2010年10月09日

チェンマイの風 9

10月3日、日曜日、朝、10時出発。
昨夜のコンサートの熱も、覚めやらぬ間に、カレン族、トゥンルアン村へ、出発である。

途中、バンカート学校の、新しい寮生たちに、衣服支援を行う。
その、男子寮は、日本政府の支援で、造られた。

女子寮もあるが、今回は、男子のみに、支援する。

バンカート学校敷地には、タイ・ビルマ戦線の慰霊碑があり、先日、慰霊に訪れている。

その、慰霊碑を抜けて、新しい男子寮に、向かう。

すでに、私たちを待っていて、椅子が、並べられていた。

小西さんの車に、総勢、六人乗った。
後ろの荷台に、コータと、小西さんの奥様、お嬢様が乗っていた。
タイでは、珍しいことではない。
荷台に人が、大勢乗る。

支援物資があるので、バウンドがあり、乗り心地がよいと、コータは、寝ていたようである。

到着すると、先生と、少数民族の生徒たちが、やって来た。
私たちは、急いで、衣服を出した。
男子物を、分けてあったので、即座に、手渡す事が出来た。

机の上に、衣服を並べて、自分の好きなもの、また、家族のために、必要なものを、取るようにと、言った。
最初は、遠慮がちだったが、先生たちに、促されて、生徒が、次第に、衣服を物色する。

寒い季節のものを、主にして、今回は、持参した。
ジャンバーや、ジャケットなども、必要になってきたのだ。

タイ、ラオス、ベトナム、ミャンマーなどの、北部地帯は、寒冷化が進み、11月から、1月にかけて、気温が、一気に下がるという。

寒さで、死者も出るほどである。

それは、意外に知られていない。
東南アジアは、暑いとばかり、考えている人たちが多い。

生徒たちは、一つ、二つと、取り分けた。
一通り、行き渡り、一段楽する。
私たちは、もてなしの、水と、お茶を、頂いた。

そして、私が、挨拶した。
時々、こうして、衣服を持ってきます
皆さんと、友達になるのが、楽しみです
また、会いましょう

一人の生徒が、代表して、挨拶した。
このたびは、ありがとうございます
心から、お礼を申し上げます

その生徒は、チェンマイ大学に入学が決まったと、先生が、仰った。

少数民族の生徒たちは、すべて、奨学金などで、学校に通う。
優秀な成績なのだろう。
彼も、自力では、大学進学は、出来ないはずだ。

私は、昔、札幌で、アジア人留学生たちへの、ボランティア活動をしていたことを、話した。
北海道大学には、タイからの、留学生も、多かった。

今では、帰国して、チェンマイ大学の、教授になっている人もいる。

ただ、日本での生活と、アジア人に対する、差別意識に、挫折する留学生もいた。
甚だしい場合は、自殺である。
タイ人の、女性留学生が、自殺した。
勿論、そのことは、話さなかった。

日本人は、白人に対しては、歓迎するが、アジア人を、見下げてみる人が多い。
極めて、悪質な、差別意識である。

タイでも、少数民族は、少なからず、差別の対象にされている。
残念なことだ。

就職に際しても、タイ人でなければ、採用されないことが多いと、聞く。
であるから、少数民族の学生が、就職するには、余程の、学力と、才能が要求されるという。

チェンマイ最初の夜に、タイ舞踊の食事に出掛けたが、そこでは、少数民族の、踊りも、紹介された。
彼らは、その芸や、民芸品を売って、細々と、生活を立てている。
方法が無いのである。

または、女性は、マッサージ嬢になる。
それでも、駄目な場合は、体を、売る。

住む場所も、山岳地帯が多い。
町から、遠く離れた場所に住み、文明とは、無縁な生活である。
それは、一面、良い。しかし、文明化に、着いてゆくことも必要なのである。

学歴も、必要である。
里親制で、支援するのは、大半が、少数民族の、子供たちである。

自給自足の生活で、満足できるのは、ある程度の、年齢の人たちだが、若者は、町に出てゆかなければならない。
稼ぐことが、必要になる。

どうしても、お金が必要になるのだ。
その、丁度よい具合を、見て、民族の、誇りを失わない生き方が、求められる。

私たちは、また、国王賛歌を、そこで、歌った。

少なくても、味方がいると、思う心が、強くさせる。私たちは、彼らの味方になりたいと、思う。
出来ることしか、出来いのだが・・・
再会を約束して、カレン村に、向かった。



posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 65

私は、天皇陛下について、書いている。
昭和天皇だけの話しではない。

ただ、昭和天皇ほど、世界的に知られた天皇陛下は、いない。
それでは、世界的に、どれほど、昭和天皇は、興味や関心を、持たれたのか。

国内の資料だけでは、それは、分からない。
そこで、公開された、イギリスの秘密文書から、天皇陛下を観察したものを、見ることにする。

英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎著、から、それを取り出す。

はたして日本は、国家として統一した意思を持っているのか。昭和天皇は、軍や政府を掌握しきれているのか。
盧溝橋事件やヒューゲッセン事件を経て、英国政府は疑念を抱きはじめた。
秩父宮が日本へ出発した直後の1973年9月24日、英国外務省が作成したレポートは、彼らの疑念を如実に表している。天皇を頂点とする、日本の政治システムの分析だった。
徳本栄一郎

