2011年01月03日

明るい悲惨、ビサヤ諸島 3

日本にて、セブパシフィックを予約していた。
セブ島から、ネグロス島の、バコロド行きである。

朝、8:30発である。
ホテルから、6:30に出発する。
タクシーを予約していた。

300ペソだと言う、運転手。
またまた、はじまった。
兎に角、タクシーは、吹っ掛ける。

だが、それも、理由が解っている。
タクシーは、自分の持ち物ではなく、借り物であり、一日当たり、セブシティだと、1400ペソ、マクタン島だと、700ペソで、借りているのだ。

それでも、空港までは、近いし、高い。
コーターが、250ペソと、値切った。
すると、素直に従う。

そして、運転手が、話し始める。
仕事の大変さである。

二時間半かかる、町から、出稼ぎに来ているのである。
子どもが、9人で、また一人生まれると言う。

余計な話しだが、いつも、思う。
産児制限の教育がされていないのである。
更に、カトリックの国。
これが、問題である。

快楽のセックスは、禁止であり、妊娠した場合は、生むべし、である。

コンドームの配布も、ままならないのである。

カトリックは、これで、多くの支持者から、見放される。
このままでは、貧しい人々の養成を、推し進める。
せめて、若者に、避妊の教育を推進するべきである。

ストリートチルドレンの多くは、若い親から、生まれる。そして、育てられなくなり、町に放り出すのである。

よほど、頭のおかしい人でない限り、性欲というものは、健全にしてある。
それを、抑制せよというのは、無理。

性欲を、快楽と、決め付ける、宗教の教義は、実におかしい。
快楽あっての、人生である。
それは、無軌道ではない。健全な、欲望である。

だから、こそ、避妊の教育と、推進が必要なのである。

貧しい国は、特にそうである。

更に、問題なのは、子どもは、多い方がいいのである。
何故か。
死ぬからである。
病に罹っても、病院に行けない。つまり、治療無しで、死ぬ。

子どもが、多ければ、その中の一人でも、成功すれば、儲けものである。

海外に出稼ぎに出て、どれほど多くの、家族、親族が助かるか、である。

一人の、収入を当てにする。
フィリピンの、最悪の国情である。

運転手が、私たちの、活動を聞いて、言う。
私の町に来てくれ。
貧しい人で、溢れている。私たち家族は、政府に、貧しい者として、認められていると。

ああーーー
そう、どこに行っても、そう言われるのである。

搾取と、賄賂の国。
人命軽視の国、フィリピンである。

権力と、金を持つ者だけが、生き残る。
更に悪いのは、権力、金を持たない者は、人間として、認められないのである。

罪に問われても、権力と、金を持つ者は、罰せられないという。

5000円でも、金のために、人を殺す国。
民主主義とは、笑わせる。

これは、スペインの植民地時代からの歴史を書いて、説明しなければならない。
だが、省略する。

私たちは、たっぷりと、運転手の、話を聞かされて、空港に到着した。

国内線乗り場は、すでに、人が沢山いた。
早い時間の、飛行機もある。

前回、間違って出かけた、トマゲッテイ行きは、私たちの、一時間前に、飛ぶ。

水を持って乗り込めるので、私たちは、何本もの、ペットボトルを持参していた。

大きな物は、5リットルボトルである。
コータが、それ駄目じゃないのと、言う。が、私は、水は、いいんだから、駄目と、言われたら、文句を言う。

私は、常に、大声であるから、嫌われるか、銃で、撃たれるだろうと、思っている。

まあ、5リットルのボトルは、他のボトルに移せたので、問題なかった。

バコロドまでは、35分で、着く。

8:00までに、登場口にということで、無料インターネットと、タバコを吸うために、喫煙室に出たり入ったりする。

登場口には、人が並ぶからと、私は、8:00になっても、うろうろしていた。
すると、アナンスである。
驚いた。
私と、コータの、名前が、呼ばれた。
急いでください
えっ
何で・・・

それもそのはず。
登場口は無い。
飛行機には、バスで、移動するのだ。

焦って、行くと、ムッとして、係員がいた。
バスが、私たちを、待っている。
すでに、他の客は、飛行機に乗り込んでいた。

これが、タイならば、乗せてもらえなかった可能性がある。

私たちが、乗り込むと、扉が閉まった。
そして、すぐに、飛行機が動き出した。

はい、時間です、ではない。客が、全員乗ったら、出発なのである。




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神仏は妄想である 313

イエスを歴史上の神仏とみる資料は少なく、イエスを信仰上の対象とする文書が多くつくられていくなかで、イエスをキリストと信ずるキリスト教が形成され、発展していった。そこには原始教団がユダヤ教やローマ国家に批判され、迫害されていく社会的状況のなかで、強烈なドグマによって、心理的にそれにうちかとうとしたことが大きな原因になったのだろう。そしてイエスを自由な人間とする歴史的な思想は、そのような強力な教義を信ずる正統主義者からは、異端として無視されたり、排斥されたりした。
イエス逆説の生涯 笠原芳光

