2010年10月11日

天皇陛下について 67

1939年9月、ドイツ軍が、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が、始まった。

フランスが、ドイツに、ソ連が、フィンランドに開戦して、戦火が広がる。

1940年3月28日
帝国ホテルにて、日英協会主催の昼食会が、行われた。
そこで、クレーギー大使が、演説した。

日本と英国は、同盟を結んだ時期、並外れた繁栄と相互協力を実現してきました。・・・
現在の両国間の争いは、多くは誤解と虚偽に伝聞によるもので、それを第三者が増幅させています。
日本と英国は共に、大陸の縁に位置する海洋国家であります。方法こそ違え、両国は共通の目標を目指しています。それは、平和の維持と外部の破壊的影響から制度を守る事であります。

続いて、吉田茂が、スピーチに立った。
吉田も、日英同盟の時代、極東で平和が維持されたことを、強調した。

だが、国内の、情勢は、それとは、完全にかけ離れていた。

反英デモが、繰り広げられた。
内務省、各府県が、指導する、総動員のデモである。
各地の集会で、蒋介石への英国の支援が、非難され、言論界も、反英一色だった。

クレーギー大使のスピーチは、当地で驚きを持って受け止められている。特に「日英は共通の目標を目指している」などの部分で、米国国務省は全文を入手したい意向だ。もし、これが今後、英米は極東で協調行動を取らないとの意味なら、極めて重大だとしている。
1940年3月30日 英国外務省報告

クレーギーの、発言は、米国内では、批判の元となった。

ロイター通信ワシントン支局が、反発の記事を掲載した。
クレーギー大使のスピーチは、米国の孤立主義者が抱く英国への不信を高めたとする有力者がいる。英国は「極東のミュンヘン」を認める事で、これまで米国が中国に行ってきた支援を台無しにしかねない。

ミュンヘンとは、1938年9月、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を、ドイツに認めた件である。
その会議で、ヒトラーは、戦争に訴えてでも、割譲を迫った。
これに対し、英国の、ネヴィル・チェンバレン首相らが、これ以上の領土要求をしないという、条件で、認めたのである。
これが、ドイツを、舞い上がらせ、第二次大戦の、要因の一つとなったのだ。

日本との、宥和政策を打ち出した、クレーギーは、極東で、同じ過ちを犯そうとしていると、判断された。

英国議会でも、この問題が、取り上げられた。

クレーギーは、英国が、対日宥和政策に転じたとは、一言も、言っていないのである。

この、発言が、問題視されたのは、その前月に、米国のジョセフ・グルー大使が、中国の日本軍の行為を、激しく非難する、スピーチを行っていたからで、その内容は、クレーギーとは、全く対照的だったからだ。

更に、日英協会昼食会の直後、南京国民政府が成立した。
これは、日本軍の指導で作られた政府であり、国際社会からは、傀儡政権と、見なされた。

1940年4月9日、ドイツ軍は、ノルウェー、デンマークに、5月10日には、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクに、侵攻した。
そして、ドイツ軍は、フランスの最終防衛線、マジノ・ラインを突破した。

ヒトラーの、ドイツ軍は、欧州全域を、席巻しつつあったのだ。

日本は野心的で冷酷な軍人が支配する、危険な潜在国家である。・・・クレーギー大使は、われわれが友好的に接すれば、日本の危険性を取り除けるとの固定観念を持っている。だが、宥和政策で日本の軍国主義者が変質するとは思えない。
1940年5月22日 英国外務省報告

この頃の、英国政府は、一変していた。

日本は、アジアを蹂躙し、英米に戦いを挑む軍国主義国家である。その肩を持つ、クレーギーは、日本の同調者であると、突き放された。

その、直前に、英国の、首相が、ウィンストン・レナード・チャーチルに、変わっていたのである。

チャーチルの名を、世界に広めたのは、その演説である。
首相就任演説を、英下院で行った。

われわれは、どんな犠牲を払ってもこの島を守る。われわれは海岸で戦い、水際でも戦う。われわれは野で、街頭で、丘でも戦う。われわれは決して降伏しない。たとえ、この島やその大部分が、征服され飢えに苦しもうとも、私は降伏を信じない。

