2011年01月20日

神仏は妄想である 320

1960年代後期におけるキリスト教の精神は探求し、問いただし、批判する。教会のあらゆる教義と制度とに、すすんで挑戦するのである。司教から学識のある信徒、神学生にいたるまで、プロテスタントとカトリックの急進派のうちのかなりの部分が、教会の組織の多くはもう有効性を失ったと確信している。これら徹底的な改革者たちが求めるのはまさに新しい聖霊降臨によってもたらされる改訂であり、すなわち、英国教会SCM通信の前編集長、ディヴィッド・エドワーズのいう「子宮への帰還と、新しいキリスト教的共同体の誕生」以外の何ものでもない。
キリストは死んだか 困難な宗教改革 タイムス上席編集部員 ジョン・T・エルソン

キリスト教の母体である、欧米のキリスト教は、甚だしい、迷いの時代に入り、更に、宗教と、信仰の、あり様を、大胆に模索し始めたのである。

それは、宗教、キリスト教自体の、危機意識である。

そして、それを、追求するさまを、見ると、私には、拭えないものが、ある。それは、キリスト教である。
キリスト教から、逃れられないのである。
それが、悲劇である。

だから、
これらの改革者たちは、将来の問題として、キリスト教徒の数は減るかも知れないが、彼らがもっと献身的になり、教会は、地域的な教区のためにというよりも、むしろ信者たちの活動の中心として立てられる日がくることを、考えている。
それは異端のさなかにあって聖なるものを確認し、世俗の都市の体質を変革することによって神の王国の建設をめざす教会であるだろう。
要するに、新しい教会は「地の塩」ということばの聖書的意味に、たちかえってゆくであろう。
ドイツの偉大なイエズス会の神学者、カール・ラーナーは、キリスト教は、すでに「離散期に」あると信じている。過去のキリスト教世界の、あの壮麗な大教会は、全世界に散らばった献身的な教徒たちの分派的共同体に、進化してゆくことになる。
エルソン 改行は私

これが、あらゆる宗教にいえる、蒙昧なのである。

どうしても、キリスト教という枠から、逃れられないのである。

そんなことは、あえて、言うまでもないこと。
しかし、それが、大問題のように、語られるという、愚昧である。

制度としての今日のキリスト教の消滅を予言する急進派主義者たちは、きわめて平然とそれを行っている。「キリスト教徒であることが、これほど喜ばしい時代を私は想像できない」と、イギリスのジャーナリストであり、彼女自身英国国教の確固とした急進派のひとりであるモニカ・ファーロングは述べている。「なぜなら、美しい多くのもの、安全で居心地がよく、疑問をもたれなかったすべてが大破壊によって一掃されたいま、われわれは、キリスト教の古いガラクタの山から開放されています。それは言語に絶する開放なのです」
エルソン

こんなことは、簡単なことである。
何も、これほど、喜ばしい時代云々の、話ではない。

イエス自身が、ユダヤ教の中で、行った、革命的、革新的、存在だったのだ。
その、イエスの精神を、一体誰が、壊した、いや、更に体制の中に、組み込んだのか。

それは、教会、最初は、ローマカトリックと、ローマ皇帝である。

そこには、暴力しかなかった。
従え、という、暴力である。

そして、出来上がった教会の、権力である。
最初から、誤っていたのである。

だから、私は言う。
今更、何を言うかと。

つまり、単なる、教会権力、つまり、その、聖職者たちの、システムの崩壊を、招くものであり、破壊するということなのである。

プロテストした、ルターの、プロテスタント系教会もまた、カトリックのように、教会権力を得た。

更に、激しい、独裁的支配である。

今日の改革者たちは、全面的刷新を望む。なぜなら、ハーヴァード大学神学部のハーヴェイ・コックス博士のことばを借りれば「現存の教会の形式は、もはや現実の生に触れることがない」からである。
エルソン

現実の生に触れない・・・
それでは、信仰とは、なんだったのか・・・
教会の形式の中に、埋もれた、信仰。

冠婚葬祭の、教会。
日本の、葬式仏教と、同じである。

生かされない、信仰。
つまり、死んだ信仰。死体となった、信仰なのである。

それは、歴史が、証明した。

たとえば、資本主義の発達は、経済を教会の支配から開放した。経済は市場の供給と需要とにのみ支配されるようになった。啓蒙派とよばれる18世紀の運動の政治理論家たちは、法と統治権は天与のものではなく、人間自身がつくりだしものであることを明確にした。同じころ、理神論者たちは、理性的動物としての人間は、倫理体系を発展させることができると、それは、神の啓示にもとづくものに劣らず有意義であることを、論じていた。奴隷制や貧困、工場組織といったもろもろの悪をまえにしても安閑と自足しているキリスト教に冷たい眼を向けて、カール・マルクスやピエール・ジョゼフ・プリュードンなどの19世紀の無神論者たちは宣言した。
人間がもしみずからの運命を自由に形づくり、改革してゆかねばならないものだとすれば、教会やその神には退場してもらわねばならない。
エルソン

上等である。

まさに、人間は、神の存在を、超えたのである。

バベルの塔を作った人間に、神が怒り、言葉を混乱させたという、御伽噺は、もう、無いのである。

退場というより、神は存在しなかったのである。

つまり、聖書に書かれた、神たちは、存在しなかったのである。
存在したかのように、書いた、聖書作者たちは、その、顕示欲のために、記したのである。

神を、持ち出せば、少なからず、人は、耳を傾け時代があったのである。

ユダヤ教が成立した、時代から、神は、すでに無く、あるのは、為政者たちの、支配欲だけである。

旧約聖書は、単なる、古代の、書き物の、寄せ集めだった。
後々、旧約聖書の、成立過程を見ることにする。





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2011年01月21日

神仏は妄想である 321

神への信仰が科学による攻撃に耐え得るのは、聖書の宗教的言語とは、神学者のクライスター・スタンダールのいう「科学よりむしろ詩」であることを、教会が認識するにいたった場合にかぎられる。
エルソン

つまり、文学としての、聖書である。
宗教の聖典であり、そこに書かれてあることは、真実であり、神の意思によって・・・ということは、無いという、認識である。

そうすれば、聖書は、実に有意義な、歴史的文学的書物になる。

英国国教会の神学者ディヴィッド・ジョンスキンは、科学の威信があまりにも大きいために、その基準が生の他の領域にも浸透してきていることを指摘している。事実、知識とは、科学的研究によって知り得るものとされ、科学的に知り得ないことは、何かつまらないもの、非現実的なものとみなされがちである。
むかしは思索的人たち、すなわち僧侶や哲学者が、叡智の源であると思われていた。ジョンキンスの説では、今日では、賢人とはむしろ「現象を観察する科学的方法を身に付けた権威者であり、その発言の基礎を観察と経験とによってつみあげられた、そしてその実践と観察の過程でたえず検証されてゆく知識の集大成に、おいている人」と思われる。
科学の威信は、哲学の分析の伝統に助けられている。この伝統は「有意味な」観察や所信を、検証可能なものに限定する傾向をもつものである。だから敬虔な信者でさえ、見方において経験主義的であり、目に見えない抽象よりも可視の事実のほうに親しみを感じるということも、おどろくにあたらない。
エルソン

