2011年03月01日

貧しさに負けるスラバヤ 1

東南アジア、南太平洋の、国々を廻り、今年は、南アジアに出掛けて、今年は、13カ国となる。

新しい国は、パプアニューギニア、パラオ共和国、そして、ネパールと、バングラディシッユ、インドを含めると、15カ国になる。

昔の、大東亜権は、広い。

大東亜戦争は、第二次世界大戦と、呼ばれて、人類史上初の、大戦である。
第一次世界大戦も、激しかった、しかし、それ以上に、第二次大戦は、激しい。

何故、島国、日本が、この、無謀な戦争に突入したのか。
多くの、学者、研究家が、それを、書き綴る。

日本は、インドネシアに対して、独立を約束しつつ、インドネシアの、石油を欲した。アメリカが、油断したからである。

石油を絶たれた日本は、手も足も出なくなる。

侵略国家として、敗戦後、日本は、謝罪外交を繰り返した。
だが、それ以前の、侵略国家である、欧米は、一切の謝罪などしない。
何故、日本だけが、謝罪を行うのか・・・

私には、それが、よく、解らない。

更に、国内から、そのような、声が、多く聞かれる。聞かれた。

侵略として、考えた場合、西欧の、侵略は、とても、過激で、それはそれは、悪魔のような、所業だった。

何せ、皆殺しである。

ただ、謝罪する姿勢というものは、評価できる。
日本は、真っ当に謝罪してきた国である。

さて、インドネシアでは、日本兵が、脱走兵として、インドネシアの独立戦争に、加担した。

ある証言である。
日本は、インドネシア独立を、謳いつつ、インドネシアを植民地化し、独立の約束を反古にした。
ゆえに、日本軍から、離れて、インドネシアの独立のために、戦うという、兵士が現れた。

