2011年03月15日

神仏は妄想である 330

マタイは観念的にはみずからをユダヤ教律法の尊守者と考えていた。そして実際にも、たとえば、安息日律法などに見られるように、それ以前の福音書伝承に対して、明瞭に律法尊守者としてふるまった。
田川建三

何故、マタイが、そのような主張をしなければならなかったのか。
田川氏は、第一に、ユダヤ教に対するキリスト教の護教論としてあり、第二には、キリスト教における内部批判としてある、という。

そして、ある学者の考え方を、痛烈に批判する。

この二点を論じる前に、類型論から、けりをつけるという。

集団が集団の倫理的規律として法を求めるのは当然である、という見解は、事実の認識として間違っているばかりか、不当なイデオロギーを撒き散らす作用がある、見解であると、言う。

マタイは、他の福音書よりも、抜きん出て、教会的な文書である。
それは、個人の実存より、教会という集団を常に考える。

さて、そこで、田川氏の、言い分である。
集団が集団であれば法を求めるのは当然だ、というのは間違っている。集団と共同性と法とは同一ではない。一つの集団が何らかの共同性によって成り立っているのは当然である。しかし、その共同性が「法」にまとめあげられるのは、当然のことではない。
田川建三

法は、集団の共同性の、一つの特定の、現れ方にすぎないのである。

そこには、二つの要因が働く、一つは、集団内に支配している権力を前提とする。
法には、強制力が伴う。
強制は、権力を伴わない限り、ありえない。

そして、二つ目は、権力があるだけでは、法は成立しない。
権力は、法を介在させずとも、支配することが、できる。

権力が、法につらなるのは、権力が、己の支配の正当性を弁証しようとするときである。

集団内の、万人に妥当する、正義が、支配するという、弁証を為すとき、その正義の、表現として、法が、作られる。

だから、法は、権力と共同性の妥協の、産物としてある。

万人に妥当する正義などがありようもない集団において、万人に妥当する正義の名において権力が支配する時、そこに法が成立する。
田川

さて、次に、マタイの、教団の集団としての質を考慮しないときに、安手の、類型論を、口に出来るという。

マタイの属する集団は一つのイデオロギー集団であって、社会構造の上部構造中の上部構造に属する。それは社会の基礎構造としてある集団ではない。ユダヤ教集団の場合はまだしも社会の基礎構造に近い。
田川

それでも、全く閉じられた集団であることは、不可能である。

キリスト教団は、いわば食う事には関係がない。都市が農村を支配するという当時の地中海世界の支配構造の中にあって、ほとんど都市住民であった初期キリスト教徒は、食うことに関してはそれぞれの社会的位置において食っていたのであって、その限りでローマ帝国全体の、そのもとにおける個々の都市社会の、そして、その中での、たとえばユダヤ人集落にいるとすればユダヤ人集落の、法的支配のもとに食っていた。
田川

だが、上部構造中の上部構造たる宗教イデオロギー集団において、同じ事が、妥当するのは、当然というわけにはいかない、と、言う。

田川氏の、お説を披露しているが、実際、これは、とても難しいお話である。
専門的なのである。

実践の観念論という、中の、信仰批判としての「実践」という、部分である。

福音書を、このようにして、分析、分解、そして、時代性を考えて、見詰めると、福音書が、作られたものであることが、明確に解る。

そして、それぞれの、作為というものが、解る。

福音書が、単なる、聖なる書物ではなくなるのだ。

とても、厄介な代物になる。
更に、それが、改竄され、改竄されて、今の形を、整えたのであれば、イエスの、教えは、どこに行った。
イエスは、どこだ、ということになる。

極論を言えば、イエスなど、どうでもいい。
その存在さえなくても、いい。
兎に角、ユダヤ教の中にあり、新しい価値観を、造り上げる。

特に、マタイは、ユダヤ教の、律法を守る集団である。
そのために、マタイの福音書が、随所に、その考え方を、散りばめている。

それを、まともに、イエスの教えだと、勘違いして、受け取る、信者たちには、目も当てられないことになる。

ただし、救いは、勝手な解釈、勝手な、安心が出来るところに、信仰の醍醐味がある。

本質など、どうでも、いい。
私が、安心できれば、いいのである。

宗教の、本質は、開祖たちの、教えを、改竄、また、改竄し、更に、裏切り続けて、成り立ってきたものなのである。

指導者にも、都合よく、解釈できる。
こじつけ、などは、当たり前。

空を見上げて、哀しい時は、哀しく見え、嬉しい時は、嬉しく見える。
宗教の信仰というものも、同じである。

その、内容の、事実を調べることを、しなければ、如何様にも、自分勝手な、妄想に、浸る事が出来る。

つまり、神仏は妄想の中にあるのである。




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2011年03月16日

神仏は妄想である 331

権力が共同性と妥協して支配するという前提のもとに立つ限りは、法が支配するのは「当然」であった。しかし、上部構造中の上部構造たる宗教的イデオロギー集団において同じことが妥当するのは「当然」というわけにはいかない。
田川建三

問題は、社会関係の基礎構造から遊離した、宗教イデオロギー集団のことである。

それは、
宗教イデオロギーを共有するという点にしか本質的には共同性を持たない集団のことである。
田川

社会関係の基礎構造から遊離した宗教イデオロギー集団としておのれを大きく確立したのは、初期キリスト教がはじめてであった、と言える。
田川

更に
それがカトリシズムという形でもう一度大きく社会関係全体を覆うイデオロギーとなっていく過程を明らかにすることは、非常に面白い歴史研究の課題であると思われるが、初期キリスト教の右のような把握自体がまだまだおよそ十分になされていないのだから、そこから先はまだ未開の部分である。
田川

とても、大きなテーマである。

社会全体を支配する法がどのように転位して、社会関係から遊離した宗教集団の中に位置をしめるか、という転位の過程が明らかにされねばならない。そういった一切を無視して、教会も一つの「共同体」だから、マタイは教会的にものを考えている以上、法的に考えるのは当然である。などというのでは、幼稚すぎて、お話しにならない。
田川

