2010年12月01日

プノンペン二度目の悲しみ

カンボジア、プノンペンには、今年の一月に、はじめて、出掛けた。
その時は、プノンペン郊外の、キリングフィールドを訪れて、ポルポト政権下の、虐殺された人々の、慰霊を行い、孤児たちの家と、ニコニコハウスという、ストリートチルドレン、更に、貧しい子供たちの世話をしている、団体に、支援した。

今回は、二度目である。

今年の、最初と、最後が、カンボジアになった。

三泊の予定は、前回見つけた、ゲストハウス、である。
一泊、15ドル。
新しいゲストハウスで、部屋も、綺麗だ。

ゲストハウスといっても、ホテルと、変わらない。
だが、ホテルより、十分に安い。

成田から、行きは、直行便である。
帰りは、ベトナム、ホーチミンで乗り継ぎ便。
これは、マイレージで、出掛けたため、出来るだけ、安くするための、方法だった。

バンコクで、三日過ごして、プノンペンに出掛けた。

今回は、プノンペンから、車で、一時間半かかる、ウドンという町に行く。
そこで、ポルポト政権の施設跡で、慰霊をする。
慰霊碑は、矢張り、遺骨が、盛られていた。

その前日は、ニコニコハウスに約束した通り、子供たちの衣服を持参する。

到着した日は、夕方である。
二人で、50キロ程度の、衣類と、文具を持参した。
バッグが四個で、それぞれの、手荷物バッグが、二つと、計、六個である。
これが、大変なのである。

バンコクからの、格安航空では、矢張り、加重だと、言われて、衣服の袋を出して、機内持ち込みにした。

まあ、予想していたことである。

一時間程度で、プノンペンに着く。
バンコクからだと、国内線並みである。

入国時に、ビザを取る。
その様子は、あまりに、原始的というか、手作業である。
一度、それぞれの、パスポートを預ける。
それを、次の、コーナーで、受け取り、20ドルを支払い、パスポートを受け取る。

マイクなどない。
軍服を着た、おじさんが、名前を読み上げるから、おかしい。
誰のことを、呼んでいるのか、解らない場合もあるが、客は、苦笑しつつも、待っている。

いつまで、この状態が、続くのかと、思ってしまう。

さて、ゲストハウスまでは、車を利用する。
私は、バイクタクシーと、思ったが、車のおじさんが、9ドルで行くと、勧誘してきたので、まあいいかと、乗ることにした。

案の定、ゲストハウスに到着して、10ドル札を出すと、お釣りがないと、くる。結局、10ドルになるのである。
通常料金と、同じ。

バイクタクシーだと、5ドルである。安い場合は、4ドル。

バイクタクシーは、トゥクトゥクと、呼んだほうがいい。
バイクの後ろに乗る、バイクタクシーもある。

フロントの、お兄さんが、変わっていた。
はじめて見る顔である。
しかし、サービス精神は、健在。

皆、流暢な英語を話す。
英語が、出来なければ、仕事が出来ないのである。

一月に着た時と、同じタイプの部屋である。

兎に角、落ち着いて、ホッとする。
暫く、呆然として、休憩である。
なんと言っても、荷物が多いのが、大変なのである。

本日は、何もしない。
明日、ニコニコハウスに行き、明後日は、慰霊と、最も、迫害を受けたといわれる、チャム族の村に支援に行く予定である。

飛行機に乗る前に、昼ご飯を食べていた。
格安航空は、何もでないのである。
機内で、買う。

だが、疲れると、食欲が無くなるので、丁度良かった。
後は、夜のご飯を食べるだけである。

コータが、散歩に出掛けるが、私は、部屋にいた。
そして、ホテルには、無料の水があることを知る。

一階、ロビーに、無料の水が設置されていて、買う必要がない。
これには、助かった。

部屋に、サービスとして、置かれたペットボトルに、何度も、入れて、利用した。
旅の最中に、頻繁に買うのが、水である。
水道の水が飲めないからである。

飲んでもいいが、現地の人も飲まない水を飲むと、どうなるか・・・
まず、下痢をする。甚だしい場合は、水当り、そして、とんでもない、細菌に侵される。

更に、暑い国では、特に水が必要である。
脱水症、熱中症などにならないため、である。

食べ物より、気を使うのが、水である。
ホント、水はいのち、である。


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2010年12月02日

プノンペンの悲しみ 2

夜の食事は、屋台で、食べることにした。
夕方から、道に、屋台が出る。それが、プノンペン式である。いや、タイでも、そうだ。
勿論、レストラン、食堂もある。

だが、庶民は、皆、屋台で、食べるか、そこで、買って、家で食べている。

一ドルが、4000リアル。
二人で食事をして、4000リアル程度で、済む。
つまり、80円程度である。

ドルは、とても、弱くなっている。
日本円が強い。

私は、以前のお金を持っていたので、50ドル両替して、十分だった。それでも、余っている。

少し、割高の食堂では、一人、7000リアル程度になる。
衛生面では、そちらがいいと、思われる。

屋台の、食器洗いを見ると、食べるのを、戸惑う。
水が少ないので、流し洗いはしない。

洗剤を入れた、桶、そして、二つの、濯ぎの桶である。
その水で、繰り返し洗う。

プノンペンだけではない。
タイでも、ラオスでも、ベトナムでも、そうである。

私たちは、それに、慣れた。つまり、細菌に免疫が出来たのである。
ただし、焼いて、売っているものは、再度、焼きなおしてもらう。
そうしないと、食中りする場合もある。

それを、説明していると、先に進まないので、省略する。

夜は、屋台が盛んで、それらが、終わると、本当の夜になる。
プノンペンも、夜の飲み屋が、盛んになっているので、次は、そちらが、メインになる。

私は、遠慮する。
コータが出掛けて、現地の若者たちと、話しているようだ。

時々、その話の内容を聞いて、私も、参考にしている。

その夜は、二人共に、シャワーを浴びて、床に就いた。

寝て、疲れを取る。
それ以外に、方法が無い。
兎に角、眠ることである。

翌日は、王宮近くの、ニコニコハウスに、昼過ぎの、三時頃に伺うことにした。
先方には、連絡していない。
前回は、子供たちに逢えなかったので、今回は、逢うべく、遅めの時間にしたのだ。
それが、正解だった。

