2010年12月11日

プノンペンの悲しみ 11

これから、共産主義黒書から、抜き出して、カンボジア革命で、行われたことを、紹介する。

まず、都市住民に対する村民の復讐がはじまった。
たとえば、ブラックマーケットの取引を通じてであれ、あるいは単に荷物から盗むことを通じてであれ、旧人民はすばやく新人民から財産を巻き上げたのだった。
村の内部では、地元の「資本家」(ここでいう資本家とは、商品化すべき物をもっていたり、わずかでも労働力を雇い入れている者のことと理解してほしい)にたいする最貧農民の復讐があった。

しかし、復讐はまた、おそらくとくに個人相互のあいだにも存在したし、職業上、家族上などの古い階層序列を転覆させることでもあった。たとえば、村のはみ出し者やアルコール中毒者を、地元の責任ある地位に昇進させるというような、驚くべき実例を強調する証言は多い。
黒書 改行は、私。

以下は、引用を省略して、箇条書きのようにして、書くことにする。

「オンカーによって権利を回復されたこれらの連中は、指揮する任務を与えられて、良心の呵責もためらいもなしに殺すことができた」

オンカーとは、オンカー・パディワット、革命組織の、略であり、常にほとんど非公然の存在だった、カンプチア共産党の衝立組織だった。

ハイン・ニュルは、この現象のなかに、彼がクメール人の魂のなかで最も卑しい部分とみなすものの、政治的な聖化を見ている。
この部分は、クムという名の、人を殺さずにはやまない、怨恨であり、その恨みはどれだけ時間が経とうと、消え去る事がないものである。

階層秩序を、根底から転覆させた、人々。
あらゆる価値の転倒。

かつては、軽蔑されていた、職業、たとえば、料理人や、漁師が、以後は、最も求められる職業になった。
それは、彼らが、簡単に横流しを許可できたからである。

逆に、あらゆる、免状は、もはや役に立たない無用な書類以外の、何物でもなく、相変わらず、それを、自慢しようとする人々は、警戒の対象になった。

国に、戻ってきた、幹部のあいだで、「最も求められた仕事は、便所掃除だった。・・・嫌悪感を乗り越えることが、イデオロギー的変革をとげた証しだったからである」

オンカーは、家族的な愛情の、絆を我が物とし、独占しようとした。
公の席で、オンカーに対する呼びかけは、「父・母たち」という、集合名詞を使った。

党イコール国家と、成人住民総体との間の混同は、さらに、強く維持されることになった。

1975年後の、革命期は、サマイ・ポック・マエ「父、母たちの時代」という言葉で、呼ばれた。軍隊のリーダーは、「おじいさん」と呼ばれた。

都市に対する、恐怖と憎悪は極端になり、とりわけ、国際色豊かで、消費と歓楽の中心地である、プノンペンは、クメール・ルージュにとっては、「メコンの偉大な娼婦」に、他ならなかった。

首都からの、全面撤退の、正当化する根拠の一つは、「解放後」、アメリカ・CIAと、ロン・ノル政権の、政治・軍事的秘密計画が、「女と酒と金で、わが戦士たちを堕落させ、その戦闘精神を鈍らせ」ようとしているからというものだった。

私が、一月のプノンペンの旅日記に、様々な、虐殺の有様を書いたが、そちらを参考にして、これから書くことを、俯瞰してみて欲しい。

カンボジアの革命家は、「白いページにこそ最も美しい詩が書ける」という毛沢東の金言を、中国人よりもまともに、受け取っていた。

およそ貧農の家にあるはず以上の、物は、すべて捨てるべきだと、されていたのだ。

外国から帰国した人たちは、ほとんど、全部を放棄せざるを得なかった。

ハイン・ニュルは、十歳ばかりの、クメール・ルージュの兵士が、「資本家の本は、もういらない。外国の本は、この国を裏切った旧体制の道具だ。なんでお前は、本を持っているのだ。お前は、CIAか。オンカーの下では、外国の本は、もういらないはずだ」というのを、聞いた。

革命とは、ゼロからの再出発にほかならない。ここから、十分に、論理的に出てくることだが、過去のない者こそが、優遇される立場にいる。
事実「汚れていないのは、ただ新生児だけ」と、スローガンは、断定していた。

教育は、その最も単純な表現にまで、切り捨てられた。
学校は、全く無かったか、あっても、多くの場合、五歳から、九歳までの間、せいぜい日に、一時間程度の、読み書きと、革命歌の授業があるだけだった。

