2010年12月08日

プノンペンの悲しみ 8

追悼慰霊を終えて、私たちは、また、バイクタクシーに乗り、元の道を戻った。
その時、コータが、チャム族の村ではなく、もっと、貧しい場所があるので、そちらに、服を上げて欲しいと、運転手の、おじさんが言うと、教えてくれた。

私は、それでは、それでいいと、頷いた。

もっとも、貧しい村・・・
どんな状態なのか・・・

途中の、川の前で、一度止まってもらい、御幣を流す。
スムーズに流れたのを見て、安堵した。

そして、更に、走る。
途中から、右に折れた。
そのからは、田圃が続く。

そして、アヒルの養場などが、見える。

どんどんと、悪路を進む。
とんでもない、揺れである。
それを知っていたら、きっと、出掛けるに、躊躇したであろう。

更に、細い道を、入った。

おじさんが、英語で、何か言う。
コータが、村に入る前に、国の役人に知らせると、言った。
日本で言えば、地方公務員のことであろか。
その村の担当者のことか。

兎に角、到着した。

数名の子どもの姿があった。

私は、支援物資を車から、降ろして、差し上げる準備をする。

すると、どうしたことか、人が、どんどんと、出てくる。
お達しが、行ったのか。

子供たちも、大勢、出て来た。
そして、一つの、家の前の、台の上に、支援物資を並べた。

手当たり次第に、サイズの合うものを、子供たちから、手渡した。
最初は、不安な顔、でも、すぐに、笑顔が、見えた。

ぬいぐるみを、取り出した時は、歓声が上がった。

そうして、次々と、渡していると、おじさんが、コータに何か言う。

もう一つの、部落にも、連れて行きたいらしいと。
そこで、私は、支援物資を、残して、皆さんと、写真を撮ることにした。

後で、思い起こすと、確かに、何も無い、村だった。
あたり一面は、田圃であり、果物などの、樹木もない。
枯れた雰囲気の、村である。

彼らは、田圃の所有者ではなく、田圃などの、手伝いをしたり、町にゴミを拾いに出て、生活しているのだった。

もう一つの、部落も、そうだった。
何も無い。

小屋のような家が、ポツン、ポツンと、建つ。

矢張り、最初は、数名だったが、次第に、人が出て来た。
思わぬ、プレゼントに、戸惑う人たちもいる。
しかし、衣服を渡すと、笑顔である。

一人のおじさんが、出て来た。
さて、渡すものはあるのか。
大半を渡したので、残り少ない。
ズボンがあった。
そして、コータが、着ていた、ジャンバーを脱いで、差し上げた。

おじさんは、喜び、ひょうきんに、おどけて見せる。

私は、ここで、すべてを差し上げようと、全部を、曝け出した。
必要なものを、取ってもらうことにした。

女たちが、それぞれを手にして、自分に合うものを、探し出してくれた。
それも、控え目である。

そして、すべてを、差し上げて、写真を撮る。

その村も、殺風景で、何も無い。
私は、ハバナを少し持ってきていたので、それらを、子供たちに、渡した。
そんな、果物が、手に入る場所でもないのである。

本当に、何も無い。生活に必要なものも、最低限のようである。

ぬいぐるみが、無かったのが、残念だった。
前の村の子供たちは、本当に、喜んだ。

街に出れば、ぬいぐるみも、売っているが、街に出ることも無く、また、それを、買うための、お金も無いのだろう。

カンボジア
何と、表現していいのか・・・
また、何と、イメージすれば、いいのか・・・

暖かい国だから、辛うじて、生きられる。そんな、感じである。

差し上げた人たちも、喜んだが、トゥクトゥクのおじさんも、喜んだ。
そして、コータが、おじさんも、自分の息子の、衣服を貰ったといった。

ベトナム国境の町から、プノンペンで、バイクタクシーをして、稼ぎ、子供たちを、養い、学校に行かせているという。
自分も、貧しいと言った。

私たちには、涼しいが、おじさんには、風が冷たいという。
乾季であり、確かに、朝夕は、涼しい。
彼らにすると、それが寒いのだ。
更に、バイクで走るので、風を受けるからだろう。

おじさんは、長年着ているであろう、色褪せた、ジャンバーを羽織っていた。

ゲストハウスに着いて、今度来たときに、また、あの村に連れていってくださいと言った。

帰国してからも、あの村のことを、思い出す。

私も、コータも、ぐったりである。
五時間ほどの、行定だった。

三時過ぎである。
しかし、食欲が無い。
暫く、ベッドに体を、横たえた。



posted by 天山 at 00:00| プノンペン二度目の悲しみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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