類型論などとは、付き合わないと、田川氏は、言うのである。

鋭い指摘である。

上記、社会関係の基礎構造から、遊離した、宗教的イデオロギー集団として、大きく確立したのが、初期キリスト教と言う。

これは、注目に値する。
何故、そのようなことが、出来たのか、である。

マタイが、教会的な文書であるが、マルコ、ヨハネは、教会共同体という意識を、持たないのである。

マルコは、基礎的な社会関係の全体から、見る。
今までの、共同体という意識を、もう一度、基礎的な社会関係全体に、引き戻して、捉える。

そして、ヨハネは、徹底的に、神学的である。
神と、神の子に対する、関係に立つ人間という、宗教的に、抽象的な個人として、見る。

私は、マルコは、物語として、とても不細工な物語と、理解している。
ヨハネは、実に、個人的で、思索的で、全く、教会を意識するものではない。
無教会主義である。

マタイは、教会など、存在しなかった、時代に、すでに、福音書、教会という言葉を使っているのである。

田川氏の、注意である。
マタイにおける教会の問題を扱う時、マタイがこのように意識して教会を論述の対象としている部分よりも、彼の論述全体が教会の基礎から生じている、ということの方が重要である。
との、見解である。

マタイの、仕掛けが、分かったのである。

マタイの、18章全体が、そうであると、言う。

その中でも、特徴的な部分は、以下。

兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

上記は、イエスの説教という、形で、教会の権威、あるいは、集団の有り様を、示している。

この、章の最後には、
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。
と、ある。

何度も、言うが、イエスの教えではない。
聖書作者の、教えなのである。
更に、作者のグループの提案なのである。

聖書が、神の言葉を、述べているという、信仰からの、目覚めを、促す。
だから、信じる者は、騙されるのである。

信仰深い、キリスト教徒が、二人、三人と、集い、主の名によりて、と、祈る時、そこに、イエスが、存在するという、迷いは、如何ともしがたいのである。

すでに、主イエスという、妄想を抱くのである。
いないものを、いると、信じ込むのが、信仰と呼ばれる、蒙昧である。

ただし、それが、宗教ではなく、伝統的所作であり、それを守り続けて、民族、集団が、存在するというなら、話は、別である。
何故か。
無いものを、在るものと、想定して、人生が、成り立つからである。

それでは、信仰も、同じではないかと、言われるだろうが、違う。
信仰、宗教は、それと、同じ、信仰や、宗教に対して、非寛容だからである。

共生の思想が無い。
皆無である。

特に、一神教の場合は、それが、顕著であり、更に、そうでなければ、信仰が深まらないのである。

日本に、日蓮という、強迫神経症の、僧侶が、一人だけだから、良かったのである。
あれが、何人も存在したら、今頃、日本は、存在しなかっただろう。

毎日、戦いの繰り返しである。
そして、現状の世界も、そのようである。

田川氏の、論調から、飛躍して、私は、書いている。
だが、まだ、続ける。

追伸
福音書で、言う、兄弟という意味は、同じキリスト教徒に言えるのであり、他宗教の人たちではない。
異邦人と、同じように、扱うとは、異教徒と同じように、扱うという意味である。

ユダヤ、キリスト、イスラム教は、皆、そうである。
兄弟とは、同じ信仰を持つ者同士のことである。


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2011年03月17日

神仏は妄想である 332

新約聖書のどの文書も、多かれ少なかれ、それぞれが初期キリスト教内の自分とは異なる傾向に対する批判的対決を意識して書かれたものである。その限りでは、マタイが内教会批判をなしているからとて、別に特色のあることでも何でもない。しかしマタイでは、その内教会批判が独得の教会認識をつくりあげている。
つまり、他の著者たちの場合、教会内の「誤った」教えをいくら批判しても、教会自体の神聖性は理論的に前提にしている。教会は「選ばれた者」「聖なる者」の集まりである。
ところがマタイは、教会自体を善人と悪人の混合集団とみなしている。
この点にマタイの思想の非常に大きな特色がある。教会に属するということそれ自体は何の意味もないので、最後の審判の時には、教会に属する者でも悪人はみな天の国の外に放り出され、そこで嘆き歯がみしなければならないし、他方、教会に属さない者でもすぐれた実践者は率先して天の国に入ることができる。
田川建三 改行は、私。

教会を、善人、悪人の、集まりと、判定するマタイは、とんでもないということだ。

それが、大きな特徴というから、驚く。

マタイが、教会的独善を打ち破る思想を、教会内部に提出していると、田川氏は、言う。

これでは、教会の意義がなくなる。
よって、今までの、神学者、他の福音書の著者も、避けざるを得ないのである。

だが、そこに、マタイの、矛盾がある。
教会に属しても、属さなくても、関係なく、救いがあるということになるからだ。

田川氏は、教会を、マタイ的に言えば、善悪混合集団だと、言う。

マタイの福音から
イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。

その、説教が、繰り返されるのである。

とんでもないことを、書いたものである。
それでは、マタイは、何を、言いたかったのか。

話しを一気に進めると、マタイの教会観念は、今までは、イスラエル民族が、神の民であったが、これからは、教会が、真のイスラエルである、と、なる。

ユダヤ民族全体が、神の民ではなく、教会に属する、ユダヤ人が、真の民であるという。

つまり、意識としては相変わらずイスラエル民族意識をひきずっており、ただそれを現実のイスラエル民族全体とは同一視せず、教会と同一視する。「イスラエル」という概念をぐんと抽象化しているのである。
田川

ユダヤ民族を神学的にまとめて批判したマタイも、おのれ自身のうちにあるユダヤ民族優先意識を捨て切っていない。意識した宗教的イデオロギーの位相では、ユダヤ民族主義の偏狭さを克服したマタイも(ただしそれは、右に述べたように、ユダヤ民族主義を否定的に克服したのではなく、抽象化することによって拡大したのであるが)、彼自身の生活感覚としては「異邦人」に対する蔑視を捨てていないし、捨てるつもりもない。あきれるほどの図々しさで異邦人蔑視が口にされているのである。
田川

また、マタイは、世俗大衆に対する、蔑視も、捨てていないのである。

マタイは、パリサイ派律法学者に対して、
重い荷物をいろいろたばね、他人の肩にのせて背負わせるが、自分たちはそれを動かすのに指一本も使おうとしない、と言うが、それと同じ意識を、マタイも、その集団も持つのである。

それは、ユダヤ人社会での、ユダヤ教エリートの意識であると、田川氏が、言う。

今も、昔の、エリートも、変わらないのだ。

平たく言えば、私は、違うという、意識。
他の人と、私は、違う者だという、意識である。
実に、軽薄短小な意識である。

それが、宗教的妄想により、より、強くなる。
つまり、私は、救われる者であるという、意識。
自意識過剰なのである。

そして、なお、救いようが無いのは、それを、自覚できないということである。

自己暗示の、何物でも無い。

例えば、キリスト教徒は、笑うであろう、念仏のことである。
念仏をすれば、阿弥陀如来が迎えに来て、極楽浄土に連れていって、くれると、信じる。
私は、念仏を唱えているから、極楽に行けるという、妄想の信仰と、何ら変わらないということを、知らないのである。

