2010年10月02日

チェンマイの風 2

チェンマイ、二日目の朝、9月30日である。

朝食は、ホテル並びの、現地の人の食堂に行く。
その食堂は、朝の7時から、夕方で、閉まる。
長期滞在の、欧米人にも、人気があり、昼前後は、混み合う。

本日は、追悼慰霊を主とする、予定である。

出発は、午前11時。
まず、チェンマイ市内の、ムーンサーン寺の敷地内にある、野戦病院跡に、出掛ける。

車は、小西さんに御願いして、大型のバンを頼んでおいた。
日の丸と、御幣の、神紙を持参する。

寺の敷地内であるから、派手なことは、出来ない。
静かに、黙祷と、清め祓いをする。

慰霊碑のある、前の建物には、当時の、日本軍の物が、展示されてあるというが、その日は、開いていなかったので、慰霊だけにした。

昼間は、矢張り、暑い。
自然に汗が出る。

私は、単の着物を、浴衣の扱いで、着た。

辻さんは、浴衣である。
コータと、千葉君は、写真を撮ったり、ビデオを撮る。
今回は、初めて、ビデオ撮影をした。

勿論、私は、ビデオがあろが、なかろうが、やることには、変わりない。

ムーンサーン寺を出て、バンカート村に向かう。
そこには、タイ・ビルマ戦線で、亡くなった、12000名の兵士をお奉りする。
私たちは、何度も来ている。

辻さんと、千葉君は、二度目である。

とても、綺麗に整理されていた。
更に、慰霊碑を囲む壁が、新たに白い壁に、塗り替えられていた。

多くの人たちの、慰霊の思いもあり、霊的にも、清々しい。

御幣を立てて、祝詞を唱える。
いつもの通りである。

その途中で、あるお方が、お見えになった。
尊い霊体である。
と、私は、感じたので、少し、後ろに下がった。

そして、更に、祝詞を続けた。

四方を、清め祓いして、深く黙祷する。

遺体を井戸に、投げ入れられた兵士の遺体は、そのまま、井戸の中である。
更に、まだ、すべての遺骨が、集められてはいない。
もう、どこにあるのかさえ、解らない。

その周囲の遺骨に対して、追悼の鐘が、建てられた。

私たちは、その、鐘楼に上がって、鐘を突き、慰霊の思い深く黙祷する。

タイ・ビルマ戦線とは、インパール作戦のことである。
それが、一つ、そして、もう一つの、ビルマ戦線の、犠牲者もいる。

インパール作戦については、以前の旅日記に、詳しく書いている。

今回は、カレン村にて、道を誤り、若い兵士が、亡くなったとされる、山裾で、慰霊を行った。その際に、少し、それに触れることにする。

車のエアコンが、弱く感じられるほど、暑い。
朝夕は、涼しいが、矢張り、昼間は、気温が上がる。

次に向かったのは、生き残った兵士、藤田松吉さんが、建てられた、慰霊碑である。

ランプーン県パーサン郡にある。
私たちは、昨年も、訪れている。

あまり、知られていない、慰霊碑である。

藤田さんは、自ら、戦友の遺骨を集めたという。その遺骨を、納めていた塔でもある。
今は、すべて、千鳥が淵墓苑に納められたという。

藤田さんの、遺骨のみが、お奉りしてある。

今回の、私の目的は、藤田さんの、慰霊碑に、結界を張ることだった。
タイでは、霊的存在を、すべて、ピーと呼ぶ。
それは、良いもの、悪いもの、関係なく、人々は、畏敬し、恐れる存在である。

精霊もあり、人霊もある。

慰霊碑に、それらが、取り憑かないように、である。

通常の、慰霊の儀を行い、最後に、結界を張るための、行為をする。
更に、近くの川に、昔、礼拝されていた、霊的存在に対しても、ある、行為をした。
皆が、忘れてしまっているのである。

藤田さんは、カトリックだったので、辻さんに、ピエ・イエズを歌ってもらった。
私も、キリエ・レイソンを唱えた。

いつもより、時間がかかった。
そして、最後に、御幣を川に流す。
その川の主に、特別な挨拶をした。

昔、その川の主は、その地域の守り神として、皆の信仰を集めていたのである。

祠の跡も無い。
タイの人も、近代化の波に飲まれて、昔の風習を忘れる人もいる。

時間は、二時半を過ぎていた。

そのまま、ホテルに戻り、三時過ぎに、ホテルのレストランで、遅い食事をした。
私とコータ、辻さんと、千葉君、そして、案内の、小西さんである。

辻さんと、千葉君は、食事の際に、いつも、ココナッツジュースを頼んでいた。
自然の、スポーツ飲料である。
更に、その中の、白い実を、スプーンで、取って、食べる。

タイの、果物は、豊富だ。
私も、色々な果物を、食べる。
日本では、あまり、食べない。タイの、果物の、美味しさに適わない。

食事の後は、全員自由である。
皆、一眠りしたようである。



posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について58

日本人が集団で何かを決定するとき、その決定にもっとも強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」であると看破したのは山本七平でした。
私たちはきわめて重大な決定でさえその採否を空気に委ねる。かりに事後的にその決定が誤りであったことがわかった場合にも、「とても反対できる空気ではなかった」という言い訳が口を衝いて出るし、その言い訳は、「それではしかたがない」と通ってしまう。
内田