これは、日本人の、道義である。
また、別の言い方をすると、義理と、人情である。

脱走兵は、インドネシアの人たちに、戦争の仕方を教え、作戦を立てた。
日本が敗戦しても、日本に、帰ることなく、インドネシアの露と、消えた。

インドネシアのために、死んだ。

私は、それに、驚愕する。
死ぬことを、選ぶという、決心である。

日本のためではない。インドネシアのために、である。

どうして、そのような、考え方を持ったのか・・・

今の、日本人には、考えられないことである。

今は、そのような、気概も、信念も、無い。
人生は、生きていれば、そこのものである。という、体たらく。

しかし、彼らは、死ぬことを、選んだ。
そして、死んだ。

私は、ジャワ島、スラバヤにて、彼ら、インドネシア人、日本人の、独立戦争で、戦った兵士たちを、スーパーヒーローと、呼ぶと、知った。

絶句した。

彼らの、墓地は、丁寧に、管理され、そこに、入るには、許可が必要だった。

独立
それが、どんなに、切実なことだったのか・・・

日本、敗戦後、再び、オランダが、インドネシアの島々を、侵略し、植民地化しようとした。

いかに、植民地というものは、美味しいものか・・・

現地人を、奴隷のように、使用し、その、国の、資源を取る。取る。取る。取る。

現地人にとって、独立戦争に、立ち上がった人たちが、スーパーヒーローだと、理解するに、時間は、必要なかった。

宗主国
何と言う、響きか。

スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス・・・
宗主国である。

日本が、植民地化した、時間は、どれほどのものか・・・

勿論、私は、それを、否定しない。だが、何百年にも、渡り、植民地化した国々は、日本の敗戦後のように、謝罪などしない。
逆である。
今も、植民地にしたいようである。

更に、驚くべきは、植民地になった、国は、白人、色の白い人間を、特別視するという、常態が、続く・・・
何と、憐れなことか。

私が、ジャワ島、スラバヤから、動かなかった理由は、そこにもある。

そして、植民地根性の、人たちは、貧しさを、享受するのである。
貧しくて、当然であるという、意識。
それは、まさに、植民地の人の意識である。

人間は、慣れるものである。
それが、哀しい。

ただし、貧しさにも、国民性が、ある。

フィリピンは、貧しさに、負けない、底抜けの明るさがある。
だが、ジャワ島、スラバヤには、貧しさに、負ける・・・

貧しさに、負けた、人々がいる。

唯一の、方法は、信仰である。
イスラム・・・
モスリムである。

私は、それを、信仰とは、認められない。
それは、逃避である。
しかし、それを、彼らは、逃避とは、認識しない。
信仰であると、信じ切る。

そこに、哀れがある。

搾取される・・・
搾取されることも、気づかない人々・・・

あはれ
あはれ、である。



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2011年03月02日

スラバヤ 2

スラバヤは、インドネシアの国民には、忘れることのない、英雄の町である。

日本の敗戦後、1945年、初代大統領スカルノは、独立宣言を出し、インドネシアをまとめる。

そして、独立戦争の幕が開くのが、スラバヤである。
イギリス軍と、再植民地化を願うオランダ軍との、戦いである。

スラバヤの、英雄たちによって、インドネシアの人々が目覚めた。
戦う。

そこに、日本兵が参加した。
インドネシア全域で、12000名程度の、日本兵が、脱走兵として、独立戦争に参加するのである。

スラバヤでは、彼らを、スーパーヒーローと、呼ぶ。

街中にある、兵士の墓地は、申請しなければ、入ることが出来ないほど、しっかりと、管理されている。

私は、申請せずに、入ることが、出来た。
日本の御国旗、日の丸の、お陰である。

戦闘の始まった、11月10日は、英雄の日、として、盛大に、行われる。

無名戦士も多い。
しかし、その無名戦死の数も、慰霊碑には、しっかりと、書かれている。

日本兵も、現地の名前を使用したもの、多数。
インドネシア人として、戦ったのである。

再植民地化するという、オランダに、国連は、もう、止めなさいと、勧告した。
国際社会が、認めなかった。

オランダは、1602年に、現在の、ジャカルタのコタに、東インド会社を置いて、植民地として、最大に利用した。
200年以上に、渡る、植民地化である。

オランダは、インドネシアを、エリアに分けて、支配した。
それは、独立の気運が起こっても、手に負えない勢力にならないようにということだ。

時々、各地で、紛争が起こったが、オランダ支配を揺るがすものではなかった。

愚民政策。
インドネシア人に、教育を受けさせず、愚民として、扱う。
人権無視の、植民地化である。

大航海時代といわれる、一時期の、西欧の、植民地政策に対して、誰か、謝罪をせよとは、言わない。

日本の、植民地政策に対してだけは、謝罪せよと、言う。

信じられない。

1949年、連邦共和国、そして、1950年に、共和国と、なった。

スカルノは、建国の父、といわれる。
しかし、社会主義政策により、経済が悪化し、共産政権に反感を持つ、国軍との対立が、深刻化した。
1965年、国連を脱退。独裁化を、進めた。

同年、9月30日、共産党勢力による、クーデターにより、体制が崩壊する。

だが、クーデターは、国軍により、鎮圧される。
これを、きっかけに、軍司令官の、スハルトが、実権を握る。

1968年、正式に、大統領となり、国連に復帰する。

スハルトは、親米路線に政策を転換して、開発の父、と呼ばれる。
だが、国の利権を、一族で、独占し、30年以上もの間、独裁体制をとったのである。

1998年、スハルトは、再選する。
七期目の任期に入り、タイ・バーツの暴落から、アジア通貨危機により、経済が悪化し、ついに、首都ジャカルタをはじめとする、国内各地で、スハルト政権に対する、暴動が起こる。

それは、各地の民族紛争にも、発展した。
特に、国の経済を握る、華僑、華人たちの、商店などが、襲われる。
国内にいた、中国系住民、600万人のうち、おおよそ、3万人が、海外に脱出した。

共に、国内の銀行から、800億ドルが、引き出された。
更に、国内経済が、悪化するのである。

1998年5月、スハルト大統領は、ようやく、辞任を表明し、32年間続いた、独裁政権が終わった。
副大統領だった、ハビビに、引き継がれる。

だが、ハビビは、スハルトの腹心である。
与党ゴルカル党と、軍内部での、権力闘争も、激しくなる。

更に、スハルト政権が国家統合のために、進めた、国内移民政策による、軋轢がはじまった。

ジャワ島などの、移住民と、元からそこに暮らす先住民との、軋轢である。
また、長年、独立運動が続いていた、キリスト教徒の多い、東ティモール、マルク諸島、西カリマンタンなどでの、対立が激化していった。

一部住民の、衝突が、民族、宗教対立となり、数百人規模の、虐殺と、発展していった。

そして、国内難民の、発生である。

これは、イスラム教色の強い、政治方針への支持を集めるための、策略だとの、見方もある。

1999年、ハビビ政権は、東ティモールの、独立を、認める。

次期大統領は、ワヒドであるが、献金疑惑により、解任される。
次に、スカルノ大統領を父に持つ、メガワティが就任する。
しかし、無能だった。
国内問題で、政局が、混乱する。

そして、ユドヨノ大統領である。

日本は、敗戦から、巨額の、支援金をインドネシアに、差し出してきた。
更に、投資である。

日本無くしては、インドネシアは、成り立たない。

後進国に、付き物なのが、汚職と、賄賂である。
国が、成り立たない訳である。

大半の、援助金が、真っ当に使われない。
政府関係に、配分されるだけと、私は、見ている。

インドネシアの金持ちは、半端ではない。
金が、一点に集中するからである。

これは、もう、人間性の問題である。
政治家・・・

決して、生では食えない。

権力者が、権力から、離れたがらない理由は、一つ。
権力の座を、渡すと、今までの、悪が暴かれるからである。

さらには、新しい政権によって、死刑も、ある。

改めて、民主的政治、民主的国益の、あり方を、考える。


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2011年03月03日

スラバヤ 3

朝、五時に起きて、六時に部屋を出た。

それから・・・16時間ほど・・・

成田から、台北、台北から、シンガポール、シンガポールから、スラバヤである。
二度乗り換えする。

スラバヤ到着は、現地時間で夜の、11時。日本時間で、深夜1時である。

市内に入り、ホテル到着は、12時を過ぎていた。
更に、予約していた、ホテルは、扉が閉まっていた。
声を掛けると、おじいさんが、出て来て、プールという。

満室・・・
予約したのに・・・

おじいさんは、隣のホテルに行けと、言う。

隣のホテルに行った。
一泊、2300円である。230000ルピア。
しょうがないと、一泊することにした。

新しいホテルである。
部屋は、綺麗だが、トイレの、手動の尻洗いが、壊れていた。
つまり、便をした時に、流せない・・・・ああ・・・

三度の、機内食・・・
胃が、もたれる。
でも、疲れて、シャワーを浴びて、すぐに、寝る。

機内食は、だいぶ進化した。
だが、矢張り、三回が、限界である。

翌朝、朝食付きかと、問うと、付いているというので、二階のレストランに。

コータに、このまま、ここに泊まるかと、訊く。
隣のホテルに聞いてみようと、言う。
後で、行くことにする。

12時までは、部屋を使える。

もし、ホテルを移るなら、荷物を解かない方がいいと、そのままにしていた。
最低限の、着替えだけ、出した。

コータが、散歩に出た。
私は、部屋にいる。とても、疲れていた。

11:30に、隣の予約した、ホテルに出掛けた。
そして、アイ・アム・テレホン・コール・キムラ・・・
意味のよく解らない英語・・・

相手の男は、キムラ、キムラと、書いたものを探していた。
オッケー、キムラ・・・

部屋を見せて貰う。
最初の部屋は、エアコン、ホットシャワー付きで、ダブルベッド。
駄目。
二人で、寝るのは、疲れる。コータが、僕は、下に寝ると言ったが、男が、まだ、部屋があるという。

