2010年10月15日

チェンマイの風 15

食事を終えて、本日は、学校での支援をして、そのまま、チェンマイに、戻る予定である。

私は、子供たちに、手渡して、終わると、考えていた。
子供たちは、おおよそ、70名という。
少し心配なのは、全員に渡せるかということだ。

船便で、送っておいた、ダンボール箱が、二つ、バッグが、四個である。

すべてを、車に積み込み、学校に向かう。
その前に、お母さんに、さようならの、挨拶である。
お父さんは、出掛けていたので、会えない。

小西さんの、奥様と、お嬢様も、一緒に、チェンマイに戻るという。
全員で、行動である。

帰り道にある、学校に到着する。
すると、何と、子供たちが、待っていた。
更に、手渡す前に、子供たちによる、私たちへの、歓迎の芸である。

民族舞踊の披露と、竹竿を使った、面白い遊び方を、見せてくれた。

女の子たちは、皆、白い民族服を着ている。

私たちは、四名が、並び、挨拶する。
そして、コータを中心に、王様賛歌を歌うことにした。

更に、辻さんに、さくらさくら、を、歌ってもらう。

五歳程度から、12歳程度までの、子供たちである。
どうも、学校入学前の子供たちも、いるようである。

聞いていた、人数より、多い。
果たして、足りるか・・・

いよいよ、一人一人に、手渡すことになった。
男の子と、女の子を、分けて、私が、男の子、辻さんが、女の子を担当する。

一人一人に、合わせた、衣服、ズボンなどを、手際よく、手渡していく。
小さな子供から、はじめた。

子供たちは、控え目である。
一人、一人に、手渡すという、私の活動。必ず、顔と顔を合わせる。
渡す時に、私は、オッケーと、声を掛ける。
子供が頷く。

次第に、汗だくになる。
日差しも強くなる。

一時間ほど、かかったかもしれない。
最後に、赤ん坊用の、物を持ち上げて、赤ん坊のいる人は・・・と、私が問いかけると、それが、通訳されて、女の子たちが、手を上げる。
その時は、少しばかり、取り合いになったのが、面白い。

そして、更に、大人物もあり、お父さんや、お兄さんのいる人と、問いかける。
手が上がる。

私は、大人物が、別にして、取り分けられているのを、知らず、それも、子供たちにと、思ったが、辻さんが、先生たちに、渡すものだと、教えてくれた。

先生たちも、必要だったのだ。

ということで、すべての、支援物資が、無くなった。

すると、小西さんが、子供たちのために、ギターや、歌を披露して欲しいと、言いに来た。

子供たちが、整列して、座る。

私は、千葉君に、ギター演奏を頼んだ。
野外での、演奏が、どのようになるのか・・・
ところが、ギターの音が、響くのである。
感動した。

更に、辻さんに、歌を披露してもらう。

最後に、先生たちも、呼んで、辻さんは、踊りをつけながら、大きな栗の木の下で・・・を、歌う。先生たちも、それを、覚えようとしている。

三度ほど、繰り返して、先生たちが、覚えた。
子供たちも、立ち上がって、真似をしている。

辻さん、が、後で言う。
バリ島の子供たちと、会った時に、カレンの子供たちも、この歌を知っていると、いいことだ・・・・と。
えっーーーーー

バリ島の子供たちと、カレンの子供たち・・・・
どうして、そんなことが、考えられるのか・・・

距離感覚からしても、会うのは、実に難しいはず。

辻さんの、飛びぬけた、その感覚は、素晴らしいのか、飛躍しているのか・・・
私は、絶句した。

まあ、兎も角、楽しく終わったので、考えないことにした。

車に乗り込み、さようなら、である。
皆さん、また、会いましょう。
子供たちが、手を振る。
先生たちは、頭を下げる。

また、会いましょう。また、逢いたい。

車は、チェンマイに向かった。
私は、急に、眠気である。疲れた。
しばし、揺れる車だが、うとうとする。

そして、ようやく、舗装された路に出た。
カレンの村に来るのは、大変である。
穴ぼこの路を、走るのは、とても、運転技術がいる。

チェンマイ市内に、入り、ホテルに向かう。
同じホテルではない。
コータが、見つけた、新しいホテルは、ナイトバザール周辺のホテルである。
夜が、騒がしい場所。

明日、三時まで、一つの部屋を使用するということで、三つの、部屋を予約していた。
一人、800バーツ。私とコータの部屋は、1100バーツである。
朝食が付いている。