「農村地域に住むわれわれの子どもたちは、常に、有用な知識を身につけている。彼らは、おしなしい牛と、神経質な牛を見分けることができる。彼らは水牛の背で、前向きにも後ろ向きにも身体を保っていける。彼らは群れを導くあるじだ。彼らは、事実上自然の主人になったと言ってもよかろう。彼らは、米の種類も、熟知している。・・・こういうタイプの知識そこ、わが国の現実に、ぴったり適合したものだ」

当時、権力の座にあったのは、ポルポトなのか、子どもだったのか・・・
という、疑問が、出るほど、兵士の大部部分が、極端に若かったことを、確認している。

彼らは、十二歳になると、時には、それ以下でも、軍に関わっていた。

リー・ヘンは、ベトナム軍が到来する直前の、対象を新人民にまで拡大した最後の、徴募キャンペーンのことを語り、彼らは、十歳から、十八歳までの、少年だけではなく、少女にも、対象を広げていたという。

しかし、この呼びかけが成功しなかったので、青年移動隊は、労働現場で働く子どもをまるごと、軍隊に移したという。

兵士になった若者は、家族、一般に、自分の村との接触を、一切失った。
そして、権力から、ちやほやされたので、自らが全能の存在であると、知っていた。

事実、幹部より、粛清に遭う恐れは、少なかったのである。

脱走兵の告白自体を借りて、多数の少年兵の本音の動機を言えば「働かなくても、いいことと、人を殺せること」に、帰する。

とりわけ、十五歳未満の兵士が、最も恐ろしかったという。
それは、教えられたのは、規律だけだった。ひたすら、革命に従うべきであり、いかなる正当化も必要なかった。
彼らは、宗教も、伝統も、信ぜず、ただ、クメール・ルージュの命令だけを、信じた。だからこそ、彼らは、赤ん坊まで含めて、わが同胞を、蚊でも潰すように、殺したのである。

戦慄するしかない状況である。




posted by 天山 at 00:00| プノンペン二度目の悲しみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月12日

プノンペンの悲しみ 12

1978年までは、兵士は、もっぱら「70年代」だった。
「75年世代」の子供たちは、八、九歳の頃から、しきりにスパイとして、使われたが、体制側に与する度合いは、極めて弱く、スパイする相手との間に、しばしば一種暗黙の共犯意識が生まれ、それとなく、こちらの正体を、相手に知らせることさえあった。

それより、少し年上だと、地元幹部の大量粛清のあと、彼らは時に、補助的な「子ども民兵」や、新たな共同組合長所属の、補充兵になり、食料自給の罪を犯した者を突き止め、逮捕し、滅多打ちにする任を与えられた。

ロランス・ピックの経験によれば、中央では、「子ども独裁」が、時を経るにしたがって、民間人の組織・統率の領域にまで拡大されていくよう、保障されていたという。

彼女は、述べている。
「幹部の第一世代は、裏切ったし、第二世代も、それより劣ることはあっても、優れることはなかった。そういうわけで、君たちこそ、急いで、その後を継ぐよう求められているのだ。・・・この新しい世代の中から、子ども医師が出現した。九歳から十三歳までの、六人の少女だ。やっと、字が読める程度だったが、党は、その一人一人に、一箱の注射器を預けていた。彼女らは、注射をする任務を与えられていた。・・・

わが子ども医者は、農民出身だ。
彼らは、自分たちの階級に奉仕する覚悟が、出来ている。彼らは、驚くほど、頭がよい。赤い箱に、ビタミン剤が入っていると言いさえすれば、彼らは、いつまでも、それを覚えているだろう。
注射器を、どう消毒するのかを見せれば、彼らは、その通りにする事が出来るだろう。

少女たちは、純粋だったことは、疑いもない。がしかし、注射を扱えるという、ノウハウがもたらす陶酔感は、勘定に入っていなかった。
子ども医者たちは、たちまちのうちに、前例のないほどの、傲慢無礼さを見せるようになった」


カンプチア共産党の意志に、意識的にせよ、無意識的にせよ、逆らう可能性のあるものは、一切、存在しては、ならなかった。

どんな、些細な、党の決定にも、無謬性のドグマが結びついていた。
逮捕された者は、身動きもとれぬ、もとにおかれた。

中国におけると、同様、逮捕されたこと自体が、彼に、罪があることの、証拠なのであり、後から、自白が行われるとしたら、それは、オンカーが決定した、逮捕という行動を、更に、正当化する役割をもつばかりだった。

