2010年10月17日

チェンマイの風 17

翌日、午後三時、ホテルを出発。
何と、小西さん一家が、見送りである。

小西さんの車に乗り、空港に向かい、そして、搭乗手続きをして、最後の、お茶会である。

空港のレストランにて、全員が、名残を惜しむ。
無口な、奥様も、寂しいと、言う。
小西さんには、最後まで、このようにして、頂いた。

私は、小西さんを、武士であると、認識している。
それに、裏切られたことは、一度も無い。当たり前であるが、これほど、誠実に対応してくださる方は、今時、本当に、珍しいのである。

私たちが、乗り場口に入るまでの、見送りである。

頭を、下げるしか方法が無い。
四名で並び、深く、お辞儀をした。
ありがとうございます

そして、待合室に、向かう。
姿が、見えなくなるまで、小西さん一家は、見送ってくださった。
家族に、幸あれと、祈る。

そして、私たちは、一時間で、バンコク入りした。

辻さんと、千葉君は、初めての、スクンビット通りである。
そして、私たちが、いつも、泊まる、ゲストハウス、一泊、600バーツの部屋に泊まる。1800円。

日本人は、泊まらない、ゲストハウスである。
大半が、アラブ人、インド人である。
そして、近くに、アラブ人街がある。

ナナプラザ、高架鉄道、ナナ駅近くである。

すでに、夕食の時間で、荷物を置いた私たちは、アラブ人街に行き、インドカレーの店に、二人を連れた。

私も、コータも、大好きな店である。
インド人が、経営する、インドカレー・・・

千葉君の、表情が、楽しみである。

それぞれ、カレーを店先で選び、ナンを四枚注文する。

食べ初めて、千葉君も辻さんも、美味しいの、連発である。
千葉君は、一日半の滞在で、三度も、食べたという・・・・

ナンを追加注文した。
二枚。大きいが、すべて、食べた。

明日の夜は、空港で、過ごす。それも、二人には、初めてのこと。

その夜は、それで、精一杯。
うろうろすることなく、ゲストハウスに戻る。

ゲストハウスでは、馴染みの従業員、全員が、ミャンマーからの、出稼ぎの人たち、に、迎えられて、笑顔で、元気・・・日本語で、話す。向こうは、英語と、ミャンマー語で話す。

新しい、ボーイも、いた。
彼には、後で、コータが着ていた、ジャケットを差し上げた。

朝は、ゲストハウス裏、つまり、地元の人たちが、食べる食堂に連れた。
路面に出ている、出店である。

おかずを選んで、ご飯を貰う。
テーブルを、四人で囲み、食べる。
美味しい。そう、美味しいのである。
苦瓜のスープを、注文する。
それも、美味しい。

私が、支払いをした。150バーツ。450円。
私たちは、いつも、こういう食事をしていると、理解した、二人は、安さに驚いている。
そして、それを、楽しめるという、感覚。これは、テラの会の、醍醐味である。

その辺りは、通りに、日本と同じ価格の店が多い。しかし、行くことは無い。実際、何の面白みもないのだ。
地元の人と、同じように、鶏肉の焼いたものと、カオニャオ、もち米を買って、ゲストハウスで、食べることもある。それなら、100円以内である。

更に、昼は、少し歩いて、麺類の店が出るバザーがある。
昼は、銘々で、食べることにした。

その辺りは、道端に多くの、店が出る。
何でも、安い。
だが、アラブ人街では、それの、倍の値段だと、教える。
観光客値段になるのだ。

道を一本変えただけで、現地価格になる。

12時、チェックアウトなので、二つの部屋を、空港に出るまで、使う。
タイに、出たら、日本の価格を、忘れること。
タイの、価格に合わせて、考える。

辻さんの、部屋は、フロントの前の部屋であるから、実に安全である。
24時間、人がいる。

そうして、いよいよ、夜。
辻さんが、もう一度、カレーを食べたいと、言う。
千葉君は、昼もカレーを食べたというが、もう一度、行くという。
私は、付き合うことにした。
コータは、腹の具合が悪いと、部屋にいた。

私も、何となく、満腹感覚である。が、カレーは、食べられる。
そして、食べ終わり、折角だからと、アラブ人街を見て回った。といっても、大した広さではない。道、三本程度である。

そこから、出ようとした時、果物を売る屋台があった。
そこに、マンゴーが、並んでいる。
辻さん、千葉君が、それを、買う。
切ったものではない。そのままのものである。辻さん、三個、千葉君、五個。
えっ、もしや・・・
お土産という。

何も言うまい。

潰さないように。
タイの、マンゴーの美味しさに、憑かれた、二人である。

後で聞いたが、辻さんは、太ったらしい。
えっ、タイで、太る・・・
ストレスが大きかったのでは・・・
いや、楽しかったのだという。

二人は、来年の、話をしていた。
私は、来年は、一度休みたいと、コータに言った。疲れたコータも、そうだね・・・
慰霊と、支援と、コンサート、カレン村の訪問は、少し疲れる。それも、休みなしの予定である。