ホテルに着いて、小西さん一家と、最後の、食事をする。
時間は、一時を過ぎていた。

食事を終えて、部屋に入ると、今までの、疲れが、一気に出た。
終わった・・・・・
終われば、あっという間の出来事である。

まさに、人生、そのもの。

いずれ逝く
この世のことを
捨ておきて
何事も無く
あはれ が残る




posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 71

近衛は、日中戦争のはじまる昭和12年から、対米英戦争のはじまる、昭和16年にかけて、三度内閣を組織し、都合二年十一ヶ月に渡り、政権を掌握している。

その、近衛の天皇批判は、深く慎重に受け止めなければならない。

近衛は、日本が日英と、戦争に突入した最大の原因を、統帥権の独立、とした。
そして、その問題を解決しなかったのは、昭和天皇であるという。

この局面を打開するには、陛下が屹然として御裁断遊ばされる以外に方法はなしと・・・
陛下には、自分にも仰せられたことであるが、軍にも困ったものだということを、東久邇宮にも何遍か仰せられたと拝聞する。その時、殿下は、陛下が批評家のようなことを仰せられるのは如何でありましょう、不可と思召されたら、不可と仰せられるべきものではありますまいかと申上げたと承つている。
このように、陛下が、御遠慮勝ちと思われる程、滅多に御意見を御述べにならぬことは、西園寺公や牧野伯などが英国流の憲法の運用ということを考えて、陛下は成るべく、イニシアチーブをお取りになられぬようにと申し上げ・・・
現代仮名遣いにした

日米開戦を阻むためには、天皇が断固として、御裁断遊ばされる以外に方法が、なかったというのである。

それは、天皇が専制的な君主であるべきだということである。

これに対して、昭和天皇は、
どうも近衛は自分にだけ都合のよいことをいっているね
と、批判のお言葉である。

政治の最終責任者が総理大臣であることを考えてみれば、イギリス風の「立憲君主」たらんとした昭和天皇に責任を帰すよりも、まずは近衛文麿に政治の責任を問うべきだろう、とおもわれる。
畏るべき昭和天皇 松本健一

確かに、天皇は、和戦何れか、と言う際に、開戦を回避する努力をしたが、消極的とも見える態度をとったとも、いえる。

その、天皇の消極的と見える態度は、皇太子時代の訪欧に反対する右翼、ニ・ニ六事件のような軍事クーデター、そして、敗戦時の徹底抗戦派によるクーデター計画などに対する、恐れがあった。

天皇陛下の独白録
開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何等異なる所はない。

近衛の言う、天皇親政を否定し、それでは、専制君主と何ら異なるところはない、というわけになる。
立憲君主としての天皇は、内閣の決定を裁可して、開戦に同意するしか方法がないということである。

天皇陛下独白録
今から回顧すると、最初の私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら無条件降伏に対し、「クーデター」様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に私が「ベトー」を行ったとしたならば、一体どうなっていたであろうか。・・・
国内は必ず大混乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びることになったであろうと思う。

私は、色々と、調べる前に、この陛下の言葉の通りのことを、思った。
当時の状況では、戦争に反対すれば、陛下のお命さえも、危ういものだったと、思うのである。

松本健一氏は、
つまり、天皇の怖れはーーーもしじぶんが開戦の閣議決定を裁可しなかったら、ニ・ニ六事件のような軍事クーデターが起き、果ては軍人たちに受けのよい秩父宮を皇位につけて、やみくもに開戦に走ったのではないか、というものだった。
と、言う。

近衛は、GHQから逮捕状が出ると、服毒自殺をした。
それを、聞かれた陛下は、
近衛は弱いね
と、仰せられた。

天皇とすれば、じぶんの一存で進退を決する近衛を羨ましいとおもう一方で、民族を戦争へと引き込んだ政治に対する「責任」というものは、一人が「自決」すればすむような軽いものではないぞといいたかったにちがいない。
松本健一

天皇の戦争責任問題は、敗戦後の、一つの大きなテーマになっていた。
声高に、天皇の戦争責任を言う者も、多数いた。
しかし、今、歴史の史実が、明るみにされて、更に、敗戦後60年辺りから、どんどんと、資料が出てきた。

皆さん、お勉強不足ではなかった。
事実の、情報不足だったのである。

これから、しばらく、松本氏の、畏るべき昭和天皇から、事の次第を見て行く。

以前に書いたことが、更に深まるはずである。

そして、もう一度言う。
歴史は、必然か、偶然か・・・
歴史に、必然的なものがあるならば、戦争という、ものも、その一つにある。
歴史の進化が、それを求めることもある。

更に、偶然の産物だとしても、そこに、人間の意志が介入する。
矢張り、必然というしかない。

人間が、起こすことは、必然なのであり、そこに、偶然というものが、介入するならば、それは、偶然性という、不可抗力である。

その、不可抗力を、どのように、捉えるかに、人間の人生力がある。

偶然を内的必然と、捉えるとき、人間は、人間としての、知性、理性を持って、思索することができる。

歴史を、内的必然として、捉える。
そこから、歴史が輝くように、見えてくる。
私は、そのように、思う。

posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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