ホテルで、トゥクトゥクの、バイクタクシーを予約して、三時に来て貰う。
運転手は、ベトナム国境近くの町から、出稼ぎで、出て来ている、おじさんである。三人の子持ちだ。

おじさんに、私たちの、活動の主旨を理解して、貰う。
子供たちに、手渡して、また、戻るのである。

今回は、衣服が中心なので、持ち物が多かった。

ニコニコハウスに、近づくと、丁度、子供たちも、やって来たところ。
こんにちはーと、声を掛けると、彼らも、日本語で、こんにちはーと、答える。

日本の団体が主で、国際ボランティアからの、援助でやっているのである。
日本語の、勉強も少し、しているようである。

建物に入ると、世話役の、若者たちがいる。
先生である。
前回出逢った、先生が二人。

その他に、青年二人がいた。
早速、支援品を、机に並べると、子供たちを、小さな順から、並べさせる。

男女に、分けて、並んだ。

そして、まず、男児から、衣服を渡す。
そして、女児である。
女児たちには、タオルや、ハンカチ類もあった。
先生が、手伝い、子供たちに、手渡す。

結構な時間がかかった。

余った、衣類を私が、バッグに戻そうとすると、まだ、子供たちがいるという。
ここには、夕方組と、朝組の、子供たちがいるという。
総勢、68名である。

4歳から、14歳までの、子供たちである。
靴も持参したが、大きな子のものはなかった。

代表の先生に、特に必要なものはと、前回と同じく尋ねた。
すると、文具である。ノートと、鉛筆。
そして、大きめの靴。
大きな子の、衣類である。

中学生程度の、子供たちの衣類が少なかった。

次の支援の、持ち物が、決まった。
更に、前回、出掛けた、孤児たちの家にも、支援するとなると、大変な量が必要である。
今回は、孤児たちの家には、行かないことにしていた。

明日の、慰霊の後に、チャム族という、少数民族の村の人たちに、支援することにしていた。

兎に角、渡し終えて、子供たちと、写真を撮る。
屈託無く、元気な子供たちである。
また、来るねー
元気でねー

さようなら
さようなら、と、返ってくる。

私は、クメール語では、ありがとうの、オークンという、言葉しか知らない。
日本語で、通した。
子供たちには、勿論、通じている。

支援物資は、まだまだ、必要である。

文具類は、先生が、一つにまとめて、それぞれ子供たちに、渡すようだった。
一人の先生が、文具だけで、まとめて、袋に入れていた。

支援品の、ノート類などは、皆、形が違うのである。
平等に、分け与えることは、できない。

トゥクトゥクのおじさんが、私たちの、バッグを、持って、二台に乗せた。
とても、協力的である。

私は、翌日の、車で、一時間半かかるといわれる、ウドンの町にも、おじさんに、頼んだ。
しかし、コータが、心配する。

この、震動に、耐えられるーーー
と、言う。

私は、料金で、選んだ。
車だと、50ドルから、55ドルかかるのである。
トゥクトゥクだと、30ドルである。
それに、おじさんは、とても、協力的だ。

最初は、渋っていたコータも、それに、同意した。
ところが、本当に、大変な道のりになった。


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2010年12月03日

プノンペンの悲しみ 3

バンコクは、過ごしやすい気候で、観光客も多いと聞いた。
確かに、朝夕と、涼しい風が吹く。

だが、プノンペンは、暑い。
それでも、朝夕は涼しくなるのだか、歩くと暑さを感じる。

屋台の料理が油っぽいので、と、コータが言うので、夜の食事は、地元のオープンレストランで、麺類を食べることにした。

ところが、である。
その、レストランは、朝、昼、夜と、メニューが変わるという・・・
えっ
夜は、鍋ものだけです。

タイスキに似たようなもの。
タイスキも、実は、日本のすき焼きを真似たもの。

コータは、あまり、体調がよくないのである。
そこで、コータは、果物を買って食べた。
では、私は、何を食べたいのか、思い出せない。
ああ・・・

あっ、思い出した。
一人で、屋台の、スープ麺を食べた。
とても、安かったのを、覚えている。

こういうことも、書きとめておかなければ、忘れる。

だが、洗い場を見て、ああっっーーー
見なければ、良かった。
しかし、私は、食中りは、無い。
よほどのことで無い限り、当らないようになった。

部屋に戻ると、コータが、ベッドに横なっている。

どうも、調子が悪いという。

そこで、これから、書き付けることは、私の妄想と、思って、読んで欲しい。

その夜のことである。

眠りについて、暫くしたと、思う。
体が、ジンジンと、痺れてきた。
昔は、それは、金縛りになる状態である。
しかし、今は、金縛りになることはない。
その前に、気づいて、祓う。

その夜は、違った。
ジンジンが、続き、そして、目を開けた。

目の前に、大きな黒い蜘蛛であると、思った。
だが、意識を戻すと、見えなくなった。
霊的存在である。

コータを見た。
すると、目を開けた。

あんた、大丈夫・・・
うん、どうしたの・・・
霊的蜘蛛が、現れた
と、私が言うと、
霊的蜘蛛・・・

とても、太い糸で・・・
全部が黒くて・・・

うーん
私は、考えた。
今まで、慰霊に出掛けた場所では、そんなことは、一切無かった。
逆に、普段の生活のときが、そういうことが、ある。数少ないが。

明日は、ウドンという、古都であった、場所に行き、そこで、虐殺された人々の慰霊を、行う予定である。

約、一万人が、殺されたと、言われる。

もしや
あれは、紐で首を吊るされた人が、銃で、滅多打ちされ、首を落とされた跡ではないか。

と、すると、蜘蛛のように、見える。

極めて、陰惨な殺し方をしたという。
更に、殺す前に、拷問するのである。

いたぶってから、殺す。
とても、人間とは、思えない。
動物である。
肉食動物は、捕まえた獲物を、いたぶる。そして、食べる。

体のジンジンとした、感覚は消えた。
しかし、あの存在は、見えないだけである。覚醒した意識では、見えないが、眠って、こちらが、幽体状態になると、見えるのである。
それが、昼間でも、見えたりする人を、霊能者とか、何とか言う。

