタイの属する集団は一つのイデオロギー集団であって、社会構造の上部構造中の上部構造に属する。それは社会の基礎構造としてある集団ではない。ユダヤ教集団の場合はまだしも社会の基礎構造に近い。
田川

それでも、全く閉じられた集団であることは、不可能である。

キリスト教団は、いわば食う事には関係がない。都市が農村を支配するという当時の地中海世界の支配構造の中にあって、ほとんど都市住民であった初期キリスト教徒は、食うことに関してはそれぞれの社会的位置において食っていたのであって、その限りでローマ帝国全体の、そのもとにおける個々の都市社会の、そして、その中での、たとえばユダヤ人集落にいるとすればユダヤ人集落の、法的支配のもとに食っていた。
田川

だが、上部構造中の上部構造たる宗教イデオロギー集団において、同じ事が、妥当するのは、当然というわけにはいかない、と、言う。

田川氏の、お説を披露しているが、実際、これは、とても難しいお話である。
専門的なのである。

実践の観念論という、中の、信仰批判としての「実践」という、部分である。

福音書を、このようにして、分析、分解、そして、時代性を考えて、見詰めると、福音書が、作られたものであることが、明確に解る。

そして、それぞれの、作為というものが、解る。

福音書が、単なる、聖なる書物ではなくなるのだ。

とても、厄介な代物になる。
更に、それが、改竄され、改竄されて、今の形を、整えたのであれば、イエスの、教えは、どこに行った。
イエスは、どこだ、ということになる。

極論を言えば、イエスなど、どうでもいい。
その存在さえなくても、いい。
兎に角、ユダヤ教の中にあり、新しい価値観を、造り上げる。

特に、マタイは、ユダヤ教の、律法を守る集団である。
そのために、マタイの福音書が、随所に、その考え方を、散りばめている。

それを、まともに、イエスの教えだと、勘違いして、受け取る、信者たちには、目も当てられないことになる。

ただし、救いは、勝手な解釈、勝手な、安心が出来るところに、信仰の醍醐味がある。

本質など、どうでも、いい。
私が、安心できれば、いいのである。

宗教の、本質は、開祖たちの、教えを、改竄、また、改竄し、更に、裏切り続けて、成り立ってきたものなのである。

指導者にも、都合よく、解釈できる。
こじつけ、などは、当たり前。

空を見上げて、哀しい時は、哀しく見え、嬉しい時は、嬉しく見える。
宗教の信仰というものも、同じである。

その、内容の、事実を調べることを、しなければ、如何様にも、自分勝手な、妄想に、浸る事が出来る。

つまり、神仏は妄想の中にあるのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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