2011年01月19日

神仏は妄想である 319

神の死の神学は、その否定の意図において注意されるべきである。・・・
彼らは、そのかぎりにおいて、神学的な冒険をなしており、キリスト教的な無神論者として生きてゆこうとする者を支えようとする配慮を、牧会的に行ってはいない。しかし、ここでの否定は、冒険と改革のためゆえの否定であって、破壊のための破壊でも、否定のための否定でもない。・・・・神の死をとらえたのは、神学にはプロでない大衆であった。新しい神学者たちは、また、自らが楽をするために神を否定しようとするものでもない。われわれは、彼らが、現状維持という、現体制的なキリスト教界内での常識的な安らぎを誘惑としてしりぞけつつ、創造的な否定を指向していることを見てとるべきである。
小原 信

創造的な否定を指向するという。

それが、以前、書くはずだった、箇所、
われわれは、自らの生き方については、結局は、自らのおかれた状況のなかで、何が求められており、自らに何ができ、何をなすのがふさわしいか、を「状況」のなかで判断し、自己決定するほかはない。真理は形式的な原理のなかではなく、具体的な状況のなかにあるからである。だが、たんに状況を見よ、というのではなく、状況のなかに論理を入れつつ、他方、論理のなかに状況を入れる弁証法性が大切であるということは言うまでもない。
小原 信

キリスト教の原点とは何か。それを自らで模索せよ。神の死の神学は、われわれにこのことを教えてくれる。自明にして普遍的なる神などどこにもいない、のである。
小原 信

前回も、この部分を書いた。

普遍的なる神などどこにもいない。

と言いつつ、結局は、キリスト教という、世界の中での、出来事なのである。

それは、
神もしくは超越的なものなしに、哲学することはできない。
と、小原氏は言うのである。

これを、読むと、彼らが、より、仏教に近づいてきているようである。
キリスト教神学者は、仏教の、底の見えない、滅茶苦茶な、仏教教義を、知るべきである。

要するに、既存の、教会権威に対する、反乱である。

カトリックにも、プロテスタントにも、その教会に対する、プロテストである。
その過程の中に、どうしても、神とか、イエスとかを、組み入れなければ、話しが進まないという、蒙昧である。

勿論、小原氏は、より、時代性に合う、キリスト教というものを、模索している、神の死の神学を、解説しているのであろうが、結局、神観念から、抜けられないでいる。

神もしくは超越的なものなしに、哲学することはできない。というのである。

論旨は、理解するが、矢張り、既存の、教会教義、神学教義からの、脱出であろう。最初から、そんなものは、無いものだと、考えられないのである。

勿論、哲学なども、哲学から、更なる哲学が、つまり、弁証法によってなる。

何も無いところからは、何も、生み出せないということなのであろう。

「神の死」を言うラディカリズムは、その哲学化において、弁証法的な思惟を援用しているのである。結論から言えば、弁証法的な思惟の適用される領域(もしくは次元)が哲学としても新しさを持つと言うことである。二十世紀の哲学としての論理実証主義(分析哲学)は、観念論に対抗して経験を重んじ言語の分析を行ってきたが、弁証法をもたない哲学である。

神の死の神学者たちがキリスト教を弁証法的に考察するとは、否定が肯定に結びつく否定になること、正統との緊張感を保った異端になることをわきまえつつ、「原点」を創造的に指向するがゆえに、前衛的になることをいとわぬダイナミズムをもつことなのである。
小原 信

非常によく、分析されている、論文であるが、結局、新しい、信仰のあり方であり、人生論である。

そのようにして、哲学が、進化してきたのであろう。
更に、神学も・・・と、いいたいが、妄想の、神学体系を、変更できるものではない。

それとも、全く新しい、神学の、創造ということか。

新しい神学がたたかうのは、この聖と俗の二分法なのである。俗の中の聖、いまのなかのかつて、生のなかの死など、これらは、弁証法の有無ではなく、弁証法の適用の仕方の多様性を認めれば当然出てくる考え方である。
小原 信

この方は、矢張り、仏教、日本仏教でもいいから、学ぶべきである。

もう、仏教は、それを超えて、遥かに行っている。

そして、その仏教も、瀕死の状態なのである。

この世はわれわれの主体的な努力次第で、キリストが住みもし、住まなくもする。文化のなかに、キリストを見出しつつ、キリストが文化そのものを変革しつつあると信じる者は、世俗化されたこの世をふたたび聖化することができる。
小原 信

新興牧師の説教に、聞こえる。

世俗化、即、仏の世界である。
と、仏教は、解く事が出来る。

神の死の、神学を、批判し、評価する、哲学的態度は、評価する。
しかし、結果は、世俗化された、この世を、再び、聖化するとは・・・

勿論、それぞの、人の心が、為すことであろう。
それを、神の死の、神学を通して、語るのである。

われわれは「神の死」が人々の「かつて聞いたこともない個々人の内面的孤独化の感情」をひき起すかもしれないことを承知せねばならない。人はすべて、ほんとうは孤独なのである。・・・神すらいない世界に、働くこともなくレジャーをもつ現代人は未曾有の淋しさをもつのである。
小原 信

これは、今更である。

神が存在した、時代の人々は、孤独感を持たなかったのか・・・
そんなことは、無い。

更に、孤独化である。
そんなことは、有史以来の人の存在のことである。

ご苦労なことです。
次ぎは、アメリカの、キリストは死んだか、というタイトルで書く、各界の人たちの、言葉を、見ることにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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