人の信仰には、冷静になるが、自分の信仰には、冷静さを欠き、更には、妄想一杯に、天国を思うのである。

宗教の、役割は、成立以来、そうして、人々の心を、救ってきたのである。
それで、人々が、救われたか・・・
誰も、確かめる方法は無い。

死人に口なしである。
更に、死後、何処にいるのかも、解らない。
極楽にいると、思い込む、天国にいると、思い込む。
つまり、死んでも、救われていないのである。

まず、信じることから、始まるという、宗教家の言葉に注意せよ。
信じる者は、簡単に騙せるのであるから。

信じさせれば、こっちのもの。
いくらでも、尽す。
教団に幾らでも、金を出す。

更に、安心立命を得るということは、この世においてである。
この世で、安心立命を得るのである。
強い信仰は、いつも、火事場の馬鹿力である。

ホント、ご苦労様・・・



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2011年03月18日

神仏は妄想である 333

ただ今、マタイ福音書を、見ている。
聖書というものが、どのように、創作されていったのか、を、見ている。

神学者の田川建三氏の、マタイ福音書に寄せて、第三章実践の観念論を、基底にして、勝手に書き込んでいる。

彼は理論的には現実のイスラエル民族がそのままでは神の民ではない、と主張してみたものの、それに代わって登場した「教会」が、異邦人やら無作法な庶民やらをうじゃうじゃ含んでいることに、感覚的に我慢できない。それで彼は、せっかく新しい存在としての「教会」を主張するのに、大通りで無差別にかき集めたような集団としか表現できないのである。
田川

マタイ福音から
そして、家来たちに言った。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人たちは、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

次が、問題である。
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。せこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。

初期の、教会は、そのようであった。
誰かれなく、集めておいて、そのように対処する。
礼服も、着ない者は、放り出されるという、非情である。

つまり、マタイは、傲慢なユダヤ教徒の、エリート意識から、庶民を徹底的に、蔑視するのである。

イエスを使い、新しい教団を作るが、そこにあるのは、ユダヤ教の発想なのである。
しかし、ユダヤ教と、対立しなければ、ならない。
方法は、一つである。
その主は、キリストなのである。
その、権威の上に、マタイは、とても、傲慢じみた、福音書を書いたといえる。

マタイの福音から
あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

イエスの口を借りて、言いたい三昧である。

偽善者たちと、呼ぶ、ファリサイ派律法学者たちと、実は、変わらないのである。
イエスの口を借りて、彼らを徹底的に、攻撃するのは、近親憎悪である。

そして、その、批判の矛先が、同じキリスト教徒のグループである、パウロのグループなどに向けられているのである。

初期キリスト教は、最初から、混乱し、分派していたといえる。

いずれ、カトリシズムの、元になった、パウロについて、書くが、相矛盾する、書物を、聖書として、採用したキリスト教は、今も、そのまま、矛盾を抱え込んでいる。
しかし、信徒たちには、何の矛盾も、感じないように、説教を繰り返しているという、ずさんである。

ここで、益々、イエスの教えは、どこにあるのかという、疑問が湧く。
だが、それは、大変な労力がいることだ。

時代は、イエス本来の、教えは、何かと、問い続けるようになった。

聖書の、改竄、また改竄が、わかってきたからである。

キリスト教が、イエスの教えであるならば、今頃、ユダヤ教何々派として、存続しているだろう。

マタイの福音から
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替商の台や鳩を売る者の腰掛を倒された。そして言われた。「こう書いてある。
わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。

マルコも、ルカも、ヨハネも、同じく書くのである。

つまり、キリスト教の初期は、ユダヤ教の神殿を、神殿として、認めていたということである。

これは、イエスが、ユダヤ教徒として、教えを述べていたと、想像する。

ユダヤ教の、伝統と、伝承から、イエスも、抜けてはいなかったのである。

そして、イエスは、メシアではなかった。
一人の自由な、信仰者、あるいは、改革者、あるいは・・・

マタイが、今の、キリスト教を見たら、全く別物に感じるはずだ。
何故なら、一切の、ユダヤ教の、教養を身につけていないからである。

しかし、以前に書いたように、ユダヤ人以外の民族に、キリスト教を広めたという、事実が、マタイの福音には、ある。

そう、善人も、悪人も、一緒くたにして、集めたのである。
信仰の、深い、浅いも、関係ない。
そこで、田川氏の、実践の観念論という、論文が、生きてくる。

裕福で、知的な、ユダヤ教の、マタイ集団が、ユダヤ教の、傲慢な者たちを、批判する。そして、自分も、また、同じように、批判される立場に立つのである。

更に、同じ、イエスをキリストとして、創作する、集団に対しても、批判するという。

これが、宗教の創造性である。
と、いうより、人間の妄想性である。

そして、当時、様々に、説教をしていた、多くの預言者たちの中でも、イエスの存在は、群を抜いていたと、思われる。

イエスを、キリストとして、作り上げ、そして、そのイエスの口、言葉を、通して、言い分を書き付けるという・・・

ヨハネ教団から抜けた、イエスが、図らずも、新しい教団の、教祖として、祭り上げられたのである。

そして、である。
それが、現代でも、行われているという、仰天である。
あたかも、イエスが、話したというように、説教を繰り返し、更には、その中に、自分の都合の良いお話を入れるという・・・

ああ、無情。

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2011年03月19日

神仏は妄想である 334

聖書が、神からの霊感によって、書かれたものである、という、キリスト教の教えの、誤りを言う。

聖書は、その作者、また、その集団の言いたいこと、主張を書いたものである。

マタイ7章より
偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。

「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」というであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」

この箇所が、マタイの内教会批判を理解する鍵になる個所である。と、田川氏が、言う。

「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」という実践を強調する句と「岩の上に言えを建てる人」の比喩で終わっていたことは、ルカ六章の並行記事と比べるとわかる(この部分に関しては、はっきりルカによる修正とわかる点以外は、原則としてルカの方がQ資料をそのまま保存しているとみなすべきである)。そして、「良い木は良い実を結び・・・」と「岩の上・・・」の間に、伝承ではさらに実践を強調する句として、「我にむかって、主よ主よ、と呼びつつ、何故我が言うことを実践しないのか」という「イエス」の言葉をはさんでいる。
田川建三

