2011年01月22日

神仏は妄想である 322

再度、マタイに戻る。

マタイ、23章から
そのとき、イエスは群集と弟子たちに、次のように仰せられた、「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座にすわっている。だから、かれらの言うことはすべて実行し、また守りなさい。しかし、かれらの行いを見ならってはならない。かれらは言うだけで、実行しないからである。かれらは重い荷をたばねて人の肩に負わせるが、自分たちはそれを動かすために指一本触れようとしない。かれらの行いはすべて、人に見せるためのものである。・・・また、宴会の上座や会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から「先生」と呼ばれることを喜ぶ。

以上は、イエスのことばとして、書かれるが、それは、マタイ派の言葉である。

田川建三氏に、登場してもらう。

一世紀のキリスト教徒がパリサイ派に対して、あいつらの言うことは正しいが、口先ばかりでちっとも実践しない、と悪口を言うと、現代の学者はその言葉を「資料」として、パリサイ派の歴史実態は、口先ばかりの偽善的宗教だったのだと、そこから「歴史の事実」を再構築してしまう。そしてまた、その発言をしたキリスト教徒については、彼は思想的にはパリサイ派にも相当な正しさを認めているので、ただ、彼らが実践しないことだけを批判しているのだ、とみなしてしまう。けれども、本当はパリサイ派もよく実践していて、こういう悪口を言う者の方がたいした実践はしていない、という可能性も大きいし(悪口などというものはたいていそういうものだ)、あるいは逆に、この者は、腹の中では、パリサイ派の思想なぞまるで正しくない、と思っているかもしれないのだ。しかし学者は「資料」にそう書いてあるからというので、それを文字通り信用してしまう。そこに文献主義に埋没する「歴史学」のおとし穴がある。

文献の文字面が事実を述べているのか、作り話であるのか、ぐらいのことは一応批判的に検討する。いやむしろ、その点ではなるべく「批判的」に疑うことが「学問」であると思っている。
田川建三

そうすると、今、著作意欲旺盛な、佐藤優氏が、はじめての宗教論左巻で、
煎じ詰めれば、伝承的なことのみに拘泥すると頭が悪くなるということです。
と、書いている。

面白いのは、
たとえば、公務員試験とか司法試験とか公認会計士試験というのは基本的に伝承のみが要求され、つまり暗記力のみが重視され、批判的な能力は問われていません。だから司法試験の勉強とか公認会計士の勉強とか国家公務員I種試験の勉強を長くやると頭が悪くなるのです。
と、ある。

ここで言う、批判とは、訳語であり、否定的に取られるが、それを、直した言葉が、批評である。批評になると、批判の否定的な感覚が、取り去られる。
しかし、批判精神とは、創造精神なのである。
更に、それは、芸術活動なのである。

批判を、単なる、悪口と、考える、頭の悪い人たちは、上記のエリートと、呼ばれる中に、実に多い。

さて、田川氏の、実践の観念論、は、実に面白いが、マタイに、絞り、書くことにする。

勿論、いずれ、それも紹介する。

マタイの著者が、他を批判する場合に、好んで持ち出す視点が、上記の、福音書の言葉である。

更に、マタイは、キリスト教外部に対してだけではなく、内部にも、ものを言う。

主よ、主よ、と言うものだけが、天の国に入るのではない。

信仰するだけでは、駄目であり、それを、実践しなければならない、というのである。
これにより、マタイは、実践の神学者としての、位置を獲得すると、田川氏は、言う。

キリスト教がその二千年の歴史において、それなりに誠実かつ熱烈な倫理的実践を生みだしてきた起点には、マタイがいるのだ。「信仰」の弁証に関しては実に熱烈だったパウロだけでは、キリスト教はそういう力を持ちえなかったと言ってよい。
田川

パウロの主張は、実に、善悪の列挙にすぎないのである。
とても、私には、漫画チックなのである。

善行の言葉を、見ると、一目瞭然である。
どこかの、新興宗教のようである。
つまり、愛、喜び、平和、寛容、やさしさ、善性、信実、柔和、節制・・・

倫理的行動の場を、掘り下げることはしない。
よって、とても、解りやすい。
バカでも、解る。

もしもパウロだけだったとすれば、その後のキリスト教が苛烈な実践家を多く生み出すことはなかっただろうと思われる。後のキリスト教倫理の根源にはマタイがいる。もっとも、キリスト教のうまみは、マタイとパウロという交わることのない両極をうまく正典としてかかえこんだところにあるのだけれども。
田川

だが、マタイの、実践というものが、現実の世界に、どのように、生かされるか、が、問題である。

マタイが、批判する、パリサイ派は、ユダヤ教の中で、その律法の実践において、大いに良心的に実践した者たちであったという、こと。

パリサイ派とは、律法の厳格な実践を、民衆に、普及するという、運動だった。

そして、原始キリスト教は、ユダヤ人社会の、知的な運動として、成立したということである。つまり、ユダヤ教の一派であり、ユダヤ教の、知識人の用語を用いて、語るのである。

そして、その、用語と発想から、キリスト教の発想が、出発したのである。

神の意思を、実践するというのは、マタイ以前の、初期のキリスト教によって、なされていたことである。

マルコも、同じように、伝承として、書いたのである。
つまり、ユダヤ教から、継承した概念、神の意志の実践を、イエスの兄弟姉妹との、定義で、書きつけた。

だが、キリスト教から、ユダヤ教の土壌から離れて行くことで、それが、抽象的になっていく。

確認の意味で、もう一度書く。
キリスト教とは、ユダヤ教の、一派だったということである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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