2011年01月28日

神仏は妄想である 328

イエスが稀にみる、すぐれた。独自の宗教的思想の持主であったことはいうまでもない。それなら、その発端となった宗教的関心はどのようにして生まれたのか。そして、それはどのようなものであったのか、ということは「イエスとはなにか」を探求するうえで、きわめて重要な問題であるはずである。にもかかわらず、そのことは福音書にも、聖書外典にも、また同時代の聖書外資料にも、まったく記されていない。古代の史料にも、現代の聖書学においても言及されていないからには、・・・・
笠原芳光

古代の史料にも、無いということは、ほとんど、大した問題ではなかったのである。
ほんの、ユダヤ民族の一部地域で、起こったことだった。

更に、イエスのような存在は、数多く存在していたのである。

笠原氏は、妄想逞しく、そのイエスの精神的状態を、推し量ろうとしているが、それも、一つの想像に過ぎない。

解らないことは、解らないで、いい。

多くの宗教家に共通する物事を、考えて、イエスも、その一つに、あるのではないかというのは、各人の勝手である。

ましてや、小説家が、描いた、イエスに関する様子を、引用としても、詮無いことである。

笠原氏は、イエスの発心の理由を、父親との早逝と母親との不和、そして、何らかの、女性関係における、挫折や、自省という問題を上げている。

それも、一つの考え方である。

ただ、
生家から、洗礼者ヨハネ教団から、そして自ら作った集団からも、最後には、神からさえも、離脱したというのは、聞くに価する。

絶対孤独と、絶対孤立に、死んだ。

その死後、イエスは、キリストとして、作られ、キリスト教という、宗教が出来たのである。

イエスと、キリスト教は、別物と、考えた方が、よい。

イエスの、教えと、乖離すればするほど、キリスト教は、大きく、世界的宗教へと、変貌する。

ましてや、ローマの、国教となるとは、イエスも、泡を吹く。

イエスに、離反して、その神学なるものが、益々と、盛んになり、イエスの教えとは、ほど遠くなる。

更に、イエスの、最大の疑問は、彼は、洗礼を認めて、人は洗礼によって、生まれかわらなければならないと、言ったが、イエスは、一人にも、洗礼を授けていないのである。

ということは、イエスの言う、洗礼とは、何かを、考えなければならない。

人は、霊によって、生まれ変わる。
イエスの主張である。

一体、これは、どういうことか。

聖書には、聖霊という、神の霊のことが、書かれるが、イエスの霊というのは、その聖霊のことか。
違う。

三位一体という、教義は、後々のものである。

聖書の中で、聖霊に対する罪は、許されないと、イエスが言うが、それは、作家の言い分である。

霊によって、生まれ変わるということは、今までの、私ではなく、もっと、別の私という存在に気づくこと。
別の私とは、問題意識のことである。

私自身の可能性である。

ここで、イエスを過大評価しないことである。
もっとも、単純で、素朴なこと。

発心とは宗教的なものに関心を持ち始めることである。あるいは求道への端緒であるといってもよい。そして、それによって、いままでとは違った人間性にめざめていく。新しい自分自身の発見でもある。およそ、人間ははじめから「人間である」のではない。なにごとかを契機として「人間になる」のである。発心はその一つの契機であろう。
笠原芳光

内面的な、第二の人生の、はじまり。
そして、それは、今までは、眠っていたようなものだった。そこから、醒めたのであるという、強烈な感覚である。

青年期に起こる、目覚め。
自己との、対話である。

誰もが体験するが、その体験が強烈であれば、あるほど、それは、衝撃的である。

イエスが、神を、父さん、と呼んで、語り掛けた、その父さんとは、もう一人の我とも、言える。

宗教的情操とは、すべて内面で、起こる。
外の問題ではない。

内省でしか、それを、推し量ることは、出来ない。

人の心の中を、覗くことは、出来ない。
それぞれの人の心の中にある、衝撃。

その、衝撃をこそ、宗教と言う事が出来る。
ここでは、宗教とは、全人的問題を扱うという、定義である。

宗教団体のことではない。

我が、我と出会う。
あはれになつかしい、私に出会うこと、それが、衝撃なのである。

実際、人が本当に逢いたいと思う、ものは、私なのである。

その、私を、何と呼んでも、いい。

人間の、悲しみは、人の心に入ることが、出来ないという、孤独感であり、更に、私の心境は、私以外に、知らないということである。

心に生まれる、神や仏ならば、解るが、外に存在する、神や仏ならば、それは、魔物なのである。

神よ、と、語りかけても、主よ、と、語りかけても、マリア様と、語りかけても、そこには、何も通じない。
通じているのは、私だけである。

私が、私に、語りかけるのである。

つまり、内省、内道こそ、全人的問題のすべてである。
宗教というものがあれば、それを言う。

イエスが、住む家もなく、歩き回った。
何も、持つことなく。

世にある、あらゆる、キリスト教団は、イエスの教えと、離反し、更に、乖離して、成り立つものである。
そこに、イエスは、いない。

教会は、ただ、幻想と、妄想を教えて、権威を持つ。
信徒は、共同幻想の、催眠にかかって、救われると、信じる。

全く、その根拠は、無い。

イエスが、観たものは、心の内である。

一人一人に、神がいる。一人一人に、仏がいる。
そして、それは、私なのである。
私を離れて、この宇宙も何もかも、無いのである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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