Q資料において、すでにマタイに見られる、実践の強調、その実践の強調を、教会批判として、行うことの、二点が存在すると、田川氏が言う。

マタイは、Q資料における、二つの比喩の言葉の間にある、主よ主よと呼ぶ者の、批判において、更に、教会内の批判を詳しく展開するのである。

マタイは、「悪い実を結ぶ悪い木」とは、偽預言者のことであると、結びつけて、具体的に、相手を特定する。

マタイは、偽預言者として、批判する、一派に対して、Q資料から取られた、言葉を当て嵌めているのである。

そして、主よ主よという、言葉も、自分の主張にあわせて、作り変える。

Q資料では、「何故我が言うことを実践しないのか」という、非難を、マタイは、そういう者が、「みな天の国に入るわけではない」と、天の国に入る、権利を締め出すのである。

どういう者が天の国にはいれるか、もしくはしめ出されるか、という言い方もマタイの非常に好む言い方である。マタイはパリサイ派律法学者に対して「お前らは人々の前で天の国の戸を閉ざしてしまう。お前らが天の国にはいることはないのだが、はいろうとしてくる者まで邪魔をしてはいらせない」と悪態をつく。つまり、パリサイ派律法学者が、自分たちの評価基準にはずれる者たちに対して、ああいう者は天の国にはいれません、こういう者もはいれません、と好き勝手な断罪を言い立てているのを批判しているのである。けれども、そのように言うならば、自分としては、他人が天の国にはいれるかどうかなどという断罪行為に口をだすことはしません、と謙虚に言うべきだろう。ところがマタイはパリサイ派に対して自分が批判したのと同じことを、自分自身はけろっとしてやってのける。
田川

マタイは、自分が、神に代わって、決定する如くに、断定的に、言うのである。

マタイは、その自己矛盾に気づかない。

マタイ的キリスト教が、元祖とするのは、ペテロである。ペテロの権威を継承しつつ、自分たちが、天の国の鍵を握っている、つもりになっているのである。

更に、Q資料の句に、手を加えて、イエスの言うことを、実践する、を、神の意志を実践する、と、書き直すという。
こうして、山上の説教を貫くマタイの視点が、完成するのである。

イエスが、教えて、命じたことは、神の意志である。そして、それは、律法の一点一画もすたれずに、成就するということを、意味する。

イエスの教えと、旧約律法が、神の意志の概念により、一体化するのである。

一体、マタイは、誰を念頭において、批判しているのか。
それは、パウロ主義者たちである。という、学説があるという。

さて、平たく言う。
要するに、初期キリスト教会も、一枚岩ではなかったのである。
更には、主導権争い。

聖書が、神による霊感によって、書かれたという、お説には、賛成できないのである。

全くもって、作者と、その集団の、考え方を、イエスの言葉として、書き連ねたのである。

更に、聖書解釈をするという、神学者たちの、あまりの、妄想に、愕然とする。
学説などというが、神学が、学問足りえる訳がない。
勿論、哲学の一分野であるというならば、認めざるを得ないが・・・

聖書自体が、こうして、作られたものであることを、理解すれば、キリスト教の教義などは、虚偽であろう。

イエスの、本当の、教えは、何だったのか・・・
最も、素朴で、当たり前の疑問が、浮かぶ。

マタイは、同じユダヤ教民族の、近親憎悪丸出しである。
矢張り、キリスト教とは、ユダヤ教の、分派と、考えるべきである。

ユダヤ教から、抜けられないのである。

イエスは、旧約で、約束された、メシアであると、作られていった有様を、まざまざと見る思いがする。

そして、それは、イエスの教えに、全く反することになるものかもしれないのである。
キリスト教は、イエスから離れて、宗教として、成り立った。いや、成り下がったのである。
イエスは、どこにも、いない。


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2011年03月21日

神仏は妄想である 335

マタイがシリア地方のどこかの大教会の伝統の中にいるとすれば、そのシリア地方ではすでにパウロの生前からパウロに対する強い批判が支配しはじめていた、という事実を考慮する必要がある。これはパウロ自身もガラティア書第二章で述べていることである。また場所はわからないし、時期もやや後だが、従って、パウロ自身の権威を承認しつつもパウロを批判する、という手のこんだ手法ではあるけれど、はっきりと名指しでパウロ主義を批判していた者たちもいた。従って、パウロ主義批判がパウロの生前も死後も、初期キリスト教内の相当な部分でひろまっていたこと、それも特定の一部分などというものではなく、さまざまな場所でなされていたことは明白である。
田川建三

マタイが、イエスを、ただ信じているだけでは駄目だ。実践こそが、天の国に入るか、入らないかの、唯一の決め手だ、と言うことは、パウロの信仰のみによる、義認の教えが、かなり広まっていた、初期キリスト教後期である。

田川氏は、ここで、神学者たち、護教論神学者たちの、批判を行うが、専門的なので、省略する。

ここでは、マタイと、パウロの違いから、マタイを見ることにする。

しかしそもそも、パウロがコリントス教会で相手にしていた「霊的熱狂」と、マタイが偽預言者批判で相手にしている者たちとを、同じ「霊」的な「熱狂主義」者とみなすこと自体に無理がある。確かに両者ともに「預言」をなし、奇跡的病気の治癒などをなす。しかし、コリントス教会の者やパウロ自身はそれを「霊の賜物」とみなしているのに対して(たとえば奇跡的治癒も「霊」の働きとみなされる)マタイの偽預言者批判には「霊」の問題は全然出て来ない。彼らは「主の名」によって奇跡行為をなす。「イエス」の名が奇跡的力を持つと広く信じられていたことは、たとえばマルコ9.38も示している。
田川

パレスチナ、シリアのキリスト教奇跡行為者は、イエスの名によって病気治癒の行為をしていたのに対して、ギリシャ、コリントスのパウロ信者たちは、霊の働きによって、病気治癒をなそうとしていた。

両者を、霊の賜物主義とは、呼べない。
これは、パウロ信者に言えることである。

田川氏は、パウロが、預言、奇跡、病気治癒などをなすという、霊的賜物主義を批判しているという、今日の神学者による、パウロ研究は、嘘であると、言う。

パウロは、実際、異言、預言、病気の治癒、悪魔祓いなども、霊の賜物としているのである。

それらは、皆、同じく、霊の賜物であるから、大切にせよ、というのが、パウロの教えなのである。

余談で、平たく言えば、パウロ自身が、死後のイエスが現れて、それから、キリスト教迫害を止めて、イエスを神の子として、信じるという、信仰主義を立てたのである。

その、イエスの霊が、イエスの霊なのか、どうかは、判定の仕様が無いのである。

それが、悪霊ならば・・・
有り得ることである。

コリントス教会に、異言、いご、といい、霊に憑かれたとして、わけのわからないことを、わめきちらす、行為を、持ちこんだのは、パウロ自身だった。

ちなみに、現在では、カトリック、プロテスタントの、合同の集いで、そのような、ペンテコステ運動のような、祈りの会などが、開かれて、異言なる言葉を、しゃべりだす者もいる。