異端は、イエスの死後、間もない頃から、多く存在していたのである。
しかし、原始教団によって、排除され、少数派になっていった。
更に、中世では、教会権力により、異端審判は、凄まじいものになった。

現代では、逆な現象が、出てきた。
20年ほど前から、イエスに関する、新しい、見方である。

現代では聖書学者や歴史家はもとより、むしろ一般の人々の間にも、イエスをキリストとして信ずるよりも、すぐれた、自由な人間として考え、「イエスとはなにか」を改めて問い直そうという関心が世界的にさかんになってきている。その風潮は「イエス・ルネサンス」などと呼ばれて、キリスト教界にもしだいに大きな影響を及ぼしつつある。その意味で、いまやキリスト教は根底から揺り動かされているといわねばならない。
笠原

つまり、信仰は、イエスという存在が、自分にとって、どのような意味を持つか、という、実存的な関係が、求められる。

歴史的には、イエスは、キリストではないのであるから。

信仰と考えると、教会の存在が、大きく、その教義を受け入れる、信ずるという行為になる。
それに関しては、極めて個人的な問題であり、他の介入を許さない。
更に、信教の自由である。

笠原氏は、イエスを、思想史の中で、捉える試みを提唱する。
それは、賛成である。

思想史としての、イエスの言葉を、検証することは、理想的である。

単なる、信仰としての、存在として、考えるということは、結果、それぞれの、教団の支配の下になるものである。

教会権力の下に入ると、それは、個人の信仰を超えて、教会という、集団の信仰グループに入ることであり、そこには、支配がある。
決して、個人の、勝手な解釈は、許されない。

更には、そのシステムの中で、個人の存在が、位置付けられて、信仰と、聖職者による、支配が、跋扈する。

更に、個人の中においても、奇跡的な、事実を見ると、迷う。勿論、それは、蒙昧、妄想なのであるが、そのように、信じてしまうのである。

いつもと、違う事象が起きる。
すると、それが、特別な意味を、持っていると、考える。そこから、信仰という、迷いに入るのである。

多くの、信徒たちを見て、私は、そう思った。

最近、イエスについての研究が進んで、イエス像がある程度、客観的に明瞭になってきた。同時に、それに伴って従来の主観的な、いわばイエスをキリストと信ずる神学的な主張はアピールをもたなくなっている。そして広い意味で人間としてのイエスに関する書物がヨーロッパやアメリカにおいても、日本においてさえ、他のキリスト教関係書よりも多く出版され、読まれているという現象はそのことを端的に示している。
笠原

それは、イエスだけのことではない、
ブッダに関しても、である。

勝手に、宗教の開祖として、祭り上げる存在に、嫌気がさしているのである。

それは、勿論、教団というものの、嘘、極めて悪質な、信者支配、更には、金銭の搾取などが、横行しているからである。

最早、そんな、教団には、イエスも、ブッダも存在しない。
存在するのは、宗教家の、地位と、無法である。

ブッダは、唯一絶対の、神観念を否定した。
ところが、イエスも、実は、その神観念を否定したのである。

その、神観念を否定することにより、神という存在の、在り様を、発見したと、いってよい。

彼らは、神仏は妄想であることを、明確にしている。

今を、生きること。
それが、問題であり、テーマだった。

それは、反逆の行為である。
しかし、ブッダの、地域と、イエスの地域は、別である。
当然、表現の仕方が違う。

そして、その二人を、持ち上げて、造り上げた、教義なるもの。実は、夢幻の妄想だったのである。

それを、哲学、思想と、呼ぶ事が出来るのか。
神学が、学問に入らないように、宗教の教義は、学問ではない。

勝手な、妄想である。

更に、そこに、救いという言葉、救済という言葉が、見えるが、皆々、嘘である。

救われるという言葉にある、本質は、救われないと、同じものである。
一体、誰が、救うのであるのか。
妄想の、仏や、神か。
妄想の存在が、救いも何も、あったものではない。
それは、その人の、頭の中にあるだけのものである。
理屈の中にあるものである。

神仏が、妄想であることを、悟り、そこから、己というものを、見る行為に、微かに、救いに、似たものを、見る事が出来る。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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