そこから、戦争のことに、言及してゆく。

戦艦大和の沖縄出撃が軍略上無意味であることは、決定を下した当の軍人さえ熟知していました。しかし、それが「議論の対象にならぬ空気の決定」となると、もう誰も反論を口にすることができない。山本七平はこう書いています。
「これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の言葉はどうか。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の評論に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答えうる以上に弁疏しようと思わない」であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう。彼が「ああせざるを得なかった」ようにしたのは「空気」であったから・・・」

これに対して、丸山眞男は、「超国家主義の理論と心理」の中で、見事な分析をしていると、この方は、言う。

ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然るにわが国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。
丸山

世界的体系や、公権的基礎づけが、ないことに、注目すると、言う。

丸山の言う「ずるずる」というのは、その政治的行為を主宰する主体がいないことを示す擬態語です。ある政治的判断について、その意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪のすべてについて責任を取ろうという人間がいない。既成事実の前には再現なく譲歩し、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。
内田

丸山が、日本人の思考原型は、
「現実的」に行動するということは、だから、過去への繋縛のなかに生きているということになる。
と、述べている。

とても、よく分析しているが、これは、頭の良い人の、遊びである。

現実と、現状を、生きていない、頭の良い人は、このように、論理の中に、埋没する。
勿論、彼らは、物を書いて、ナンボの生活をしているので、それが、商売である。

何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入した・・・

あれから、つまり、開戦から、70年を経る。
昭和天皇が、どのように、努力されて、戦争回避を願ったか・・・
更には、昭和天皇が、全責任を負うと、言う。

ナチスは、堂々と、その論理を持って、開戦に踏み切ったが、日本は、ずるずると・・・
そして、それは、今も、変わらず。
それで、また、いいのである。
それは、辺境人だから・・・
内田氏は、言う。

ずるずるとが、幸いした、日本だったということだ。

敗戦後に、私は、開戦方針を主導したと、名乗る人間が、大日本帝国の指導部には、一人も、いなかったという。
それが、日本人の思考法であり、それが、辺境人だから、故のものである。
肯定もし、否定もする。という、内田氏である。

日本人は、パーツ主義である。
全体は、別物として、存在する。
その、存在は、空気なのである。

十分に、分析した。

それが、最高の、民主的思考法だと、誰もいわない。

民主的思考法というものは、そういうものであろう。

ポツダム宣言受諾に際して、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限」は「連合国最高司令官に従属」するという条項の解釈をめぐり、これが、国体の変革を意味するかどうか、御前会議の場で、激しい議論になった。

日本国の本体であるところの「国体」というのは他国に従属しても政体の根本理念が変わっても変わらないものとして観念されていたわけです。それは、国体の定義を下す権利は政府にも天皇にも誰にもないと主張した「神州防衛派」の思考ともとは同型のものでしょう。
内田

更に、続けて
でも、私はこの国体規定を「ナンセンス」と哂うことはできないと思います。まさしく、日本の国民的アイデンティティの中心は、この「他国に従属しても政体の根本理念は変わっても変わらないもの」すなわち、「状況を変動させる主体的な働きかけはつねに外から到来し、私たちはつねにその受動者である」という自己認識の仕方そのもののうちにあるからです。
と、言う。

その通りだと、思う。
よくよく、分析している。

しかし、その中でも、心身ともに、辛苦し、その身を、引き裂いても、国民を守り、更に、日本を、救おうとした、天皇陛下の、存在には、触れないのである。

この方は、日本の辺境人として、そのまま、辺境人を、貫いてゆこうと、書くが、果たして、痛みというものを、知る者なのかは、解らない。

民主的な、日本の思考法の中で、それを、痛みとして、国の、君主である、天皇陛下の存在を、忘れて、分析など、出来るものではない。

下々の国民、更には、そこから、選ばれた国の、指導者たちの、分析なのであろう。

空気、確かに、空気は、生きている。

議論の末は、天皇陛下に、承認されて、お言葉として、詔として、発令してきた、日本の政治である。

再度、
思想と戦略があって、それが戦争を領導するのだと考える人がいない。ほんとうにいないのです。
と、内田氏は、言う。

そして、被害者意識によるものが、すべてを、仕切ると、言う。

そして、それでいい、のであると。

それならば、最後まで、外交努力にて、収めたいと、希望された、昭和天皇の、御心は、どうなるのか。

そして、思想と戦略の無い、指導者たちが、この期に及んでは、戦争しかないと、空気で、決めたこと・・・

それほど、おかしなことか。
天皇陛下を、説得した、指導者は、本当に、ずるずると、行為したのか。

それは、日本流の、思考法であろう。
内田氏の言う、辺境人でも、何でもいいが・・・

分析は、よくするが、現実的、更に、現状を、ただ、言語化するという、評論の、限界を、感じてのことか・・・

明確に、言語化しなければ、世界に通用しない。
思想、思考法を、明確にしなければ、ならない。
それでなくては、世界的社会の中では、通用しない。

私は言う。
だから、今までの、思考法では、世界は、いつまでも、同じことを、繰り返し、戦争もまた、繰り返すから、日本的、思考法、真の、民主的思考法を、理解してもらうべきだと、思う。

そのためには、盟主たる、天皇陛下の存在が、必要不可欠である。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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