誰も、それを判定できないでいる。
ただ、それを、霊的賜物・・・と、信じる人たちがいるということ。

マタイは、信仰のみが、必要であるといいつつ、やることは、預言やら、悪魔祓いやら、病気治癒でしかなく、肝心の、神の意志の実践から遠い、彼らを、批判するのである。

ところが、マタイは、主の名によりて・・・は、認めるのである。

ここでは、神学者同士の、お話しは、すべて、省略している。

さて、次に、田川氏は、
だがそういうマタイ自身どうなのだろうか。すでに奇妙なのは、あれだけ実践を主張するマタイが病気の治癒を実践とはみなさいことである。
と、言う。

病気の治癒などやっても、神の意志の実践をしなければならないのだと、言う。

ここにマタイの「実践」概念の観念化をとく鍵の一つがある。
田川

イエス自身はあくことなき病気治癒の実践家であった。それはまあ古代のこと(現代でもかなりそうだが)まわりにはいくらでも病気をかかえて苦労している人がいる。本気になって病気治癒の活動をはじめたら、次から次へと、きりがなくなったのも無理からぬことである。そして、一つの固定した社会体制の中では、病気で苦しむ者の多くはその社会の安定、その社会の「平和と秩序」の枠の外に置かれてしまう。その社会にとって役に立たない厄介者とみなされる。とすると、そういう者たちがそれこそ熱狂的に歓迎する病気治癒者の出現は、固定した社会秩序の維持者である「理性的」な支配者、支配層の利益を代表する社会的、宗教的イデオローグからは白い眼で見られ、時には露骨に弾圧がかけられることもある。そういう意味で病気治癒は、古代社会においては特に、極めて重要な実践でありえたのだが、マタイはそれを「実践」から除外してしまった。そうするといったい、マタイの主張する「実践」とは何なのか。どうもマタイは自分の生きている現実から実践の課題をとらえていくのではなく、観念的に徹底してとらえた実践理念から実践なるものを理念的に追求しているようなのである。
田川

ここで、さらに、平たく言う。
マタイは、ユダヤ教指導者にも、同じキリスト教会にも、批判するのである。
そこには、エリート特有の、やっかみ、僻みがある。

自己矛盾に満ち満ちている、マタイの福音書であるが、それをせざるを得ない、エリート意識なのである。

田川氏も、実践の観念論者の、やっかみを生むと、言う。

マタイは、ラディカルに、ラディカルにと、実践の観念論を吐き出すのである。
自分たちは、彼らと違う・・・

青年の主張である。
また、青臭い、エリートの悪足掻きである。

天にいます汝らの父が完全であると同じように、完全な者となれ
とは、マタイの叫びであり、イエスの言葉ではない。

イエスの、奇跡物語は、後で、付け加えたもので、それが、信仰の中心になる。
多くは、作り話であり、その奇跡物語を、信じるという形で、信仰が成り立つという・・・

裏は、見えているのである。
だが、人は、何かを信じて、安心したい。

その人の、安心感に付け込んで、教団が、大きくなる。
信じさせると、何から何まで、信じるようになる。
そうして、この五千年ほどの、人類の宗教に迷うという、歴史が作られてきたのである。

私は、神話や、伝説を否定する者ではない。
逆に、神話、伝説により、共同幻想を抱くことにより、国や、地域社会が、成り立つ。

それが、伝統行為として、所作に現れるのが、最も、理想的である。
宗教になると、堕落の一途を辿る。



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2011年03月22日

神仏は妄想である 336

マタイ福音24・11,12
多くの預言者が起ち、多くの者をまどわすだろう。不法がはびこることによって、多くの者の愛が冷えるだろう。

ここでもまた「偽預言者と「不法」が結び付けられている(前にふれた13・41も参照)。七章では現在活動している「偽預言者」に対する警戒が語られるが、この個所では未来の予言という体裁をとっている。終末の直前に「偽預言者」が出現する、というのだが、七章とつなげて読めば、マタイがここで現在の教会の状況に対する内部的な批判を未来の状況に投影しているということがわかる。従って、マタイの内教会批判を理解するには、これらの個所を総合して見るべきである。
田川建三

マタイにとって、実践とは、法の完成であるから、実践に励んでいないと、みなした相手には、不法、という、レッテルを貼る。

田川氏は、ここで、重要なのは、愛が冷えるだろう、という、句だという。

ここにマタイの実践理解の鍵がある。つまりマタイがパリサイ派律法学者にも同僚のキリスト教徒にも不満でたまらなかった理由は、いかに旧約律法の一言一句を厳密に守っていると彼らが自称していても、あるいはいかに「主よ、主よ」と叫んで新しいキリスト教信仰に対する熱意を示していたとしても、その根本精神たる「愛」の実践をなしていない、と思われるからであった。マタイの実践概念は「愛」へと結晶する。
田川建三

愛の実践に、すべての中心が置かれて、それが、神の意志の、実践とみなされ。
そして、キリスト教信仰と密接に結びついて、彼らには、それで十分なのである。

この「愛」の実践が現実にはどういうものになってしまうか、ということはおよそ考察しようとしない。現代のにやけたキリスト教徒は「愛」と言えばもう鼻の下を長くして水づけになった乾パンのようにふやけてしまう。
田川建三

マタイの、そういう思想が、実際に、どういうものなのか、ということを、明らかにすることが、必要になる。

マタイ福音から
禍いあれ、汝ら偽善なる律法学者、パリサイ派よ。汝らは薄荷、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を神殿に献納しておりながら、律法のもっとも肝心な部分、すなわち公平、慈悲、誠実を放棄してしまった。

Q資料から取られた句である。
イエス当時まで、さかのぼる、伝承の一つ。

イエスの発想は、律法の実践に対して、律法の根本精神である、正義を忘れているのでは、しょうがないという、皮肉の意味である。

しかしイエスは、それを闘争的な鋭さにおいて発言した。つまり、あほらしいほど厳密な律法の実践を要求してくる社会秩序の力を転倒しようと刃向かったのである。
田川

当時、この十分の一の税こそ、ユダヤ社会における、神殿貴族の支配を支える、経済的基盤だった。

その量は、巨大なものだった。
大部分のパリサイ派律法学者たちは、神殿貴族を頂点とする、支配体制から、うまみを吸って生きていたもの達である。

だから、彼らは、その支配体制の維持を説教して、歩く。

「法と秩序」のイデオロギーの担い手の大多数は、いつもそのあたりにいる。
田川

イエスは、そのような、規定によって、抑圧される者の、怒りがあった。
イエスの、律法批判である。

ところがイエスの律法批判を継承したはずの原始キリスト教では話しが違ってくる。まず、イエスの言い方ははっきりと対決的であって、律法の根本精神を突き出すことにより、かえって、律法の重要項目の一つである十分の一税の権威がけしとぶ。十分の一税そのもののうさんくささが、イエスをしてこの言葉を言わしめたのである。
田川