そして、ツインルームへ。
エアコンがあるが、シャワーは、水。
でも、部屋が大きくて、部屋の前に、テーブルが置かれて、いい。

165000ルピア、1650円である。
1150円だと、エアコンがない。
この部屋に決めた。

そこで、荷物である。
隣のホテルから運ぶ・・・
二人で、50キロの、衣類を持ってきた。

バッグが、六個・・・

しんどい
共に、ホテルのボーイさんを呼んで、運んで貰う。

安いホテルは、古い。
だが、敷地が広く、私たちの部屋は、奥の部屋。
中庭を囲むように、部屋があり、更に、その部屋の周りに部屋がある。
私たちの部屋は、一番奥であり、安全。

ここに、九泊した。

すべては、ここから、はじまった。
中心街である。近くに市場がある。
少し歩くと、デパート、スーパーと、何でも、揃う。
でも、ホテルの周辺には、高い建物が無い。

更に、このホテルの従業員たちは、日増しに、私たちに、親切になっていった。
目的が、解ったせいもあり、気軽に声を掛けたからである。

最高齢は、おばあさんだった。
飯炊き婆さん、である。

朝食は、パン二枚と、ティーがつく。
そして、三時に、ティーが部屋の前のテーブルに置かれる。
私たちは、その他に、コーヒーを何度も、頼んだ。
無料である。

出されるものは、すべて、サービス。
気に入った。

おばあさんに、最後の夜、一人で、台所で、食事をしていた時に、10000ルピアのチップを渡しに行った。
100円のチップである。

すると、すぐに、コーヒーを運んで来た。
そして、確認するように、10000ルピアを出して、私にくれるのか、と問う、しぐさである。
そう、あなたに・・・
私も、しぐさで、言った。

とても、感謝された。
誰も相手にしない、飯炊き婆さんであるから、客も、その存在が無いように、思う。

おばあさんは、何と、私たちが、朝、三時に起きて、四時前に、空港に出る前に、ティーを持ってきてくれた。
そして、現地の言葉で、何度か、同じ言葉を、繰り返した。

それは、また会いましょうね、また会いましょうね、と、聞えた。



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2011年03月04日

スラバヤ 4

寒い日本から、やってきた。ゆえに、無理しない。

二日間は、気温に慣れるために、出歩く。
昼間は、30度以上はある。
日差しに当ると、てきめん、汗をかく。

ホテル付近の、買い物をする場所を、見つける。
少し歩いて、デパートそごう、と、他のデパートが、二つになった、大きな建物にある。
その中には、なんでもある。

更に、スーパーだけの店も。
そこが、一番安い。

水。兎に角、水を買う。
ペットボトルを、二人で、一日、四本必要である。
毎日、水を買いに出る。

昼の食事は、地元の食堂や、デパートの屋台街で、食べる。
そして、夜は、ホテルの前に出る、屋台で、食事をする。
その、二つの、屋台は、魚料理と、インドネシア料理、中華的料理も、食べられる。

私は、毎晩、交互に、それぞれの店に出掛けた。
と言っても、ホテルの前である。

夕方から、屋台の用意がはじまる。
皆、家族経営であり、顔見知りになった。

美味しい、安い・・・
私たちには、最高である。

10日間の滞在で、ホテル代と、食事代、車代など、四万円程度で、済んだ。
観光旅行ではないから、当然である。

ホテルでは、ティーと、コーヒーが、飲み放題である。

ただ、スラバヤという、街の全貌が掴めないのである。
中心部は、高いビルがあるが、そこから、放射状に、街が広がり、人々の生活がある。

一番貧しい所は、線路沿いであると、後で、気づく。
だが、少し小路を入ると、貧しい人々の生活の場を、見ることになる。

コータも、私も、一人で、色々な小路に入った。
素顔の、スラバヤである。

そんな小路の中に、孤児院など、ヤヤサンと呼ばれる、インドネシアの国が認めた、組織、団体がある。
日本の、NPOである。

ヤヤサンは、色々な種類がある。
多くは、慈善活動であるが、自然保護などの、団体もある。

ホテル周辺には、数多くの、ヤヤサンがあった。
特に、学校に通えない子供たちに、勉強を教える施設である。

私たちは、その施設に、共に併設された、孤児の家を、訪ねた。
それは、コーターが、見つけたものである。

子供服を多く持参したので、子供たちが、とても、喜んだ。

ただし、そこは、イスラム教徒の運営する、ヤヤサンである。

実は、その前に、ホテルの奥さんから教えられた、ヤヤサン孤児院に、出掛けた。
そこは、キリスト教徒の運営である。

イスラム教徒のヤヤサンでは、私たちが、イスラム教徒たちだけの施設に、支援しているのかと、問われた。
そこが、難しい。

インドネシアは、80パーセント、イスラムである。
イスラムが、正しいのである。

であるから、私たちは、誰にでも、必要な人たちに、差し上げますと、答えた。

更に、日本は、イスラムの人たちと、友人ですと、言った。
言った後で、インドネシアの人たちと、友人であると、言えばよかったと、思った。

彼らは、非常に敏感なのである。
つまり、アメリカなどのマスコミが、イスラムイコールテロリストと、観念を作り上げているからである。

バリ島の、爆弾テロも、イスラムだった。
国内でも、非常に微妙な感覚なのである。

朝の四時頃から、昼前の時間から、三時過ぎから、六時前から、と、日に、四度、イスラムの祈りがあり、それが、スピーカーで流されて、祈りの、合唱になる。

至る所の、モスクから、その声が流れる。
それで、おおよその時間が、解るのである。

しかし、生活の中に根付く、イスラムの信仰なのであり、特別なものではない。

スマトラ島に出掛けた時、イスラム教徒の二人の青年から、テロリストは、マレーシアから出ると、聞かせられた。
しかし、マレーシアの若者は、インドネシアから出ると言う。

