2011年01月27日

神仏は妄想である 327

イエスという、人間が、どのように、育ち、そして、どのように、目覚めてゆくのか。

聖書による、作られた、イエスではない、人間イエスを、追求すると、益々、イエスという、人間に興味が湧く。

イエスが、ユダヤ教徒から、告発されるのは、神を父と、気安く呼んだからである。
神は、その名も、呼べないほど、貴いお方であるというのが、ユダヤ教徒である。

神に対する、不敬を、イエスは、侵したというもの。

マルコの福音書によると、
この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか。
と、人々が言った。

マリアの息子とは、父のヨゼフが、亡くなっていたと思える。
もし、ヨゼフが生きていれば、ヨゼフの息子と言うだろう。

イエスの青年期から死までの間に、母のマリアが出てくるのは、極めて、稀である。

マルコの福音書
さて、イエスの母と兄弟たちがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。ときに、群集はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。すねと、イエスは彼らに答えて言った。「わたしの母、私の兄弟とはだれのことか」そして自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言った。「ごらんなさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神のこころを行う者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのである。

ところが、マタイでは、弟子たちを、指して言うのである。

これは、両者の思想の違いである。

マルコのイエスは民衆を重視して、直弟子をしばしば非難し、マタイのイエスは弟子を尊重して民衆を批判するという記述が少なくない。そしてイエス自身はマルコに近い存在であったと考えられる。
笠原芳光

上記の、聖書の記述は、イエスが、家を出て、洗礼者ヨハネの教団に入り、更に、そこから、脱出し、自ら、民衆に語りかけ、弟子たちを集めてからのことである。

ルナンの、イエス伝
親族関係が彼にとって取るに足らぬものであったことは、少なくても確かである。彼は、彼の家族には愛せられなかったようだ。そうして時々は、家族に対して辛く当っている。イエスは、一つの思想に専念する人々が皆そうであるように、血のつながりを重視しなくなるに到った。思想のつながりこそ、この種の人々の認める唯一のものである。

マリアをイエスの母であったがゆえに、キリストの母、さらに神の母、聖母と呼ぶようになったキリスト教、とくにカトリシズムは少なくとも、この問題に関しては明らかに誤っている。およそキリスト教はイエスを誤解することによって成り立っている。
笠原芳光

ともあれマリアに対する信仰が拡がっていった背景には、多くの人々の母親への愛情や思慕があり、それをキリスト教はたくみに利用したものといってよい。つまり父権主義的な一神教では一部の民族にしか受け入れられないことを、キリスト教が地中海世界に進出するに当って痛感したために、農耕文や多神教的な風土にも受容されることを計った、ある意味での政治的な措置であった。
笠原芳光

さて、そこで、少し話しは、ズレる。

聖母信仰は、確実に、キリスト教、カトリックを世界的宗教に広げるに、役立った。
地元の信仰形態に、聖母信仰を取り入れて、囲い込んだのである。

更に、聖母の出現である。
奇跡として、カトリック教会が、認定すると、その場所は、聖域となる。

私は、それに対して、納得することは、出来ない。
つまり、聖書作家たちも、初期のキリスト教の、様々な派閥も、マリア信仰など、皆無だったからだ。

まして、聖母出現による、奇跡は、実に、魔的な要素が多い。

霊体として、出現するという、聖母であり、言葉や、予言を与える。
これは、共同幻想、妄想である。

さらには、こけおどしの、奇跡を行う。
そして、子供である。
聖母の姿は、多く子供に見せる。

それを、子供は、素直で、純真だから・・・

嘘である。
騙しやすいのである。

さらに、その予言の、数々である。
ローマ法王庁には、それらの予言を封印して、法王のみが、回覧できるという。

嘘である。
それらは、世に知られている。

中には、ローマカトリックの崩壊、破滅の予言まである。

聖母の出現というのは、大嘘である。それは、ある霊である。
勿論、真っ当な霊ではない。

私の、霊学から言って、大袈裟な奇跡を起こすものに、霊に真っ当なものは、無い。

何せ、ルルドの泉で、病が癒えた。
しかし、死ぬ。
何のことは無い。寿命を、少し延ばす程度である。

高位霊位は、奇跡は、起こさないと、決まっている。

聖母の姿は、魔物が、化けているとしか、思えない。
そして、それは、共同幻想であり、心理学でも、解決できる。
集団催眠である。

妄想の、最たるものである。

聖母信仰の、本当の姿は、その人自身の、幻想であり、さらに、その人が求める姿で、存在する。
つまり、その人に合った、聖母なのである。
勿論、信仰というものは、すべて、そのようである。

神とか、仏は、私なのである。
私が写る。

だから、人により、レベルがある。
意識の低い人には、低いように、である。

聖母信仰の強い人が、亡くなり、浮遊すると、大半が、私は、聖母だと、信じ込むという、有様である。
その、霊が、私は、聖母だと、心身衰弱の者に、語りかけることは、多々あることだ。





posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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