霊的存在も、波動であるから、別な波動の人には、見えない。
私は、殺された人の波動は、知らない。だから、見えないはずであるが、見えた。

そのように、殺された人は、今も、そのようにして、存在する。
別次元で。

だが、私には、真っ黒として、見えた。
少しばかり、遠慮したのであろうか・・・

コータは、感受性が強い。
私以上に強いから、何かを感じて、具合が悪い場合、多々ある。

そして、私は、その場で、清め祓いをしては、いけないと、思った。
明日、真剣に、虐殺された人々の慰霊をすることで、私に姿を見せた、その霊位に対することにした。


どんな、激戦地に出かけても、そんなことは、一度も無いことだった。
妄想であり、幻覚として、このことを、書いておく。

ただ、タイに戻り、もう一度、今度は、ただ、丸い黒い姿で、現れた。
その時は、ジンジンもなく、ただ、ああーーーあれだと、思ったが、すぐに消えた。

妄想ついでに書けば、生きている人が、来ることもある。
私の書き込みなどに、大変怒った人が、稀に現れることがある。
それは、想念であるから、確かに、その本人が出てくるのだが、滑稽である。

例えば、怒り心頭で、戦う姿を妄想するので、今どきにない、槍のようなものを持って、やってくる。
勿論、本人の意識は、無い。
無意識の世界の出来事である。

ところが、死んだ人より、悪いのは、中々、引き返さないのである。
そういう時は、私は、一度起きて、暫く、目覚めている。

生きていて、幽霊のようになっているので、私が目覚めれば、どうしょうもないのである。
以下、省略する。



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2010年12月04日

プノンペンの悲しみ 4

共産主義黒書
犯罪・テロル・抑圧――コミンテルン・アジア篇より
第三章 カンボジア・・・目をおおうばかりの犯罪の国で

上記より、引用する。

毛沢東からポル・ポトへいたる系譜は明瞭だ。しかし、まさにこの点で、死のるつぼと呼ぶにふさわしいクメール・ルージュの革命の分析と、いわんやその理解とを困難にする幾多の逆説のうちの最初のものにぶつかるのである。
ほとんど疑いの余地なく凡庸な存在でしかなかったカンボジアの暴君は、気まぐれだが教養ある北京の専制君主と並べるとき、その出来の悪いコピーにすぎなかった。
黒書 改行は、私がした。

この、クメール・ルージュが、歴史に残したものは、何から何まで、血にまみれている。
そして、このことは、単にカンボジアだけの問題ではない。
毛沢東の存在、ベトナム戦争との絡み、などなど、実に複雑である。

だが、それを、検証し始めると、終わらないものになる。
カンボジアの、ポル・ポト政権、クメール・ルージュのみに、焦点を当てる。

結局のところ毛沢東は、地球上で最も人口の多い国に、外国から決定的な援助を受けることもなく、一つの新たな体制を打ちたてる能力を持っていた。しかもその体制の発展可能性は今なお尽きるところを知らない。
他方これとは逆に、長い過渡期―――これはマルクスーレーニン主義の正統理論に組み込まれているはずだがーーーを飛び越して、完結した共産主義を今ただちに適用しようとしたポル・ポトの企ては、おそらくあらゆる時代のなかで最もラジカルな社会変革の企図であったにはちがいないが、これと比較するとき、毛沢東の指導した文化大革命も大躍進も、取るに足らない予習であり、乱暴な予行演習であったように見えるほとだ。
黒書 改行は、私である。

ポルポトの、企図とは、通貨の廃止、二年未満での完全な集団化の完成、所有者階層・知識階層・商人階層総体の壊滅による、社会的分化の廃止、都市を一週間で消滅させて、農村と、都市の間の、数世紀に渡る対立を、解決すること、である。


それにより、ポルポトは、マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東よりも、更に高い位置まで、上がれるものと、信じた。

ちょうど、二十世紀の革命がロシア語を、ついで中国語をしゃべったように、二十一世紀の革命はクメール語をしゃべるようになるだろうと考えていたのである。
黒書

個人的野心、野望が、起こした、とてつもない、革命は、自国民の虐殺である。

生存者の証言であれ、研究者の分析であれ、そこで問題にされているのは事実上抑圧だけだ。唯一提出する価値があると思われる問いは、なぜ、いかにして、このような恐ろしいことが起こりえたのか、というものだろう。
カンボジアの共産主義が他のすべての共産主義を凌駕し、またそれらと相違していることは間違いない。
黒書 改行は、私。

1979年、共産主義を打ち立てた、カンボジアは、ラジカルな共産主義と、絶縁した、最初の国である。

そして、ベトナムによる軍事占領が続いた、その後の、十年間、異様な、人民民主主義国家は、イデオロギー的基礎を、ポル・ポトーイエン・サリ一味のジェノサイドの断罪に求めた。

その時期、一部海外に逃れていた、犠牲者は、口を開くように、奨励された。

1992年以降、国連の保護下で、複数政党制が、確立され、アメリカ議会が、膨大な調査基金の支出に同意すると、研究を巡る、物質的条件が改善された。
ところが、それとは、逆に、カンボジア人同士の和解の意思は、クメール・ルージュの、生き残りたちを、政治の舞台に復帰させるところまで、進んだ。

そのために、エリートたちの間に、憂慮すべき、記憶喪失を招くことになった。
つまり、事実を知ろうとするのではなく、隠蔽することだった。

だが、証言することの、すべての危険をものともしない、逃亡した、カンボジア人は、証言することが、最終目的だった。

いわば彼らの粘り強さこそが実を結んだのである。
今こそ全人類が彼らから、たとえば一月ものあいだ、飢えたまま一人でジャングルをさまよったプン・ヤッタイから、たいまつを受け継ぐべきときであろう。
彼は言う。
「カンボジアのジェノサイドを証言するために、何百万という男、老人、女、子どもの死がどのようにして冷酷にプログラム化されていたのかを語るために・・・、どのようにして国が根こそぎ破壊され、先史時代に投げ込まれてしまったのか、そして人々がどのように拷問されたのかを語るために・・・。私は、生き残った人々が絶滅の淵から逃れるのを助けてくれるよう世界に懇願するために、生きていたかったのです」
黒書 改行は、私。

