2010年10月12日

チェンマイの風 12

カレン族の、酒は、日本酒と同じで、透明である。
焼酎に似た感覚の味である。
度数は、わからないが、40度近くあると、後で言われた。

それぞれの家の味がある。
それが、また、楽しみだということ。

強い酒とは、知らずに、盃を重ねる。
私は、酒を飲むと、物を食べない。
食べられなくなる。
だから、酒好きだといわれるが、旅の間は、飲みたいと思わないのだ。

壁の無い、台所付の、部屋で、飲む。
次第に、体が熱くなるので、私は、上着を脱いだ。

料理が出される。そして、ご飯である。
とても、美味しそう。
辻さんは、美味しい、美味しいと、食べ始めた。

私は、時々、辻さんの、盃から、千葉君の盃から、酒を入れた。
辻さんは、あまり飲めないはずと。

更に、千葉君も、酒は好きではない。
しかし、二人共に、酒も飲む。

次第に、開放的になる、私。
酒を飲むと、楽しくなる。

宴がたけなわになると、千葉君のギターを、辻さんが、希望する。

静かな、カレンの村に、ギターの音が響く。
すると、隣の家から、こちらに顔を向けて、聴いている姿あり。

私も、と、影を慕いて、を、歌うことにする。
千葉君の伴奏である。

扇子まで、持ち出して、私は、皆様に披露するように、歌う。
更に、足まで、打ち付けて。

床は、隙間のある、板で、出来ているのに・・・
危ない。

だが、酒に酔った私は、楽しい。
隣のおじさんが、やって来た。

そして、何と、先ほど、伺った、奥さんのお母さんの、お父様、つまり、奥様の、お爺様も、やって来た。

言葉が通じなくて残念だ・・・と、嘆くが、酒に酔った私には、言葉はいらない。
お爺様と、盃を酌み交わす。
お爺様に言った。
死んだら、話ができます
それを、奥様が、通訳して、大笑い。

前回は、二つのお祭りで、様々な、カレンの家の酒を、飲んだ。

飲み方の、基本は、注がれた酒は、一気に、飲み干すのである。
勿論、強要は、されない。

飲めない人は、別の人に、飲んで貰う。

結局、私は、酒だけを、飲んで過ごした。
皆、腹いっぱい食べたという。

夜の、九時を過ぎて、皆、解散である。
お爺様を、小西さんと、コータが、送る。

三人の男は、蚊帳を吊った、布団に寝る。
と、私は、もう少し、酒が飲みたいと、台所に行き、盃に、酒を注いだ。
そして、寝る部屋に戻り、一口飲む。
ああ、もう駄目・・・
もう、飲めないのである。

限界である。
私は、延々と飲むことが、出来ない。
体が、受け付けないのである。

千葉君が、蚊帳に入る。
コータと、少し話すが、何を言っているのか、自分でも分からない。
辻さんは、一人部屋である。

小西さんが、おやすみなさいと、声を掛ける。
お世話になりましたと、私。
すでに、相当に、酔っているのだ。

少し腹が、空く。
持参した、裂きイカを食べる。
そして、ポテトチップス・・・

電気が、消えて、真っ暗である。
いよいよ、蚊帳に入り、寝ることにする。

枕元には、携帯電灯がある。
深夜目覚めて、私は、小便をするために、家を出た。
危ない。
階段を、転げ落ちる感覚である。

真っ暗闇の中で、家の前に、小便をする。
何も見えない。
だが、ふっと、空を見て・・・
その、星空の美しさ。

なんて、美しいのだろう。
忘れていた。夜空のことを・・・

音もなく、闇の世界。
しばし、佇んだ。
生きている。ここに、こうして、生きている。
生きていることの、充実感である。
しかし、まだ、私は、酔っているのだ。

フラフラした、足取りで、階段を上がる。
もう一度、寝ることにする。

そして、朝の、音、鶏の鳴き声で、目覚めた。
だが、まだ薄暗いのである。

皆の、寝息が聞える。
辻さんの部屋からも、息が聞えるほど、静かなのである。

私は、携帯電灯を取り出して、タバコを探し、更に、水を取り出した。
水を飲み飲み、タバコを吹かす。
いよいよ、酒の酔いが、回って、水で流すしかない。

明るくなったので、外に出た。
ひんやりとする、朝風。
寒い時期は、気温が、5度まで、下がるという。
それでは、冬物が必要である。

コータが、篠笛を持って、降りてきた。
更に、お母さんも、出て来た。

朝の風景が始まる。

山の中で、自給自足の生活を続ける、カレンの人々。
更に、とても、長生きであるという。
よほどのことで無い限り、病気はしない。

病気をしても、検査するだけで、治療はあまりしない。
だが、病気が進行しないようだ。

昨夜の、お爺様も、ガンだが、生き続けている。

怪我をしても、そののまで、治るというから、凄い。
自然力である。
自然の気を、全身に浴びて生きているのである。




posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 68

ドイツ軍が、パリを陥落させた直後、「ジャパン・アドバタイザー」の編集長、ウィルフレッド・フライシャーが、日本の外務省から、呼び出しを受けた。

外務省担当者は、駐日ドイツ大使からの、抗議として、連合国寄りの論調を変更するように、要請した。
ドイツ贔屓の記事を書けとは、言わないが、今の紙面の論調は、見逃せない。応じなければ、新聞発行用の用紙の配給を制限するというものだった。