だが、初期のユダヤ人キリスト教徒は、相変わらず、律法を尊重し、律法を中心とした、ユダヤ教社会に従順に、生きていた。
イエスに、露骨に言われては、困るのである。

こそで、Q資料の伝承者たちは、この句に続けて、それもなさねばならないが、こちらも見逃してはならぬ、と、一言付け加えたと言う。

しかし、マタイは、中途半端な言い方はしない。
律法を守ることを、徹底しようとする。

それは、典型的な観念的徹底であると、田川氏は言う。

正義と慈悲、律法のもっとも肝心な部分、と、律法の根本精神とみなし、律法の実践を、すべて、その原点的観点から、見るのである。

マタイは、神を愛することと隣人を愛することの二点を律法の最重要点とみなした伝承をそのまま書き写すだけでは満足せず、「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっている」という一句をつけ加える。
田川

さて、平たく言う。
要するに、福音書とは、それぞの、作者による、とても、拘った書き物だということである。

神の霊感によって・・・
そんなものではない。
生身の人間たちによって、手を変え品を変えて、作られていった過程があるということ。

神学者は、それらを、また、自分の思い通り、さらには、都合よく、解釈して、平然としているという、訳である。

そして、平信徒に、対座する、司祭、牧師は、また、それぞれ、小理屈、屁理屈をつけて、信徒に、説教するのである。

それが、本当か、嘘かは、どうでもいい。
信じたい人がいるのである。

字面だけでも、満足して、安穏とした、信仰という、生ぬるい世界に浸る。
勿論、そこに救いなど、あり得ない。

あるのは、寝惚けたような、自己暗示の世界、祈りの、世界である。

勝手に、感動して、勝手に、我を導いているのである。

主イエスと、共に・・・

だから、私は言う。
今、イエスが、現れたならば、キリスト教徒に殺される。
ユダヤ教徒に殺されたように、である。

何故か。
徹底的に、教会批判をするだろうから。


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2011年03月23日

神仏は妄想である 337

マタイの福音
おのれを愛するように、おのれの隣人を愛しなさい

同じ視点は、当然、山上の説教にも出てくる。こちらはすでに詳しく扱ったけれども、5・17−20の要領的宣言の部分で彼は「パリサイ派、律法学者の義よりも大きな義」を実現することを課題としてかかげている。そしてその課題の具体的な内容を展開するのがいわゆる六つの「反対命題」の部分なのであるが、この部分の最後に彼は「敵を愛する愛」を頂点として置いて終わっている。
田川建三

マタイ福音
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい。

そして山上の説教全体の結びでも、いわゆる黄金律、すなわち「何か人にしてもらいたいと欲することがあれば、自分もまたそのように人にしてやるがよい」という句が置かれている。「愛」という単語は出てこないが、これも愛の精神の表明であって、この句は山上の説教全体をふりかえってもう一度その内容を一言で要約する趣旨のものである。
田川

そしてここでも、これが律法の根本原理であることを主張する一句が添えられる、「これこが律法であり、預言者である」
田川

実は、律法の根本原理という発想も、愛の戒めが、その根本原理であるする発想も、当のパリサイ派、またそれに限らず、ユダヤ教知識人一般の、共有財産なのである。

であるから、

その理解の仕方も、本質的にはなんらパリサイ派、律法学者と変わるものではない。
田川
となる。

それでは、二者の、相違とは、何か。

その相違はどこからくるのか。パリサイ派律法学者にとってはともかく彼らの社会的、宗教的生活のすべてを覆うものであった。それに対してマタイの方は、ユダヤ人としての法的発想の伝統をひきながらも、実際の生活の基盤は、「ローマの平和」のもとでの古代資本主義の繁栄期において、世界的な商業活動に支えられた知識人として生きているのだから、いかにユダヤ教の伝統から来る法的発想に固執しても、それが実際の社会生活の全体を覆うはずもなく、そこから生活の実態と知的イデオロギー的作業との乖離が生じる。

その結果、法的発想は純化されて、法の根本原理へと飛翔することができる。マタイが律法の根本原理をパリサイ派、律法学者よりも純粋に徹底して主張しえているのは、そのせいである。両者の相違は、両者のそれぞれが自覚的に展開して理論の相違ではなく、自覚的には同じことを考えていても、その社会的基盤からおのずと抽象度がずい分と違ってしまう、ということなのである。

そしてこの相違をマタイはそういうものとして自覚してとらえ返すことはできていないけれども、違うということだけは明瞭に感じ取っているから、パリサイ派、律法学者に対して近親憎悪的な悪詈を投げつけるのである。
田川 
読みやすく改行した

マタイの、愛という、律法の根本原理が、どのように、抽象的に作用しているのかは、これと、実質上同じ概念であり、具体的内容を示している、慈悲、憐れみと言う、概念を検討していくと、更に明瞭になる。

旧約、ホセア書
神が欲するのは慈悲であって、供儀ではない

話しは、少し変わるが、
当時も、今も、聖書全体の、一部を取り出して、自分に都合のよい、解釈に変更するという、作業が、延々と続けられている。

膨大な、旧約聖書の中からは、いくらでも、都合の良い言葉が、得られるのである。

そして、聖書に書かれているという、権威の下で、堂々と、考えを展開するという、方法である。

それには、呆れて、ものも言えない。
特に、聖書主義といわれる、プロテスタント系キリスト教は、それが、甚だしい。

聖書に書かれているから、正しいと、無反省に言葉を取り入れる。

神学というものが、いかに、不毛なものであるか、ということだ。

そして、実際、それは、盲人が、盲人を案内するのに、似る。
聖書を神の書としているうちは、それが、終わらない。
聖書を、文学とするときにのみ、それが、解決する。

さて、もう一度、田川氏の、論調に戻る。

この「慈悲」もしくは「憐れみ」は、より弱い者、しいたげられた者に対してキリスト教徒が持つべきものと考えられている。その限りでは、マタイの倫理は支配者の倫理ではない。それはいかにも社会的にしいたげられた者に味方する倫理であるかの如きである。むろん額面通りの主張からすればそうには違いない。しかし、社会的に抑圧された者をイデオロギー的にも搾取するのは、彼らを抑圧せよと、正直さをまるだしにして露骨にわめく者よりも、むしろ、抑圧された者たちの味方であるような思想をその者たちの前で並べながら、自分たちは決して抑圧される場にはいない者たちである。
田川