ここで、カンボジアが、革命まで、行き着いたのは、地理的要素が、大きいということだ。

ベトナム、ラオスと長い国境を持つ。
そして、1964年以降の、拡大を続けた、ベトナム戦争によるもの、である。

その過程については、前回の、旅日記に、書いたので、省略する。

前回、書けなかった、後半の部分を、これから、書くことにする。

カンボジアにおける行き過ぎた残虐さを考えるとき、今世紀の他の大量犯罪についてと同じように、特定の人間の精神錯乱の側にか、それとも人民総体が呆然とするほどまでに陥った幻惑状態にか、そのどちらかに究極理由を求めざるをえない誘惑にかられる。
もちろんポル・ポト個人の責任を軽減することなど論外だが、カンボジアの民族史も、国際共産主義も、いくつかの国々(中国をはじめとする)の影響も、この問題と無関係なものとして葬り去るわけにはいかないだろう。
これらの競合が生み出した最悪の本質というほかないクメール・ルージュの独裁は、明確な地理的・時間的な文脈に規定されていたと同時に、以上の三つの次元の合流点にこそあったのだから。
黒書 改行は、私。

さて、私は、実際に、一月に、キリングフィールドを、慰霊し、今回は、ウドンという、古都での、虐殺の現場で、慰霊を行った。

だが、直接、カンボジアの人たちから、話を聞くことは、出来なかった。
それは、私の、優しさである。
もし、私が、ルポライターとして、取材するという、勇気ある者ならば、道端で物乞いする、老人たちに、声を掛けても、当時の、状況を、尋ねるだろう。
しかし、私は、出来なかった。

およそ、五十代の人たちは、当時は、十歳前の、年齢であり、その様子を知っているはずである。しかし、聞くことは、出来なかった。

思いやり・・・

いや、あまりに、惨い時代を生きていたからである。
裏切り、密告、自分の命のために、人を犠牲にする・・・
そんな話しを、誰が、するだろう。

ウドンの慰霊碑も、キリングフィールドと同じように、犠牲者の、遺骨が、晒されていた。日本人の感覚としては、それが、理解出来ないのである。

せめて、遺骨を土に埋めた、その上に、慰霊碑を建てる、はずである。

誰のものか、解らないが、未だに、その遺骨の、家族や、親類、友人、知人などが、いる場合が多々あるだろうに・・・と、思う。



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2010年12月05日

プノンペンの悲しみ 5

古都、ウドンに行くには、車を使用しなければ、ならない。
ホテルのフロントで、料金を尋ねてみる。
50ドルから、55ドルである。

私には、高い。
それでは、トゥクトゥク、バイクタクシーでは、30ドルだと、言われた。

私は、昨日の、トゥクトゥクのおじさんに、頼むことにした。
コータは、心配した。
一時間半、あの震動に耐えられるか・・・

うーん
何とも言えない。
それに、車より、時間がかかるだろう、とのこと。

ウドンは、1618年から、1866年という、250年間、この地に、王都が置かれていた場所である。
それぞれの、王は、王宮、道路、橋、そして、100を超す、寺院を建設した。
現在も、その一部が残っている。

その仏教寺院遺跡のある、山の下に、ポルポトの施設があり、特に、イスラムのチャム族が、弾圧、虐殺された。
その数、一万人以上である。

そこに、行く間に、チャム族の村があり、私は、慰霊の後に、その村で、衣類支援をと、計画していた。

コータは、体調が悪いが、兎に角、トゥクトゥクで、行くことに決めた。

ゲストハウスを、朝十時に出発した。

プノンペン市内は、とても、空気が悪い。
排気ガスまみれで、更に、喧しいほどの、車、バイクの量である。

30分ほどで、市内を抜けると、次第に、空気が、変わってきた。

だが、矢張り、凄い震動である。
想像以上である。
バイクにつないだ、座席には、バウンドがないから、震動が、体に、まともにくる。
それに、道路は、平坦ではない。
街から、離れれば、離れるほど、悪くなる。

コータは、ずっと、布で口を押さえていた。
私は、辛いには、辛いが、風景を見て、楽しんだ。

ところが、一時間半を過ぎても、着かない。
ああーーー
帰りが、思いやられる。

ようやく、ウドンに着いた頃は、昼を過ぎていた。
つまり、二時間以上かかった。

しかし、バイクが、山の下に向かうと、子供たちが、自転車に乗り、話し掛けてくる。それが、流暢な英語である。
兎に角、親しげに、話しかけてくる、理由が解ったのは、着いたときだ。

遺跡の案内をするというもの。
そして、収入を得る。必要に迫られると、英語も、独学である。
凄い気力を、感じた。

だが、私たちは、兎に角、慰霊碑に向かう。

物売りも、煩いほど、やって来る。
ガイドをします・・・

これでは、先に進まないと、私は、神呼びを、はじめた。
驚いたのは、彼らである。
突然、私が、唸るものだから、皆、サーツと、退いた。

そして、御幣にする、木の枝を取り、神紙をつけて、遺骨の置いてある、慰霊碑に向かった。

太陽が、燦燦と輝く。
太陽に、拍手を打ち、祝詞を唱える。

更に、地場の、産土のカムを、お呼びして、清め祓いを行う。
四方を、祓う。

それは、慰霊である。

この所作は、日本にのみ、ある。
ありがたい。

依り代とする、木の枝に、産土のカムをお呼びして、霊位の、安かれを、願う。
言霊と、音霊、数霊による、清め祓いである。

それは、誰もが、出来ること。
慰霊の思い深くして、手を合わせる。それと、同じである。

遺骨は、まだまだ、あるだろう。
その辺、一帯に、埋まっている。

お送りの、音霊、おとたま、は、渾身の力を込める。

生まれつき、強い霊位を持つ人は、感じない、解らない。
人間が、肉体と、霊的存在と、仮定しての、話である。
少しばかり、感受性が、強いお陰で、私は、少しばかり、霊位のあり様が、解る。