憲法の理論上、大元帥の天皇は陸海軍を統帥しているが、実際には、皇族や宮内庁省、軍部の意見を受けて行動する。・・・したがって、天皇を取り巻くアドバイザーが、その意思に影響を及ぼし、日本の政策を決定していく

昭和天皇の性格分析
周囲の人間の操り人形とならないためには、強い個性が求められるが、今の天皇は、それを持ち合わせていない。彼は気立てが良く、従順な性格だが、特に知的で明敏には見えない
天皇は弟の秩父宮のような自由を与えられず、自分の意見を形成する機会も持てなかった。・・・・大正天皇が発狂した時、彼は摂政に就任し、二十五歳で天皇に即位した
個人としての天皇は、自由主義や穏健主義の傾向が見られる。重大局面では、軍部に対抗して行動し、1932年、上海からの日本軍撤兵は、天皇によるところが大きかった
1937年9月24日 英国外務省報告

イギリスは、明治維新の頃から、情報を収集し、日本の権力構造を、見抜いていたという。

上記を見ると、天皇陛下は、強い意思や権力を持たないという、分析である。

1938年2月、新しく就任した、外務大臣、エドワード・ハリファックス卿の元に、10ページの文書が届けられた。
日本支配における水面下の分裂、その内政・外交上の影響、である。

そこには、宮中での、昭和天皇と、秩父宮を中心とする、二大勢力が対立を深めているとのこと。

更に、事態を複雑にしているのは、大正天皇の皇后である、貞明皇太后の存在である。

彼女は、秩父宮を贔屓し、昭和天皇には、しばしば政治的助言を与えているというものである。

その上で、昭和天皇は、周囲の環境の産物として、指摘された。
自分の地位の危うさ、目前の見えざる敵の存在に、昭和天皇は精神的に不安定になり、疑い深くなっている。・・・ニ・二六事件は、力ずくで彼らを追放しようとして失敗した企てだった
1938年3月12日 英国外務省報告

報告書は、秩父宮を黒幕と名指しはしないが、彼を擁立して、体制変革を狙う勢力が、宮中に存在すると、結論づける。

人間、天皇の、その危うさ・・・
激動の歴史の中にある、昭和天皇というお方の、状況が、実に、危ういものであることを、見せ付ける。

ここには、大君であらせられる、天皇陛下の・・・
という、姿は、無い。皆無である。

当時の、在英大使は、吉田茂である。
吉田は、昭和天皇の側に立つ人間である。

しかし、イギリスは、その対応にも、不信感を抱いていた。

日本大使に関する限り、その文書が、日本に自由主義政府を作る成算を高めるというのはナンセンスだ
吉田は、日本ではあまり重く見られていない。彼が帰国を希望している事は理解できない。それにより、何を達成しようとしているのかも分からない
1937年1月27日 英国外務省報告

吉田は、中国問題で、日英の協調による、十の具体案を提出していた。
日英協調の協定締結を、強く望んでいたのである。

そこには、英米との和平を望む、リベラルな穏健派が存在し、その中核が、天皇陛下であると示唆するものである。

だが、イギリスは、日本軍の中国での行動を見て、穏健派が、本当に存在するのかを、探っている。

そして、決定的なことが、起こる。

1937年6月2日、吉田が、第二次覚書を、英国外務省に提出した。
日本は、中国華北地方を分離し、外国利権を排除する意図はない。日英の通商、財政面での協力を進めることが、柱だった。

しかし、折衝が続く中、7月7日、盧溝橋事件が発生し、日中は全面戦争に突入する。
中国中枢への、日本軍の南進は、英国権益への挑戦を意味した。

すべてが、水の泡となった。

吉田は、本国から正式の指示ではなく、上層部の人々から非公式、個人的に、英国の仲介を探るように指示されているようだ。・・・日本の華北や上海での英国民の扱いを見ると、英国が日本を経済支援すべきとの吉田の憶測はナイーブである。現地で一体何が起きているか、彼は無知に違いない
1938年4月13日 英国外務省報告

確かに、吉田の背後には、天皇をはじめとする、英米協調派が存在するが、前年からの、日中戦争の経緯を見ると、東京の政府と、現地の日本軍は、全く意思が統一されていないとの、判断である。

何故、大戦に到ったのか・・・

歴史は、必然的なものであると、仮定する。
どれほど、人間が、心を砕き、和平を望んでも、歴史が、それを、許さないとしたら・・・

いまだ、誰も、そのように、考える者がいない。
それで、私が言う。

様々な、分析をする。
そして、それが、実に有意義に、生きる場合がある。
しかし、生きない場合もある。

私は、そう思う。

イギリスから、見れば、天皇陛下も、一つの駒である。

実際、戦争責任などとは、実に、あはれで、愚かなことである。

ただし、人間の英知による、努力を否定するものではない。
運命論を言うのではない。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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