2010年10月13日

チェンマイの風 13

道に迷い、ビルマからチェンマイに向かっていた、一人の若い日本兵の、追悼慰霊は、朝の光の中で、行いたいと、考えていた。

皆が、起きてきたので、食事の前に、慰霊をしますと、言う。
私は、早速、慰霊の準備を始めた。
それは、小西さんの、家の庭で、行うと、考えた。

その兵士の埋められた場所が、解らないのであれば、何処でも、同じであると。

ところが、小西さんが、その山裾まで、行くという。
奥様が、その場所を知っているのだそうだ。

それではと、車に乗り込む。

ところが、中々、その場所に到着しない。
どんどんと、山奥に入り、田圃が、広がり、川が流れる場所まで来た。

更に、車を降りると、奥様の案内で、道無き道を、歩く。
川も渡る。
四本の竹で出来た、橋を渡る。

ゆらゆらと、揺れる橋を渡る。
そして、更に、田圃の中を、歩く。

目の前に、小高い山が見える。
それに、向かって歩く。
私は、その山裾に、埋葬されたと、思った。

朝露の中を歩く。

奥様が、あの、山の辺りですと、言う。
私は、この辺で、いいですよと、声を掛けた。

丁度、太陽が、昇り始めて、光に満ちている。

昨夜、酒を飲みすぎた私は、あまり、声が出ない。

日の丸を、辻さんに、掲げてもらい、御幣を、奥様に、預けて、皆で、太陽を拝する。

そして、慰霊の儀である。

神呼びをする。
祝詞を差し上げ、更に、その途中で、亡き兵士に、語りかけた。

ここで、亡くなられた、あなたのことを、忘れません。
私たちは、そのために、やってきました。
どうぞ、私の音に乗って、古里、父母の元へ、また、靖国へ、あなたを、待つ人たちの、ところへ、お戻りください。

清め祓いの、言霊、音霊を、数霊を唱えて、更に、祝詞を続けた。
そして、お送りの、音霊で、深く追悼と慰霊の儀を、行う。

私の心に、入ってきた、イメージは、感謝の思いと、空を見上げて、亡くなられたということである。

インド、インパールから、撤退し、ビルマの山を越えて、タイに入り、チェンマイを目指した。多くの兵士が、そうである。
だが、隊から、離れて、一人、黙々と、歩き続けた。
タイの、国境を抜けて、歩きに歩いたが、その場所が、解らない。
力尽きて、カレンの村に入り、懐かしい、田圃の中で、息絶えた。

はかなくもあはれ

せめて、村人に出会っていれば、助けられたはず。
村の中に、入らず、迷い、田圃の中に、入ってしまったのである。

あはれである

深く、黙祷を捧げて・・・

退路は平坦な水田地帯がひろがり、日中の撤退はおそらく死をまぬがれない。満月にちかい月が煌々と冴え渡り、付近を青白い風景に浮き出させた。
弓兵団インパール戦記 井坂源嗣

撤退しつつも、敵と戦わなければならなかったのである。

戦う武器のない兵隊ほどつらく悔しいものはない。小銃弾の一発も撃たず、壕の中にじっとひそんでいた。
井坂

日の出とともに、地獄がやってきた。日本軍全体が夜は極楽、昼地獄と思うようにならざるをえなかった。私は頭にも草で偽装をほどこし、壕に入って敵の方向をにらんでいた。二昼夜一睡もできずにいる疲弊しきった私の右背後から、太陽がしだいに高くなってきた。
井坂

いまは亡き戦友よ、ほんとうに魂があるのなら、おれの背中に乗って、一緒に戦いのないところまで行こう。ひとりでに出る涙を、汗を拭くふりをして手でこすった。遠い南の山々が雲か霞か涙のためか、おぼろになって見えなくなった。
井坂

豪雨のシッタン平地の湿原と、濁流渦巻くシッタン河を渡るにさいし、敵の空陸からの火力をあび、悲惨に状況のもとで精根つきた彼ら各兵団は、膨大な犠牲を出すにいたった。終戦を目の前にして兵士たちの多くが、無惨な姿でビルマの露と消えた。
井坂

とくに悲惨だったのは、患者部隊であった。シャン高原を横断して、タイのチェンマイに出ようとした兵隊は、食糧医薬品もないまま、自力で行軍を強いられ、山中に倒れていった。われわれの通過したあとの道すじには、病魔と戦いながらつぎつぎと体力を消耗し、倒れ伏した兵隊が、屍を山野にさらしていたと聞いた。
井坂

「ただいまより、謹みて、天皇陛下のお言葉をお伝え申し上げる」
奉読されたのは、終戦の詔勅であった。日本は降伏したのだ。奉唱なかばにして熱い涙がとめどなく流れ落ち、胸もとまでも濡らした。
「何のために、苦しい戦いをがまんして頑張ったのだ。戦友の隊員たちは、何のために死んだのだ。それなのに降伏とは、われわれはもう生きる必要はないのか」
今後における将兵の心得を訓示する連隊長の言葉は、とうてい耳には入らなかった。
夢であってほしいと思って・・・・
事実は完全な日本の敗戦であり、軍旗もすでに奉焼を終わったと知らされた。軍隊も解体し、日本もいつか見た夕日のごとく沈んでなくなるのか。全員、茫然自失の状態で宿舎に帰る。
井坂