怨念は、極めて激しい。

カンボジアは、立ち上がれないだろうと、思う。
同じことの、繰り返しが、行われる可能性がある。
それは、霊位の状態による。

アンコールワットの遺跡がある。
私は、まだ、見ていないが、その、リレーフの多くは、戦うものだという。

以前は、見たいと、思ったが、今は、見なくてもいい。
クメールの、定めなのか・・・

解らない。
解らないことは、解る必要がない。

解らないことを、解ったというのは、嘘である。

私は、何も、解らないと、思った。

兎に角、私は、慰霊を行った。
それだけ。
それしか、出来ない。

コータに、遺骨の姿が、見えるように、写真を撮ってもらった。

子供たちが、私の真似をして、おー、清めたまえ、祓いたまえと、言っていたと、コータが、教えてくれた。

あの人は、何をしに来たのか・・・
きっと、帰った後で、皆で、噂したであろうと、思う。


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2010年12月06日

プノンペンの悲しみ 6

カンボジアを、理解するために、少し、歴史の流れを、見ることにする。
前回の、旅日記と、重複するものもあるが、はじめて、読む人のために、書く。

前アンコール時代
アンコール時代
後アンコール時代がある

後アンコール時代に触れると、カンボジア王国は、アンコールを放棄し、王都を、スレイサントー、プノンペン、ロンヴァエク、ウドンと、転々と変えていった。

今回は、そのウドンに私は、慰霊に出かけたのである。

15世紀以降、西のシャム、つまり、タイのアユタヤ王朝、バンコク王朝、17世紀以降は、東のベトナムに、領土を徐々に、蚕食されてゆく。侵略である。

16世紀中頃、カンボジア王国は、ビルマとの戦いで弱体化した、アユタヤ王朝に、攻撃を仕掛けることもあった。
しかし、シャムの巻き返しにより、カンボジア王室に、シャム王室の影響力が強まるのである。

更に、王家の内紛、地方官僚の離反などにより、王権が、弱体化し、国力も、衰退する。

18世紀後半、シャムと、ベトナムの攻撃によって、カンボジア王国は、国家滅亡の危機に陥った。
1835年から、1840年まで、アン・メイ王女が、ベトナムに行政権を奪われる。
1841年には、国土が、合併されて、国王が国内に不在になるという、事態になる。

1845年、シャムと、ベトナムの妥協が成立し、1847年、アンドゥオン王が、正式に即位する。国内は、一時的に、安定した。
しかし、実質的には、シャムと、ベトナムに属されていたのである。

そして、シャムと、ベトナムの二重属国関係から、脱するために、アンドゥオン王は、1853年に、アジアに進出した、フランスに接近する。

1863年8月、ノロドム王は、フランスと、保護国条約を結び、フランスの支配下に入った。

1884年の、協約の締結により、フランスによる、植民地体制が、強化される。

1887年、フランスによる、インドシナ連邦の成立と共に、インドシナ植民地の一部に編入される。
1953年の、独立まで、フランスの支配を受け続けたのである。

この当時の、フランスの、支配体制が、カンボジアを遅れた国にしたといっても、過言ではない。

カンボジア人の多数を占める、クメール人の民族意識は、眠ったままになったのである。

そして、第二次世界大戦後、フランスからの、独立を目指す。
多くの、植民地が、この、大戦の後に、独立を目指したことは、事実である。
その、きっかけを作ったのが、日本である。

欧米を敵に回した、大東亜戦争の意義は、大きい。
更に、どんどんと、新しい事実が、出ている。
今までの、大戦の意味が、新たに問われ、日本の存在が、歴史の転換期を作ったことが、証明されるだろう。

カンボジア独立運動の、先頭に立ったのが、1941年、19歳で、即位した、シアヌーク国王だった。

ところが、それがまた、複雑な形相を帯びるのである。

シアヌークは、フランスとの交渉を積極的に進めるが、部分的な自治権のみ、承認される。
完全独立の道のりは、平坦ではなかったのである。
1949年、フランス連合の枠内での、限定的独立を獲得するが、司法権、警察権、軍事権などが、フランスに残された。
そのため、国内では、シアヌークに対する、非難が起きて、地方では、ベトミン「ベトナム独立同盟」系のゲリラや、反共勢力による、活動が活発になる。

シアヌークは、1953年2月、合法クーデターにより、全権を掌握し、フランスとの、直接交渉に当る。
1953年4月、国際世論に訴えて、フランスから譲歩を引き出し、同年、11月、完全独立を果たした。

独立を果たした、シアヌークは、インド、中国、フランスとの関係を重視しつつ、東西陣営の、どちらにも、属さないという姿勢を貫いた。

この、中立外交は、戦乱のインドシナ半島において、ベトナム戦争の戦火を被らずに、平和を維持する、現実的な、政策だったのである。

シアヌークは、内政的には、仏教社会主義を唱えた。
王制と、民主主義、社会主義は、矛盾しない概念であると、主張したのである。

1955年、シアヌークは、王位を父スマリット殿下に譲り、退位した。

その直後に、国民統合を目指して、国家建設を推進する、人民社会主義共同体、サンクムを、結成し、総裁に就任する。

王制と、仏教を擁護しつつ、計画経済政策を導入するというものである。
しかし、その実体は、シアヌークによる、独裁的政治運営であった。

1970年代後半、中国に倣った、自力更生による、経済政策が失敗し、財政が困窮する。と共に、サンクム内における、左右勢力の、均等が崩れた。

1970年3月、右派、ロン・ノル将軍によって、外遊中のシアヌーク国家元首は、解任される。

だが、右派の、政権奪取は、ベトナム戦争の、カンボジア領内への、拡大を招く結果となった。
不幸なことに、カンボジアは、戦乱に巻き込まれていったのである。

ここから、更に、混乱への、道のりが、はじまる。

多くのアジアの、植民地となった、国々は、カンボジアの形相を帯びたといえる。
独立を果たしても、国内の政情不安定が続く。
結局、独裁的指導者が、一度、政権を持つが、混乱を招き、何十年もの間、国が安定しないのである。

西欧の、植民地政策が、いかに、民族差別に基づいたものだったのかが、解る。

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2010年12月07日

プノンペンの悲しみ 7

ロン・ノル将軍のクーデター後、北京に亡命していた、シアヌークは、カンプチア民族統一戦線、の、結成を宣言した。
そして、共産勢力である、クメール・ルージュとの協力関係を結ぶ。
この、クメール・ルージュとは、ポルポト派である。

1970年以降、ベトナム戦争が、カンボジア国内に拡大していった。
1973年以降は、カンボジア人同士の内戦も激化する。
国内は、混乱し、国土は、疲弊する。

1975年4月、クメール・ルージュを中心に、カンプチア民族統一戦線が、プノンペン入りした。
それにより、内戦は、事実上、終結した。

だが、政権を握った、ポルポト派は、急進的な共産主義政策を断行した。
国内は、再び、大混乱となる。

民主カンプチア政府、ポルポト政権の政治は、甚だしいものがある。

様々な、政策のために、カンボジア国内は、混乱し、伝統的な社会システムは、破壊された。
ポルポト政権下の、三年八ヶ月は、カンボジアの国民に、精神的外傷を与えたのである。