「民主カンプチアにおいて、輝かしいオンカー体制の下、われわれは未来を考えなければならない。過去は葬られた。”新人民”はコニャックや、高価な服装や流行の髪形を忘れなければならない。・・・われわれは資本家のテクノロジーを全然必要としない。新しい体制のなかでは、もはや子どもを学校にやる必要はない。農村こそ、われわれの学校なのだ。大地はわれわれの紙であり、鍬はわれわれの万年筆だ。耕すことによって、われわれは書くのだ。証明書や試験は不要だ。耕すこと、農水路を掘ることを学べ。これこそ君たちの免状なのだ。そして医者、これもまたわれわれには必要なくなった。もし誰かの腸を取り除く必要がある時は、私自身がそれを引き受けよう」

「簡単なことさ、分かるよね。そのために学校に行く必要などない。技術や教授といった資本家の職業ももう必要ないのだ。われわれに何をすべきか教え込む学校の教師は必要ない。彼らは皆腐りきっている。われわれに必要なのは、ただ畑で一生懸命働こうとする人々だけだ。しかしながら、同士諸君・・・労働と犠牲を拒否する連中がいる。・・・よき革命家の心性をもたない扇動者たちがいる。・・・やつらは、同士諸君、われわれの敵だ。その幾人かは、今晩、ここにもいる」

延々と続く、このような演説を聞くのである。

演説と、踊りは、何時間も続いた。最後に、幹部全員が、一列に並んで、声を一つに、叫んだ。

「血で血に、復讐を」
「血」という言葉を発するとき、彼らは、拳で胸を叩いた。
「復讐」を叫ぶとき、彼らは、胸を上げ、拳を突き出して、敬礼した。

「血で血に、復讐を、血で血に、復讐を」
野蛮な決意に凝り固まった顔で、胸を叩くリズムに合わせて、彼らは、スローガンを叫び続け、この恐ろしいデモンストレーションの最後を、響き渡る叫びでしめくくった。
「カンボジア革命万歳」

こういう、光景を見ることは、無い。
しかし、ある種の、狂信に取り付かれた、集団は、時に、このような集会を、重ねることを、知っている。

ここにあるのは、狂気のみである。
主義も、主張も無い。
それは、信仰に満ち溢れて、恍惚として、磔にされる、殉教者の心持にも、似る。
陶酔感。

あらゆる、人間の考え方、思想、哲学、そして、宗教に、獲り憑かれた人間が見せる、狂気である。

ただし、殉教者の場合は、殺されるが、彼らは、殺すのである。

この、カンボジアの悲劇を知ることから、歴史を見ることで、人間の蒙昧さを、観ることが、出来る。

例えば、南米で、民族虐殺を、行ったスペインの狂気。
それは、キリスト教という思想によって、その野蛮が、成り立った。

アメリカに渡った、清教徒たちの、インディアン虐殺も然り。

オーストラリアの、原住民を、劣った民族として、非人間的に、扱った、イギリスの傲慢な行為。

何も、共産主義によるものだけではない。
一神教の宗教は、すべて、この狂気を持つ。

イスラムが行った、シルクロードの、仏教徒に対する、虐殺、キリスト教による、植民地政策の、虐殺。

異教徒は、殺せ、というのは、革命に反する者たちは、殺せ、と、同じなのである。

何故、人間が、このような狂気に、陥るのか。

そこには、差別と、狂信がある。
それは、すべて、人間が、考え出した、言葉による、観念なのである。

白人主義だけが、野蛮なのではない。
色付き人間も、どこもかしこも、野蛮なのである。

歴史は、その野蛮さの、証明である。

戦争回避のためには、この人間の持つ、野蛮な心根を、何かによって、取り除く、あるいは、変容させなければならない。

その方法は、知恵でしかない。
人類の、英知の進化を、信じる。

クメール・ルージュについては、また、カンボジア旅日記の際に、書くことにする。

兎も角、虐殺された人々の、冥福を祈る。

カンボジアの、知的財産である、知識階級は、ほとんどが、消滅した。いや、消滅させられたのである。

posted by 天山 at 00:00| プノンペン二度目の悲しみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月13日

