2011年01月29日

神仏は妄想である 329

もう一つの、疑問がある。

それは、イエスの発心と、それ以前の生活である。

特に、発心については、これほどに重大なことであるのに、福音書には、書かれないのである。

だが、それにしても誕生にまつわる問題をマタイとルカはどうして、あれほどの虚構によって詳しく記しているのか。思うにイエスをキリストと信じ、神の子としたことによって、イエスははじめから、いわば宗教的存在であり、発心といった、ふつうの人間に起こるような体験はするはずがないと考えたからではないか。
笠原芳光

三十歳までの、生活が全く解らないのである。

その後の、二、三年である、イエスの人生とは、何か、である。

私は、多く、妄想のイエスの青年時代を書いたものを、読んだが、納得しない。

エジプトに留学して、インドに渡り、修行しただの、甚だしいのは、日本にやってきて、云々・・・

その間に、様々な、修行を積んで、奇跡を起こすようになるとか・・・

実に、馬鹿馬鹿しい、妄想だった。

解らない、イエスの三十歳までの、生活を妄想することなかれ、である。
解らないものは、解らない。

解ることは、兎に角、家を出て、洗礼者ヨハネの教団に入ったということである。

ヨハネも、ユダヤ教の一派として、見なす。

ユダヤ教は、紀元前20世紀のころ、イスラエル民族の父祖とされる、アブラハムの率いる、遊牧民の集団が、メソポタミアの、ウルを出て、カナン、のちの、パレスチナの地を目指して、西に進んだことにはじまる。

後に、旧約聖書の、成り立ちを見るが、アブラハムの子孫は、飢餓を逃れるために、カナンから、エジプトに移住した。
その地で、彼らは、奴隷にされたため、モーゼに率いられて、エジプトを脱出し、荒野をさ迷う。

そして、シナイ山で、神からの、契約を受けたと信じたのである。

前13世紀ころに、カナンに戻り、イスラエル民族の地を作る。

やがて、ダビデ、ソロモンが王として、統治し、エルサレムが、都となった。

農耕神バアル信仰との、争い、預言者による、唯一神ヤハウェ信仰の強調、バビロニアによる、捕囚などを経て、前5世紀ころ、律法、祭司、神殿などの宗教制度が、整えられ、ユダヤ教が成立する。

イエス当時の、ユダヤ教は、非合理主義で、進歩的思想のパリサイ派と、合理主義で保守的思想のサドカイ派の二大教派のほかに、私有否定と禁欲の共同生活をする、エッセネ派、前1世紀にローマの属領となった、ユダヤの独立を目指す政治活動を行った、熱心党、更に、小さな洗礼教団などが、多数存在した。

イエスは、その中で、何故、ヨハネを、選んだのか。

洗礼派としては、エッセネ派も、死海の北西部の、クムランに本拠があり、クムラン教団とも呼ばれ、洗礼を行っていた。
ヨハネの洗礼は、一度であるが、クラムン教団は、何度も、繰り返し行われたという。

ヨハネの姿は、預言者のエリヤに重ねられた。
それは、預言者たちが、イスラエルを救済する、メシアの到来を告げていて、イエスをメシアとする聖書作家たちが、エリヤをヨハネに、関わらせて、ヨハネこそ、キリストの先駆者であると、告知する意図があったからだ。

イエスも、ヨハネから、洗礼を受けている。

のちヨハネの禁欲主義や修行主義が自分の考えと異なることがわかって、ヨハネ教団から離脱したあとも、イエスはヨハネの人格に対する敬意を持ち続けたと思われる。
笠原芳光

マタイの創作は、面白い。
イエスが、洗礼を受けようとすると、ヨハネが、私こそ、あなたから、洗礼を受けるものですのに、あなたが私のもとに、おいでになるのですか、と、語らせ、イエスには、今は、受けさせて欲しい。このように、すべて正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいと、言わせる。

キリストが、洗礼を受けるという、矛盾であるが、それに気づかないのである。

もう一度、書くが、イエスが、自分の集団を作ったが、イエスは、誰一人にも、洗礼を授けていないのである。

ヨハネ福音書には、
イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けていた。
とあるが、
次ぎの、四章には、
イエスが、ヨハネよりも多くの弟子をつくり、またパプテスマを授けていることを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知ったとき、(しかし、イエスみずからが、バプテスマを授けたのではなく)その弟子たちであった、ユダヤを去って、またガリラヤへ行った。

括弧の部分は、後で、付け加えられたという。
つまり、イエス自身は、洗礼を授けていないのである。

イエスは、ヨハネの元を、去ってから、遊行者となって、ガリラヤ地方の多くの町、村を、訪れている。

禁欲、修行主義のヨハネの元を去り、一体、イエスは、何を教えようとしたのか。

イエスを知る資料は、外典と呼ばれる、トマスの福音書、そして、Q資料と呼ばれるものがある。

全体的に、眺めてみると、イエスは、自由ということを、基底にして、説教を繰り返したようである。

それは、ユダヤ教には、挑戦と、見られるようなもの・・・

ユダヤ教からの、開放・・・

一人一人の、神との、関係、あるいは、心の自由について。
聖書作家たちとは、違う。その彼らの、意図とは、違うものである。

聖書作家たちは、イエスをキリストとして、描くという、苦心をする。
だが、実在のイエスは、キリストと、任じたのか。

その答えは、イエスの磔刑である。

ユダヤ人の、反感を買い、ユダヤ人たちが、積極的に、イエスを、磔刑に処した。

ここに、最大の、イエスの、教えがある。

殺されても、いい。
殺されても、これを言う。
その、言う、言葉は、何だったのか。

時代への、挑戦である。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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