更に、ポルポト政権成立から、ベトナムとの、対立が激化し、1978年12月下旬、ベトナム軍が、カンボジア領内に侵攻し、翌年1月、民主カンプチア政府は、プノンペンを放棄して、タイ国境の山岳地帯へと、逃れた。
同時に、タイ国境地帯に、大量の、カンボジア難民が、押し寄せ、難民問題の、端緒となったのである。

この、ベトナム侵攻は、色々と、説明される。
ベトナム人からは、カンボジア人を、救い出したといわれる。
カンボジア人は、複雑である。

ポルポトが、ベトナム人の虐殺も行ったために、ベトナムが侵攻したとも、言われる。

ただ、ポルポトの、支配が、終わったことは、評価できる。
あのまま、悪夢が続けば、カンボジアは、崩壊、または、消滅していたかもしれない。

1979年1月、ベトナム軍に支援された、カンプチア救国民族統一戦線は、プノンペンを解放し、その直後、人民革命評議会議長、ヘン・サムリンが、カンプチア人民共和国の樹立を、宣言した。

一方、タイ国境の山岳地帯に逃れた、民主カンプチア勢力は、ゲリラ活動を展開しつつ、1982年7月には、反ベトナムの、民主カンプチア連合政府三派を発足させて、ヘン・サムリン政権に、対抗した。

結果、中国、アセアンなどに、支援された、民主カンプチア連合政府三派と、ソ連、ベトナムに支援された、カンプチア人民共和国という、二つの国家が、併合することになった。

1980年代を通して、両政権による、内戦が長期化し、カンボジア問題は、東西対立に加えて、社会主義国家間の対立が、内戦の原因を複雑にし、更には、紛争解決の道が、困難なものとなっていった。

これ以後の、歴史については、省略する。

私は、ポルポト政権下の、状況を見詰める。

「クメール革命には前例がない。われわれがしようとしていることは、過去の歴史で一度も成就されたことがない」クメール・ルージュ自身、保護者だったベトナム人から解放されるやいなや、たえず自分たちの経験の唯一無二性を強調するようになった。公式の演説で外国が引き合いに出されることはまずなく、あっても否定的に語られるだけだった。マルクスーレーニン主義の創始者や毛沢東の名前すら、引用されたことは事実上なかったといってよい。
共産主義黒書

以後、黒書より、引用する。

クメール・ルージュの、ナショナリズムは、シアヌークや、ロン・ノルが発展させたものと、同じもので、異様な有様を、発散させていた。

このような自信過剰な態度はとどまるところを知らなかった。「われわれは唯一無二の革命を成就しつつある。われわれのように、市場と貨幣をあえて廃止した国を一つでも知っているだろうか? われわれは中国人をはるかに乗り越え、彼らはわれわれを賞賛している。彼らはわれわれを模倣しようとしているが、まだそれに成功していない。われわれは全世界にとってよいモデルとなるであろう」というのが国外に滞在したことのある知識人幹部の演説だった。
権力から排除された後ですら、ポル・ポトは「1871年のパリ・コミューンを例外として」1975年4月17日が歴史上最大の革命的事件だったと見なしつづけた。
黒書 改行は、私。

これは、最早、狂いである。
日本の、共産主義者たちの、言葉も、同じように、誇大妄想になるのと、同じである。

現実遊離、逃避・・・

手のつけられない、精神病である。
要するに、点ける薬が無いのである。

自ら、破滅するのを、待つ、しかないのである。
だが、三年八ヶ月は、長かった。

更に、悲劇なのは、フランス植民地政策による、捨てられたカンボジア人である。

それは、
この国では、権力をめざしてほとんど絶えることなく抗争を繰り返してきた氏族集団は、みずからの利益になるようなら、外国の介入を呼びかけるのを一度としてためらうことがなかったし、また誰ひとり経済発展について真剣に問題提起をした者もなかったように思われる。そういうわけで、企業といえるほどのものも、中産階級も、技術者もほとんどなく、ただ生きていけさえすればよいだけの農業が圧倒的優位を保ってきた。
要するに、東南アジアのなかですぐれて「病人」だった国なのだ。
黒書 改行は、私。

ポルポトの、クメール・ルージュは、極端な、非現実主義だったといえる。
それが、他人への、妄想的な不信感を生み、自らの能力の、誇大妄想的な、過信を生む。

そして、それが、稀に見る、残虐振りを発揮した。
殺すのではない。
嬲り殺しにするのである。
殺人を楽しむのであるから、狂人である。

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2010年12月08日

プノンペンの悲しみ 8

追悼慰霊を終えて、私たちは、また、バイクタクシーに乗り、元の道を戻った。
その時、コータが、チャム族の村ではなく、もっと、貧しい場所があるので、そちらに、服を上げて欲しいと、運転手の、おじさんが言うと、教えてくれた。

私は、それでは、それでいいと、頷いた。

もっとも、貧しい村・・・
どんな状態なのか・・・

途中の、川の前で、一度止まってもらい、御幣を流す。
スムーズに流れたのを見て、安堵した。

そして、更に、走る。
途中から、右に折れた。
そのからは、田圃が続く。

そして、アヒルの養場などが、見える。

どんどんと、悪路を進む。
とんでもない、揺れである。
それを知っていたら、きっと、出掛けるに、躊躇したであろう。

更に、細い道を、入った。

おじさんが、英語で、何か言う。
コータが、村に入る前に、国の役人に知らせると、言った。
日本で言えば、地方公務員のことであろか。
その村の担当者のことか。

兎に角、到着した。

数名の子どもの姿があった。

私は、支援物資を車から、降ろして、差し上げる準備をする。

すると、どうしたことか、人が、どんどんと、出てくる。
お達しが、行ったのか。

子供たちも、大勢、出て来た。
そして、一つの、家の前の、台の上に、支援物資を並べた。

手当たり次第に、サイズの合うものを、子供たちから、手渡した。
最初は、不安な顔、でも、すぐに、笑顔が、見えた。

ぬいぐるみを、取り出した時は、歓声が上がった。

そうして、次々と、渡していると、おじさんが、コータに何か言う。

もう一つの、部落にも、連れて行きたいらしいと。
そこで、私は、支援物資を、残して、皆さんと、写真を撮ることにした。

後で、思い起こすと、確かに、何も無い、村だった。
あたり一面は、田圃であり、果物などの、樹木もない。
枯れた雰囲気の、村である。

彼らは、田圃の所有者ではなく、田圃などの、手伝いをしたり、町にゴミを拾いに出て、生活しているのだった。

もう一つの、部落も、そうだった。
何も無い。

小屋のような家が、ポツン、ポツンと、建つ。

矢張り、最初は、数名だったが、次第に、人が出て来た。
思わぬ、プレゼントに、戸惑う人たちもいる。
しかし、衣服を渡すと、笑顔である。

一人のおじさんが、出て来た。
さて、渡すものはあるのか。
大半を渡したので、残り少ない。
ズボンがあった。
そして、コータが、着ていた、ジャンバーを脱いで、差し上げた。

