2011年01月21日

神仏は妄想である 321

神への信仰が科学による攻撃に耐え得るのは、聖書の宗教的言語とは、神学者のクライスター・スタンダールのいう「科学よりむしろ詩」であることを、教会が認識するにいたった場合にかぎられる。
エルソン

つまり、文学としての、聖書である。
宗教の聖典であり、そこに書かれてあることは、真実であり、神の意思によって・・・ということは、無いという、認識である。

そうすれば、聖書は、実に有意義な、歴史的文学的書物になる。

英国国教会の神学者ディヴィッド・ジョンスキンは、科学の威信があまりにも大きいために、その基準が生の他の領域にも浸透してきていることを指摘している。事実、知識とは、科学的研究によって知り得るものとされ、科学的に知り得ないことは、何かつまらないもの、非現実的なものとみなされがちである。
むかしは思索的人たち、すなわち僧侶や哲学者が、叡智の源であると思われていた。ジョンキンスの説では、今日では、賢人とはむしろ「現象を観察する科学的方法を身に付けた権威者であり、その発言の基礎を観察と経験とによってつみあげられた、そしてその実践と観察の過程でたえず検証されてゆく知識の集大成に、おいている人」と思われる。
科学の威信は、哲学の分析の伝統に助けられている。この伝統は「有意味な」観察や所信を、検証可能なものに限定する傾向をもつものである。だから敬虔な信者でさえ、見方において経験主義的であり、目に見えない抽象よりも可視の事実のほうに親しみを感じるということも、おどろくにあたらない。
エルソン

これが、世俗化である。
そして、世俗化は、教会の外にあり、それが、教会の内部よりも、一般的に広がり、人々は、その世俗化の中で生きるようになった。

そして、実は、教会の内部は、空洞であった。
単なる、妄想の中にあったのである。

そんな場所に、人が、魅力を感じるだろうか。
そこで、行われる説教は、教会内部でのみ、通用する、権威のお話である。

勿論、生活の内部に関わる、話しを聖書の中から、見出して、信仰生活のあり方などを、司祭、牧師が、語るが、実に、危うい。

何故なら、彼らは、教会内部にいて、外部と、接触しなくてもいいのである。
であるから、何とでも、言える。
言うことは、嘘から、本当まで、何でも、言えるのである。

更には、何年、何十年の、聖書研究のお話である。
決して、変わらない、聖書の解説である。

そして、更には、脅し、すかし、で、信徒を、教会に来るように、強制する。

オランダの神学者、アルベルト・ヴァン・デン・ホイヴェル
かつて人間精神は神を、実在という未解決の問題とは無関係に「解釈」した。そして人類は成長とともに、さまざまな神々を、人間生活を支配する地位から次第に追放してきた。人類は、世界がいかにつくられたかという原理を把握するのに、旧約聖書にたちかえることは今後しないだろう。そのかわりにX線や顕微鏡を使って、その形而下的謎を追い続けるだろう。人類の永続的かつ至高の支配者という役割を演じる神、彼なくしてはわれわれにはパンも健康も安全もあり得ない神は、われわれの生きているこの世界から、永久にいなくなった。

五千年来の、旧約の神、二千年来の、イエスは、どこに・・・

無限な、考え方によって、人々は、翻弄される。
そして、更に、教会は、分派してゆく。
新興キリスト教も、出来上がり、妄想症の教祖が、私は、神だと、言う。
キリストの、生まれ変わりだという、悪徳霊感商法の宗教も、現に存在するほどである。

だが、人類は、益々、明晰になった。

これに対して、イスラムは、その政治力と、権力で、信者を、支配する。
絶対主義という、昔ながらの方法で、イスラムは、信者を統治する。

しかし、それも、時間の問題である。
キリスト教世界のように、開かれてくると、怪しくなる。

変化はすでに、深部に達している。実践的にシカゴ共同体刷新委員会の指導者、ドン・ベネディクト師によれば、「今日のキリスト教徒は、キリスト教界の大きな変化の境い目に立っているように見える」と語る。急進主義的キリスト教徒たちはいう、未来の教会は、完全に世俗化された社会のもたらすものに直面する用意が必要である。すなわち、来世よりも現世で救われることをねがい、教会を彼らには無関係のものとして眺める何百万、何千万の人びとの離反。税の免除のような教会の伝統的権利の廃止。さらにまた、超自然的なものを蔑視し、キリスト教の「死んだ」神の声を聞き得ない世界にたいして、神の啓示を語る新しいみちを探求することが、必要なのである。
エルソン

現世の救いとは、何か。
例えば、その一つに、お金がある。
人生の大半が、お金で、解決するという、原理原則。

あの、システム販売は、アメリカから、起こった。
そして、世界に広がる。
しかし、よく、持続しないことが、解った。

投資による、金持ちへの、目覚めも、アメリカから、起こった。
一般の人を、巻き込む、投資、株式投資、FX取引。

極めて個人的な、セックスジェンダーに関しても、教会は、無力だった。

二千年来、セックスに、罪意識を持たせ続けて、いまだに、セックスに罪意識を持たせる、教会教義。
しかし、すでに、一般信徒たちは、それを、らくらくと超えて、セックスを楽しむものとして、扱う。

人間の、自然発露の、ホモセクシャルに関しても、教会は、無力だった。というより、それは、罪であるの、一点張りで、ゲイ対策を、怠る。

つまり、教会は、身動きの取れない、教義によって、自滅するしかない、のである。

そして、神が妄想であることを、人々が、気づき始めたことが、最も、大きいことである。

更に、神の啓示を語る新しい道など、探求する必要は、無い。
それなら、妄想の霊能者たちと、変わらない。

道があるとしたら、キリスト教倫理である。
既存の教義を捨てて、進化する人間社会における、倫理の道を、模索することである。

神学というものは、学問の領域に入らないのである。

ギリシャ哲学の上に、かろうじて、立ち上げた神学である。
ギリシャ哲学を、外せば、哲学の分野にも、入らない。
単なる、妄想の、言葉遊びである。

妄想の言語化というのか。

言葉遊びと、書くと、理解できないという、アホが多い。
しかし、妄想の言語化と、書くと、理解できると言う、アホの多い日本では、まだまだ、キリスト教の理論が、跋扈するのであろうが、無理である。

絵に描いた餅、なのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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