2011年01月23日

神仏は妄想である 324

神の意志が、抽象的になっていく。

抽象的ということは、無内容ということではなく、キリスト教がその都度おかれた社会の倫理的イデオロギーの一つ一つに結びついていく、ということである。空の容器には何でもいれることができる。
田川

空の容器には、何でも、入れることができる、とは、実に、鋭い指摘。

その、矛盾も何もかも、味噌も、糞も、一緒にしてしまうのである。
そうして、キリスト教は、成り立ってきた。
唯一、神の権威の上に、である。

主なる、神の権威さえあれば、何でも出来る。
何せ、神は、全知全能である。

原始キリスト教といってもさまざまな流れが錯綜していた。ことに福音書伝承の流れは複雑である。福音書伝承にはそもそもイエス自身のあり様やものの言い方が濃厚に反映されている。かつ、最初に福音書を書いたマルコは、最初期のキリスト教の、いわばイエスにもかかわらず相変わらずユダヤ教の教条の中にどっぷりとつかっていた姿勢に対して、イエス自身の姿を再現してみせた試みである。
田川

例えば、パウロのように、イエス自身の生前のことを、全く無視して、ドグマを形成した者のように、複雑だったといえる。

福音伝承の流れ、それは、ユダヤ教の知識人の用いる、諸概念を基礎としたことは、紛れも無いことである。

それに対してマタイのやった仕事が何であったのかというと、そのようにして伝えられたマルコ及びマルコ以外の福音書伝承を、ユダヤ教知識人の用いる諸概念によりつつ構成し直す、という作業であった。
田川

勿論、それは、マタイ以前から、行われていた。

マタイに多い、予言成就などの、引用がその例である。

イエスの言動を、旧約聖書の予言の成就とみなし、その予言に合わせて、出来事を、作り変えるという。
更に、予言の仕事を、作り変える。

であるから、マタイ福音書は、個人ではなく、集団的に行われたという、可能性が、高い。
要するに、作られてゆく、福音書である。

それ以前の、文書資料、そして、マルコ福音書などを、解釈、改竄し、更に、加えるという、作業である。

私は、素人であるから、平たく言う。
キリスト教は、パウロの思想、考え方を持って、教義を作った。
しかし、マタイなどは、ユダヤ教からの、基礎があって、福音書を書いた。

しかし、キリスト教は、ユダヤ教と、対立するものである。
マタイの、解釈を、何とかして、ユダヤ教ではない、異邦人のキリスト教として、考えたいのである。

実に、手前勝手な考え方であるが、そのようにして、キリスト教は、成り立ってきた。

ここで、ユダヤ人、及び、ユダヤ教についてと、筆を進めたいところだが、止めておく。

ユダヤ人であった、キリスト教創作者たちは、ユダヤ教ではない。
だが、ユダヤ人としての、常識、その言葉の概念を使用して、キリスト教を、創作したのである。

これは、歴史的事実である。

キリスト教の、母体は、ユダヤ教である。
更に、聖典としている、旧約聖書は、ユダヤ教の元からの、聖典である。

キリスト教が、世界的宗教になったからといって、それが、事実ではないのである。
下手をすれば、ユダヤ教の、亜流となる、可能性もある。

イエスの、父なる神が、旧約の神、主なる神であるならば、なお更のことである。

果たして、イエスの言う、父なる神は、旧約の神であるのか・・・
もし、違うとしたら・・・

誰も、それについては、言及しない。
何故か。
解らないからである。

新興宗教が、出来るのは、既存の宗教からによる。
日本では、仏教、神道である。

そこから、盗んで、新しい宗教を立ち上げる。
何故ならば、それ以外の宗教では、説明し難い。

永遠の仏陀と、言えば、仏教を有する日本の場合は、伝えやすい。

ゾロアスター教を基礎とした、宗教を立ち上げても、信者は、集まらないだろう。

教派神道なども、神道を、基礎にして、お話しを作る。
御伽噺より、低俗、あつかましいお話しを、創作して、教団の、経典とする。

勿論、古事記などが、手本となる。
古事記自体が、嘘であることを知らず、嘘の上塗りをする。

真っ当な神経の者ならば、決して近づかないのである。

般若心経だけでも、立派な宗教になる。
勿論、般若心経の嘘など、知るはずも無い。
兎に角、御託を並べれば、事足りる。

後は、騙しのテクニックである。

キリスト教も、その騙しのテクニックを、行使して、二千年の間、人々を、騙し続けてきた。
その証拠は、莫大な教会の、資産、金を、見れば解る。

イエスは、寝る場所も、持たなかったではないか。
着の身着のままで、人々に、話し掛けたではないか。

教会の、生ゴミを見るがいい。
教会の前には、貧しく、食べ物さえ、一日、一度食べれば、いい人々が、溢れている。

彼ら、宗教家といわれる、司祭、牧師・・・
どのような、生活をしているのか。

アメリカの有名牧師は、高級娼婦を買って、遊び、それが、バレると、信徒の前で、懺悔の祈りをして、神に許されたと、のたまう。
イエスと、同じように、磔にするべきだったのだ、本当は。

主とか、イエスとか、神とか・・・
すべて、商売のためである。
そこには、救いなど、あろうはずが無い。

救済とは、笑わせる。

著作力旺盛な、佐藤優が、その神学についてで、書く。
キリスト教は救済宗教です。そして、救済という観点に即した決断をしていくことが倫理です。

だからこそ、倫理学的な関心が常に歴史神学に先行するわけです。神学的なテーマとの関連で何か歴史的事象を扱う場合、それは救済とどう関係するのかという質問が出てきたときに、自分なりの何らかの答えがないとしたら、それは神学研究ではありません。
と、言う。

救済宗教とは、よくぞ、言ったものである。
一体、キリスト教は、二千年来、どんな、救済をしてきたのか。

ただに、人を迷わせただけであろう。
死ぬ前の、見事に、弱い人間に、神の救いを説き、洗礼を授けるという・・・
それも、天国に入るという、大嘘をついて。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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