2010年10月08日

チェンマイの風 8

コンサート開場は、五時半である。
私と、辻さん、そして、小西さんの奥様が、受付に立った。

出演者も、受付に立つというのが、私の方法。
いらしてくださる、皆様に、ご挨拶する。

お久しぶりです、お元気ですか
待っていましたよ
楽しみにしていたんですよ

更に、初めて来られた方は、
情報がなくて、今回初めて、知りました、という、老夫妻もいらした。

奥様の方が、何と、ご祝儀を包んできたから、驚いた。
おめでとうございます

昨年よりも、人が多い。
ようやく、知れ渡ったようである。といっても、それは、小西さんの、お陰である。
至る所に、チラシを、配布し、チェンマイ在日の人たちが見る、フリーペーパー、チャオという、雑誌に、二度も、取り上げていただいた。

感謝しても、足りない。

開演前、5分。
私たちは、小西さんの奥様に、後を頼み、楽屋に入る。

本日は、四名全員が、舞台に出て、タイ国王賛歌を歌う。そして、全員で、君が代斉唱である。

六時に、小西さんの挨拶が、はじまった。開演である。

そして、私たちが、呼び出された。

私が、それでは、皆さん、ご起立ください。
タイ国王陛下に対し、敬意を表して、国王賛歌を歌います。
私は、歌詞を見て、コータは、覚えているので、そのまま。
辻さんが、伴奏である。
そして、千葉君が、立つ。

国王賛歌は、通常のタイ語ではない。
王室への、特有の言葉である。

発音が、難しい。しかし、タイ国において、国王賛歌を歌うことは、とても、意義あること。それも、日本人である。

タイでは、国歌斉唱、国王賛歌の場合は、起立する。
タイ人が、起立しない場合は、懲役刑がある。

カァオラチャプターーーー
静かに始まり、高揚して終わるという、歌である。

歌い終えると、自然に、拍手が起こった。
そして、君が代斉唱である。
日本人全員が、斉唱した。

コータ、千葉君が、退場して、私は、辻さんのピアノ伴奏で、浮波の港、を、歌う。

私は、舞台全体を使う。
要するに、動き回る。

日本の、高度経済成長が、始まった年に、大流行した歌があります。
王将です。

戦時中、この歌が、国民の戦意を高めました。
今は、軍歌を嫌うのではなく、その軍歌を歌った時代を、検証するという、意味で、興味がもたれています。

開戦により、マレー、ビルマ戦線にて、武勲を挙げた、加藤隼戦闘隊です。その、加藤中佐も、戦死しました。

この歌では、辻さんも、高揚して、歌詞を、伴奏しながら、朗読するという、ハプニング・・・
私は、それを、手で、制した。
歌い終わって、拍手を頂き、辻さんが、退場する。

そして、千葉君の、伴奏で、男の純情を歌う。
その前に、ネグロス島の、戦禍について、話した。

戦死、餓死、病死だけではなく、力尽きた兵士たちが、温泉に浸かりながら、息を引き取るという、その場面を読みまして、私は、佇み、何度も、読み返しました。
その遺骨は、川を通り、海に出て、日本に流れついたでしょうか。

その彼らが、励ましあって、日本の歌を歌ったとあります。
中でも、この歌の、歌詞が、書かれてあり、思い出深いものと、感じました。

そして、君忘れじのブルース、人生の並木道。

私の、舞台が、終わった。
千葉君の、ソロ演奏で、一部が、終わる。

冷房が効いているが、汗だくになる。

これで、また、一つ、予定を、こなした。
私は、辻さんのステージを、楽屋と、ホールの扉から、聴いた。

童謡を歌う辻さんと、お客様が、一緒に歌っている。
感動した。
辻さんは、何も言わなかった。しかし、皆さんが、歌いだしたのである。

最後の、二曲は、私の作詞したもの。
南の島で、亡くなられた方を思い、作詞した、帰り来ぬ風、である。
そして、逢いたくて。

あなたに逢いたくて生まれてきたの

終演である。

再び、お客様を、お送りする。
来年も、待っています
お元気で
次も、期待します

初めて来られた、81歳の男性の方は、感動した、面持ちで、このようなコンサートが無くて、残念に思っていた。今は、皆、作り物のコンサートだ。生の声を聴きたかった。という。

そして、昔を思い出したと、頭を下げた。
来年も、生きれていれば、是非きます

戦争体験者である。
気持ちは、よくよく、解った。

お客様を、送り出して、手際よく、後片付けをして、ホテルに戻る。

小西さん一家と、ホテルで、食事をする。

私は、何も食べられない。
疲れすぎて、口に入らない。
ただ、ココナッジュースを飲んだ。

兎に角、四回目を、無事に終えた。
すべては、小西さんの、協力のお陰である。
私たちだけでは、出来ないこと。

再度、小西さんに、お礼を述べた。

そして、来年のことである。
一年準備をしても、一時間半で、終わるコンサートというもの、人生に似る。

疲れた私は、来年は、一度、お休みしたいと、思うのだが・・・
いや、明日になれば、また、来年のコンサートを考えるはず。

来年は、五回目である。
そう、生きていれば、出来る。



posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 64

昭和天皇の、地方巡幸は、21年2月から始まり、26年までに、本州、四国、九州を終えた。

そして、29年の、国体を機に、北海道巡幸が、実現した。

28年には、奄美大島などの、南西諸島、続いて、43年に、小笠原諸島が返還され、沖縄の返還運動も、年々、盛り上がっていた。
だが、沖縄は、米国の対ソ連、対中国の政略上、極東における、重要な位置にある。それを、返還すると言うのは、米国の、国防を危うくする恐れがあった。