おじさんは、喜び、ひょうきんに、おどけて見せる。

私は、ここで、すべてを差し上げようと、全部を、曝け出した。
必要なものを、取ってもらうことにした。

女たちが、それぞれを手にして、自分に合うものを、探し出してくれた。
それも、控え目である。

そして、すべてを、差し上げて、写真を撮る。

その村も、殺風景で、何も無い。
私は、ハバナを少し持ってきていたので、それらを、子供たちに、渡した。
そんな、果物が、手に入る場所でもないのである。

本当に、何も無い。生活に必要なものも、最低限のようである。

ぬいぐるみが、無かったのが、残念だった。
前の村の子供たちは、本当に、喜んだ。

街に出れば、ぬいぐるみも、売っているが、街に出ることも無く、また、それを、買うための、お金も無いのだろう。

カンボジア
何と、表現していいのか・・・
また、何と、イメージすれば、いいのか・・・

暖かい国だから、辛うじて、生きられる。そんな、感じである。

差し上げた人たちも、喜んだが、トゥクトゥクのおじさんも、喜んだ。
そして、コータが、おじさんも、自分の息子の、衣服を貰ったといった。

ベトナム国境の町から、プノンペンで、バイクタクシーをして、稼ぎ、子供たちを、養い、学校に行かせているという。
自分も、貧しいと言った。

私たちには、涼しいが、おじさんには、風が冷たいという。
乾季であり、確かに、朝夕は、涼しい。
彼らにすると、それが寒いのだ。
更に、バイクで走るので、風を受けるからだろう。

おじさんは、長年着ているであろう、色褪せた、ジャンバーを羽織っていた。

ゲストハウスに着いて、今度来たときに、また、あの村に連れていってくださいと言った。

帰国してからも、あの村のことを、思い出す。

私も、コータも、ぐったりである。
五時間ほどの、行定だった。

三時過ぎである。
しかし、食欲が無い。
暫く、ベッドに体を、横たえた。

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2010年12月09日

プノンペンの悲しみ 9

少なからぬ著者たちはまた、カンボジア民族のある種の特徴がクメール・ルージュによる殺害行動を助長したかもしれないと考えている。
たとえば、結局のところ曖昧な役割を担っていた仏教がその例だ。社会的なコントラストにたいする仏教の無関心や、この世の功罪の報いが来世に引き延ばされるという信仰は、革命的なビジョンを支えるには向かなかった。
しかし、仏教の反個人主義がクメール・ルージュによる「自我」の抹殺にぴったり一致したことは間違いない。輪廻(魂の再生)のさなかにある生活には限定的価値しかないという考え方と、その帰結として、避けがたい運命に直面したときの宿命論とは、体制の暴虐にたいする仏教徒の抵抗を弱めたのであった。
黒書 改行は私

そして、更に
仏教はたしかに激しく弾圧されたが、とにかく、チャム族にとってのイスラムのようには、クメール・ルージュへの抵抗のための防波堤にならなかったのだ。
黒書

最も、強く弾圧を受けたのが、イスラムである、チャム族である。

現在、チャム族の村は、再生されて、イスラム寺院も、建っている。
村を通る道を見ても、過去の出来事は、分からない。

そこから、車で、一時間あまりの、ウドンの施設で、虐殺された、およそ一万人の中にも、チャム族の人たちがいる。

さて、私は、この特殊な、異常性を持つ、クメール・ルージュの性質は、単なる共産主義による、云々というだけではないのではないかと、考える。

すると、矢張り、黒書の中でも、それに、触れている。

アンコール時代(八−十四世紀)に関する文献はほとんど残っていないが、東南アジア半島部のヒンドゥー=仏教王朝はすべて(タイ、ラオス、ビルマ・・・)アンコール王朝をモデルとして構成された。それらの王朝の暴力に満ちあふれた歴史はカンボジアの歴史に似ている。いたるところで、捨てられた妾を象に踏み殺させ、新しい王の治世は彼自身の家族の虐殺をもって始まり、戦いに敗れた住民は荒地へと大量に追放された。
絶対主義がこれらの社会に深く根付いており、いっさいの異議申し立ては冒涜行為の形相を呈したが、啓蒙専制君主はそれにつけ込むことはなかった。
行政構造が非常に弱体だったので、いずれにせよ状況はすぐに行き詰まってしまったのだ。しかしながら、人民の受忍能力はきわめて高かった。中国社会とは違って、救済はむしろ他の国家やもっと僻遠の地への逃亡という形のなかに求められたので、反王権的反乱は稀だったのである。
黒書 改行は、私。

つまり、下地があったということである。
その歴史の中に。
それが、カンボジアの特殊な、いや異常な、形相を形作ったといえる。

シアヌークの治世は、平和的に見えるが、その後半は、左翼、反対派に対する、シアヌークの暴力は、甚だしく、広汎に行われた事実がある。

権力の腐敗を批判する、親共産主義左翼の人気が、高まるのを嫌った殿下は、日刊紙「人民」の編集長を暗殺させたか、あるいは、彼の暗殺を黙認した。
更に、週二回発行のフランス語新聞の、責任者、後の、クメール・ルージュの指導者、キュー・サムファンを、道路の真ん中で、滅多打ちにさせた。

1960年8月、投獄が18件になり、左派の主要機関紙は、発行禁止になった。

1962年、非公然のカンプチア共産党の書記長、トゥー・サモットを暗殺したのは、秘密警察である。

これが、きっかけとなり、サロト・サル、つまり、ポルポトの、指導権獲得が容易に実現したのである。

1967年、サムロート蜂起が起こった。
いくつかの、中国人学校における、文化大革命の影響もあり、これまでにない、厳しい弾圧が発動され、大勢の人の死の原因となった。