これが、世俗化である。
そして、世俗化は、教会の外にあり、それが、教会の内部よりも、一般的に広がり、人々は、その世俗化の中で生きるようになった。

そして、実は、教会の内部は、空洞であった。
単なる、妄想の中にあったのである。

そんな場所に、人が、魅力を感じるだろうか。
そこで、行われる説教は、教会内部でのみ、通用する、権威のお話である。

勿論、生活の内部に関わる、話しを聖書の中から、見出して、信仰生活のあり方などを、司祭、牧師が、語るが、実に、危うい。

何故なら、彼らは、教会内部にいて、外部と、接触しなくてもいいのである。
であるから、何とでも、言える。
言うことは、嘘から、本当まで、何でも、言えるのである。

更には、何年、何十年の、聖書研究のお話である。
決して、変わらない、聖書の解説である。

そして、更には、脅し、すかし、で、信徒を、教会に来るように、強制する。

オランダの神学者、アルベルト・ヴァン・デン・ホイヴェル
かつて人間精神は神を、実在という未解決の問題とは無関係に「解釈」した。そして人類は成長とともに、さまざまな神々を、人間生活を支配する地位から次第に追放してきた。人類は、世界がいかにつくられたかという原理を把握するのに、旧約聖書にたちかえることは今後しないだろう。そのかわりにX線や顕微鏡を使って、その形而下的謎を追い続けるだろう。人類の永続的かつ至高の支配者という役割を演じる神、彼なくしてはわれわれにはパンも健康も安全もあり得ない神は、われわれの生きているこの世界から、永久にいなくなった。

五千年来の、旧約の神、二千年来の、イエスは、どこに・・・

無限な、考え方によって、人々は、翻弄される。
そして、更に、教会は、分派してゆく。
新興キリスト教も、出来上がり、妄想症の教祖が、私は、神だと、言う。
キリストの、生まれ変わりだという、悪徳霊感商法の宗教も、現に存在するほどである。

だが、人類は、益々、明晰になった。

これに対して、イスラムは、その政治力と、権力で、信者を、支配する。
絶対主義という、昔ながらの方法で、イスラムは、信者を統治する。

しかし、それも、時間の問題である。
キリスト教世界のように、開かれてくると、怪しくなる。

変化はすでに、深部に達している。実践的にシカゴ共同体刷新委員会の指導者、ドン・ベネディクト師によれば、「今日のキリスト教徒は、キリスト教界の大きな変化の境い目に立っているように見える」と語る。急進主義的キリスト教徒たちはいう、未来の教会は、完全に世俗化された社会のもたらすものに直面する用意が必要である。すなわち、来世よりも現世で救われることをねがい、教会を彼らには無関係のものとして眺める何百万、何千万の人びとの離反。税の免除のような教会の伝統的権利の廃止。さらにまた、超自然的なものを蔑視し、キリスト教の「死んだ」神の声を聞き得ない世界にたいして、神の啓示を語る新しいみちを探求することが、必要なのである。
エルソン

現世の救いとは、何か。
例えば、その一つに、お金がある。
人生の大半が、お金で、解決するという、原理原則。

あの、システム販売は、アメリカから、起こった。
そして、世界に広がる。
しかし、よく、持続しないことが、解った。

投資による、金持ちへの、目覚めも、アメリカから、起こった。
一般の人を、巻き込む、投資、株式投資、FX取引。

極めて個人的な、セックスジェンダーに関しても、教会は、無力だった。

二千年来、セックスに、罪意識を持たせ続けて、いまだに、セックスに罪意識を持たせる、教会教義。
しかし、すでに、一般信徒たちは、それを、らくらくと超えて、セックスを楽しむものとして、扱う。

人間の、自然発露の、ホモセクシャルに関しても、教会は、無力だった。というより、それは、罪であるの、一点張りで、ゲイ対策を、怠る。

つまり、教会は、身動きの取れない、教義によって、自滅するしかない、のである。

そして、神が妄想であることを、人々が、気づき始めたことが、最も、大きいことである。

更に、神の啓示を語る新しい道など、探求する必要は、無い。
それなら、妄想の霊能者たちと、変わらない。

道があるとしたら、キリスト教倫理である。
既存の教義を捨てて、進化する人間社会における、倫理の道を、模索することである。

神学というものは、学問の領域に入らないのである。

ギリシャ哲学の上に、かろうじて、立ち上げた神学である。
ギリシャ哲学を、外せば、哲学の分野にも、入らない。
単なる、妄想の、言葉遊びである。

妄想の言語化というのか。

言葉遊びと、書くと、理解できないという、アホが多い。
しかし、妄想の言語化と、書くと、理解できると言う、アホの多い日本では、まだまだ、キリスト教の理論が、跋扈するのであろうが、無理である。

絵に描いた餅、なのである。


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2011年01月22日

神仏は妄想である 322

再度、マタイに戻る。

マタイ、23章から
そのとき、イエスは群集と弟子たちに、次のように仰せられた、「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座にすわっている。だから、かれらの言うことはすべて実行し、また守りなさい。しかし、かれらの行いを見ならってはならない。かれらは言うだけで、実行しないからである。かれらは重い荷をたばねて人の肩に負わせるが、自分たちはそれを動かすために指一本触れようとしない。かれらの行いはすべて、人に見せるためのものである。・・・また、宴会の上座や会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から「先生」と呼ばれることを喜ぶ。

以上は、イエスのことばとして、書かれるが、それは、マタイ派の言葉である。

田川建三氏に、登場してもらう。

一世紀のキリスト教徒がパリサイ派に対して、あいつらの言うことは正しいが、口先ばかりでちっとも実践しない、と悪口を言うと、現代の学者はその言葉を「資料」として、パリサイ派の歴史実態は、口先ばかりの偽善的宗教だったのだと、そこから「歴史の事実」を再構築してしまう。そしてまた、その発言をしたキリスト教徒については、彼は思想的にはパリサイ派にも相当な正しさを認めているので、ただ、彼らが実践しないことだけを批判しているのだ、とみなしてしまう。けれども、本当はパリサイ派もよく実践していて、こういう悪口を言う者の方がたいした実践はしていない、という可能性も大きいし(悪口などというものはたいていそういうものだ)、あるいは逆に、この者は、腹の中では、パリサイ派の思想なぞまるで正しくない、と思っているかもしれないのだ。しかし学者は「資料」にそう書いてあるからというので、それを文字通り信用してしまう。そこに文献主義に埋没する「歴史学」のおとし穴がある。