私は、共に、貧しい少年たちが、テロリストに育てられると、考えている。

郊外の、ストリートチルドレンなどは、格好の狙い目である。
彼らを選び、教育して、テロリストに育てるのである。

簡単である。
その貧しさが、何ゆえに生まれたのか。そして、その原因であるモノを、破壊するのである。そうすれば、お前たちは、アッラーの国、天国に入り、豊かな暮らしが出来ると、教える。

テロの計画を練るのは、知識人たちである。

そして、彼らの、最大の、目的は、世界を、イスラム帝国にすること。
つまり、世界の支配を、イスラム教徒がするというものである。

イエスや、仏陀が、言わなかったことを、言って、信徒を支配するように、イスラム教も、その指導者が、勝手に、教えと、規則を作る。

さらには、イスラム法を復活させよ・・・と、言う者までいる。

人類が、いかにして、この宗教という、迷いから醒めるのか・・・
それが、21世紀の、進化の要となる。

もし、民族の伝統としての、宗教、あるいは、儀式として、認め合えば、ひとまず、問題は、解決する。
しかし、先は、遠い。

共生するということが、いかに、難しいことか。

他宗教に、寛容にならないことを、強い信仰と、呼ぶのである。


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2011年03月05日

スラバヤ 5

滞在、三日目から、いよいよ、行動開始である。

ホテルに車をたのむと、ホテル付きの、運転手がいるという。
大型のバンである。
英語の出来るスタッフが、運転手を連れて部屋に来た。

イケメンである。
メガネが似合う、青年。知的・・・
しかし、後で、馬鹿だと、解るのだが・・・

海岸で、慰霊をする。それが、第一の目的。
更に、紹介された、ヤヤサンの孤児院にゆくという、計画。
計画は、おおよそ、である。

二時間・・・
20万ルピア、2000円。

支援物資を、半分車に積み込む。

青年は、ホテルの奥さんから、色々と、指示を受けている。
ヤヤサンの場所などである。

昼間の二時に、出発。
一番、暑い頃。

運転手に任せて、出発した。
最初に、孤児院である。

15分ほどで、着いた。

こちらは、海岸に行くつもりだったが、まあ、いいか・・・

立派な建物の、ヤヤサンである。
迎えてくれたのが、二人の子供たち。
男の子と、女の子。
青年運転者が、子供たちに、何か言うと、二人は、私たちを、どうぞと、招き入れた。

そのロビーは、意外に、狭い。
大きな机がある。

早速、衣類を出すと、おばさんが、現れた。
コータが、説明すると、頷く。
そして、子供たちを、呼ぶ。

私は、直接手渡したいと、御願いした。

子供たちが、続々と、ロビーに集まる。
サイズの合うものを、選んでくださいと、私が言うと、子供たちが、遠慮がちに、手に取る。

中学生程度の、女の子たちも、集まってきた。

皆、礼儀正しく、冷静である。

それぞれ、手に取り、選ぶ。
暫く、時間がかかった。

随分と、教育されていると、感じた。

そこでは、バッグ類を、取り出して、必要な人は・・・と、声を掛けると、何と、皆、バッグを、取った。

壁に、十字架が、かかっていたので、キリスト教系のヤヤサンであることは、分かった。

皆で、写真を撮る。
そして、コータが、おばさんから、証明書を頂いた。
こんなことは、はじめてである。証明書は、ここに、支援をしましたというもの。

更に、大きな台帳に、署名する。

子供たちは、玄関まで、見送りに出て、更に、日本語で、さようなら、と、言い、手を振る。
恐れ入った。

ミッション系の、支援を受けて、十分に、成り立っている、団体だった。
どうも、いつもと、違うと、感じた。

もっと、もっと、必要なところがある・・・
ここは、恵まれている。

このような、ヤヤサンではない、ヤヤサンに行きたいと、思う。

青年が、車を走らせた。
海岸に向かうようである。

その途中で、見た光景は、線路沿いである。
まさに、スラムであった。

線路沿いに住む人たちは、全く別の生活をしているように、見えた。

ここだ、ここに、渡そうと、コータに言った。
帰り道で・・・

海岸で、祈ると、伝えていたが、青年は、何と、大型船が入る、港に入るのである。そして、入場料金が必要なのだ。

違う、違う・・・
ここではない。

シーサイドよ・・・

そうすると、また、元の道を戻り、別の場所に。
そこでも、入場料である。

そして、海岸の前には、鉄格子が・・・
何、これ・・・

駄目だ・・・

再度、シーサイドというと、それは、歩いて行かなければならないらしい。
車では、行けないと。

もう、いい。私は、そこで、日の丸を出して、慰霊することにした。
鉄格子の前で・・・

神呼びをはじめると、コータが、何か言う。
別の場所に、ビーチに面したお寺があるそうだよ・・・

車に戻り、話を聞くと、シーサイドにお寺があるという。
30分ほどかかるらしい。

分かった、それでは、そこに行く。

そして、着いたところが、巨大な公園であり、入場料が必要である。
テーマパークなのである。

そして、お寺・・・
中国寺院だった。
がっかり・・・

救いは、海に面していたこと。

唯一、波打ち際がある場所にて、慰霊を執り行う。

暫く、祝詞を挙げて、国旗を掲げ、黙祷する。
人々が、見詰めている。

20分ほどで、終わり、写真を撮ると、横に、家族総勢七名が、ニコニコとして、私を見る。お母さんが、少し日本語が出来る。
美しいと、言った。
その、美しいは、何を指して、言ったのか・・・