プノンペンの悲しみ 13

プノンペンにて詠める歌

ポルポトの 傷癒えぬまま 人走る
過去を忘れる 如く走るか

拷問の 後引き受けて 老婆立つ
ふるえる体を 杖でささえつ

プノンペン 夕暮れ時の 屋台にて
国籍忘れ 麺をすすりつ

子どもらに 衣服渡して 今日終わる
手渡すごとに 気を使いつつ

相済まぬ 古着なれども 新しき
ものになれよと 手をかけるなり

大いなる やわらぎの元 行くことの
大和心を 我は伝えし

アジアなる 
賭けるこの熱 何処からか 来るものとはと 
我は知らずに

プノンペンから、バンコクに戻り、有名なパッポン通りのホテルに、一泊する。
コータが、翻訳したものの、著者が、通った場所にて、取材したいとのこと。

日本街のようである。
日本語の看板、日本語の、誘惑・・・

だが、私には、あまり声を掛けてこない。
理由は、怖い顔をしているらしい・・・とは、コータが言う。

翌日、地下鉄乗り、早々に、ミニバスで、パタヤに向かう。
今年の最後は、パタヤである。

もう、何度、来たことか。
何もしないが、楽しい。
特に、私は、市場に行くのが、楽しい。

タイの人たちと、一緒に、市場の、食堂で、食べる。
100円以内で、腹いっぱいになる。
タイ語が、出来ないから、指で、おかずを指して、ごはんにのせてもらう。
時に、少し苦いスープを頼む。

いつもの、ゲストハウスは、シーズンにもかかわらず、50バーツ安く、600バーツである。1800円。
二泊した。
すると、いつもの、受付の、お兄さんが、えっ、二泊で、帰るのと、尋ねてくる。
来年の三月に、また、来るよと、私。

その、二泊で、私の発見は、いつも、支援していた、カンボジア流民の親子の、ことである。
子どもの着ているものが、やけに、真新しいのである。
といっても、タイのものである。

私が渡している、衣類とは、違う。
誰が、新しいものを、用意しているのか。

実は、この、流民のことを、追跡した、ルポライターがいる。
どうして、入国したのか・・・
どこに、寝泊りしているのか・・・
ところが、最後の最後で、不明なのである。

その背後に、どんな組織があるのか・・・
以前、彼らに、支援物資を、渡していた時に、若い女性が、私たちに、お金は、渡さないでと、教えてくれた。
食べ物や、衣類は、渡しても、いいと。

つまり、お金は、誰かに、取られる。
その誰かが、わからないのである。

追跡は、途中挫折した。

つまり、それ以上は、危険な世界なのである。

今回は、渡すものが、無いので、私は、ただ、様子を見るだけだった。

ただ、母親の衣服は、相変わらず、粗末で、着古している。

さて、パタヤでの、楽しみは、マッサージである。
以前、新しく出来た、ボーイだけの、マッサージ店に入って、ともて、満足したので、再度、出掛けた。

ゲストハウスから、すぐ近くである。
ところが、建物は、あるが、看板が変わっていた。
要するに、店じまいしていた。
残念。

ボーイマッサージは、二種類ある。
真っ当に、マッサージをするためと、男相手の、エロマッサージ、ゲイ専用のマッサージである。
それらは、夕方から、はじまる。

だが、その店が、無くなったので、私は、他に、真っ当な、ボーイマッサージを知らない。

マッサージ店は、多々ある。
その並びにも、マッサージ店が、幾つもある。

しょうがないと、その並びの店に入ることにした。
それは、賭けである。
新しい店で、良い場合も、悪い場合もある。

一つ目を過ぎて、二つ目の店の前の、ベンチに腰掛けて、さて・・・と、メニューを見る。それぞれ、値段が違うのである。
オイルマッサージが、300バーツは、安いと、思った。
タイマッサージ、フットマッサージが、250バーツ。

今度は、誰にするか。皆、女の子である。
きつい顔の、マッサージ嬢を選んだ。
それも、オイルマッサージであるから、賭けである。
単に、撫でられると、具合が悪くなる。

性格の荒い子がいい。強く揉むからであるとは、私の偏見。

二階に案内されると、奥に、すでに、客がいた。
カーテンで仕切られた、個室のような場所である。

全裸になり、タオルを腰に巻く。
背中からである。

隣は、白人の老人のようである。
最初は、静かに揉まれていたが、途中から、老人が、ウッとか、ワッとか言う。
痛いのだろう。
そのうちに、何やら、マッサージ嬢と、話し始めた。

その話しを聞くともなく、耳にしていた。
私の方は、ハズレである。
オイルをたっぷりと、塗るが、ただ、撫でるのである。

手抜きのように、感じる。
または、疲れているのである。

だから、隣の話を耳にして、気をそらしていた。

訛りの強い英語である。
じいさんは、色々と、質問を始めていた。
一回のマッサージでの、取り分が、70バーツである。
210円。客が無ければ、収入は無い。とても、大変な仕事である。