文献の文字面が事実を述べているのか、作り話であるのか、ぐらいのことは一応批判的に検討する。いやむしろ、その点ではなるべく「批判的」に疑うことが「学問」であると思っている。
田川建三

そうすると、今、著作意欲旺盛な、佐藤優氏が、はじめての宗教論左巻で、
煎じ詰めれば、伝承的なことのみに拘泥すると頭が悪くなるということです。
と、書いている。

面白いのは、
たとえば、公務員試験とか司法試験とか公認会計士試験というのは基本的に伝承のみが要求され、つまり暗記力のみが重視され、批判的な能力は問われていません。だから司法試験の勉強とか公認会計士の勉強とか国家公務員I種試験の勉強を長くやると頭が悪くなるのです。
と、ある。

ここで言う、批判とは、訳語であり、否定的に取られるが、それを、直した言葉が、批評である。批評になると、批判の否定的な感覚が、取り去られる。
しかし、批判精神とは、創造精神なのである。
更に、それは、芸術活動なのである。

批判を、単なる、悪口と、考える、頭の悪い人たちは、上記のエリートと、呼ばれる中に、実に多い。

さて、田川氏の、実践の観念論、は、実に面白いが、マタイに、絞り、書くことにする。

勿論、いずれ、それも紹介する。

マタイの著者が、他を批判する場合に、好んで持ち出す視点が、上記の、福音書の言葉である。

更に、マタイは、キリスト教外部に対してだけではなく、内部にも、ものを言う。

主よ、主よ、と言うものだけが、天の国に入るのではない。

信仰するだけでは、駄目であり、それを、実践しなければならない、というのである。
これにより、マタイは、実践の神学者としての、位置を獲得すると、田川氏は、言う。

キリスト教がその二千年の歴史において、それなりに誠実かつ熱烈な倫理的実践を生みだしてきた起点には、マタイがいるのだ。「信仰」の弁証に関しては実に熱烈だったパウロだけでは、キリスト教はそういう力を持ちえなかったと言ってよい。
田川

パウロの主張は、実に、善悪の列挙にすぎないのである。
とても、私には、漫画チックなのである。

善行の言葉を、見ると、一目瞭然である。
どこかの、新興宗教のようである。
つまり、愛、喜び、平和、寛容、やさしさ、善性、信実、柔和、節制・・・

倫理的行動の場を、掘り下げることはしない。
よって、とても、解りやすい。
バカでも、解る。

もしもパウロだけだったとすれば、その後のキリスト教が苛烈な実践家を多く生み出すことはなかっただろうと思われる。後のキリスト教倫理の根源にはマタイがいる。もっとも、キリスト教のうまみは、マタイとパウロという交わることのない両極をうまく正典としてかかえこんだところにあるのだけれども。
田川

だが、マタイの、実践というものが、現実の世界に、どのように、生かされるか、が、問題である。

マタイが、批判する、パリサイ派は、ユダヤ教の中で、その律法の実践において、大いに良心的に実践した者たちであったという、こと。

パリサイ派とは、律法の厳格な実践を、民衆に、普及するという、運動だった。

そして、原始キリスト教は、ユダヤ人社会の、知的な運動として、成立したということである。つまり、ユダヤ教の一派であり、ユダヤ教の、知識人の用語を用いて、語るのである。

そして、その、用語と発想から、キリスト教の発想が、出発したのである。

神の意思を、実践するというのは、マタイ以前の、初期のキリスト教によって、なされていたことである。

マルコも、同じように、伝承として、書いたのである。
つまり、ユダヤ教から、継承した概念、神の意志の実践を、イエスの兄弟姉妹との、定義で、書きつけた。

だが、キリスト教から、ユダヤ教の土壌から離れて行くことで、それが、抽象的になっていく。

確認の意味で、もう一度書く。
キリスト教とは、ユダヤ教の、一派だったということである。


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2011年01月23日

神仏は妄想である 324

神の意志が、抽象的になっていく。

抽象的ということは、無内容ということではなく、キリスト教がその都度おかれた社会の倫理的イデオロギーの一つ一つに結びついていく、ということである。空の容器には何でもいれることができる。
田川

空の容器には、何でも、入れることができる、とは、実に、鋭い指摘。

その、矛盾も何もかも、味噌も、糞も、一緒にしてしまうのである。
そうして、キリスト教は、成り立ってきた。
唯一、神の権威の上に、である。

主なる、神の権威さえあれば、何でも出来る。
何せ、神は、全知全能である。

原始キリスト教といってもさまざまな流れが錯綜していた。ことに福音書伝承の流れは複雑である。福音書伝承にはそもそもイエス自身のあり様やものの言い方が濃厚に反映されている。かつ、最初に福音書を書いたマルコは、最初期のキリスト教の、いわばイエスにもかかわらず相変わらずユダヤ教の教条の中にどっぷりとつかっていた姿勢に対して、イエス自身の姿を再現してみせた試みである。
田川

例えば、パウロのように、イエス自身の生前のことを、全く無視して、ドグマを形成した者のように、複雑だったといえる。

福音伝承の流れ、それは、ユダヤ教の知識人の用いる、諸概念を基礎としたことは、紛れも無いことである。

それに対してマタイのやった仕事が何であったのかというと、そのようにして伝えられたマルコ及びマルコ以外の福音書伝承を、ユダヤ教知識人の用いる諸概念によりつつ構成し直す、という作業であった。
田川

勿論、それは、マタイ以前から、行われていた。

マタイに多い、予言成就などの、引用がその例である。

イエスの言動を、旧約聖書の予言の成就とみなし、その予言に合わせて、出来事を、作り変えるという。
更に、予言の仕事を、作り変える。

であるから、マタイ福音書は、個人ではなく、集団的に行われたという、可能性が、高い。
要するに、作られてゆく、福音書である。

それ以前の、文書資料、そして、マルコ福音書などを、解釈、改竄し、更に、加えるという、作業である。

私は、素人であるから、平たく言う。
キリスト教は、パウロの思想、考え方を持って、教義を作った。
しかし、マタイなどは、ユダヤ教からの、基礎があって、福音書を書いた。