取税人レヴィの家で、食事をしていたときに、「あの男は取税人や罪人などと一緒に食事をする」とパリサイ派から、言われた。
それに対して、イエスは、「自分が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と、逆説的な言葉を返す。

要するに、自分は、お前らが「義人」と呼ぶ者たちなんぞ相手にするつもりはないので、お前らが「罪人」と呼んでお前らの社会秩序から排斥している者たちの側にいるのだ、という主張である。これは所詮逆説的発言の限界を出ていないが、「義人」「罪人」という秩序をさかさまに転倒してしまう、という反抗的主張となっている。「義人」よりも「罪人」のほうが正しいじゃないか、というひねくれた主張の裏には、「義人」「罪人」という区分けで社会的抑圧を増幅してきた大きな圧力に対する憤りがある。
田川

平たく言えば、イエスは、反骨精神丸出しの、説教を繰り返していたのである。
この世、当時の、ユダヤ教の、矛盾を徹底的に、突いたのである。

だから、何度も言うが、現在、イエスが、現れたら、現在の、キリスト教徒に、殺される。

教会という、既得権益の中にいて、のうのうとして、安住する、聖職者たちを、徹底的に、攻撃するだろう。

キリスト教、糞でもくらえ、この偽善者たちよ・・・
とでも、言うのだろう。


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2011年03月24日

神仏は妄想である 338

イエスの場合、「取税人や罪人」と呼ばれる人々の中で生活を送っていた。その位置から、「義人」と「罪人」という区分けをする圧力に反撥したのである。マタイは逆に「「義人」の側から「罪人」を眺めている。そして、「憐れみ」をかけてやるつもりなのだ。自分たちはまさにパリサイ派よりももっと大きな「義」を持っている者だ、と自信に満ちて考えているのだから。
田川建三

如何に、イエスと、マタイが、遠い存在か・・・

また、山上の説教のはじめの祝福の言葉において、「飢えている者こそ幸いなのだ。必ずや満腹する日が来よう」という元来はすさまじい憤りの句、「飢え」というもっとも具体的な生活の危急をかかえた憤りがほとばしり出ている句を、手もなく精神化してしまって、「義に飢え渇く者こそ幸いだ。そういう者が満ち足りるようになる」と、「義」という語を付け加えて意味を変える。

マタイにとっては、腹が減って明日食えるかどうか、ということではなく、飢え渇くようにして「義」を求める、ということが大切だったのだ。そういうマタイが、イエスとは違って、自分(たち)を「義人」の系列の中に置いて見ていたことは間違いない。したがってマタイの立場としては、(イエスが)義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」という句は修正せざるをえない。

しかしマタイも一方では、単に自説を言いつのるだけの著者ではなく、自分の意見にあてはまろうとなかろうと伝承の言葉遣いを尊重し得る編集者でもあるので、ここではこの句をまったく抹殺するようなことはしない。その代わりにホセア6・6の引用を付け加えることによって、我々義人はそういう「取税人、罪人」を憐れんでやらねばならない、という方向に話しを転換させてしまう。
田川
改行は、私。

つまり、イエスは、取税人、売春婦、罪人といわれる、人々が、国民の指導者よりも、刑法で、差別される者の方が、神の国に入る、権利があることが、当然なのであるというのである。
この世で、苦労した者が、せめて、あの世で、楽をするのだという、逆説を、言うのである。

なんと言う、反逆者か、イエスという、人物は。

結局、結果を言えば、マタイは、上からの目線で、罪人などを、憐れむ、憐れんでやろうという、意識なのである。

イエスの、考え方とは、全く違うのである。

自分たちの、社会的位置は、そのままに、キリスト教という、新しい組織の中で、ユダヤ教、及び、キリスト教徒に対して、こちらが、一番、正しいのだと、いう。

田川氏は、その神学者としての、知識と、教養を持ってして、徹底的に、解説、説明しているが、それは、これくらいにしておく。

私の、言いたいことは、イエスの言葉の解釈の問題であり、更には、イエスの言葉の、改竄である。

イエスの、逆説的な、「罪人こそ神の国にはいる」という主張を、マタイは、罪人も、義人になれば、神の国に、入れますという、極めて常識的な論理に行き着かせたのである。
そして、ユダヤ教指導者は、もともと、義人ではなかったのである。

マタイの福音
はっきり言っておく。取税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、取税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。

マタイにとっての「愛」や「憐れみ」の位相がはっきりしてくる。それはむしろ、「取税人や罪人」なんぞは駄目な人間であるから憐れんでやろう、という視点から語られる。自分自身は取税人や罪人の位相にはいないのである。
田川

何しろ、こんな悪い奴でも、何とか許してやらねば、とむきになって努力しているのだから。問題は、彼の腹の中の、この「こんな悪い奴ら」という断罪の思いなのである。
田川

現代の、キリスト教徒は、どうか。
大半は、信仰により、自ずと、憐れみの心が、引き出されると、生半可な、ムードによる、憐れみの、情を持つ。

まさに、上から目線である。
異教徒に対しても、本当の神を知らない、憐れな人々である。
彼らのために、祈りましょう、程度の、感覚である。

要するに、心の中での、葛藤、戦いが、無いのである。

マタイは、罪人を、上から目線で見下ろすことにより、自分自身は、彼らの反対側に立っているということを、自ずから、暴露する。
これが、実践の観念論であり、出発点である。

平たく言う。
憐れみをかける人がいて、はじめて、憐れむという、心を持つ、また、行動する。
そこには、憐れむべき人が、いなければ、成り立たない。

助けるためには、差別され、苦難の人々が、いなければならない。
その彼らを、支援して、解放するという・・・

決して、自分たちは、痛む場所には、いないのである。

キリスト教の、矛盾であり、信徒の矛盾である。

傲慢なのである。

その、傲慢を、信仰によって、打ち消すのである。

神様のために、素晴らしいことを・・・
マザーテレサは、言う。
そして、貧しい人、捨てられた人、死に瀕する人に、向かう。
マザーテレサを、聖人に仕立て上げたのは、そういう、人々である。

そういう、人々が、存在しなければ、マザーテレサの存在も無い。
そして、彼女は、カトリックという、偉大なるバックの元で、身を粉にして、活動した。それが、イエスの、求めたことだと、信じたのが、彼女である。

