2011年01月18日

神仏は妄想である 318

神の死の神学は、すぐれてアメリカ的な神学である。ここで言う「アメリカ」ということには、特別の重みがある。これまで、アメリカ人にとって、神学とは「ヨーロッパ」の神学であり、ヨーロッパの神学とは、バルト、ブルンナー、ブルトマン、ボンヘッファーなどの神学であった。アメリカという国は、少なくとも人文系の学問に関するかぎり、歴史と伝統の浅い不毛の砂漠とみなされがちであった。
小原 信

本当だろうか。
神学に関しては、そうかもしれないが、共産主義が、吹き荒れた時期、ヨーロッパから、多くの文人たちが、非難してきた国である。

歴史と、伝統が、浅いゆえに、新しい多くのものが、育った。

しかし、この砂漠は、たしかに不毛の地であり、伝統も歴史も浅いことは浅い。束縛されるもののないがゆえに、アメリカは、未来の多くの約束に満ちている。かくして、神の死の神学者は、アメリカ的な神学風土を自覚して、彼らが、明らかにあるいは潜在的にいだいていたヨーロッパ・コンプレックスからの脱出を宣言する。かくして、このアメリカの新しい神学は、「神の死」を、いわゆる「神学」としての「ヨーロッパ神学」の死としても表現するのである。
小原 信

建国から、200年ほどの、アメリカの神学を、論じているわけだが、腑に落ちないのは、建国の際の、彼ら、キリスト教徒の、反省すべき、原住民から、土地を奪った、反省から、成り立つものではないか。

結局、白人の、キリスト教というものを、論じているだけである。

それはそれは、実に、納得するものであるが、そこには、全く、自分たちの国の、成り立ちなど、眼中に無いのである。

ヨーロッパに、対立、対決するという・・・
実に、傲慢である。

神の死よりも、彼らが、考えなければならないのは、建国によって、行った行為である。それが、キリスト教徒としての、行為だったのかを、問う事が、まず、先決であろう。

神の死の、神学など、どうでもいいことになる。

キリスト教から、抜け切れない、キリスト教の、再開発なのである。

だから、小原氏が、解く、神の死の、神学というものも、空論になる。

彼も、キリスト教なのであろうが、そこから、一歩も、出ないし、更には、仏教のような、世界に、踏み出しているということに、気づいて、いるのか、いないのか。

もともとプロテスタント・キリスト教は、プロではないキリスト者がすべて、祭司的な役割をはたすという万人祭司主義をとる。平のキリスト者が責任をもつものであり、プロテストしつづけるかぎりにおいて、自己完結的ではない。体系は開かれ、ドグマも開かれている。つまり、神学を神学者から開放して、神学を神学者の私有物にせず、平信徒と庶民のものにするのである。
小原 信

そして、その活動が、社会全体の、様々な、活動に、なりうるというのが、小原氏の、言い分である。

信仰というものが誰にでもできるものであるということは、またどこにでも、どんな形においてでも、表されうるという信仰の流動性と柔軟性を示している。
小原 信

そんなことは、仏教では、すでに、新しいことでもなんでもなく、行われている。

更に、イスラムも、そうである。

これは、要するに、進退窮まった、キリスト教の、新しい展開を、促す、運動の、勧めである。

神の死の神学者たちは、この二、三年アメリカに起こって来ている変化に気づいて、それを積極的に受け止めようとする。話しをアメリカに限っても、神学ははるかに大切ではない学問になりつつあり、それだけではなく、その伝達様式も変わりつつあると言うのである。短く言えば、神学の体系などがいったいありうるのか、どれが正統で、どれが異端かがわからなくなってきたといってもよいであろう。
小原 信

はじめから、神学は、学問ではない。
妄想である。

要するに、間口を、どんどんと、広げてもいいのであると、神学者たちが、言い始めたのである。でなければ、彼らは、神学者と、名乗ることも出来ない、時代に突入するのである。

アメリカ的な神学を形成するとは、既存のヨーロッパ神学から独立することであり、それはかつての権威が崩壊することでもある。
小原 信

当然であろう。
最初から、権威などといわれるほどの、神学など無い。
それは、教会が、定めたもので、信徒には、全くの発言は、許されなかった。

それは、プロテスタントでも、同じであろう。

最後に、神の死がたんに外国でのゴシップに終わらずに、異なった風土において個性化できるとすれば、われわれ日本人は、「神の死」をどう生かせばよいのか。もともと「神」なき異教の地に、神の死をもちこむことは早すぎはしないか。こういう疑問をすでに私はいくつか聞いている。だが、私自身は、日本でも神の死を叫ぶことは早すぎはしないと思う。むしろこれをうまくとらえうるなら、日本人のためにラッキーなことだとさえ考えている。なぜなら、日本人はいま初めて日本型のキリスト教をつくり出せるかもしれないからである。
小原 信

ここで、言われる、神とは、キリスト教の言う神である。

ここ、ここに至ると、論外である。

日本型の、キリスト教を、作り出すとは、傲慢も、甚だしい。
そんな必要は無い。
それより、必要なことは、キリスト教の、不必要性である。

そして、聖書の嘘、改竄の改竄を知り、それが、宗教に、相応しくないということを、知るべきなのである。

だから、このように、とんでもないことを、言う。
非キリスト者は、自らのいだく誤った「キリスト者像」をうちこわす必要があるのであろう。

非キリスト者は、云々とは、大きなお世話である。

日本的心情を生かしつつ、神の死の神学を越えて、日本人のためのキリスト教を、誰にもわかる世俗的な言語に訳し直して、非キリスト教徒との対話をすることが求められるゆえんである。

これは、日本における、キリスト教の、新しい布教の、一端を言うものである。
しかし、それ自体が、もう、時代が、求めない、時代性になり、時代精神になっているのである。

神の死の、神学が、云々などとは、全く関係ないのが、日本人の、心情である。
更に、日本には、宗教、宗教的なものさえ、必要ないのである。

多くのキリスト者が、教会を、離れる如く、日本人も、日本の伝統から、離れつつある。しかし、日本の伝統を、息をするように、我が物として、内包している、日本人も、多々存在する。

そして、その、日本人の、心情を持ち、歴史と、伝統を、保ちつつ、日本人として、生きる人たちによって、日本は、再生し、キリスト教のような、まがい物は、必要ないのである。

神の死、というものも、言葉の遊びに過ぎない。
神というものは、観念の産物であり、神という存在は、皆無だからである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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