意味は、分からないが、一緒に写真を撮ると、とても、喜んだ。

運転手は、終わった・・・と、訊く。

次第に、こいつ、アホかなあーーーーと、思い始めた。

いつも、観光案内をしているのか、こちらの、要求が、飲み込めないようだ。

コータに、どうも、アホみたいだ、と、言うと、そうだね・・・
兎に角、車に、乗り込む。

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2011年03月06日

スラバヤ 6


車が、線路沿いを通過するとき、私は、止めた。

ストップ、ストップ・・・
ちょっと、待って・・・

そして、車から降りて、バッグを二つ持ち、線路沿いに向かった。

こんにちはーーーー
ハロー
フロム、ジャパン、プレゼント・・・

バッグを開けて、中を見せて、プレゼントと、何度も言う。
コータが、少し覚えた、インドネシア語で、何か言う。

おばさんや、お姉さんが、頷く。

私は、衣類を取り出した。

さあ、それからが、大変。
どんどんと、出て来た。
イスラムの白い服を着た、おばあさんたちである。

はじめは、良かった・・・
しかし、そのうちに、ベビー、ベビーと、ベビー用を取り出すと、皆、口々に、ベビー、ベビーと、手を伸ばす。

じいさんも、混じってきた。
違う。
ベビーだよ・・・

ベビー、ベビー・・・

何でも、欲しがるのである。

ガールといえば、ガール、ガールと、口々に言う。

駄目だ・・・

遠巻きに、少女や、男の子が、見ている。
近づかない。
イスラムの教えか・・・

少しばかり、少女たちに渡したが、もう、限界である。
おばあさんたちの、迫力に、負ける。

私は、バッグの口を閉じて、戻る、戻る。
そして、追い掛けてくるのである。

ベビー、ベビー、ガール、ガール
意味が解らないのに、言うのか・・・

運転手が、見ている。
どうしていいのか、解らないようだ。

アホ、馬鹿
手伝え・・・

現地の人が、仲介してくれれば、少しは、安定して、手渡せるのに・・・

アホ、馬鹿、間抜け

私たちは、車に戻った。
コータに、これは、よく考えてやらないと、駄目だと、言うと、周囲に、若者が、沢山いたという。

婆さんたちの、迫力に負けたのか・・・

線路沿いの、家々は、小屋である。
とても、住まいとは、思えない。

日雇い、ゴミ拾い、物乞いなどで、暮らすのか・・・
ああ、荷物運びの人たちが、住むとも、ホテルで、聞いた。

それにしても・・・
今回は、線路沿いで、支援をするのを、この一回で、止めた。
次回は、十分に準備するか、現地の人に、手伝ってもらうことにする。

後で、自転車タクシー、ベチャのおじさんと、路地を廻ったときは、おじさんの計らいで、とても、スムーズに、支援が出来たのである。

コータも、ゆっくりゆっくり、という、現地の言葉を、覚えて、人々を、なだめつつ、支援が出来た。

まあ、突然、衣服を持って、現れたのであるから、驚きと、嬉しさで、皆、感情的になってしまったのだろう。

あの、昼間の暑さの中での、支援は、とても、疲れる。

そして、イケメンのアホな、運転手は、二時間という、決まりを、守るべく、ホテルに向かうと言う・・・
時間は、気にしないと、言ったのに・・・

本当は、もう一件の、ヤヤサン孤児院に行くはずだった。

三時に、ホテルに到着である。

少し、私が、日本語で、怒鳴ったのが、勘に触ったのか、イケメン運転手は、その後、あまり、私に近づかなかった。

何せ、仕事なく、毎日、ホテルにいるのである。

それでも、日が経つと、彼は、私たちに、親しくなり、おどけて見せたりする。

私は、コータに、馬鹿が来たよ・・・と、言って教えた。
彼は、最後に、私たちを、空港まで、送ることになっていた。
朝の四時である。
まあ、また、次に来た時も、同じホテルを利用するので、逢うことになると、思う。

イケメンでも、馬鹿は、馬鹿・・・
アホは、アホである。

と言いつつ、私も、親しくなった・・・

コータが、心配したのは、馬鹿、アホの意味が、わかっていたら・・・ということ。

いいよ、いいよ、親愛の情だと、言えば、いい。


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2011年03月07日

スラバヤ 7

一日活動して、一日、休むことにしていた。
気温差が、激しいからである。
無理をすると、熱中症になる。

と、思いつつ、ホテル近くの市場に出掛けた。

歩いて五分ほどの所に、大きな市場がある。

だが、その通りを歩いて行くと、物乞い、母子の、物乞いが多いのである。

子供たちも、手を出す。
更に、食べ物が欲しいと、身振りである。

私は、すぐに、ホテルに引き返して、バッグを持って来た。
まず、衣服の支援である。

衣服を取り出すと、ワァーという、歓声が上がる。
すると、次々と、人が出て来た。

子供服を、取り出すと、私も、子供がいる・・・
私も・・・

まず、目の前にいる、子供から、手渡す。
サイズを合わせて、上げるのである。

そして、幼児の物。
すると、妊娠中の女性も、やってくる。

そうして、おおよそ、皆さんに、差し上げて、ホテルに戻り、再度、市場に向かうことにした。

通りでは、先ほどの人たちが、知り合いになっている。

それから、毎日のように、私は、子供たちに、食べ物を上げた。
勿論、その通りで、売られている、屋台売りの、食べ物である。

とても、安い。
しかし、とても、感謝される。

老人の福祉が無い、インドネシアは、老人の物乞いも、多い。

それを見るのは、とても、辛い。
女性の老人には、衣服を差し上げることが、出来たが、男物は、ほとんど持参しなかったせいで、差し上げられない。

市場は、とても、活気がある。
一階は、食べ物が中心で、二階が、電気製品売り場である。

二階には、用がなかった。
一階に降りて、食べ物、特に、果物を見て歩く。

スイカを買った。
100円程度である。
そして、みかん、である。
量り売りで、適当に選ぶ。日本の、冬蜜柑より、薄い味で、あまり、甘くない。

スイカは、ホテルで、包丁を借りて、食べた。
一つであるから、三日間ほど、続けて食べた。

市場の中には、食堂が無かったのが、残念である。
どこの国でも、市場の食堂は、実に、安い。

毎日必要なものは、水である。
その水の、値段が、それぞれの店で、違う。

私たちは、色々な場所で、水を買い、どこが、一番安いかと、検討した。
最も安い店と、高い店の値段の違いが、7円であることが、分かった。
しかし、安い店は、15分ほど、歩くのである。

