2010年12月07日

プノンペンの悲しみ 7

ロン・ノル将軍のクーデター後、北京に亡命していた、シアヌークは、カンプチア民族統一戦線、の、結成を宣言した。
そして、共産勢力である、クメール・ルージュとの協力関係を結ぶ。
この、クメール・ルージュとは、ポルポト派である。

1970年以降、ベトナム戦争が、カンボジア国内に拡大していった。
1973年以降は、カンボジア人同士の内戦も激化する。
国内は、混乱し、国土は、疲弊する。

1975年4月、クメール・ルージュを中心に、カンプチア民族統一戦線が、プノンペン入りした。
それにより、内戦は、事実上、終結した。

だが、政権を握った、ポルポト派は、急進的な共産主義政策を断行した。
国内は、再び、大混乱となる。

民主カンプチア政府、ポルポト政権の政治は、甚だしいものがある。

様々な、政策のために、カンボジア国内は、混乱し、伝統的な社会システムは、破壊された。
ポルポト政権下の、三年八ヶ月は、カンボジアの国民に、精神的外傷を与えたのである。

更に、ポルポト政権成立から、ベトナムとの、対立が激化し、1978年12月下旬、ベトナム軍が、カンボジア領内に侵攻し、翌年1月、民主カンプチア政府は、プノンペンを放棄して、タイ国境の山岳地帯へと、逃れた。
同時に、タイ国境地帯に、大量の、カンボジア難民が、押し寄せ、難民問題の、端緒となったのである。

この、ベトナム侵攻は、色々と、説明される。
ベトナム人からは、カンボジア人を、救い出したといわれる。
カンボジア人は、複雑である。

ポルポトが、ベトナム人の虐殺も行ったために、ベトナムが侵攻したとも、言われる。

ただ、ポルポトの、支配が、終わったことは、評価できる。
あのまま、悪夢が続けば、カンボジアは、崩壊、または、消滅していたかもしれない。

1979年1月、ベトナム軍に支援された、カンプチア救国民族統一戦線は、プノンペンを解放し、その直後、人民革命評議会議長、ヘン・サムリンが、カンプチア人民共和国の樹立を、宣言した。

一方、タイ国境の山岳地帯に逃れた、民主カンプチア勢力は、ゲリラ活動を展開しつつ、1982年7月には、反ベトナムの、民主カンプチア連合政府三派を発足させて、ヘン・サムリン政権に、対抗した。

結果、中国、アセアンなどに、支援された、民主カンプチア連合政府三派と、ソ連、ベトナムに支援された、カンプチア人民共和国という、二つの国家が、併合することになった。

1980年代を通して、両政権による、内戦が長期化し、カンボジア問題は、東西対立に加えて、社会主義国家間の対立が、内戦の原因を複雑にし、更には、紛争解決の道が、困難なものとなっていった。

これ以後の、歴史については、省略する。

私は、ポルポト政権下の、状況を見詰める。

「クメール革命には前例がない。われわれがしようとしていることは、過去の歴史で一度も成就されたことがない」クメール・ルージュ自身、保護者だったベトナム人から解放されるやいなや、たえず自分たちの経験の唯一無二性を強調するようになった。公式の演説で外国が引き合いに出されることはまずなく、あっても否定的に語られるだけだった。マルクスーレーニン主義の創始者や毛沢東の名前すら、引用されたことは事実上なかったといってよい。
共産主義黒書

以後、黒書より、引用する。

クメール・ルージュの、ナショナリズムは、シアヌークや、ロン・ノルが発展させたものと、同じもので、異様な有様を、発散させていた。

このような自信過剰な態度はとどまるところを知らなかった。「われわれは唯一無二の革命を成就しつつある。われわれのように、市場と貨幣をあえて廃止した国を一つでも知っているだろうか? われわれは中国人をはるかに乗り越え、彼らはわれわれを賞賛している。彼らはわれわれを模倣しようとしているが、まだそれに成功していない。われわれは全世界にとってよいモデルとなるであろう」というのが国外に滞在したことのある知識人幹部の演説だった。
権力から排除された後ですら、ポル・ポトは「1871年のパリ・コミューンを例外として」1975年4月17日が歴史上最大の革命的事件だったと見なしつづけた。
黒書 改行は、私。

これは、最早、狂いである。
日本の、共産主義者たちの、言葉も、同じように、誇大妄想になるのと、同じである。

現実遊離、逃避・・・

手のつけられない、精神病である。
要するに、点ける薬が無いのである。

自ら、破滅するのを、待つ、しかないのである。
だが、三年八ヶ月は、長かった。

更に、悲劇なのは、フランス植民地政策による、捨てられたカンボジア人である。

それは、
この国では、権力をめざしてほとんど絶えることなく抗争を繰り返してきた氏族集団は、みずからの利益になるようなら、外国の介入を呼びかけるのを一度としてためらうことがなかったし、また誰ひとり経済発展について真剣に問題提起をした者もなかったように思われる。そういうわけで、企業といえるほどのものも、中産階級も、技術者もほとんどなく、ただ生きていけさえすればよいだけの農業が圧倒的優位を保ってきた。
要するに、東南アジアのなかですぐれて「病人」だった国なのだ。
黒書 改行は、私。

ポルポトの、クメール・ルージュは、極端な、非現実主義だったといえる。
それが、他人への、妄想的な不信感を生み、自らの能力の、誇大妄想的な、過信を生む。

そして、それが、稀に見る、残虐振りを発揮した。
殺すのではない。
嬲り殺しにするのである。
殺人を楽しむのであるから、狂人である。



posted by 天山 at 00:00| プノンペン二度目の悲しみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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