2011年01月25日

神仏は妄想である 325

同じ表現を用いても、「神の意志」のとらえ方がキリスト教徒マタイとパリサイ派的ユダヤ教では全然異なる、というのが、キリスト教神学者のこれに対して用意する答えである。そして、これでもって話しのけりをつけてしまう。しかしことはそれほど単純ではない。
田川建三

パリサイ派は、旧約律法と、同一である。
それは、ユダヤ人の、全社会生活を律するものである。

対して、マタイは、実際、ユダヤ教律法を、守るつもりはないのである。

言うだけで行わないのは、むしろマタイの方なのだ。彼の場合、「神の意志」は明らかに違う位相に移されている。
田川

けれども、その事実上の相違をマタイは自覚してとらえることをしない。彼としてはあくまでも、同じ神の意志の実践を語っているつもりなのである。
田川

恐ろしい、蒙昧である。

山上の説教は、マタイ福音の、基本命題である。
更に、福音書全体の中核をなし、その中核の中心綱領が、律法実践を主張する。

そこで、マタイは、イエスに、
私は律法や預言者を完成するために来た。
律法の一点一画も過ぎ去ることはない。
律法の戒命の最も小さなものの一つでも破り、また人々にもそうするように教える者は、天の国において最も小さな者と呼ばれよう。
と、宣言している。

更に、イエスは、
汝らの義が律法学者やパリサイ派の義よりも大きいものでなければ、汝らは天の国に入ることができない。
と、言う。言わせる。

神の意志の、実践が、義である、という、命題なのである。

マタイは、旧約全体の、総括をしているのである。
そして、
天にます我が父の意志を実践する者・・・
だけが、天の国に入るとなる。

これ以上は、聖書学者の、侃々諤々の議論になるので、省略する。

天地が過ぎ去るまで・・・
一切がなるまで・・・

私に言わせると、子供騙しも、いいところである。

平たく言えば、天の国・・・天の父・・・
要するに、神の座、神の場所が、天であるという・・・天・・・・

山上の説教を、行う者が、入る天の国なのである。
そして、その解釈は、神学者によって、議論されるという段取り。

田川氏は、実に、神学的に考察しているが、私は、単なる素人として、断罪する。

神の国と、その義を求めよ
マタイが、イエスに言わせる。

単純に考えると、解るが、複雑に考えると、解らなくなる。

ちなみに、パウロは、律法主義は、間違いであるとの、パウロ主義キリスト教を新約全体に、押し付ける。
つまり、マタイとは、対立するのである。

新約聖書の学問的「研究」が毎年新しく山積みされるのも、そのほとんどは、文章と反対のことを文章に読み取ろうとするために生じる複雑怪奇でかつ単純に無意味な論理操作にすぎぬ。
田川

要するに、宗教学者、キリスト教神学者は、いい気なものだということ。
よくぞ、それで、食っていかれるものだと、思う。
しょうも無い事を議論して、生活できるのであるから、やめられない、だろう。

平信徒たちの、生活とは、かけ離れたところで、議論して、のうのうとして、生きている。
糞の役にも立たないことを、である。

更に、学問、とは、恐れ入る。
聖書を、学問として、学ぶ・・・
恐ろしい蒙昧である。

だから、イエスは、律法を成就するために、来た、という、お話しを、解釈して、全く違う、正反対の、解釈が出来る。

成就するとは、更に、それを深めて、行為する。いや、成就されたので、もう、それは、いいのである。そして、いやいや、旧約の新しい解釈なのである・・・

こうして、蒔きも、刈り取ることも、更に、捕ることもせずに、生きている。

明日のことは明日心配せよ・・・
今日の苦労は今日で足りる・・・

深く考えれば、深くなり、浅く考えると、浅くなる。
宗教とは、皆々、そのようなものである。

一つ一つの言葉を、原語から、解釈するという、作業に、脱帽するが、それは、ご苦労様、という、程度である。

寝惚けたような、言葉を、真剣に、何を言わんとしているのかと、研究するという。
これこそ、間の抜けた学問である。

更に、面白いのは、天の国で、小さな者、大きな者、という、表現である。

田川氏は、最も小さい戒めに対応させて、最も小さい者、と言うとある。

それで、意味は、最も小さい者とは、ユダヤ人の中で、最も駄目な奴だと、みなされることになろうと、いうと、ある。

そこで、神という言葉を、直接いえないから、天の国という言い方をするという。
天の国で、最も小さな者は、神はその者を、最も小さい者、最も駄目な者と、みなすだろう、であると、言う。

しかし、マタイは、天の国において、大きい者だけが、入ると、言うのである。
小さい者は、入られないのである。

マタイは、
パリサイ派の義よりも、大きな義を持つのでなければ、天の国にはいることは、出来ないという。

ユダヤ教新興宗教の、面目である。

マタイは、ユダヤ教から、抜けないのである。
ユダヤ教により、イエスの教えを、解釈する。

天に召されるまで・・・
とは、キリスト教徒が言う言葉である。
しかし、彼らは、その天の国が、どこにあるかを、知らないのである。

行ってみたら、ユダヤ教の天の国で、キリスト教徒は、その下の天かもしれないとは、考えないのである。

つまり、言葉にやられる。

信じる者は、確実に、騙されるのである。
そして、騙されたことを、喜ぶ。

面倒だが、もう少し、田川氏の、専門的お話しから、私が、独断と偏見で、平たく、紹介する。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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