しかし、キリスト教は、ユダヤ教と、対立するものである。
マタイの、解釈を、何とかして、ユダヤ教ではない、異邦人のキリスト教として、考えたいのである。

実に、手前勝手な考え方であるが、そのようにして、キリスト教は、成り立ってきた。

ここで、ユダヤ人、及び、ユダヤ教についてと、筆を進めたいところだが、止めておく。

ユダヤ人であった、キリスト教創作者たちは、ユダヤ教ではない。
だが、ユダヤ人としての、常識、その言葉の概念を使用して、キリスト教を、創作したのである。

これは、歴史的事実である。

キリスト教の、母体は、ユダヤ教である。
更に、聖典としている、旧約聖書は、ユダヤ教の元からの、聖典である。

キリスト教が、世界的宗教になったからといって、それが、事実ではないのである。
下手をすれば、ユダヤ教の、亜流となる、可能性もある。

イエスの、父なる神が、旧約の神、主なる神であるならば、なお更のことである。

果たして、イエスの言う、父なる神は、旧約の神であるのか・・・
もし、違うとしたら・・・

誰も、それについては、言及しない。
何故か。
解らないからである。

新興宗教が、出来るのは、既存の宗教からによる。
日本では、仏教、神道である。

そこから、盗んで、新しい宗教を立ち上げる。
何故ならば、それ以外の宗教では、説明し難い。

永遠の仏陀と、言えば、仏教を有する日本の場合は、伝えやすい。

ゾロアスター教を基礎とした、宗教を立ち上げても、信者は、集まらないだろう。

教派神道なども、神道を、基礎にして、お話しを作る。
御伽噺より、低俗、あつかましいお話しを、創作して、教団の、経典とする。

勿論、古事記などが、手本となる。
古事記自体が、嘘であることを知らず、嘘の上塗りをする。

真っ当な神経の者ならば、決して近づかないのである。

般若心経だけでも、立派な宗教になる。
勿論、般若心経の嘘など、知るはずも無い。
兎に角、御託を並べれば、事足りる。

後は、騙しのテクニックである。

キリスト教も、その騙しのテクニックを、行使して、二千年の間、人々を、騙し続けてきた。
その証拠は、莫大な教会の、資産、金を、見れば解る。

イエスは、寝る場所も、持たなかったではないか。
着の身着のままで、人々に、話し掛けたではないか。

教会の、生ゴミを見るがいい。
教会の前には、貧しく、食べ物さえ、一日、一度食べれば、いい人々が、溢れている。

彼ら、宗教家といわれる、司祭、牧師・・・
どのような、生活をしているのか。

アメリカの有名牧師は、高級娼婦を買って、遊び、それが、バレると、信徒の前で、懺悔の祈りをして、神に許されたと、のたまう。
イエスと、同じように、磔にするべきだったのだ、本当は。

主とか、イエスとか、神とか・・・
すべて、商売のためである。
そこには、救いなど、あろうはずが無い。

救済とは、笑わせる。

著作力旺盛な、佐藤優が、その神学についてで、書く。
キリスト教は救済宗教です。そして、救済という観点に即した決断をしていくことが倫理です。

だからこそ、倫理学的な関心が常に歴史神学に先行するわけです。神学的なテーマとの関連で何か歴史的事象を扱う場合、それは救済とどう関係するのかという質問が出てきたときに、自分なりの何らかの答えがないとしたら、それは神学研究ではありません。
と、言う。

救済宗教とは、よくぞ、言ったものである。
一体、キリスト教は、二千年来、どんな、救済をしてきたのか。

ただに、人を迷わせただけであろう。
死ぬ前の、見事に、弱い人間に、神の救いを説き、洗礼を授けるという・・・
それも、天国に入るという、大嘘をついて。

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2011年01月24日

神仏は妄想である 324

マタイの場合で言うと、マタイの教会はまだ多分に「ユダヤ教」の枠内にとどまっており、それがマタイの「背景」をつくっていたが、福音書記者マタイ自身はその「背景」に対して、「異邦人キリスト教徒」の視点に立って対処した、ということにされてしまう。しかし、マタイは本当はむろん「異邦人」出身ではなく、ユダヤ人である。
田川建三

田川氏の、実践の観念論という、論文からである。
実際、専門家であるから、とても、面倒な議論であり、説明するには、多くの言葉が必要であるが、私は、素人なので、簡単に、書くことにする。

ここで、ユダヤ人、及び、ユダヤ教というものを、明確にする。
ユダヤ人は、ユダヤ教徒か・・・
違う。

ユダヤ人イコール・ユダヤ教徒ではない。
現在も、然り。

ユダヤ教徒として、自覚するものが、ユダヤ教徒である。

新約聖書の、著者たちは、多くユダヤ人であるが、ユダヤ教徒ではない。

ただし、ユダヤ教徒からすれば、ユダヤ教は、単に宗教に留まらず、ユダヤ民族のすべてを、包括するものである。
ここに、ズレが生ずる。

キリスト教は、ユダヤ教を、対立する概念として、捉える。
あくまでも、宗教的概念である。

日本仏教が、特に鎌倉時代に、多くの宗派が出来た。
それでも、仏教として、認識される。
全く、仏陀と、関係ない、教えであっても、仏教として、捉える。

キリスト教は、そうではなかった。
そこから、生まれたが、ユダヤ教は、対立するものなのである。

さて、神の意志を実践する、という言葉である。

こういう、言葉遣いは、旧約聖書の古い部分には、無い。

この言い方は「神の意志」なるものを旧約聖書と等置して、それを実践の対象とする時にはじめて可能になる。
田川

実際、神の意志を、実践するというのは、変な言い方である。
神の意志とは、神のものである。
それを、人間が実践する・・・

この言い方が可能になるためには、一つの転換が必要である。神によって人間に与えられた掟、すなわち旧約律法であるが、それが「神の意志」である。
田川

これは、旧約の後期でなければ、出てこないのである。

そして、新約聖書でも、後期の文書にしか、出てこない。

神の意志とは、神自ら欲し、行うこと、という意味で用いられる。それが、途中から、人間の行うべき、倫理的徳目の意味に、転化するという。

田川氏は、それは、ラビ的ユダヤ教の言葉遣いの影響が、新約の後期に、かなり浸透したという。

マタイの表現が、
実践の主張が知識人の伝統によってつくられてきた概念の鋳型に盛り込まれる時、その「実践」はどのように変質するか、という問いである。
田川

一つの伝統的な社会の基盤において形成されてきた概念を、その概念は良かれ悪しかれその基盤においては密接に現実と対応するのであったのだが、それを異なった意味関連の中に持ち込むと、どういう抽象化が生じるか、という問いである。
田川

現代の、一般的キリスト教徒は、こんな問題について、考えることもない。
必要ないからである。

与えられた、教理と、教義を、鵜呑みにして、信じていれば、事は足りる。

疑いを持たず、信じることが、正しい。
そこで、主イエスの言葉
トマスよ、疑う者ではなく、信じる者に、なりなさい。

復活の後で、弟子たちの前に、現れた、主イエスが、復活を疑う、弟子のトマスに言うのである。

勿論、これも、作者の言葉である。

死からの、蘇りを加えなければならなかった、初期キリスト教徒たちの、奇跡のお話。
日本の、キリスト教作家の、多くが、イエスの死後の、弟子たちの、弱さから、強さに変わる姿を描くが、浪花節である。

