2011年01月26日

神仏は妄想である 326

マタイの改竄である。

マルコ福音に書かれている、終末に到るまでに起こる、様々な災害についての、記述である。

マルコは、
こういう時に子をはらんでいる女、乳呑み児をかかえている女は不幸である。これが冬におこることがないように祈れ

そこで、マタイは、
これが冬に、あるいは安息日に起こることがないように祈れ
と、なる。

マタイはこことで、安息日には一定の距離以上を歩いてはいけない、という律法の規定を思い出したのである。逃げまどうと言っても、安息日には遠くに行けないから、困るではないか、と考えたのだ。
田川建三

冬の厳しさを心配したマルコと、そんな時にまで安息日律法を破ることを心配しているマタイとの間には、大きな距離がある。
田川

マルコは、現実、マタイは、研究室での、考え方であると、田川氏は言う。

マタイは、終末論を、知的に構築している。

マルコは、
安息日は、人間のためにある
と、書いた。
しかし、マタイは、それを、削除した。

マタイは、聖なる律法としての、安息日の権威を、保とうとするのである。

律法学者としての、マタイは、マルコのようには、いかないのである。

更に、マタイは、神が好むのは、憐憫であり、宗教儀礼ではないという、旧約のホセア書から、憐れみを解く。

であるから、安息日に、神殿で働いている祭司は、安息日でも、働く。ゆえに、弟子たちは、神殿よりも、偉大なキリストに仕えているのだから、その限りでは、安息日律法を破ってもよしとする。

マルコの、安息日の批判が、マタイでは、安息日を絶対の掟とする前提で、解釈し直されている。

マタイは
ユダヤ教と彼の理解するキリスト教との間の差異を一応明瞭に打ち出している。つまり、ユダヤ教は神殿崇拝を中心としているのだが、キリストはその神殿を超える存在、神殿をも無用なものとして、その代わりとなる存在だ、というのだ。神殿崇拝がキリスト崇拝に代置される。しかしそれはいわば崇拝の対象の首をすげかえただけであって、基本的な発想はちっとも変わらない。
田川

マタイは、ユダヤ教的に、すべてを法的に発想するのである。

だが、ここにおいて、神殿崇拝を、キリスト崇拝に置き換えたから、誰にでも、崇拝できる、キリスト教は、普遍性を持った。

そこで、田川氏は、その普遍性が、相変わらず、法的発想を、そのまま保ったものであることを、言う。

マタイは初期キリスト教の中でも最も強く実践を主張している。それも、一方ではパリサイ派的ユダヤ教に対する強度な対抗意識において、他方では初期キリスト教内部において実践を強調しない者たちに対する非難をこめて、非常に強い言葉で実践を主張する。それにもかかわらず、その実践を主張する言葉遣いは、パリサイ派的ユダヤ教から継承しており、自覚的に主張する内容は、ユダヤ教律法の一点一画をも尊守する、ということである。
田川

つまり、マタイの、実践は、ユダヤ教知識人の知的操作を、キリスト教化したものであり、現実の生活との関わりからのものではない、ということである。

実践の観念論になると、田川氏は言う。

実践の観念論は、実践を強調すれば強調するほど、抽象的な鮮明さにおぼれていく。ある種の倫理的主張において、マタイは実に鮮烈な徹底さをかちえているのである。それは実践の観念論がもたらすあやしい魅力なのだ。
田川

さて、私は、平たく言う。

要するに、マタイは、ユダヤ教の律法的発想から、イエスを、キリストとして、作り上げる作業をした。
イエスは、単なる、飾り物でいいのである。
イエスを、キリストに仕立て上げて、自分たちの言い分を通すという・・・

更に、集団である。
つまり、宗教集団の成立である。

ユダヤ教から、離れた宗教の創設である。

勿論、大元は、ユダヤ教から、取り入れる。

イエスの教えから、離れて行く過程で、キリスト教が、出来上がるということである。

田川氏の、論述は、まだ続くが、それでは、イエスという人間は、何を伝えたのかという、素朴な問題である。

創られた、イエスではない、キリストではない、人間イエスのことである。

聖書には、イエスが、私の父、私の・・・と、多く語る。しかし、神の子は、すべての人間を言うのである。
イエスだけが、神の子ではない。

イエスも、神の子の一人である。

それが、特別な意味を持つに到るのは、聖書の作家たちの、策略である。

イエスは神をヒューマンに、またパーソナルに呼んだのであって、これはいわゆる「父なる神」といった権威的、尊称的な表現ではない。・・・イエスは神の国をことごとく譬話で語り、そこでは人間がさまざまに働いている状態で示唆しているのである。神という問題性を人間の根源的な問題と考えたのではないか。
イエス逆説の生涯 笠原芳光

人間の根源的な問題とは、実に深い問題意識である。

つまり、人間とは、何か。
それを、神という言葉にかけて、問いかける作業である。

そこには、信仰とか、崇拝というものではなく、生きる、現実をいかに、生きるかという、問題意識である。

それも、個人として、である。
それは、画期的なことである。

民族意識から、抜け出て、個人としての、意識を持つ。
ここに、新しい時代の、生き方がある。

あれから、二千年を経て、人間は、ようやく、イエスの教えに、近づいたのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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