公然と活動していた最後の共産主義者と、100人ほどの知識人シンパが、都市を離れ、クメール・ルージュ活動に、合流する。

更に、ロン・ノル大統領の治世は、愚劣な体制の批判者たちを、身動きの取れない状態に追い込んだ。

それが、また、カンプチア共産党だけが、唯一の、信頼できる反対派として、存続させるひとつになる。

しかし、系譜の面から言うと、実情は違う。クメール・ルージュの行動のイデオロギー的基礎と最終目的とは、状況対応的ではなく、レーニン主義に発し、スターリン、毛沢東、ホー・チ・ミンの相次ぐふるいをくぐりぬけた「偉大な伝統」をきわめて正確に踏襲したものだったからである。
独立後のカンボジアの破滅的な変化と、ついでカンボジアが戦争に呑み込まれた事実らよって、カンプチア共産党の過激派による権力奪取が容易になり、彼らが前代未聞の暴力に訴えることが正当化されたことは間違いない。
しかしながら、いかなる外的な状況も、彼らのラジカリスム自体を説明することはできないのだ。
黒書 改行は、私。

ここからが、何が、カンボジアで起こったのかを、知るべきことである。

それは、誰も、どんな国でも、想像のつかない、支離滅裂な、彼らの行動である。

まさか・・・そんなことが・・・
そういう、事実を知ることが、必要である。

そして、二度と、このような、事態が起こらないように、世界が、監視する、システムを作るべきである。

あまりにも、それは、愚かな行動であり、そこから、立ち直るために、費やす時間の長さは、気の遠くなるような、思いがする。

中国の、文化大革命の、支離滅裂さも、然りだが、それ以上に、異常であり、人間が、狂信的に行動すると、何が悪で、善なるのかも、分からなくなる。

更に、驚くべきは、子供たちである。
今でも、アフリカなどの、後進国や、テロリスト養成では、子供たちの兵隊がある。
兵士にされる、子供たちは、悲劇である。

知らぬ間に、簡単に人を殺すことの出来る、人間に、育て上げてしまうのである。


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2010年12月10日

プノンペンの悲しみ 10

トゥクトゥクに、揺られて、慰霊と、支援を終えて、五時間を費やした、私たちは、疲れきった。

シャワーを浴びて、早々に、ベッドに横になる。

コータは、疲れと、何かを感じて、食欲も無いと言う。
私は、それでは、一人で、出掛けて、食事をしようと、思う。

その時の、筋肉痛が、帰国後に出たから、驚いたが・・・

比較的、まともな、地元のレストンに行くことにした。
全く、文字が分からないので、絵にしてある、メニューから、焼き飯を選ぶ。

夕方の、中途半端な時間である。
道は、車と、バイクで、渋滞している。
外を眺めて、ボーっとする。

来年、また、来なければと、思う。
まだ、カンボジアで、行くところが沢山ある。
アンコールワット近くの、田舎に出掛けたいと思っていた。
更に、タイの国境近くの村々である。

タイ側からも、入国できるのである。

焼き飯は、油が違うのか、香りが、違う。
タイのものとは、少し違った感じがした。

コータは、食中り気味でもあった。
どうも、油がきついと言っていた。
確かに、そのようである。

炭火焼以外は、大半の物は、油を使って料理する。
暑い国ならでは、である。

中華料理や、ベトナム料理もある。
前回は、中華料理も、食べに出た。
今回は、カンボジア料理のみである。

帰り道、コータに頼まれた、バナナを探すが、中々見つからない。
通りにある店でも、見つからない。

中小路を入り、店を一件、一件見て歩く。
そのうちに、迷子になりそうになる。
もう一度、ゲストハウス近くの、路に戻り、もう一度、探す。

気づかなかったが、バナナは、上に釣られて売られていた。
一件の店を、見つけた。
先ほど、通った時は、気づかなかった。

一房を買った。
随分と安い。3500リエルである。
傍にいた、男が英語に直して、教えてくれた。
一ドルもしないのである。

コータは、寝ていた。
相当に疲れたようである。

明日、ゲストハウスを二時に出て、タイに戻る。
昼の二時までいても、追加料金がかからないのである。
そんなところが、曖昧で、いい。

私は、何度か、一階ロビーに、水を取りに出た。
大半が、私たちで、飲んでいるようである。

一日、3リットルは、飲むのであるから、二人で、6リットルである。
いや、それ以上に飲んでいるかもしれない。

いつからか、知らずに熱中症にならないようにと、無意識で、気をつけるようになっていた。一度、日本に帰国して、微熱があり、調子が悪いので、病院に行くと、熱中症と、言われて、点滴を受けたところがある。
全く、自覚が無かった。
微熱、風邪という、意識である。

コータは、どこにも、出掛けなかった。
いつもは、夜になると、外出して、色々と、見て廻るのだが、今回は、止めたようである。

私も、早々に、ベッドに就いた。

朝は、早く目覚める。
現地時間で、六時、日本時間では、八時である。
タイと同じく、二時間の差がある。

私は、早速、帰り支度を始めた。といっても、すべての、支援物資を差し上げたので、バッグ類を、一つの、バッグに詰めるだけである。
ビニール袋の使えるものは、持ち帰る。

空港までは、昨日の、トゥクトゥクに乗ることにしていた。
五ドルである。
車なら、10ドル。半額である。

丸四年も、東南アジアを旅して、次第に、旅慣れた。
それぞれの国の、状態を知る。
そして、料金の目安なども、知る。騙されない。

今回は、50ドルを、リエルに両替したが、余った。
現地の人と、同じように、すれば、お金はかからない。勿論、観光旅行ではないから、それでいいのだが。

今回も、観光は、一切無かった。そして、これからも、無いだろう。

帰国して、写真を見ると、現地の様子ばかりである。
どのように暮らしをしているのか、である。

最も、貧しい村の付近は、皆、貧しいようで、その家なども、写していたが、改めて見ると、愕然とする。

だが、人は、生きている。
日本が、いかに、恵まれた国か、よくよく、解るのである。

posted by 天山 at 00:00| プノンペン二度目の悲しみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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