更に、再び、議会で、演説した。

われわれは各自奮励して義務を遂行しようではないか。そして、大英帝国がなお千年続くものならば、その時、人々はこう言うであろう。「これが彼らの最良の時であった」と。

まだ見ぬ大英帝国の子孫が、今の自分たちの戦いを見ている。

チャーチルの言葉に、意気消沈した国民は、奮い立った。

日本の政局は、激動していた。
それは、以前に書いている。

クレーギー大使は、第二次近衛内閣の報告書を、本国に送った。

今度の内閣は、明らかに米内内閣より親英の度合いを減らすだろう。近衛はファシストではないが、全体主義を好む傾向があり、今後、枢軸国に接近していく。・・・ドイツに近い東条陸軍大臣は、その手法を賞賛している。厳格で知られる彼なら、青年将校を抑えられるかもしれないが、同時に彼らの志に共鳴している恐れもある。
1940年8月13日 英国外務省報告

近衛内閣の、ドイツへの傾倒に対して、英国政府は、警戒を露骨にした。
彼らが、最も、注目したのは、新外務大臣、松岡洋右だった。

新外相の松岡洋右は、最近の前任者とは大きく異なるタイプの男だ。強烈なナショナリストで、政党政治に抜き難い反発心を抱いている。・・・率直で多弁な男だが、その多弁が時にトラブルを招く場合もある。
1940年9月11日 英国外務省報告

更に、クレーギーは、
ここ数年、日本で広がった子供じみた反英感情の発露を、松岡は忌み嫌っている。それを声高に批判したことで、彼は急進派内での評判を落としてしまった。・・・松岡はかつて自分に「お互い意見が異なっても、紳士らしく異なろうではないか」と語ったことがある。
松岡暗殺の危険も存在する。だが彼は、警備の警官の給料は自分のために命を投げ出すほど高くないとして、護衛を断っている。
同報告




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チェンマイの風 11

カレン族、トゥンルアン村に到着した。

カレン族は、多くの種族がある。
中でも、白カレンと、赤カレンに、分けられる。

赤カレンは、ミャンマーに多く在住するが、軍政によって、抑圧、差別を受けて、タイ側に、非難している。要するに、難民である。

白カレンは、100年以上前に、タイに入国して、その山岳地帯に住みついた。
トゥンルアン村の、カレン族は、白カレンである。

ミャンマーの、赤カレン族は、軍政と戦った。
白カレンは、戦いを、好まずに、そこから、去ったのである。

小西さんの、奥様の実家に、到着した。
小西さんは、奥さんの家に入ったことになる。
つまり、カレン族は、母系なのである。

お母様が、出迎えてくれた。
二年前と、変わらず、お元気である。

言葉は、解らないが、懐かしく、笑顔で、挨拶した。
タイ語ではなく、カレン語であるから、小西さんも、話せないという。
ただ、ある程度の年齢から、タイ語が話せる。
学校教育が、タイ語だからだ。

高床式の、建物が、一般的である。

私は、即座に、黒ブタを見るために、家の裏に回った。
ブタ小屋が、新しくなり、更に、一頭増えていた。
その、一頭は、家の前の、米倉の前に、縄で、縛られて、飼われていた。

全部で、三頭である。
このブタは、娘の結婚式に、使用される。
お祝いの、ご馳走になるのだ。

奥様の、妹さんが、結婚する時に、どれか、一頭が、犠牲になるという。

さて、辻さんと、千葉君である。
初めて訪れた、少数民族の村であるから、感激ひとしおである。

見るもの、すべてが、珍しい。
辻さんは、私の話から、もっと、大変なところだと、想像していたようであるが、意外に、すんなり、解け込んでいる。
千葉君は、早速、写真を撮りまくっている。