さて、後半になると、じいさんは、饒舌である。
そして、何やら、よく解らない話しを始めている。
その内容が、嬢を口説いていると、感じたのは、後半である。

じいさんが、孫のような、女の子を口説く。驚きである。

posted by 天山 at 00:00| プノンペン二度目の悲しみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月14日

プノンペンの悲しみ 14

白人じいさんの、マッサージ嬢を、口説いている現場に、出会った、私。

自分の、オイルマッサージが、二の次になった。
耳が、だんぼ、である。

私の体は、ひっくり返されて、胸から、腹を、撫でられている。

じいさんは、最後まで、食い下がり、口説いている。
そして、マッサージが、終了した。それでも、話しは続いている。

しかし、結局、曖昧なマッサージ嬢の返事である。
そして、断り。
じいさんは、カーテンから出た。

そして、何と、後片付けをしている、マッサージ嬢に、また、戻って来て、話し掛けた。

その、押しの強さ。
ついに、である。ついに、じいさんは、明日の午後11時にという、約束を取り付けた。
私は、幾らで、話をつけたのか・・・と、耳をそばだてたが、聞こえない。
きっと、手や、指で、示したのだろうと、思う。

なんとも、はや、白人じいさんの、ド根性である。

私は、呆れるよりも、たまげた、のである。

気づくと、私は、マッサージ嬢の膝の上に、頭を置かれて、顔マッサージをされていた。

タイ人は、押しに弱い。
何かにつけて、曖昧なタイ人である。
まあ、いいかっ、ということになる。
それは、一種の良い意味の諦めのような、感覚である。

日本人と、似ているが、それは、全く別のものである。

日本人の曖昧は、協調性を重視するもの。
タイ人のそれは、どうでもいいのである。

ほよど、苦痛とか、苦労をすることは、しないだけ。

私は、それを見て、全く別のことを、思い出した。

タイパンツを、買おうかと思い、店の前に立った。
ハウマッチと、一つのタイパンツを手にして、尋ねた。

売り子の女の子は、電卓を持ってきて、200を示した。
600円である。
少し、他のパンツも見る。
そして、私が、後でまたと、思い、離れようとした時、女の子は、180の電卓を見せた。
それでも、私がウンと言わないので、150バーツに、落とした。

150円も、安くなる・・・
そこで、私は、アフターと言って、立ち去った。

もしかしたら、120バーツくらいに、持ち込めるかもしれない・・・
私は、そんなことを、考えた。
タイ人の、弱みを突く。

私の、マッサージも、終わりに差し掛かり、座らされた。
最後の、肩揉みである。

オッケー、コープクン、カー
終わった。

全然、利いていない、オイルマッサージだが、私は、実に得した思いになった。
あの、白人じじいの、迫力と、押しの強さ。あれを、見習おう。

その時、横浜支部から、電話である。
全裸のままで、話をしていた。

マッサージ嬢は、後片付けをするために、話しが終わるのを、待っている。

結構な長話になった。
他の客も、入ってきた。

そして、話しが終わり、衣服を着ようとした。
マッサージ嬢が、ムッとした顔で、私の股間を指した。

えっ
そして、ある仕草をした。
500バーツでするという。

パタヤでは、よくあること。
オッケーオッケー、ノータイムね

今回は、コータも、おばさんマッサージ嬢から、誘われたというから、皆、売り上げが、減っているのだと、結論付けた。

私の断り方は、オッケーである。
普通は、オッケーは、いいですよ、であるが、そう思わせて、断るのである。

日本語にすると、わかった、わかった、今、時間がないの・・・である。

コータは、お金が無いとのことで、断ったと言う。

お金がなければ、どうしようもない。
だが、私は、お金が無いと、言えない。
日の丸の、大きな財布を持参してきているのである。
信じないのである。

ちなみに、映画などでも、見ることがあると思うが、海外では、決して、否定的な言葉を、使わず、断るべき。

詐欺に騙されそうになった時も、私は、オッケーを繰り返し、逃げる。

わかった、わかった・・・・

そして、足早に去る。
こうして、パタヤの、時間は、過ぎていった。

この、旅日記も、ここで、おしまい。

ちなみに、私は、パタヤで、イカの、干したものを、買う。
色々な、種類のイカが、あるので、楽しい。
日本で言えば、裂きイカもある。少し、辛いが、美味しい。
市場で、買うので、とても、安いのである。

日本に帰り、毎晩それを、食べている。

本当に、おしまい。

posted by 天山 at 00:00| プノンペン二度目の悲しみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。