事は、そんなに単純ではない。

ユダヤ教の、律法という、明確で、具体的なものを、異なった、意味関連に持ち込むという、作業を、初期の、イエス応援団は、考えていたのである。

後に続く話だが、マタイは、単に、ユダヤ教実践主義を、継承しただけに、過ぎないかもしれない・・・

仏教の中には、踏み込めない、密教までも、仏教と、名乗る、面の皮の厚さとは違う、何かがある。

何故、ユダヤ教を母体にしているものが、ユダヤ教と、対立する、概念を、打ち立てなければならなかったのか。

ユダヤ教、イエス派では、いけなかったのか。
いやいや、はじめは、そうだった。

ユダヤ教の、朗誦が、後に、グレゴリオ聖歌の元になった。
男子修道院で、はじまった、朗誦が、それであり、その後、生成発展する。

イエス応援団の派閥も、それぞれ、ユダヤ教の、会堂で、祈ったのである。

そして、その儀式的行為も、である。

唯一、別にするのは、キリスト教は、イエスを、メシアとし、ユダヤ教は、それを拒否する。

そこで、キリスト教神学は、その後、ギリシャ哲学を母体にして、作られる。
更に、パウロから、カトリシズムが、生まれてゆく。

そして、突き詰めてゆくと、結局、イエスという、一人の、人間に迫ることになってゆくのである。
たまねぎの皮を、剥いでゆくと、何も無くなる。

宗教の教義というもの、あるいは、哲学、思想というもの、すべて、たまねぎ、なのである。
とは、素人の私が言うこと。
何ほどのことでも、無い。


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2011年01月25日

神仏は妄想である 325

同じ表現を用いても、「神の意志」のとらえ方がキリスト教徒マタイとパリサイ派的ユダヤ教では全然異なる、というのが、キリスト教神学者のこれに対して用意する答えである。そして、これでもって話しのけりをつけてしまう。しかしことはそれほど単純ではない。
田川建三

パリサイ派は、旧約律法と、同一である。
それは、ユダヤ人の、全社会生活を律するものである。

対して、マタイは、実際、ユダヤ教律法を、守るつもりはないのである。

言うだけで行わないのは、むしろマタイの方なのだ。彼の場合、「神の意志」は明らかに違う位相に移されている。
田川

けれども、その事実上の相違をマタイは自覚してとらえることをしない。彼としてはあくまでも、同じ神の意志の実践を語っているつもりなのである。
田川

恐ろしい、蒙昧である。

山上の説教は、マタイ福音の、基本命題である。
更に、福音書全体の中核をなし、その中核の中心綱領が、律法実践を主張する。

そこで、マタイは、イエスに、
私は律法や預言者を完成するために来た。
律法の一点一画も過ぎ去ることはない。
律法の戒命の最も小さなものの一つでも破り、また人々にもそうするように教える者は、天の国において最も小さな者と呼ばれよう。
と、宣言している。

更に、イエスは、
汝らの義が律法学者やパリサイ派の義よりも大きいものでなければ、汝らは天の国に入ることができない。
と、言う。言わせる。

神の意志の、実践が、義である、という、命題なのである。

マタイは、旧約全体の、総括をしているのである。
そして、
天にます我が父の意志を実践する者・・・
だけが、天の国に入るとなる。

これ以上は、聖書学者の、侃々諤々の議論になるので、省略する。

天地が過ぎ去るまで・・・
一切がなるまで・・・

私に言わせると、子供騙しも、いいところである。

平たく言えば、天の国・・・天の父・・・
要するに、神の座、神の場所が、天であるという・・・天・・・・

山上の説教を、行う者が、入る天の国なのである。
そして、その解釈は、神学者によって、議論されるという段取り。

田川氏は、実に、神学的に考察しているが、私は、単なる素人として、断罪する。

神の国と、その義を求めよ
マタイが、イエスに言わせる。

単純に考えると、解るが、複雑に考えると、解らなくなる。

ちなみに、パウロは、律法主義は、間違いであるとの、パウロ主義キリスト教を新約全体に、押し付ける。
つまり、マタイとは、対立するのである。

新約聖書の学問的「研究」が毎年新しく山積みされるのも、そのほとんどは、文章と反対のことを文章に読み取ろうとするために生じる複雑怪奇でかつ単純に無意味な論理操作にすぎぬ。
田川

要するに、宗教学者、キリスト教神学者は、いい気なものだということ。
よくぞ、それで、食っていかれるものだと、思う。
しょうも無い事を議論して、生活できるのであるから、やめられない、だろう。

平信徒たちの、生活とは、かけ離れたところで、議論して、のうのうとして、生きている。
糞の役にも立たないことを、である。

更に、学問、とは、恐れ入る。
聖書を、学問として、学ぶ・・・
恐ろしい蒙昧である。

だから、イエスは、律法を成就するために、来た、という、お話しを、解釈して、全く違う、正反対の、解釈が出来る。

成就するとは、更に、それを深めて、行為する。いや、成就されたので、もう、それは、いいのである。そして、いやいや、旧約の新しい解釈なのである・・・

こうして、蒔きも、刈り取ることも、更に、捕ることもせずに、生きている。

明日のことは明日心配せよ・・・
今日の苦労は今日で足りる・・・

深く考えれば、深くなり、浅く考えると、浅くなる。
宗教とは、皆々、そのようなものである。

一つ一つの言葉を、原語から、解釈するという、作業に、脱帽するが、それは、ご苦労様、という、程度である。

寝惚けたような、言葉を、真剣に、何を言わんとしているのかと、研究するという。
これこそ、間の抜けた学問である。

更に、面白いのは、天の国で、小さな者、大きな者、という、表現である。

田川氏は、最も小さい戒めに対応させて、最も小さい者、と言うとある。

それで、意味は、最も小さい者とは、ユダヤ人の中で、最も駄目な奴だと、みなされることになろうと、いうと、ある。

そこで、神という言葉を、直接いえないから、天の国という言い方をするという。
天の国で、最も小さな者は、神はその者を、最も小さい者、最も駄目な者と、みなすだろう、であると、言う。

しかし、マタイは、天の国において、大きい者だけが、入ると、言うのである。
小さい者は、入られないのである。

マタイは、
パリサイ派の義よりも、大きな義を持つのでなければ、天の国にはいることは、出来ないという。

ユダヤ教新興宗教の、面目である。

マタイは、ユダヤ教から、抜けないのである。
ユダヤ教により、イエスの教えを、解釈する。

天に召されるまで・・・
とは、キリスト教徒が言う言葉である。
しかし、彼らは、その天の国が、どこにあるかを、知らないのである。

行ってみたら、ユダヤ教の天の国で、キリスト教徒は、その下の天かもしれないとは、考えないのである。

つまり、言葉にやられる。

信じる者は、確実に、騙されるのである。
そして、騙されたことを、喜ぶ。

面倒だが、もう少し、田川氏の、専門的お話しから、私が、独断と偏見で、平たく、紹介する。


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2011年01月26日

神仏は妄想である 326

マタイの改竄である。

マルコ福音に書かれている、終末に到るまでに起こる、様々な災害についての、記述である。

マルコは、
こういう時に子をはらんでいる女、乳呑み児をかかえている女は不幸である。これが冬におこることがないように祈れ

そこで、マタイは、
これが冬に、あるいは安息日に起こることがないように祈れ
と、なる。

マタイはこことで、安息日には一定の距離以上を歩いてはいけない、という律法の規定を思い出したのである。逃げまどうと言っても、安息日には遠くに行けないから、困るではないか、と考えたのだ。
田川建三