イエスは、そんなことを、言うのではない。
社会に対して、徹底的に、反抗し、攻撃した。

すでに、マザーテレサは、高みにいたのである。
ローマ法王認可としての、高みである。

イエスが、最も嫌った、権威の、象徴である。

彼女に、現れたイエスの霊は、魔物に近い霊だったともいえる。


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2011年03月25日

神仏は妄想である 339

マタイは、
だから彼がイエスの言葉をひいて、「取税人や売春婦こそ神の国にはいる」と言う時には、明瞭な嘘がある。彼自身は本気になってそんなことを思ってはいない。それはイエスの言った権威ある言葉として伝えられているから、無理をして継承しているだけであって、それを口にすることによって、自分は「取税人や売春婦」さえも許してやっているのだ、と愛の実践の芸当を歯を食いしばって行っているのである。
田川建三

私は、神学者としての、田川氏を、実に尊敬する者である。
自分の問題として、聖書、その内容を捉え、更に、それを、歴史的及び、聖書学から、検証するのである。

そして、実践の観念論は、終わりに近づく。

「罪人」にとっては、自分たちが「罪人」なんぞにされることのない社会が来ることが必要なので、「罪人」とされた上で許していただき、以後はおなさけでもって許していただいた「罪人」として一生頭を低くして生きていきたいわけではない。「取税人や売春婦」自身は、当時のユダヤ教社会にあっては最も馬鹿にされていたそういう生業を好んでやっていたわけではないので、そのように恥をさらしてでも僅かの金をかせがなくてはならない位置に置かれてしまった、ということなのだ。だから彼らにとっては、ほかの仕方でもう少し楽に生きていける世の中が必要なのである。「貧乏人」にとっては、憐れんでいただくのがいいのではなく、自分たちが貧しくなくなる社会、自分たちを生意気にも憐れんだりしている奴らが自分たちよりも金持ちでなくなる社会が来ることが必要なのだ。「憐れむ」奴らは、その実践を徹底してなせばなすほど、優越意識が高まって、嬉しくなるものだ。「憐れまれる」側にとってはたまったものではない。俺たちは憐れんでなんぞいただかなくてもすむ時を待つ。いや、そういう時をかちとってやる。
田川

マタイの非常に徹底した愛の実践の倫理は、まさに彼自身の現実に立ち向かうことではなく、彼自身の中の「安定」した側に立ってなされる特別のつけ足しの実践でしかない。
田川

であるから、それを徹底させれば、させるほど、宙に浮いたものになる。

そこで、田川氏は、マタイの信仰の論理から、見ていく限り、マタイが批判していた、パウロ主義の側から、もう一度、ゆり戻したが来ると言う。

ここに、キリスト教の、問題がある。
相矛盾した、教えを、キリスト教は、その都度、こちらを、では、こちらを、と、提供して、成り立ったのである。

そこで、パウロ主義は、

マタイのように凄絶な義と愛の実践を説く限り、そして、その人生の特別あつらえの「実践」にはげむのではないと天の国に入れない、と言うとすると、よほど特別にそういう暇と余裕のある奴でなければ天の国に入ることができなくなってしまう。

だが、神の与える救いとは、そんな空しいものなのだろうか、とキリスト教徒なら問うにちがいない。それが一つの強力なイデオロギーになって一つの社会集団を覆えば、そこには息のつまるような倫理主義が支配する。

そこでは、「憐れみ」の対象である「罪人」はまさに「憐れみ」の対象として社会の下層に据え置かれる、という状態しか生まれない。そうではなく、まさにすべての人間が「罪人」であって、その「罪人」が救われる、というのがキリスト教の「福音」ではないのか。「救い」は人間の行為を業績として採点して与えられるのではなく、神の方からすべての者に無償で与えられたことではないのか。我々はそれを信じてさえすればいいのではないか。
田川建三
改行は、私。

パウロ主義は、信仰の視点から、倫理主義が常に陥る、特別あつらえの、善人意識を、十分に批判する。

だが、実践の水準から見ると、実践しないことに、居直る、論理である。

その、パウロ主義に対して、マタイは、常に、実践の、主張をする。

こうして、ことは堂々めぐりをする。
田川

キリスト教は、長い歴史の中にあって、マタイと、パウロを、正典の、二大中心に据えて、実にうまく、やってきた。

みずからおのれを批判する倫理を含んでいるから、ぐるぐるまわってうまくいく。
田川

そして、結果は、マタイにも、パウロにも、徹底出来ず、円環してゆくのである。

田川氏は、
実践を実践の観念論からひきずりおろす以外にない。
と、結論付けた。

マタイの矛盾は、愛を強調しつつ、他方で、異邦人を軽蔑し、取税人を罪人の代表として、見下し、当時の、ユダヤ教社会の律法が、どういう仕方で、罪人なるものを、規定していたかを、考慮することなく、罪人を単なる、悪人と、決め付けた。

イエスは、全く逆である。

当時の、ユダヤ教の、どうしようもない、差別意識を、徹底して、批判し、攻撃し、つまりは、否定したのである。

教会は、イエスとは、遠い。
ただ、看板だけは、愛を掲げた。
そして、それを、すべてで覆った。

だが、歴史を眺めれば、その愛の実践も、単なる、飾りである。
大航海時代は、見るも無惨に、大量虐殺を行い、キリスト教を、異国に、強制した。
そして、その後、その反省か、キリスト教全体は、愛だ、愛の行為だと、ミッションを全面的に、押し出した。

だが、その歴史も、長くは無い。
倫理的、人道的行為が、世界に広がるが、果たして、キリスト教徒は、イスラム教徒に、殺される時、黙って、殺されるか。

イスラム教徒の全滅を誓い、核兵器でも、何でも、使用して、皆殺しにするのは、見えている。

それは、今まで見てきた、通り。
旧約聖書の神の在り様、を、見れば、一目瞭然である。
嫉妬と、復讐、怒りの神である。

その名は、ヤハゥエ。
勿論、魔神である。

エジプトで、誕生した、霊体である。
それが、ユダヤ民族、民族神として、絶えず、ユダヤ民族に関わってきた。

この場合の、霊体とは霊団である。
ユダヤ人が、幸せになるためには、この霊体、霊団と、絶縁することである。

気まぐれで、人殺しを好むのであるから、ユダヤ民族は、救われない。
キリスト教の、霊体、霊団も、そこから、派生している。

ヤハゥエの、最終目的は、破滅、破壊である。

ちなみに、イスラムの、霊団も、これからの、派生である。
近親憎悪・・・

それらの、世界を、次元が高いレベルと、鑑定する、霊的能力者は、おおよそ、そこからの、縁を頂き、そのような、能力を得ている。



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