2010年10月11日

チェンマイの風 11

カレン族、トゥンルアン村に到着した。

カレン族は、多くの種族がある。
中でも、白カレンと、赤カレンに、分けられる。

赤カレンは、ミャンマーに多く在住するが、軍政によって、抑圧、差別を受けて、タイ側に、非難している。要するに、難民である。

白カレンは、100年以上前に、タイに入国して、その山岳地帯に住みついた。
トゥンルアン村の、カレン族は、白カレンである。

ミャンマーの、赤カレン族は、軍政と戦った。
白カレンは、戦いを、好まずに、そこから、去ったのである。

小西さんの、奥様の実家に、到着した。
小西さんは、奥さんの家に入ったことになる。
つまり、カレン族は、母系なのである。

お母様が、出迎えてくれた。
二年前と、変わらず、お元気である。

言葉は、解らないが、懐かしく、笑顔で、挨拶した。
タイ語ではなく、カレン語であるから、小西さんも、話せないという。
ただ、ある程度の年齢から、タイ語が話せる。
学校教育が、タイ語だからだ。

高床式の、建物が、一般的である。

私は、即座に、黒ブタを見るために、家の裏に回った。
ブタ小屋が、新しくなり、更に、一頭増えていた。
その、一頭は、家の前の、米倉の前に、縄で、縛られて、飼われていた。

全部で、三頭である。
このブタは、娘の結婚式に、使用される。
お祝いの、ご馳走になるのだ。

奥様の、妹さんが、結婚する時に、どれか、一頭が、犠牲になるという。

さて、辻さんと、千葉君である。
初めて訪れた、少数民族の村であるから、感激ひとしおである。

見るもの、すべてが、珍しい。
辻さんは、私の話から、もっと、大変なところだと、想像していたようであるが、意外に、すんなり、解け込んでいる。
千葉君は、早速、写真を撮りまくっている。

縄文時代を思わせる、有様である。

文明の利器は、電気のみである。

兎に角、自然に圧倒される。
自然の気に、倒される思いがする。

奥様の、お父様も、いらした。
日本語で、
お元気ですか・・・
あちらも、あちらの言葉で、話す。
違和感が無い。

小西さんの、お嬢さんは、すでに、芋虫の唐揚げを、食べている。
それを、差し出されるが、抵抗がありすぎる。

三歳のお嬢さんは、抵抗なく、何でも、食べる。

千葉君が、一匹食べて、芋のようだと、言う。が、一匹だけである。

少し、休憩して、小西さんと、奥様が、私たちを連れて、村を案内することになった。

村人は、おおよそ、300人である。
すべての人が、顔見知りである。

のんびりと、歩いて、村の家を見る。
新しい家が、出来ていた。
高床式ではない。普通に建てたものである。
こうして、少しずつ、変化してゆくのだろうか。

更に、車を持つ家も、多くなった。
私の見た範囲である。

大きな、水槽の前に出た。
さて、と、小西さんが、これは、なんでしょうかと、質問する。
私と、コータは、知っている。
二年前に、私が、一発で、それを、当てた。

辻さんが、挑戦するが、外れる。
千葉君は、私の話を覚えていた。

天気予報の、水槽である。

更に、続けて、一軒の家の前に、干してあるもの、である。
これには、頭をひねった。

解らない。
煎餅のようなものである。

何と、納豆だというから、驚いた。
それを、料理の時に入れたり、水に溶かして、ご飯を食べるという。
後で、溶かしたものの、匂いを嗅いで、いくらなんでも、この、腐りかけのものが好きな、私でも、駄目だと、思った。

だが、スープに入れあるのを知らず、美味しいというと、あの納豆が、入っていると、聞いて驚いた。
コクが、出るのだ。

さて、奥さんが、カレン族の、織物をしている人の家に、案内してくれた。
肩掛けバッグを作る人である。

カレン族の、人たちは、皆、カレンの衣装を着る。それは、皆、手織りである。特に女性たちは、その織物を着ていることが、多い。男たちは、町に出るので、着ることが、少ない。

手織りの、肩掛けバッグは、とても、温かみがあり、丈夫に作られていた。
小西さんが、私たち、一人一人に、プレゼントしてくれるという。

それは、有難く、頂いたが、今、コータが、民族の作り物を、テラの会の、資金にするため、集めている。
そこで、少し、それを買うことにした。

だが、作る量が限られていて、数が少ない。
すると、奥様が、もう一軒の家もあると、案内してくれた。

そこで、日本でも、使えるバッグをと、五六個買った。

すでに、闇が降りている。
急速に、夜になるのだ。

そして、風が、涼しい。
夜風が、心地よい。

最後に、奥様の、おじいさんと、おばあさんの、家に行く。
二人は、元気で暮らしていた。
解らない言葉で、互いに、挨拶する。
とても、歓迎している、様子。

囲炉裏の火が、懐かしい。
そこで、おじいさんが、辻さんに、とこで、あんたは、男かいと、尋ねた。一同びっくり。
髪の長いのは、女だが・・・という、思い。ということは、私は、女になっている可能性がある。
皆、大笑いになった。

家に戻り、いよいよ、夕食である。
小西さんは、修行のために、酒を止めたが、私たちのために、カレン族の、酒を用意してくれた。最初は、小西さんが飲まなければ、私も、飲まないと言っていたのだが、注がれると、つい、口をつけてしまった。
そして、私は、酒を飲み続けることになる。




posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 67

1939年9月、ドイツ軍が、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が、始まった。

フランスが、ドイツに、ソ連が、フィンランドに開戦して、戦火が広がる。

1940年3月28日
帝国ホテルにて、日英協会主催の昼食会が、行われた。
そこで、クレーギー大使が、演説した。

日本と英国は、同盟を結んだ時期、並外れた繁栄と相互協力を実現してきました。・・・
現在の両国間の争いは、多くは誤解と虚偽に伝聞によるもので、それを第三者が増幅させています。
日本と英国は共に、大陸の縁に位置する海洋国家であります。方法こそ違え、両国は共通の目標を目指しています。それは、平和の維持と外部の破壊的影響から制度を守る事であります。

