2010年10月07日

チェンマイの風 7

第四回、日本の歌、メモリアルコンサートは、夜、六時開演である。
会場入りは、五時。

それまでに、時間がある。
ホテル前の、食堂で、四人で、食事を済ませてから、私は、少し休んで、矢張り、マッサージに行くことにした。

新しい店を探す。
沢山あるので、ひとつ一つの店の前で、中を確認する。
小太りの女を、捜す。
力があるからだ。

そして、若ければ、なお、いい。
と、一軒の店の前に、二人の女性がいた。

マッサージと、呼び掛けられる。
タイマッサージ、200バーツである。
料金は、店により、色々違ってきた。統一していない。

よしと、タイマッサージをすることにした。
一時間である。
力が強い・・・これは、良い。
だが、古典的なマッサージで、下半身を40分ほど、揉み解す。
足を徹底的に、揉むのだ。

それもいい。しかし、私は、上半身も、そのように、して欲しい。が、無理。
バンコクなどの、マッサージは、変化が、著しい。
日本人の体質を見抜いて、上半身を、しっかり、揉むマッサージも現れた。

日本人は、肩から、肩甲骨が、一番、凝る。
それに合わせた、マッサージの、技術が欲しい。

まあ、満足して、終わった。
チップを、20バーツ渡す。

ホテルに戻り、歌の歌詞の練習をする。
今回は、加藤隼戦闘隊を歌う。
軍歌である。
実に、勇ましい歌。

エンジンの音、轟々と、隼は行く、雲の果て
翼に輝く日の丸と、胸に描きし若鷲の
印は我らが、戦闘機

開戦により、マレー、ビルマ戦線で、武勲を立てた、加藤隼隊である。
だが、加藤中佐は、戦死する。
それを、映画にして、この歌をつけた。
当時は、国民の意気を高めるものだった。

子供から、お年寄りまで、幅広く集まると、聞いていた。
童謡から、歌謡曲、歌曲まで、実に幅広い、プログラムを作った。

私は、浮波の港、王将、加藤隼隊、男の純情、君忘れじのブルース、そして、人生の並木道である。

一部であるから、最初は、タイ国王賛歌、そして、君が代斉唱である。
その後、私の舞台になる。

四回目ということで、今までに無い曲をという、アドバイスを頂いていた。

男の純情、という、歌を入れたのは、意味があった。
前月、フィリピン、ネグロス島への、慰霊に出かけた。
誤って、バコロドではなく、トゥマゲッティに飛んだが、ネグロス島の戦記を読み、兵士たちが、励ましあうために、歌った歌の中に、それが、あった。
手記の作者は、その歌詞まで、入れていたので、相当の思い出があると、見た。
それで、ネグロス島の、戦禍を紹介し、この歌を歌うことにした。

男、命の、純情は
燃えて儚い、金の星
夜の都の大空に
曇る涙を誰が知る

戦死、病死、餓死・・・
そんな中で、歌を歌う。
せめてもの、慰め。
私は、そんな心境になったことはない。
彼らは、次に死ぬのは、俺だと、思いつつ、歌う。

ホールは、ホテルから、歩いて、すぐである。
出発は、四時半。コータは、四時に出た。
小西さんたちが、垂れ幕を張るために、四時に出ますということだったからだ。

辻さんは、絽の黒留袖、私は、緑の、絽縮緬を着た。
それだけでも、目立つ。
そして、お客様も、着物姿を喜ぶ。
中々、着物姿は、見られないのである。

ホールでは、すでに、小西さんたちが、第四回 天山 チャリティコンサート in チェンマイ、という・・・

驚いた。
天山である。
チェンマイ在住の、書家、書道師範の方が、いつも、書いてくださる。

天山の文字が、一筆で、書かれている。
勿論、その部分は、日本に持ち帰った。

来年は、第五回、天山チャリティコンサートになるのだろうか・・・

顔馴染みになった、皆さんと、会うのが、楽しみである。

辻さんが、リハーサルをはじめた。
千葉君との、共演である。
私は、外で、歌詞を覚える。

静かに暮れる、チェンマイの夕暮れ。

不思議なものである。そして、あはれ、である。あはれに懐かしい。



posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 63

昭和30年代後半、日本は、神武景気に沸き、昭和元禄を謳歌した。
つまり、国民に、ようやく、ゆとりが生まれたのである。

そして、宮内庁は、懸案の新御所の建築に向けて、準備を進めた。

当時、昭和天皇の御文庫は、大戦中の、突貫工事で、二重天井の間隙に、雪混じりの、砂を詰めたせいか、湿度が異常に高い。
時期によっては、露が、壁や、コードを伝わり落ちるほどだった。

これでは、お上のご健康がと、側近たちが、憂慮したが、天皇陛下は、その時期にあらずと、断り続けた。
そこで、新築は、見送り、28年に、大改修を加えた。
側近用の、数部屋も、増やした。