冬の厳しさを心配したマルコと、そんな時にまで安息日律法を破ることを心配しているマタイとの間には、大きな距離がある。
田川

マルコは、現実、マタイは、研究室での、考え方であると、田川氏は言う。

マタイは、終末論を、知的に構築している。

マルコは、
安息日は、人間のためにある
と、書いた。
しかし、マタイは、それを、削除した。

マタイは、聖なる律法としての、安息日の権威を、保とうとするのである。

律法学者としての、マタイは、マルコのようには、いかないのである。

更に、マタイは、神が好むのは、憐憫であり、宗教儀礼ではないという、旧約のホセア書から、憐れみを解く。

であるから、安息日に、神殿で働いている祭司は、安息日でも、働く。ゆえに、弟子たちは、神殿よりも、偉大なキリストに仕えているのだから、その限りでは、安息日律法を破ってもよしとする。

マルコの、安息日の批判が、マタイでは、安息日を絶対の掟とする前提で、解釈し直されている。

マタイは
ユダヤ教と彼の理解するキリスト教との間の差異を一応明瞭に打ち出している。つまり、ユダヤ教は神殿崇拝を中心としているのだが、キリストはその神殿を超える存在、神殿をも無用なものとして、その代わりとなる存在だ、というのだ。神殿崇拝がキリスト崇拝に代置される。しかしそれはいわば崇拝の対象の首をすげかえただけであって、基本的な発想はちっとも変わらない。
田川

マタイは、ユダヤ教的に、すべてを法的に発想するのである。

だが、ここにおいて、神殿崇拝を、キリスト崇拝に置き換えたから、誰にでも、崇拝できる、キリスト教は、普遍性を持った。

そこで、田川氏は、その普遍性が、相変わらず、法的発想を、そのまま保ったものであることを、言う。

マタイは初期キリスト教の中でも最も強く実践を主張している。それも、一方ではパリサイ派的ユダヤ教に対する強度な対抗意識において、他方では初期キリスト教内部において実践を強調しない者たちに対する非難をこめて、非常に強い言葉で実践を主張する。それにもかかわらず、その実践を主張する言葉遣いは、パリサイ派的ユダヤ教から継承しており、自覚的に主張する内容は、ユダヤ教律法の一点一画をも尊守する、ということである。
田川

つまり、マタイの、実践は、ユダヤ教知識人の知的操作を、キリスト教化したものであり、現実の生活との関わりからのものではない、ということである。

実践の観念論になると、田川氏は言う。

実践の観念論は、実践を強調すれば強調するほど、抽象的な鮮明さにおぼれていく。ある種の倫理的主張において、マタイは実に鮮烈な徹底さをかちえているのである。それは実践の観念論がもたらすあやしい魅力なのだ。
田川

さて、私は、平たく言う。

要するに、マタイは、ユダヤ教の律法的発想から、イエスを、キリストとして、作り上げる作業をした。
イエスは、単なる、飾り物でいいのである。
イエスを、キリストに仕立て上げて、自分たちの言い分を通すという・・・

更に、集団である。
つまり、宗教集団の成立である。

ユダヤ教から、離れた宗教の創設である。

勿論、大元は、ユダヤ教から、取り入れる。

イエスの教えから、離れて行く過程で、キリスト教が、出来上がるということである。

田川氏の、論述は、まだ続くが、それでは、イエスという人間は、何を伝えたのかという、素朴な問題である。

創られた、イエスではない、キリストではない、人間イエスのことである。

聖書には、イエスが、私の父、私の・・・と、多く語る。しかし、神の子は、すべての人間を言うのである。
イエスだけが、神の子ではない。

イエスも、神の子の一人である。

それが、特別な意味を持つに到るのは、聖書の作家たちの、策略である。

イエスは神をヒューマンに、またパーソナルに呼んだのであって、これはいわゆる「父なる神」といった権威的、尊称的な表現ではない。・・・イエスは神の国をことごとく譬話で語り、そこでは人間がさまざまに働いている状態で示唆しているのである。神という問題性を人間の根源的な問題と考えたのではないか。
イエス逆説の生涯 笠原芳光

人間の根源的な問題とは、実に深い問題意識である。

つまり、人間とは、何か。
それを、神という言葉にかけて、問いかける作業である。

そこには、信仰とか、崇拝というものではなく、生きる、現実をいかに、生きるかという、問題意識である。

それも、個人として、である。
それは、画期的なことである。

民族意識から、抜け出て、個人としての、意識を持つ。
ここに、新しい時代の、生き方がある。

あれから、二千年を経て、人間は、ようやく、イエスの教えに、近づいたのである。


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2011年01月27日

神仏は妄想である 327

イエスという、人間が、どのように、育ち、そして、どのように、目覚めてゆくのか。

聖書による、作られた、イエスではない、人間イエスを、追求すると、益々、イエスという、人間に興味が湧く。

イエスが、ユダヤ教徒から、告発されるのは、神を父と、気安く呼んだからである。
神は、その名も、呼べないほど、貴いお方であるというのが、ユダヤ教徒である。

神に対する、不敬を、イエスは、侵したというもの。

マルコの福音書によると、
この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか。
と、人々が言った。

マリアの息子とは、父のヨゼフが、亡くなっていたと思える。
もし、ヨゼフが生きていれば、ヨゼフの息子と言うだろう。

イエスの青年期から死までの間に、母のマリアが出てくるのは、極めて、稀である。

マルコの福音書
さて、イエスの母と兄弟たちがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。ときに、群集はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。すねと、イエスは彼らに答えて言った。「わたしの母、私の兄弟とはだれのことか」そして自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言った。「ごらんなさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神のこころを行う者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのである。

ところが、マタイでは、弟子たちを、指して言うのである。

これは、両者の思想の違いである。

マルコのイエスは民衆を重視して、直弟子をしばしば非難し、マタイのイエスは弟子を尊重して民衆を批判するという記述が少なくない。そしてイエス自身はマルコに近い存在であったと考えられる。
笠原芳光

上記の、聖書の記述は、イエスが、家を出て、洗礼者ヨハネの教団に入り、更に、そこから、脱出し、自ら、民衆に語りかけ、弟子たちを集めてからのことである。

ルナンの、イエス伝
親族関係が彼にとって取るに足らぬものであったことは、少なくても確かである。彼は、彼の家族には愛せられなかったようだ。そうして時々は、家族に対して辛く当っている。イエスは、一つの思想に専念する人々が皆そうであるように、血のつながりを重視しなくなるに到った。思想のつながりこそ、この種の人々の認める唯一のものである。