四本買うと、28円の差である。
それが、五日間だと、140円。
それだけあると、10円の、屋台売りの、揚げ物が、14個買える。
そこで、浮かせた、お金を使い、子供たちに、揚げ物を、買うという・・・

とても、セコイ・・・
だが、それでこそ、私らしいのである。

更に、屋台売りの、焼き飯、ナシゴレンなどは、一つ80円。
それも、買って、子供たちに、配った。

子供たちは、決して、一人では、食べない。
親、兄弟と、一緒に食べる。

分け与えるのである。

私が、それを買っていると、人が、どんどんと、やってくる。
それは、キリが無い行為になる。
どこかで、止める。

彼らは、ほんの少しで、十分のようである。
少しの、食糧で、十分な、体になってしまったのである。
だから、子供たちの、体は、小さい。

見た目より、年齢が高い。

ただ、それを見ていると、貧しさの、種類というのか、意味が違うように思う。
例えば、フィリピンの島々の、貧しい人たちと、雰囲気が違う。
少し、暗いのである。

フィリピンの島々の人たちは、貧しくても、解放的で、明るい。

こちらは、どちらかと言うと、貧しさに、負け気味である。
いつか、何かで、逆転するかも・・・というのが、フィリピンの強さと、言っても、いい。

諦めたムードが、漂う。

そこから、抜けなられない、定めを、諦観するようである。
それは、また、インドネシアのイスラム教が、影響しているようである。

貧しくても、イスラムである。
ただ、あまりに、貧しいと、モスクにも、行かないようである。

貧しくても、女性は、イスラムの被り物をしている。
だが、それ以上に、貧しいと、被り物もしない。

時間ごとに、流れる、イスラム教の祈りが、至る所の、モスクから聞えるが、私には、それが、何やら、悲しいメロディーに聞えるのである。

金曜の夜は、深夜12時頃まで、祈りの声が続いた。
一体、人は、何故祈るのか。
それは、ミャンマーの朝の寺院でも、感じたこと。

信仰というより、逃避に感じるのである。

それが、また、救いということかもしれない。

逃避できる場所があるという・・・

貧しさを、何かに転化する。

バリ島でも、至る所の村々で、毎日のように、祭りがある。
そして、仕事より、祭りが、優先する。

バリヒンドゥーであるが、そこにも、何か、信仰より、逃避を感じるのである。

祭りに参加しない者は、村八分にされる。
貧しい人たちにとっては、それは、恐ろしいことである。

村八分にされると、助け合うことが、出来なくなる。

信仰と、一口に言っても、日本人の信仰心と、それぞれの国の、信仰心は、違う。
ここに、その相違による、問題意識と、テーマが、与えられる。


posted by 天山 at 00:00| 貧しさに負けるスラバヤ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月08日

スラバヤ 8

ホテルから、近い、街中の、英雄墓地に出掛けることにした。

ホテルの従業員から、タクシーより、ベチャ、自転車タクシーの方が、いいと、言われた。
15000ルピアで、行けると言う。

そこで、支援物資のバッグを二つ持参して、ホテルを出た。

ホテル前に、待機している、ベチャは、ボラれると、思うから、少し歩く。
すると、一人のおばさんが、呼びかけてきた。
ほらほら、ベチャあるよ・・・これに乗ったら・・・
と、指差す。