空港に出る時間まで、ベッドで、休むしかない。
食べ過ぎだ。




posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 73

昭和天皇は民族のコモンセンス(常なる心)を保持していた、などといえば、天皇は日本における特権階級の極みである、だから民俗学の創始者である柳田国男だって「常民(コモンピープル)」の概念規定にあってそこから天皇と被差別部落民を除外したではないか、という反論がとびだしてくるような気がする。「常民(コモンピープル)」ではないものに「常なる心(コモンセンス)」があるはずがない、と。
しかしわたしはいま、学問的な概念遊びをしているのではない。精神(エートス)の話をしているのだ。コモンセンスを「常識」と記すにしても、タイのシンゴラ湾に上陸することは国際法違反だという国際法的な常識を、当時の陸海軍の将軍たちのほとんどが保持していなかった。それを、昭和天皇は保持していたのである。
そして、昭和天皇のコモンセンスは、そういった「常識」を超えて、まさしく日本人にとっての「常なる心」として保持されていたような気がするのだ。・・・
松本健一

学問的な概念遊び・・・
多くの議論が、ここに、極められる。
賢い馬鹿たちである。

さて、近衛は、天皇が、はっきりとものを言わない、だから、評論家のようだと、非難したが、違う。
御前会議で、明確に、断固とした、意思を示したのである。
つまり、和平である。

そして、また、他の者たち、内閣、統帥部の軍人たちも、天皇の意思を知りつつ、黙殺したのである。

天皇の、考えも、受け入れて、結局、帝国国策遂行要領を、可決するという・・・

天皇自身は、その会議のまとめ方にも、不満だった。
会議の後で、木戸幸一内大臣を呼んで、統帥部にも、外交交渉に協力するようにと、仰せられている。

御前会議において、天皇の意思が「和平」であると知って、いちばん衝撃をうけたのは、陸相の東条英機であったろうか。会議のあと陸軍省に戻った東条は、興奮していた。かれは軍務局の将校を大臣室に集めると、会議の様子をくわしく伝え、こういった。

聖慮(天皇の御意思)は和平を希求しておられる。こうなった以上、何としても日米交渉を成功させなければならなぬ。
松本健一

ただ、東条英機という軍人は、このように一時の感情に心を動かせはするものの、その本質は「能吏」であった。「能吏」とは所定の目標を出来るだけ効率よく実現に近づけてゆく才である。そして、それができないとわかったら、目標の解釈を変えて、あたかも目標が実現されているかに思わせる小ずるい才である。
松本健一

東条は、この日から、要領を策定した一人、軍務局長の武藤章と共に、連日、大臣室にこもって、話し合いをした。
そして、武藤に近い立場を、自ら移してゆく。

このままの情勢では戦争になる。天子様がこれは仕方がない。やむを得ないと御納得のいくまで外交に力をいれなければならなくなった。

これは、軍部の戦争準備は、どんどん進めるが、天皇が、仕方がない、やむを得ないと御納得いくまで、は、外交に力を入れて、ゆく、という、考え方である。

更に、天皇は、東条に、9月11日、陸軍の「対米戦争準備」の状況について、天皇に上奏したとき、和平を、念押しした。

陛下のお言葉
御前会議の際の発言によって戦争を避けたい。自分の意向は陸相に明らかになったものと諒解する。

東条は、
思し召しを十分体して交渉妥結に極力努力いたします。

だが、統帥部は、東条の揺らぎを、生ぬるいと、開戦派が、戦争準備を具体的に、進めてゆく。

9月9日、天皇は、杉山からの「対南方動員」に関する上奏を受けて、次のように、おおせられた。
報告はわかった。動員しても対米交渉がうまくいったら、動員はやめるだろうね。

杉山は、
仰せの通りにて結構なり。但し交渉がだらだらと遷延し時日が延引すれば、結局冬期で北方の安全な時期を選んで南方の作戦を行うという基本構想は破る次第なり。これは重大なことにて帝国は非常な困難に陥ることになる。従って交渉も適当の時期に見切りをつけ、最後の決心を要するものと考えあり。

最後の決心とは、開戦を意味する。

参謀本部のとくに作戦担当者たちは、9月6日の決定に盛り込まれていた「十月上旬」という「外交交渉」の限度を既定の事実とみなしていた。そして、9月20日の時点では、「11月16日」を開戦日と想定し、10月15日までに外交交渉の決着をつけてほしい、と要求を出している。
松本健一

政府は、東条陸相までふくめて、天皇の「和平」への意思を認識していた。そのため、及川海相も豊田陸相も、9月6日の決定は統帥部のゴリ押しであり、鈴木貞一企画院総裁に「数字の上からも戦争をできぬと言ってほしい」と懇願したのである。
松本健一

和戦の決定をする、話し合いが、10月12日、近衛の荻窪の私邸で、行われた。

集まったのは、東条陸相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁である。そして、そのときの近衛文麿の政治家としての決断力のなさが戦争への道を決定的にしたのである。この日のことに関していうなら、天皇に戦争責任はないのである。
松本健一

これらを読んで、いくと、自ずから、見えるものがある。

何度も言うが、歴史の必然性と、偶然性である。
和平を望んでも、戦争へと進む、そのモノは、何か。

歴史を、動かすモノである。
それは、人間の意志とは、別物のようである。

人類はじまって以来の、戦争というものを、回避することは、出来なかった。
偶然を、内的必然と、捉える時、人生力というのが、発揮される。

posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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