2011年01月24日

神仏は妄想である 324

マタイの場合で言うと、マタイの教会はまだ多分に「ユダヤ教」の枠内にとどまっており、それがマタイの「背景」をつくっていたが、福音書記者マタイ自身はその「背景」に対して、「異邦人キリスト教徒」の視点に立って対処した、ということにされてしまう。しかし、マタイは本当はむろん「異邦人」出身ではなく、ユダヤ人である。
田川建三

田川氏の、実践の観念論という、論文からである。
実際、専門家であるから、とても、面倒な議論であり、説明するには、多くの言葉が必要であるが、私は、素人なので、簡単に、書くことにする。

ここで、ユダヤ人、及び、ユダヤ教というものを、明確にする。
ユダヤ人は、ユダヤ教徒か・・・
違う。

ユダヤ人イコール・ユダヤ教徒ではない。
現在も、然り。

ユダヤ教徒として、自覚するものが、ユダヤ教徒である。

新約聖書の、著者たちは、多くユダヤ人であるが、ユダヤ教徒ではない。

ただし、ユダヤ教徒からすれば、ユダヤ教は、単に宗教に留まらず、ユダヤ民族のすべてを、包括するものである。
ここに、ズレが生ずる。

キリスト教は、ユダヤ教を、対立する概念として、捉える。
あくまでも、宗教的概念である。

日本仏教が、特に鎌倉時代に、多くの宗派が出来た。
それでも、仏教として、認識される。
全く、仏陀と、関係ない、教えであっても、仏教として、捉える。

キリスト教は、そうではなかった。
そこから、生まれたが、ユダヤ教は、対立するものなのである。

さて、神の意志を実践する、という言葉である。

こういう、言葉遣いは、旧約聖書の古い部分には、無い。

この言い方は「神の意志」なるものを旧約聖書と等置して、それを実践の対象とする時にはじめて可能になる。
田川

実際、神の意志を、実践するというのは、変な言い方である。
神の意志とは、神のものである。
それを、人間が実践する・・・

この言い方が可能になるためには、一つの転換が必要である。神によって人間に与えられた掟、すなわち旧約律法であるが、それが「神の意志」である。
田川

これは、旧約の後期でなければ、出てこないのである。

そして、新約聖書でも、後期の文書にしか、出てこない。

神の意志とは、神自ら欲し、行うこと、という意味で用いられる。それが、途中から、人間の行うべき、倫理的徳目の意味に、転化するという。

田川氏は、それは、ラビ的ユダヤ教の言葉遣いの影響が、新約の後期に、かなり浸透したという。

マタイの表現が、
実践の主張が知識人の伝統によってつくられてきた概念の鋳型に盛り込まれる時、その「実践」はどのように変質するか、という問いである。
田川

一つの伝統的な社会の基盤において形成されてきた概念を、その概念は良かれ悪しかれその基盤においては密接に現実と対応するのであったのだが、それを異なった意味関連の中に持ち込むと、どういう抽象化が生じるか、という問いである。
田川

現代の、一般的キリスト教徒は、こんな問題について、考えることもない。
必要ないからである。

与えられた、教理と、教義を、鵜呑みにして、信じていれば、事は足りる。

疑いを持たず、信じることが、正しい。
そこで、主イエスの言葉
トマスよ、疑う者ではなく、信じる者に、なりなさい。

復活の後で、弟子たちの前に、現れた、主イエスが、復活を疑う、弟子のトマスに言うのである。

勿論、これも、作者の言葉である。

死からの、蘇りを加えなければならなかった、初期キリスト教徒たちの、奇跡のお話。
日本の、キリスト教作家の、多くが、イエスの死後の、弟子たちの、弱さから、強さに変わる姿を描くが、浪花節である。

事は、そんなに単純ではない。

ユダヤ教の、律法という、明確で、具体的なものを、異なった、意味関連に持ち込むという、作業を、初期の、イエス応援団は、考えていたのである。

後に続く話だが、マタイは、単に、ユダヤ教実践主義を、継承しただけに、過ぎないかもしれない・・・

仏教の中には、踏み込めない、密教までも、仏教と、名乗る、面の皮の厚さとは違う、何かがある。

何故、ユダヤ教を母体にしているものが、ユダヤ教と、対立する、概念を、打ち立てなければならなかったのか。

ユダヤ教、イエス派では、いけなかったのか。
いやいや、はじめは、そうだった。

ユダヤ教の、朗誦が、後に、グレゴリオ聖歌の元になった。
男子修道院で、はじまった、朗誦が、それであり、その後、生成発展する。

イエス応援団の派閥も、それぞれ、ユダヤ教の、会堂で、祈ったのである。

そして、その儀式的行為も、である。

唯一、別にするのは、キリスト教は、イエスを、メシアとし、ユダヤ教は、それを拒否する。

そこで、キリスト教神学は、その後、ギリシャ哲学を母体にして、作られる。
更に、パウロから、カトリシズムが、生まれてゆく。

そして、突き詰めてゆくと、結局、イエスという、一人の、人間に迫ることになってゆくのである。
たまねぎの皮を、剥いでゆくと、何も無くなる。

宗教の教義というもの、あるいは、哲学、思想というもの、すべて、たまねぎ、なのである。
とは、素人の私が言うこと。
何ほどのことでも、無い。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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