続いて、吉田茂が、スピーチに立った。
吉田も、日英同盟の時代、極東で平和が維持されたことを、強調した。

だが、国内の、情勢は、それとは、完全にかけ離れていた。

反英デモが、繰り広げられた。
内務省、各府県が、指導する、総動員のデモである。
各地の集会で、蒋介石への英国の支援が、非難され、言論界も、反英一色だった。

クレーギー大使のスピーチは、当地で驚きを持って受け止められている。特に「日英は共通の目標を目指している」などの部分で、米国国務省は全文を入手したい意向だ。もし、これが今後、英米は極東で協調行動を取らないとの意味なら、極めて重大だとしている。
1940年3月30日 英国外務省報告

クレーギーの、発言は、米国内では、批判の元となった。

ロイター通信ワシントン支局が、反発の記事を掲載した。
クレーギー大使のスピーチは、米国の孤立主義者が抱く英国への不信を高めたとする有力者がいる。英国は「極東のミュンヘン」を認める事で、これまで米国が中国に行ってきた支援を台無しにしかねない。

ミュンヘンとは、1938年9月、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を、ドイツに認めた件である。
その会議で、ヒトラーは、戦争に訴えてでも、割譲を迫った。
これに対し、英国の、ネヴィル・チェンバレン首相らが、これ以上の領土要求をしないという、条件で、認めたのである。
これが、ドイツを、舞い上がらせ、第二次大戦の、要因の一つとなったのだ。

日本との、宥和政策を打ち出した、クレーギーは、極東で、同じ過ちを犯そうとしていると、判断された。

英国議会でも、この問題が、取り上げられた。

クレーギーは、英国が、対日宥和政策に転じたとは、一言も、言っていないのである。

この、発言が、問題視されたのは、その前月に、米国のジョセフ・グルー大使が、中国の日本軍の行為を、激しく非難する、スピーチを行っていたからで、その内容は、クレーギーとは、全く対照的だったからだ。

更に、日英協会昼食会の直後、南京国民政府が成立した。
これは、日本軍の指導で作られた政府であり、国際社会からは、傀儡政権と、見なされた。

1940年4月9日、ドイツ軍は、ノルウェー、デンマークに、5月10日には、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクに、侵攻した。
そして、ドイツ軍は、フランスの最終防衛線、マジノ・ラインを突破した。

ヒトラーの、ドイツ軍は、欧州全域を、席巻しつつあったのだ。

日本は野心的で冷酷な軍人が支配する、危険な潜在国家である。・・・クレーギー大使は、われわれが友好的に接すれば、日本の危険性を取り除けるとの固定観念を持っている。だが、宥和政策で日本の軍国主義者が変質するとは思えない。
1940年5月22日 英国外務省報告

この頃の、英国政府は、一変していた。

日本は、アジアを蹂躙し、英米に戦いを挑む軍国主義国家である。その肩を持つ、クレーギーは、日本の同調者であると、突き放された。

その、直前に、英国の、首相が、ウィンストン・レナード・チャーチルに、変わっていたのである。

チャーチルの名を、世界に広めたのは、その演説である。
首相就任演説を、英下院で行った。

われわれは、どんな犠牲を払ってもこの島を守る。われわれは海岸で戦い、水際でも戦う。われわれは野で、街頭で、丘でも戦う。われわれは決して降伏しない。たとえ、この島やその大部分が、征服され飢えに苦しもうとも、私は降伏を信じない。

更に、再び、議会で、演説した。

われわれは各自奮励して義務を遂行しようではないか。そして、大英帝国がなお千年続くものならば、その時、人々はこう言うであろう。「これが彼らの最良の時であった」と。

まだ見ぬ大英帝国の子孫が、今の自分たちの戦いを見ている。

チャーチルの言葉に、意気消沈した国民は、奮い立った。

日本の政局は、激動していた。
それは、以前に書いている。

クレーギー大使は、第二次近衛内閣の報告書を、本国に送った。

今度の内閣は、明らかに米内内閣より親英の度合いを減らすだろう。近衛はファシストではないが、全体主義を好む傾向があり、今後、枢軸国に接近していく。・・・ドイツに近い東条陸軍大臣は、その手法を賞賛している。厳格で知られる彼なら、青年将校を抑えられるかもしれないが、同時に彼らの志に共鳴している恐れもある。
1940年8月13日 英国外務省報告

近衛内閣の、ドイツへの傾倒に対して、英国政府は、警戒を露骨にした。
彼らが、最も、注目したのは、新外務大臣、松岡洋右だった。

新外相の松岡洋右は、最近の前任者とは大きく異なるタイプの男だ。強烈なナショナリストで、政党政治に抜き難い反発心を抱いている。・・・率直で多弁な男だが、その多弁が時にトラブルを招く場合もある。
1940年9月11日 英国外務省報告

更に、クレーギーは、
ここ数年、日本で広がった子供じみた反英感情の発露を、松岡は忌み嫌っている。それを声高に批判したことで、彼は急進派内での評判を落としてしまった。・・・松岡はかつて自分に「お互い意見が異なっても、紳士らしく異なろうではないか」と語ったことがある。
松岡暗殺の危険も存在する。だが彼は、警備の警官の給料は自分のために命を投げ出すほど高くないとして、護衛を断っている。
同報告


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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