47年5月、沖縄が返還された。
実に、27年ぶりに、日本に復帰した。

ここで、少し沖縄の歴史を、言う。

沖縄は、14世紀以来、独立国であったが、薩摩藩の侵攻により、圧制と搾取により、苦難の時代が、続いた。
そして、明治維新を迎える。

久米島には、久米島紬という、織物がある。
日本で、最初の、織物産地である。
そこから、八丈島に、その技術が、伝播された。

薩摩藩の時代、久米島の人々は、久米島紬を着ることは、出来なかった。すべて、薩摩藩に奉納である。
もし、着ていることが、見つかれば、即座に、斬られた。
そんな、悲しい歴史がある。

更に、与那国島では、人頭税に苦しんだ、人々が、悲惨な行いをした。
妊婦を、崖から、崖へと、飛ばせて、落ちた者は、死んだ。
そうして、人の数を、減らす。

そして、戦争では、唯一、戦場と、なったのである。
子供たちから、女学生まで、銃を取り、担架を担いで、苛烈な戦場を駆け巡ったのである。

9万4千人の県民が、亡くなった。
ちなみに、軍人は、9万数千人である。

昭和天皇は、何故、すぐに、沖縄に巡幸しなかったのか・・・

疑問である。
そこに、昭和天皇の、重大な秘密がある。

筑波大学、進藤助教授が、米国、国立公文書館から、発見した。
22年9月18,あるいは、19日、寺崎英成宮内省御用掛が、GHQ外交局長シーボルトを訪ねて、沖縄についての、天皇の意向を伝えている。

天皇は、米国が今後25年から、50年ほど、日本に主権を残した形で、沖縄諸島を軍事占領することを、希望している。米国の利益になり、日本を守ることにもなるからである。

それを、シーボルトは、9月20日に、マッカーサーに、伝えている。
更に、二日後、米国の、マーシャル国務長官に送付したのである。

新憲法により、政治権力を失った天皇が、この提言をしたということは・・・

この、世界、54年4月号の、雑誌を見た共産党が、衆院で取り上げ、この事実は、沖縄を見捨てるものであり、かつ、天皇の国政関与を禁じた、憲法に違反する、と、追及したのである。

政府は、それを、裏付ける資料は、日本側には無いとのこと。

確かに、日本側には、無いのである。

それに関しては、あまりに、重大なことゆえに、自然消滅してしまった。

だが、一面、私は、昭和天皇に関しては、実に、鋭い感性を持ち、多々、日本復活のために、様々な方法を、考えていたということを、付け加えておく。

情報は、新しくなる。
つまり、情報は、刷新され、事実が、よりよく、見えるようになるのである。

沖縄、巡幸・・・
昭和天皇は、希望されていた。
しかし、その御心には、拭い難い、核心があった。

耐え難きを、耐え、偲び難きを、偲ぶ。

どんなに、優れた人間であろうとも、過ちや、どうしても、という、決断がある。

確かに、政治権力を失った、天皇の言葉は、事実としても、権威の無いものとなる。
だが、それを口にしたと、仮定してみると、天皇の御心の痛みである。

敗戦を体験して、国を守るということは、軍事力でしかない。
守るということは、現実なのである。
理想を夢見ている、暇は無い。

では、沖縄の人たちは、どうだったのか・・・
実に、複雑な心境であろう。

沖縄の人から来て欲しいという、話しは、聞いていない。だが、沖縄の置かれている立場など、難しい問題もあるので、今は、行くとか、行かないといえない。
天皇陛下の、実に苦しいお言葉である。

確かに、革新勢力が強く、反天皇の嵐が吹き荒れていた。
警備当局も、反対している。

父天皇に代わって、復帰三年後に、それを、成したのは、皇太子殿下である。
今上天皇陛下である。

今上天皇陛下は、
たとい、石をぶつけられてもいい、それでも、地元の人たちの中に入ってゆきたい
との、決意であった。

そして、ひめゆりの塔で、花束を捧げて、黙祷したとき、突然、火炎瓶が、火を吹いた。
石が投げつけられ、炎が燃え上がった。

しかし、陛下は、微妙だにせず、泰然として、他の二つの塔に参拝された。

更に、遺族団を慰問されたのである。
過去に多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望しつづけてきた沖縄が、さきの大戦ではわが国では唯一の、住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い今日に至ったことは、忘れることのではない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方がたのことを思うとき、悲しみと痛恨の思いに浸されます。
私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、県民の傷痕を深く省み、ともに力を合わせて努力してゆきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、いっときの行為や言葉によって、あがなえるものではなく、人びとが長い年月をかけてこれを記憶し、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ・・・

この、誠実に満ちたお言葉は、天皇陛下からの、搾り出す、痛恨の極みであったと、考える。

記憶し、深い内省の中にあって、この地に、心を寄せる。
追悼慰霊である。

私は、自決の島、渡嘉敷島の、慰霊碑を、訪れたときに、天皇陛下を、拒絶する、風を感じた。
だから、昭和天皇を、お呼びした。目に見えない霊位であれば、この祈りに、応えていただくという、思いである。

上記の、今上天皇の、お言葉は、県民の琴線に触れたが、癒されない、そして、尽きない恨みというものがある。

その代表とされるのは、天皇陛下の、存在である。

昭和天皇は、恨んで、恨んで、恨んで、下さいと、仰せられるだろう。

この世には、どうしようもないことがある。
その、どうしようもないことを、どのように、生きるか。

天皇という、存在の悲しみは、計り知れない。
それを、歴史を通して、見て行くことにする。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。