宮内庁が、新御所の、建設を決めたのは、昭和34年である。

また、吹上御所と、平行して、新宮殿の造営も、進められた。

これについては、省略する。

それより、昭和天皇の、御心に、思いを馳せる。

敗戦後の、陛下の生活は、実に、質素であった。
それは、国民を、思えばこそ・・・

新しい御所に、移られる時に、陛下の手にあったものは、スリッパである。
すでに、そのスリッパは、減り続けて、半分ほどになっていた。

それでも、まだそれを、使用するという、お言葉に、側近たちも、意見が出来なかったと言う。

この身が、いかになろうとも・・・
それが、敗戦後の、昭和天皇の御心だった。

天皇陛下に、パチンコの玉を発射した者がいた。
正月と、天皇誕生日に、陛下が、国民に姿を見せて、手を振って、答える、一般参賀である。

ニューギニア戦線で、想像を絶する、飢餓と、酷熱のジャングルで、九死に一生を得て帰国した、奥崎謙三である。

戦争の最高責任者であり、超A級戦犯である天皇が、相も変わらず大きな顔で日本国民の象徴として認められ、マスコミがチヤホヤしていることに対して、私は飢えて死んでいった多くの戦友や無数の戦争犠牲者を考え、いつも我慢ならない激しい怒りをもやしていた・・・
奥崎

最もなことである。
彼は、強度の偏執病と、診断されたが、違う。
真っ当である。

私の、父は、少年志願兵として、木更津に出向いた。
そこで、敗戦を、迎えた。

父は、私に、よく、言った。
天皇・・・・そんなもの
どれだけの人が、死んだか・・・殺されたか・・・
皆、天皇陛下のためだと言って、死んで、殺された・・・

あっくたらもの
方言で、あんなもの、という意味である。

最後まで、天皇に対する、敬意を、見せなかった。

当然である、
父の、上の世代が、皆、帰国しなかったのである。
死んだ。
戦争で、死んだ。

あのまま、皆、漁師や、田圃で、働いていた。平和に、貧しいが、幸せに。
誰が、あれを、破ったのか・・・
その、怒りが、父を、天皇存在への、怒りに代えた。

当然である。

私も、多くの戦地に追悼慰霊に、出掛けて、思う。
何故、こんな所まで、来て、死ななければ、いけなかったのか・・・

救いは、母の言葉だった。
天皇だって、利用されたんだ・・・

誰に、利用されたのか・・・
母も、はっきりと、解らない。

生きて帰った者は、皆、そのように、思うだろう・・・
その感情を、止めることは、出来ない。
だから、天皇を、憎むことである。

憎んで、憎んで、憎む・・・
天皇の御心は、それを、十分察知していた。

だから、この身を裂いても・・・
国民を救いたい・・・

君主というものは、何と、憐れで、哀しいものか。
天皇陛下は、何と、憐れで、悲しいものか。
そして、最も、国民の中で、不遇である。

そんな、状況と、心境を、一人の国民として、想像出来ないほどの、お方なのである。

そして、更に、である。
もし、天皇の望む通りに、その身を、八つ裂きにされていたら・・・

国民の目の前で、ギロチンに掛けられ、その首が、飛んだら・・・

憎みは、解消されたただろうか。
決して、解消されない。
益々、憎みは、高まり、皇室全員を、殺しても、まだ、足りないだろう。

それも、昭和天皇は、察知していた。

そして、最も、恐ろしいことは、国内の混乱と、内戦、更に、国が、滅びることである。

そうなれば、天皇は、死んでも、死に切れないばかりか、皇祖皇宗に対し奉り、断腸の思い激しく、進んで、地獄、地下に、霊位は、赴くだろう。

それならば、生きて、天皇という、身分によって、国を、立て直すことである。
最も、辛い、苦しい道を、天皇の御心は、感受した。

歴代天皇は、国民の平和と、豊かさを、祈っていたのである。
それを、そのままに、引き継ぐこと。
それ以外の、方法を、考えては、ならない。

ポツダム宣言受諾の、後で、涙を流す戦争責任者たちに、必ず、私が、日本を、立て直すと、言明した。

この、天皇の決意。

私は、恐れ多いことだが、見事だと、思うし、この国の君主たる、天皇が、このようなお方であることに、誇りを持つ。

奇麗事なら、何でも言える。
天皇の継続は、奇麗事ではなかった。

針の筵に座って生きることだった。

その、御心、あまりにも、貴く、高く、久しく、広く、懐かしいのである。

世界の、為政者で、戦争責任を、その身で、負った者は、いたか・・・
ギロチンに掛けられたり、亡命して、難を逃れる。

日本の天皇にして、君主たる道、示されたのである。

恐れ多くも、この、陛下の御心に、叶う国民の一人でありたいと、願う。

posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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