マリアをイエスの母であったがゆえに、キリストの母、さらに神の母、聖母と呼ぶようになったキリスト教、とくにカトリシズムは少なくとも、この問題に関しては明らかに誤っている。およそキリスト教はイエスを誤解することによって成り立っている。
笠原芳光

ともあれマリアに対する信仰が拡がっていった背景には、多くの人々の母親への愛情や思慕があり、それをキリスト教はたくみに利用したものといってよい。つまり父権主義的な一神教では一部の民族にしか受け入れられないことを、キリスト教が地中海世界に進出するに当って痛感したために、農耕文や多神教的な風土にも受容されることを計った、ある意味での政治的な措置であった。
笠原芳光

さて、そこで、少し話しは、ズレる。

聖母信仰は、確実に、キリスト教、カトリックを世界的宗教に広げるに、役立った。
地元の信仰形態に、聖母信仰を取り入れて、囲い込んだのである。

更に、聖母の出現である。
奇跡として、カトリック教会が、認定すると、その場所は、聖域となる。

私は、それに対して、納得することは、出来ない。
つまり、聖書作家たちも、初期のキリスト教の、様々な派閥も、マリア信仰など、皆無だったからだ。

まして、聖母出現による、奇跡は、実に、魔的な要素が多い。

霊体として、出現するという、聖母であり、言葉や、予言を与える。
これは、共同幻想、妄想である。

さらには、こけおどしの、奇跡を行う。
そして、子供である。
聖母の姿は、多く子供に見せる。

それを、子供は、素直で、純真だから・・・

嘘である。
騙しやすいのである。

さらに、その予言の、数々である。
ローマ法王庁には、それらの予言を封印して、法王のみが、回覧できるという。

嘘である。
それらは、世に知られている。

中には、ローマカトリックの崩壊、破滅の予言まである。

聖母の出現というのは、大嘘である。それは、ある霊である。
勿論、真っ当な霊ではない。

私の、霊学から言って、大袈裟な奇跡を起こすものに、霊に真っ当なものは、無い。

何せ、ルルドの泉で、病が癒えた。
しかし、死ぬ。
何のことは無い。寿命を、少し延ばす程度である。

高位霊位は、奇跡は、起こさないと、決まっている。

聖母の姿は、魔物が、化けているとしか、思えない。
そして、それは、共同幻想であり、心理学でも、解決できる。
集団催眠である。

妄想の、最たるものである。

聖母信仰の、本当の姿は、その人自身の、幻想であり、さらに、その人が求める姿で、存在する。
つまり、その人に合った、聖母なのである。
勿論、信仰というものは、すべて、そのようである。

神とか、仏は、私なのである。
私が写る。

だから、人により、レベルがある。
意識の低い人には、低いように、である。

聖母信仰の強い人が、亡くなり、浮遊すると、大半が、私は、聖母だと、信じ込むという、有様である。
その、霊が、私は、聖母だと、心身衰弱の者に、語りかけることは、多々あることだ。



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2011年01月28日

神仏は妄想である 328

イエスが稀にみる、すぐれた。独自の宗教的思想の持主であったことはいうまでもない。それなら、その発端となった宗教的関心はどのようにして生まれたのか。そして、それはどのようなものであったのか、ということは「イエスとはなにか」を探求するうえで、きわめて重要な問題であるはずである。にもかかわらず、そのことは福音書にも、聖書外典にも、また同時代の聖書外資料にも、まったく記されていない。古代の史料にも、現代の聖書学においても言及されていないからには、・・・・
笠原芳光

古代の史料にも、無いということは、ほとんど、大した問題ではなかったのである。
ほんの、ユダヤ民族の一部地域で、起こったことだった。

更に、イエスのような存在は、数多く存在していたのである。

笠原氏は、妄想逞しく、そのイエスの精神的状態を、推し量ろうとしているが、それも、一つの想像に過ぎない。

解らないことは、解らないで、いい。

多くの宗教家に共通する物事を、考えて、イエスも、その一つに、あるのではないかというのは、各人の勝手である。

ましてや、小説家が、描いた、イエスに関する様子を、引用としても、詮無いことである。

笠原氏は、イエスの発心の理由を、父親との早逝と母親との不和、そして、何らかの、女性関係における、挫折や、自省という問題を上げている。

それも、一つの考え方である。

ただ、
生家から、洗礼者ヨハネ教団から、そして自ら作った集団からも、最後には、神からさえも、離脱したというのは、聞くに価する。

絶対孤独と、絶対孤立に、死んだ。

その死後、イエスは、キリストとして、作られ、キリスト教という、宗教が出来たのである。

イエスと、キリスト教は、別物と、考えた方が、よい。

イエスの、教えと、乖離すればするほど、キリスト教は、大きく、世界的宗教へと、変貌する。

ましてや、ローマの、国教となるとは、イエスも、泡を吹く。

イエスに、離反して、その神学なるものが、益々と、盛んになり、イエスの教えとは、ほど遠くなる。

更に、イエスの、最大の疑問は、彼は、洗礼を認めて、人は洗礼によって、生まれかわらなければならないと、言ったが、イエスは、一人にも、洗礼を授けていないのである。

ということは、イエスの言う、洗礼とは、何かを、考えなければならない。

人は、霊によって、生まれ変わる。
イエスの主張である。

一体、これは、どういうことか。

聖書には、聖霊という、神の霊のことが、書かれるが、イエスの霊というのは、その聖霊のことか。
違う。

三位一体という、教義は、後々のものである。

聖書の中で、聖霊に対する罪は、許されないと、イエスが言うが、それは、作家の言い分である。

霊によって、生まれ変わるということは、今までの、私ではなく、もっと、別の私という存在に気づくこと。
別の私とは、問題意識のことである。

私自身の可能性である。

ここで、イエスを過大評価しないことである。
もっとも、単純で、素朴なこと。

発心とは宗教的なものに関心を持ち始めることである。あるいは求道への端緒であるといってもよい。そして、それによって、いままでとは違った人間性にめざめていく。新しい自分自身の発見でもある。およそ、人間ははじめから「人間である」のではない。なにごとかを契機として「人間になる」のである。発心はその一つの契機であろう。
笠原芳光