すると、すぐに、おじさんが、駆けつけて来た。
行き先を言うと、10000ルピアで、行くと言う。100円である。

あらっ、安い。
じゃあと、乗り込む。

自転車は、ゆっくりと進む。
実に、良い風景が見られる。

英雄墓地は、スーパーヒーローの墓地なのである。

通り道に、衣服を渡したい人たちがいる。
後で、おじさんに、言って、廻るつもりである。

英雄墓地到着。
日の丸を持って、中に入ろうとしたが、扉が閉まっている。
と、一人の、おじさんが、出て来て、中に入れてくれた。

私は、祈ると、言って、どんどんと、墓地の中に入る。

コータが、おじさんから、何か言われている。

そして、ここは、許可がなければ、入れない場所なので、出来るだけ、早めに、御願いしたいと、言っているという。

許可無しで、入れてくれたのは、日の丸のお陰である。

英雄には、日本兵も、多々いる。

車で、30分ほどの、郊外にも、英雄墓地があるという。
私は、そこには、次のときにと、考えた。

兎に角、黙祷をして、英雄の皆さんに、挨拶する。

そして、日本兵のために、祝詞を上げる。
最後に、清め祓いを、行う。

少し急いだ。

だが、これが、日本のバカな公務員だったら、決して、中には、入れないだろう。
兎に角、許可を取れ、である。
臨機に対応しないのは、公務員の特権。

名前の記された、慰霊碑の前で、写真を撮る。
そして、何度も、トリマカシと、お礼を言い、外に出た。

ベチャのおじさんが、急いで、自転車を、入り口に着ける。

私は、おじさんに、言った。
バッグの中を見せて、これを必要な人たちに、渡したい・・・
おじさんは、すぐに、理解した。

ジャランジャランで行こう・・・
ゆっくり、散歩をするように、である。

道を戻りつつ、おじさんが、人々に、声を掛ける。
まず、道端に座っていた、親子連れ。

子供の衣服と、母親の衣服を渡すと、父親が、もっと、奥のほうに、行ってくれと、言う。
奥のほうに、必要な人たちがいるのだ。

すべて、おじさんの、采配に任せた。

時々、道端の、人の前で、止まった。
おじさんが、言うと、相手が何か言う。
そして、手を出す。
差し上げる。

それを繰り返して、おじさんは、路地の中に、入っていった。

狭い路地である。
子供が遊んでいる。

裸で、水浴びする、女の子もいる。
おじさんが、声を掛けた。

すると、どこからともなく、人が出てくる。

日本の人が、服を持って着てくれたよ・・・
順番にだ・・・

女たちが、集う。

私が、ママと言い、衣服を出すと、皆、シーンとする。
誰、ママ・・・
あんたよ・・・
いや、あんたのことでしょう・・・

ママとは、そちらの方言で、婆とも、受け取られるらしい。

私は、ガールと言った。
すると、皆、手を出した。
婆さんも、である。

女は、皆、ガールなのである。
子供から、大人まで、女は、ガール・・・・

ガールが、利いた。
皆も、ガールと、言い合う。

赤ん坊を抱いた女には、幼児物を。
ベイビー・・・
皆、ベイビーと、応える。

すると、赤ん坊のいる女たちを、皆で、呼ぶ。

おじさんの、お陰で、騒然とした、雰囲気にならない。

みんなにだよ・・・みんなに・・・
と、言っているようだ。

少しして、また、奥に入る。

その繰り返しである。

おおよそ、渡し終えると、おじさんは、右折して、路地を出た。
そのまま、ホテルに向かう。

驚いたのは、おじさんが、私たちの泊まるホテルの、玄関の中の中まで、入ったことである。
私たちは、見られていると、思った。

このホテルに、私たちが、泊まっていると、知っているのである。

私は、おじさんに、30000ルピアを渡した。
チップも、含めて、300円。
すると、おじさんが、私にも、何か、ありませんかと、言う。
ああーーー
成人男物は、あまり無い。

すると、コータが、ブルーの袖なしワイシャツを見つけた。
おじさんに、渡すと、とても、喜んだ。
更に、ホテルの従業員も出て来て、二人の子供がいる・・・

私は、バッグの中身を、すべて出した。
おじさんにも、家族の必要なものを、と、言った。
おじさんは、独身だった。
寂しそうに、家族は、いないと、言う。

従業員は、二人の子供ために、衣服を選び、とても、喜んだ。

およそ、二時間ほどかかった。
本日は、これで、終わり。

その後、おじさんとは、道で、何度も、出会った。
更に、ホテル周辺の人たちも、私たちの行為を、見て知っているのである。

何人の、おじさんたちから、俺にも、シャツをくれと、言われたのである。

ゴミ拾いと、ベチャの仕事は、おおよそ、最低の仕事である。

posted by 天山 at 00:00| 貧しさに負けるスラバヤ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月09日

スラバヤ 9

コータが、散歩して、市場の裏にある、ヤヤサンを見つけたという。
そこで、それでは、行こうということになった。

そして、出掛けて、良かった。

その、ヤヤサンは、孤児と、親が貧しくて、学校に行けない子供たちを、世話している、ヤヤサンだった。

狭い入り口。
その奥は、長いのである。

二人の男性が、迎えてくれた。
私たちは、バッグを開けて、中を見せ、必要ですかと、問うた。
必要ですと、言う。

それでは、子供たちに、渡したいと言った。

すると、若い男性は、中にいる、代表に報告した。
代表は、女性だった。

私たちは、子供たちのいる、奥の部屋に通された。
そして、手渡しの支援が始まった。

子供たちは、とても、規律正しく、男女に分かれて座り、私たちの、支援物資を、出すのを、待った。

指導者の女性が、子供たちに、何か言う。

私は、自分のものだけではなく、兄弟のものも、持っていってね・・・
と、言った。

最初は、男の子たちからである。
遠慮がちに、服やズボンを手に取る。
そろそろとした、雰囲気は、指導者たちの、教育が厳しいようであると、感じた。

一応、男の子たちが、終わり、女の子の番になった。
女の子たちは、更に、控え目である。
こちらから、手渡すことにした。
遠慮がちに、受け取る。

だが、私が、ぬいぐるみを出した時、子供たちが、活気づいた。
皆々、手を出す。

矢張り、ぬいぐるみは、力がある。

少し混乱したが、すぐに、収まった。

更に、私は、靴を出した。そして、サイズを合わせてと、言った。
更に、兄弟のためにも、いいですよと、言う。
私は、日本語、それを、コータが英語にして、指導者に伝える。