その場で、フラッシャーは、反論した。
もし、日本の外務省が、そんな行為に出れば、英米との関係悪化は、避けられないと。

だが、外務省の担当者は、聞き入れなかった。

フライシャーは、英国大使クレーギーに、訴えた。
これはドイツ寄りへの急激な転換の徴候です。五月頃には、私達の記事にも陸軍は好意的で、ドイツ大使館の抗議も無視してきました。それが今では様変わりです。ヒステリックな反英米感情が高まっています。
英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

そして、英国大使館に、新たな情報が、もたらされた。

英国系商社ジヤーディン・マセイン商会の神戸支部幹部が、警察に拘束されたというもの。更に、在日英国人の有力者が、スパイ容疑で、続々と逮捕されていたのである。

危機感を強めた、クレーギーは、本国に報告した。
フランスの抵抗の崩壊で、日本の状況は急激に変わってしまった。八月中旬以来の英国本土への本格的空襲で、英国が十日以内に降伏するとの軍事専門家の意見すら流されている。・・・
駐日ドイツ大使館の動きで、少数だが強力な親ドイツ勢力が力を増している。
英国人コミュニティーへの諜報活動もあり、日本の親英勢力は力を失いつつある。枢軸国が欧州で決定的反抗に遭うか、日米開戦が近づかない限り、日本の外交政策は急進派が牛耳るだろう。
1940年10月11日 英国外務省報告

天皇を始め、秩父宮、吉田茂、白洲次郎らが、英米との協調を望んでいるが、しかし、現実は、正反対に向かっていると、クレーギーは、懸念した。

このままでは、日本は、ヒトラー率いる、ドイツと運命を共にする。

ドイツは日本の指導者を催眠術にかけ、三国同盟で米国は怖気づくと吹き込んでいる。実際は、日本は深い泥沼に入り込み、逃げ道のない所まで、身も心もドイツにのめり込むだろう。
大きな惨事がない限り、日本に穏健派政権が出来るのは望めない。・・・いずれ、英国も日本と戦争に突入する事を念頭に、対日本政策を立案すべきである。
1940年12月24日 英国外務省報告

戦争前夜
それは、1941年4月から、始まる日米交渉である。

この交渉は、前年の11月末、二人の米国人神父が来日し、日米関係の正常化を訴えた事が、発端である。

二人は、欧州戦争が本格化する前に、太平洋の日米関係を正常化しておく必要があると、訴えた。
これを土台に、産業組合中央金庫理事、井川忠雄や、陸軍省の岩倉豪雄大佐らが、神父と協議を重ねて、非公式の、日米諒解案が、まとめられた。

この案に、政府、陸海軍も同意し、日米交渉が、進むかに見えた。
ここで、思わぬ、障害が発生する。

ソ連、ドイツ、イタリアの歴訪から帰国した、松岡外務大臣が、猛反対したのである。
それは、日米交渉は、三国同盟の趣旨に反するというものである。

日本政府の分裂を抱えたまま、日米交渉は進められたが、状況は悪化の一途を辿っていった。
徳本栄一郎。

日本軍の南部仏印進駐に対し、7月25日、米国は、在米資産凍結を布告し、8月1日、対日石油輸出を全面停止した。
この、経済制裁は、日本に、大きな打撃を与えた。

10月16日、日米交渉で、行き詰まった、近衛内閣は、退陣し、東条英機が、後を継いだ。

戦争の可能性が、高まる中、クレーギー大使は、本国に、訴えた。
東条を首相に任命する際、天皇は日米交渉を継続し、全力で戦争回避を図る事を条件にした。・・・天皇がどんな形で介入したにせよ、これは前例のない出来事である。また、東郷外務大臣は、急進派が外交政策に介入し続ければ辞任する意思も明らかにした。
1941年10月30日 英国外務省報告

危険なのは、穏健派が次第に力を失いつつある事だ。・・・上層部は、今後数週間に全力で合意に到らないと、どんな展開になるか分からないと非常に危惧している。
1941年11月14日 英国外務省報告

東条内閣が誕生した時に、天皇が、内大臣の木戸幸一に「虎穴に入らずんば虎子を得ずだね」と、語った。
つまり、あえて、開戦論者の東条を首相に任命して、主戦派の軍人たちを、抑えようという、天皇の狙いである。

クレーギー大使の情報源は、確かに日本の立場について権威ある説明を行っている。だが、彼らが関係国は全力で合意に至るべきと言う場合、普通、英米の努力のみを指す。・・・事態の切迫と悲劇の可能性を繰り返すのは、われわれへの精神的脅しである。それに惑わされてはならない。
1941年11月15日 英国外務省報告

だが、英国の反応は、変わらなかった。

天皇自身は日米開戦を望まず、穏健派も必死に和平工作を進めている。だが、これら東京の情報に耳を貸さず、今すぐにも対日宣戦布告しそうな調子だった。
徳本栄一郎

チャーチル首相が、公の場で、対日宣戦布告に言及した。
米国は太平洋の平和を守るため、最大限の努力を続けている。その努力が実るかどうか、われわれには分からない。だがもし、その努力が失敗に終わり、米国が日本と戦争に入るならば、英国は一時間以内にそれに続くであろうと申し上げるのは私の責務である。
新ロンドン市長の就任式での挨拶。
1941年11月10日

事実は、チャーチルが、日米戦争を望んでいたということである。
何としても、米国を参戦させたい、理由があったのである。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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