2011年01月20日

神仏は妄想である 320

1960年代後期におけるキリスト教の精神は探求し、問いただし、批判する。教会のあらゆる教義と制度とに、すすんで挑戦するのである。司教から学識のある信徒、神学生にいたるまで、プロテスタントとカトリックの急進派のうちのかなりの部分が、教会の組織の多くはもう有効性を失ったと確信している。これら徹底的な改革者たちが求めるのはまさに新しい聖霊降臨によってもたらされる改訂であり、すなわち、英国教会SCM通信の前編集長、ディヴィッド・エドワーズのいう「子宮への帰還と、新しいキリスト教的共同体の誕生」以外の何ものでもない。
キリストは死んだか 困難な宗教改革 タイムス上席編集部員 ジョン・T・エルソン

キリスト教の母体である、欧米のキリスト教は、甚だしい、迷いの時代に入り、更に、宗教と、信仰の、あり様を、大胆に模索し始めたのである。

それは、宗教、キリスト教自体の、危機意識である。

そして、それを、追求するさまを、見ると、私には、拭えないものが、ある。それは、キリスト教である。
キリスト教から、逃れられないのである。
それが、悲劇である。

だから、
これらの改革者たちは、将来の問題として、キリスト教徒の数は減るかも知れないが、彼らがもっと献身的になり、教会は、地域的な教区のためにというよりも、むしろ信者たちの活動の中心として立てられる日がくることを、考えている。
それは異端のさなかにあって聖なるものを確認し、世俗の都市の体質を変革することによって神の王国の建設をめざす教会であるだろう。
要するに、新しい教会は「地の塩」ということばの聖書的意味に、たちかえってゆくであろう。
ドイツの偉大なイエズス会の神学者、カール・ラーナーは、キリスト教は、すでに「離散期に」あると信じている。過去のキリスト教世界の、あの壮麗な大教会は、全世界に散らばった献身的な教徒たちの分派的共同体に、進化してゆくことになる。
エルソン 改行は私

これが、あらゆる宗教にいえる、蒙昧なのである。

どうしても、キリスト教という枠から、逃れられないのである。

そんなことは、あえて、言うまでもないこと。
しかし、それが、大問題のように、語られるという、愚昧である。

制度としての今日のキリスト教の消滅を予言する急進派主義者たちは、きわめて平然とそれを行っている。「キリスト教徒であることが、これほど喜ばしい時代を私は想像できない」と、イギリスのジャーナリストであり、彼女自身英国国教の確固とした急進派のひとりであるモニカ・ファーロングは述べている。「なぜなら、美しい多くのもの、安全で居心地がよく、疑問をもたれなかったすべてが大破壊によって一掃されたいま、われわれは、キリスト教の古いガラクタの山から開放されています。それは言語に絶する開放なのです」
エルソン

こんなことは、簡単なことである。
何も、これほど、喜ばしい時代云々の、話ではない。

イエス自身が、ユダヤ教の中で、行った、革命的、革新的、存在だったのだ。
その、イエスの精神を、一体誰が、壊した、いや、更に体制の中に、組み込んだのか。

それは、教会、最初は、ローマカトリックと、ローマ皇帝である。

そこには、暴力しかなかった。
従え、という、暴力である。

そして、出来上がった教会の、権力である。
最初から、誤っていたのである。

だから、私は言う。
今更、何を言うかと。

つまり、単なる、教会権力、つまり、その、聖職者たちの、システムの崩壊を、招くものであり、破壊するということなのである。

プロテストした、ルターの、プロテスタント系教会もまた、カトリックのように、教会権力を得た。

更に、激しい、独裁的支配である。

今日の改革者たちは、全面的刷新を望む。なぜなら、ハーヴァード大学神学部のハーヴェイ・コックス博士のことばを借りれば「現存の教会の形式は、もはや現実の生に触れることがない」からである。
エルソン

現実の生に触れない・・・
それでは、信仰とは、なんだったのか・・・
教会の形式の中に、埋もれた、信仰。

冠婚葬祭の、教会。
日本の、葬式仏教と、同じである。

生かされない、信仰。
つまり、死んだ信仰。死体となった、信仰なのである。

それは、歴史が、証明した。

たとえば、資本主義の発達は、経済を教会の支配から開放した。経済は市場の供給と需要とにのみ支配されるようになった。啓蒙派とよばれる18世紀の運動の政治理論家たちは、法と統治権は天与のものではなく、人間自身がつくりだしものであることを明確にした。同じころ、理神論者たちは、理性的動物としての人間は、倫理体系を発展させることができると、それは、神の啓示にもとづくものに劣らず有意義であることを、論じていた。奴隷制や貧困、工場組織といったもろもろの悪をまえにしても安閑と自足しているキリスト教に冷たい眼を向けて、カール・マルクスやピエール・ジョゼフ・プリュードンなどの19世紀の無神論者たちは宣言した。
人間がもしみずからの運命を自由に形づくり、改革してゆかねばならないものだとすれば、教会やその神には退場してもらわねばならない。
エルソン

上等である。

まさに、人間は、神の存在を、超えたのである。

バベルの塔を作った人間に、神が怒り、言葉を混乱させたという、御伽噺は、もう、無いのである。

退場というより、神は存在しなかったのである。

つまり、聖書に書かれた、神たちは、存在しなかったのである。
存在したかのように、書いた、聖書作者たちは、その、顕示欲のために、記したのである。

神を、持ち出せば、少なからず、人は、耳を傾け時代があったのである。

ユダヤ教が成立した、時代から、神は、すでに無く、あるのは、為政者たちの、支配欲だけである。

旧約聖書は、単なる、古代の、書き物の、寄せ集めだった。
後々、旧約聖書の、成立過程を見ることにする。





posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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