大半を渡し終えて、私たちは、もう一度、玄関の前の部屋に、呼ばれた。
そこで、水をご馳走になり、代表の方や、指導者の方との、話し合いが始まった。

英語の出来る、指導者の女性が、私たちの、目的を尋ねる。
慰霊と、支援活動を紹介する。

それに関しては、何も、問題なく、皆さん、頷いていた。

更に、質問は、イスラムの施設だけを廻っているのかという、質問である。

いや、誰でも、必要な人たちに、渡しています
そうですか。ここの前には、どこに行かれましたか

私は、キリスト教系のヤヤサンに行ったと答えた。
すると、あそこは、大きな組織です。私たちは、地元の人たちの、支援に支えられていますと、言う。

イスラム系のヤヤサンは、矢張り、イスラム系を主にして欲しいと、感じた。
ただ、嫌らしい、気は感じられなかった。

それでは、次の時は、どんな物が、必要ですか
出来れば、絵本が欲しい
解りました。インドネシア語の本ですね
はい

私は、代表が出した名簿に、名前と住所を記入し、更に、テラの会と、書き入れた。
そして、驚いたのは、その施設の、ヤヤサンのカレンダーを頂いたことだ。

私は、この施設は、毎月、どの程度の、資金で、遣り繰りしているのですか、と、問うと、代表が、それは、シークレットだと、答える。

その辺りは、実に慎重である。

そのような、ヤヤサンの施設が、スラバヤには、多いということも、解った。
競合したりするのだろうか・・・

私たちは、兎に角、子供たちに、手渡しで、衣服などを渡すことが、出来たのであり、それで、十分に満足である。

それでは、また、お会いしましょうといって、私たちは、施設をあとにした。

夕暮れ時でも、まだ、暑い。
市場の通りを歩いて、ホテルに向かう。
衣類を差し上げた人たちが、手を振る。

ホテルの前では、夜の屋台の用意が、始まっていた。
私たちの、食事所である。

二つの屋台を、毎晩交互に、訪れる。

安くて、美味しい。
それで、一日が、救われる。

部屋に入ると、エアコンの風が、気持ちよい。
ただし、それが、体のためには、あまり良くないのである。
温度差による、体力の消耗である。

支援物資は、ほとんど、残っていない。
もう、何処に出掛けることも、しないと、私は、決めた。


posted by 天山 at 00:00| 貧しさに負けるスラバヤ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

スラバヤ 10

旅の、後半は、実にのんびりと、過ごすことが出来た。
そんなことは、珍しい。

一日、食事以外は、外に出なかった日もある。
私は、地元のタバコを、楽しんでいた。

タバコ本来の味。
香りと、甘さがいい。

コータは、プロモ山か、スラバヤから、船で、30分の島に出かけようと、考えていた。
結果、島に出掛けることにして、少しばかり残った、支援物資を持って出かけたが、何と、海岸の市場で、支援物資を渡して、島には、行かなかった。

実は、最後には、私たちの、着替え用の、シャツや、ズボンなどを、差し上げてしまうことにもなった。

私は、観光は、一切しない。
兎に角、路地を歩き、更に、地元の食堂で、食べる。

全く言葉が、通じないが、挑戦してみる。
食べたいものを、指で指して、頼む。
料金も、紙に書いてもらう。

皆、親切にしてくれるので、ありがたい。
そして、料金は、実に安い。

100円から、200円で、十分なものを、食べられる。

路地を歩くと、子供たちに出会う。
学校に行ける、一般的な子供たちである。

向こうも、少し、英語ができるので、私と、話すには、丁度よい。
小さな子供たちには、ビスケットなどを、渡して歩く。

スラムより、増しな、住居に住んでいるが、決して、豊かではない。

干し物を見て廻る。
洗濯物を見ると、生活の状況が解る。

申し訳ないが、ここまで、使うのかという、毛布や、服などが、干してある。
原型の色が、分からないものなど・・・

夜は、薄い毛布を使う。
ホテルでも、そうである。
朝夕が、涼しい。ということは、現地の人には、寒いのである。

私たちも、夜は、エアコンを消して寝る。

本当は、窓を開けたいが、とても、蚊が多い。
毎晩、蚊に悩まされた。

どこから、出てくるのかと、コータが探ると、シャワーの排水溝から、出て来るのだ。
それも、小さいのである。

手で叩いて、潰しても、詮無いこと。
帰国する、二日前から、ホテルの、蚊取り線香を貰い、一晩中焚いて、寝た。

スラバヤの町は、イメージしにくい。
このような、町は、初めてである。

新旧混在し、更に、貧しさと、豊かさの、境目が見えない。

ちょっと、小路に入ると、貧しい路地になる。
その前には、近代的なビルが、建つという。

スラムと、言っても、答えないのは、どこにもでも、スラムがあるからだった。

ストリートチルドレンは、町外れにいる。
今回は、彼らに会うことは、出来なかった。
空港からの道々に、彼らは、いる。

次回は、郊外に出て、彼らに逢いたいと、思っている。

さて、いよいよ、帰国の日である。

朝、三時に起きて、四時にホテルを出る。
イケメンのアホの運転手である。

前の日に、部屋に確認に来た。
四時、10分前に、ということで、約束した。
10万ルピア、1000円である。

朝早いから、それで納得した。

飛行機は、六時発である。
スラバヤから、シンガポール、そして、台北、それから、成田である。

それぞれの、待ち時間がある。

成田に、夜の九時頃到着して、バスに乗り、部屋に着いたのが、夜の十二時過ぎだった。

とても、長い時間である。

機内食を三度食べる。
それで、胸が一杯になる。
シンガポール、台北の空港では、何も食べなかった。
食べたくないのである。

台北の免税店で、日本のタバコを買う。
およそ、半額である。
だが、台北の空港には、喫煙場所がない。

空港の要望書に、喫煙所を求めると、書いた。
同じものを、三枚書いて、箱に入れた。

その台北で、飛行機が遅れた。
最初は、20分、それから、30分、一時間近く、遅れた。

乗り込むために、人々が、並んでいた。

私は、いつものように、痺れを切らして、登場口に近く行き、そろそろ、怒鳴ろうと思っていた。
と、一人の日本人男性が、英語で、係員に何か言う。
そして、日本語でも、言った。

一時間も、このようにして、皆さんを立たせて、一体何をしているのか。
中には、お年寄りも、いる。
あなた方は、何も仕事をしていない。
日本の方々も、黙っていては、駄目です。

オーッ
私は、驚いた。
いよいよ、立ち上がろうと思った時である。

コータは、後ろで、私が声を上げたと、思ったらしい。
あーあ、また、先生は、台北で、知られてしまう・・・・と、思ったらしい。

そして、搭乗する時、ここでも、覚えられたねと、言うので、あれは、私ではなく、別の人だというと、驚いた。

空港で、怒鳴るのは、私。
コータは、そう思っている。

しかし、今回は、先を越された。

だが、あの男性が、怒鳴ってよかった。
私なら、感情的になり、日本語で、怒鳴り散らした。

もし、あれ以上飛行機が遅れたら、私たちは、横浜行きのバスにも、間に合わなかったのだ。
最終のバスに、間に合い、無事に到着した。

日本の寒さが、新鮮だった。
おしまい。

posted by 天山 at 00:00| 貧しさに負けるスラバヤ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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