内面的な、第二の人生の、はじまり。
そして、それは、今までは、眠っていたようなものだった。そこから、醒めたのであるという、強烈な感覚である。

青年期に起こる、目覚め。
自己との、対話である。

誰もが体験するが、その体験が強烈であれば、あるほど、それは、衝撃的である。

イエスが、神を、父さん、と呼んで、語り掛けた、その父さんとは、もう一人の我とも、言える。

宗教的情操とは、すべて内面で、起こる。
外の問題ではない。

内省でしか、それを、推し量ることは、出来ない。

人の心の中を、覗くことは、出来ない。
それぞれの人の心の中にある、衝撃。

その、衝撃をこそ、宗教と言う事が出来る。
ここでは、宗教とは、全人的問題を扱うという、定義である。

宗教団体のことではない。

我が、我と出会う。
あはれになつかしい、私に出会うこと、それが、衝撃なのである。

実際、人が本当に逢いたいと思う、ものは、私なのである。

その、私を、何と呼んでも、いい。

人間の、悲しみは、人の心に入ることが、出来ないという、孤独感であり、更に、私の心境は、私以外に、知らないということである。

心に生まれる、神や仏ならば、解るが、外に存在する、神や仏ならば、それは、魔物なのである。

神よ、と、語りかけても、主よ、と、語りかけても、マリア様と、語りかけても、そこには、何も通じない。
通じているのは、私だけである。

私が、私に、語りかけるのである。

つまり、内省、内道こそ、全人的問題のすべてである。
宗教というものがあれば、それを言う。

イエスが、住む家もなく、歩き回った。
何も、持つことなく。

世にある、あらゆる、キリスト教団は、イエスの教えと、離反し、更に、乖離して、成り立つものである。
そこに、イエスは、いない。

教会は、ただ、幻想と、妄想を教えて、権威を持つ。
信徒は、共同幻想の、催眠にかかって、救われると、信じる。

全く、その根拠は、無い。

イエスが、観たものは、心の内である。

一人一人に、神がいる。一人一人に、仏がいる。
そして、それは、私なのである。
私を離れて、この宇宙も何もかも、無いのである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月29日

神仏は妄想である 329

もう一つの、疑問がある。

それは、イエスの発心と、それ以前の生活である。

特に、発心については、これほどに重大なことであるのに、福音書には、書かれないのである。

だが、それにしても誕生にまつわる問題をマタイとルカはどうして、あれほどの虚構によって詳しく記しているのか。思うにイエスをキリストと信じ、神の子としたことによって、イエスははじめから、いわば宗教的存在であり、発心といった、ふつうの人間に起こるような体験はするはずがないと考えたからではないか。
笠原芳光

三十歳までの、生活が全く解らないのである。

その後の、二、三年である、イエスの人生とは、何か、である。

私は、多く、妄想のイエスの青年時代を書いたものを、読んだが、納得しない。

エジプトに留学して、インドに渡り、修行しただの、甚だしいのは、日本にやってきて、云々・・・

その間に、様々な、修行を積んで、奇跡を起こすようになるとか・・・

実に、馬鹿馬鹿しい、妄想だった。

解らない、イエスの三十歳までの、生活を妄想することなかれ、である。
解らないものは、解らない。

解ることは、兎に角、家を出て、洗礼者ヨハネの教団に入ったということである。

ヨハネも、ユダヤ教の一派として、見なす。

ユダヤ教は、紀元前20世紀のころ、イスラエル民族の父祖とされる、アブラハムの率いる、遊牧民の集団が、メソポタミアの、ウルを出て、カナン、のちの、パレスチナの地を目指して、西に進んだことにはじまる。

後に、旧約聖書の、成り立ちを見るが、アブラハムの子孫は、飢餓を逃れるために、カナンから、エジプトに移住した。
その地で、彼らは、奴隷にされたため、モーゼに率いられて、エジプトを脱出し、荒野をさ迷う。

そして、シナイ山で、神からの、契約を受けたと信じたのである。

前13世紀ころに、カナンに戻り、イスラエル民族の地を作る。

やがて、ダビデ、ソロモンが王として、統治し、エルサレムが、都となった。

農耕神バアル信仰との、争い、預言者による、唯一神ヤハウェ信仰の強調、バビロニアによる、捕囚などを経て、前5世紀ころ、律法、祭司、神殿などの宗教制度が、整えられ、ユダヤ教が成立する。

イエス当時の、ユダヤ教は、非合理主義で、進歩的思想のパリサイ派と、合理主義で保守的思想のサドカイ派の二大教派のほかに、私有否定と禁欲の共同生活をする、エッセネ派、前1世紀にローマの属領となった、ユダヤの独立を目指す政治活動を行った、熱心党、更に、小さな洗礼教団などが、多数存在した。

イエスは、その中で、何故、ヨハネを、選んだのか。

洗礼派としては、エッセネ派も、死海の北西部の、クムランに本拠があり、クムラン教団とも呼ばれ、洗礼を行っていた。
ヨハネの洗礼は、一度であるが、クラムン教団は、何度も、繰り返し行われたという。

ヨハネの姿は、預言者のエリヤに重ねられた。
それは、預言者たちが、イスラエルを救済する、メシアの到来を告げていて、イエスをメシアとする聖書作家たちが、エリヤをヨハネに、関わらせて、ヨハネこそ、キリストの先駆者であると、告知する意図があったからだ。

イエスも、ヨハネから、洗礼を受けている。

のちヨハネの禁欲主義や修行主義が自分の考えと異なることがわかって、ヨハネ教団から離脱したあとも、イエスはヨハネの人格に対する敬意を持ち続けたと思われる。
笠原芳光

マタイの創作は、面白い。
イエスが、洗礼を受けようとすると、ヨハネが、私こそ、あなたから、洗礼を受けるものですのに、あなたが私のもとに、おいでになるのですか、と、語らせ、イエスには、今は、受けさせて欲しい。このように、すべて正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいと、言わせる。

キリストが、洗礼を受けるという、矛盾であるが、それに気づかないのである。

もう一度、書くが、イエスが、自分の集団を作ったが、イエスは、誰一人にも、洗礼を授けていないのである。

ヨハネ福音書には、
イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けていた。
とあるが、
次ぎの、四章には、
イエスが、ヨハネよりも多くの弟子をつくり、またパプテスマを授けていることを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知ったとき、(しかし、イエスみずからが、バプテスマを授けたのではなく)その弟子たちであった、ユダヤを去って、またガリラヤへ行った。

括弧の部分は、後で、付け加えられたという。
つまり、イエス自身は、洗礼を授けていないのである。

イエスは、ヨハネの元を、去ってから、遊行者となって、ガリラヤ地方の多くの町、村を、訪れている。

禁欲、修行主義のヨハネの元を去り、一体、イエスは、何を教えようとしたのか。

イエスを知る資料は、外典と呼ばれる、トマスの福音書、そして、Q資料と呼ばれるものがある。

全体的に、眺めてみると、イエスは、自由ということを、基底にして、説教を繰り返したようである。

それは、ユダヤ教には、挑戦と、見られるようなもの・・・

ユダヤ教からの、開放・・・

一人一人の、神との、関係、あるいは、心の自由について。
聖書作家たちとは、違う。その彼らの、意図とは、違うものである。

聖書作家たちは、イエスをキリストとして、描くという、苦心をする。
だが、実在のイエスは、キリストと、任じたのか。

その答えは、イエスの磔刑である。

ユダヤ人の、反感を買い、ユダヤ人たちが、積極的に、イエスを、磔刑に処した。

ここに、最大の、イエスの、教えがある。

殺されても、いい。
殺されても、これを言う。
その、言う、言葉は、何だったのか。

時代への、挑戦である。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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