撤退に際しても、多くの日本兵が亡くなったのである。
あはれ・・・である。




posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 69

チャーチルの狙いは、何か。

英国が、戦時体制に入ったとはいえ、独力で、ドイツ軍を撃破するのは、困難である。
そのためには、ずば抜けた、工業力、物量を誇る米国の参戦に頼るしかない。

日本の、穏健派の和平工作などに、米国が、応じてもらっては、困るのである。

1941年8月9日より、14日、チャーチルは、カナダ・ニューファンドランド島沖の、大西洋上で、ルーズベルト大統領と、会談した。

そこでは、ナチス打倒、戦後の世界構想が、話し合われた。
大西洋憲章である。

その議事録の、極東の項目である。
大統領は、八月六日に駐米日本大使から受け取った文書のコピーを首相に渡した。米国政府は日本政府に、日本の提案を話し合う用意があるが、その間、南部仏印の支配地域を広げず対中国戦の基地にもしない事が必須条件だと付け加えた。・・・首相はそれ以外に、米国が日本への経済制裁を更に強化するのが不可欠と述べた。

日本大使の、提案とは、事態打開を目指した、近衛首相と、ルーズベルト大統領の日米首脳会談などを指す。
この頃の、日本が米国に行う、和平提案は、逐一、英国のチャーチルに、渡されていたのである。

その上で、日本への、締め付けを強めるように、要請している。
日米開戦を、心から、望んでいる事実である。

日米交渉は、続けられたが、11月26日、米国務長官コーデル・ハルは、日本側に、対日覚書を渡した。
中国、印仏からの日本軍撤退、中国租界・治外法権の放棄、などである。

これを機に、日本が、ハワイ真珠湾攻撃を行ったことは、ご覧の通りだ。

この、第二次世界大戦、あるいは、大東亜戦争の、戦争責任者とは、ヒトラーであり、イギリスの、チャーチルであると、断定できる。

二年後の、チャーチルが、イーデン外務大臣に送ったメモである。
日本の攻撃で、米国が一丸となり参戦したのは天佑だった。大英帝国にとって、これに勝る幸運はなく、真の敵と味方が明白となった。日本が無慈悲に壊滅されることで、英語圏と世界に大きな恩恵を与える。
1943年9月19日

英語圏と、世界という、チャーチルの意識は、実に、傲慢極まりない。
イギリス
それは、人種差別主義の、権化である。

イギリスが、植民地にした、あるいは、掠奪した、土地の、原住民は、未だに、その差別主義の痛手から、開放されず、更に、その有様は、悲惨である。

一体、歴史というものを、どのように、見るか。
その見方には、歴史史観というものがある。

今までの、日本人たちは、歴史史観に、大きく縛られてきた。
日本が、無謀な戦争を起こしたこと、それが、悪だった。

天皇の戦争責任を問う。

冗談ではない。

日本が、侵略戦争をしたからの、悲劇である。
日本以外の、侵略大国は、そこでは、皆無である。

アメリカ、イギリスが、どほどの、侵略国家だったのか・・・

日米開戦の、翌年、英国駐日大使、クレーギーは帰国し、報告書を執筆したが、そこには、英米政府に対する、猛烈な批判を展開したとある。

クレーギーは、天皇を中心とする「穏健派」に注目し、彼らに軍部「急進派」を牽制させ、対英米戦を回避しようとした事を強調した。さらに、近衛首相とルーズベルト大統領にトップ会談計画は天皇自らの指示だった事、日米交渉で米国が何らかの妥協をすべきと報告しながら、本国政府が無視した事を指摘した。
また、真珠湾攻撃直前の11月20日、日本が米国に渡した和平提案は、天皇と穏健派の最後の賭けだったとして、それを拒絶した米国政府を強く非難していた。

「当時の日本に関する知識を持つ人間が、(ハル・ノート)受け入れの可能性があると信じたことは、私には理解し難い」

「この日本提案を活用しなかったのは、米国政府の失敗である。この時、強硬姿勢を変えていれば、開戦は少なくとも三ヶ月遅らせられた。この期間にドイツ敗北の可能性が出れば、対日戦争を回避する可能性も高まったはずだ」

「1941年秋の時点で、米国政府は日本の情勢を見誤っていたか、すでに日米開戦を決意していたかのどちらかである。

クレーギー大使の「最終報告」

英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

この報告書は、チャーチルを、狼狽させ、激怒させた。
英国王室にも、回覧されるのだが、国王が目を通せば、どんな反応になるのかとの、恐れから、チャーチルは、厳重な機密扱いにするように、外務大臣に、命じた。

ところが、その報告書は、すでに、1942年2月11日に、報告書として、外務省に提出していたのである。
そして、その内容から、上層部が、文書の配布を禁止し、外務省独自に、太平洋戦争の原因のレポートを作成したのである。

過去十年間の、日本を巡る情勢は、戦争に向かい、穏健派への期待は、全くの幻想と、一蹴したのである。

如何に、昭和天皇が、戦争回避を行っていたか。
つねに、外交を、つねに、和平をと、願いつつ、日々を送られていたのである。

320万人の、犠牲者を出した、第二次世界大戦。
更に、関係各国の犠牲者を含めると、膨大な犠牲者を出した戦争。

更に、日本兵の、114万人の、遺骨が、未だ、戻らないのである。
断腸の思いに、尽きる。

posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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