縄文時代を思わせる、有様である。

文明の利器は、電気のみである。

兎に角、自然に圧倒される。
自然の気に、倒される思いがする。

奥様の、お父様も、いらした。
日本語で、
お元気ですか・・・
あちらも、あちらの言葉で、話す。
違和感が無い。

小西さんの、お嬢さんは、すでに、芋虫の唐揚げを、食べている。
それを、差し出されるが、抵抗がありすぎる。

三歳のお嬢さんは、抵抗なく、何でも、食べる。

千葉君が、一匹食べて、芋のようだと、言う。が、一匹だけである。

少し、休憩して、小西さんと、奥様が、私たちを連れて、村を案内することになった。

村人は、おおよそ、300人である。
すべての人が、顔見知りである。

のんびりと、歩いて、村の家を見る。
新しい家が、出来ていた。
高床式ではない。普通に建てたものである。
こうして、少しずつ、変化してゆくのだろうか。

更に、車を持つ家も、多くなった。
私の見た範囲である。

大きな、水槽の前に出た。
さて、と、小西さんが、これは、なんでしょうかと、質問する。
私と、コータは、知っている。
二年前に、私が、一発で、それを、当てた。

辻さんが、挑戦するが、外れる。
千葉君は、私の話を覚えていた。

天気予報の、水槽である。

更に、続けて、一軒の家の前に、干してあるもの、である。
これには、頭をひねった。

解らない。
煎餅のようなものである。

何と、納豆だというから、驚いた。
それを、料理の時に入れたり、水に溶かして、ご飯を食べるという。
後で、溶かしたものの、匂いを嗅いで、いくらなんでも、この、腐りかけのものが好きな、私でも、駄目だと、思った。

だが、スープに入れあるのを知らず、美味しいというと、あの納豆が、入っていると、聞いて驚いた。
コクが、出るのだ。

さて、奥さんが、カレン族の、織物をしている人の家に、案内してくれた。
肩掛けバッグを作る人である。

カレン族の、人たちは、皆、カレンの衣装を着る。それは、皆、手織りである。特に女性たちは、その織物を着ていることが、多い。男たちは、町に出るので、着ることが、少ない。

手織りの、肩掛けバッグは、とても、温かみがあり、丈夫に作られていた。
小西さんが、私たち、一人一人に、プレゼントしてくれるという。

それは、有難く、頂いたが、今、コータが、民族の作り物を、テラの会の、資金にするため、集めている。
そこで、少し、それを買うことにした。

だが、作る量が限られていて、数が少ない。
すると、奥様が、もう一軒の家もあると、案内してくれた。

そこで、日本でも、使えるバッグをと、五六個買った。

すでに、闇が降りている。
急速に、夜になるのだ。

そして、風が、涼しい。
夜風が、心地よい。

最後に、奥様の、おじいさんと、おばあさんの、家に行く。
二人は、元気で暮らしていた。
解らない言葉で、互いに、挨拶する。
とても、歓迎している、様子。

囲炉裏の火が、懐かしい。
そこで、おじいさんが、辻さんに、とこで、あんたは、男かいと、尋ねた。一同びっくり。
髪の長いのは、女だが・・・という、思い。ということは、私は、女になっている可能性がある。
皆、大笑いになった。

家に戻り、いよいよ、夕食である。
小西さんは、修行のために、酒を止めたが、私たちのために、カレン族の、酒を用意してくれた。最初は、小西さんが飲まなければ、私も、飲まないと言っていたのだが、注がれると、つい、口をつけてしまった。
そして、私は、酒を飲み続けることになる。


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2010年10月12日

天皇陛下について 68

ドイツ軍が、パリを陥落させた直後、「ジャパン・アドバタイザー」の編集長、ウィルフレッド・フライシャーが、日本の外務省から、呼び出しを受けた。

外務省担当者は、駐日ドイツ大使からの、抗議として、連合国寄りの論調を変更するように、要請した。
ドイツ贔屓の記事を書けとは、言わないが、今の紙面の論調は、見逃せない。応じなければ、新聞発行用の用紙の配給を制限するというものだった。

その場で、フラッシャーは、反論した。
もし、日本の外務省が、そんな行為に出れば、英米との関係悪化は、避けられないと。

だが、外務省の担当者は、聞き入れなかった。

フライシャーは、英国大使クレーギーに、訴えた。
これはドイツ寄りへの急激な転換の徴候です。五月頃には、私達の記事にも陸軍は好意的で、ドイツ大使館の抗議も無視してきました。それが今では様変わりです。ヒステリックな反英米感情が高まっています。
英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

そして、英国大使館に、新たな情報が、もたらされた。

英国系商社ジヤーディン・マセイン商会の神戸支部幹部が、警察に拘束されたというもの。更に、在日英国人の有力者が、スパイ容疑で、続々と逮捕されていたのである。

危機感を強めた、クレーギーは、本国に報告した。
フランスの抵抗の崩壊で、日本の状況は急激に変わってしまった。八月中旬以来の英国本土への本格的空襲で、英国が十日以内に降伏するとの軍事専門家の意見すら流されている。・・・
駐日ドイツ大使館の動きで、少数だが強力な親ドイツ勢力が力を増している。
英国人コミュニティーへの諜報活動もあり、日本の親英勢力は力を失いつつある。枢軸国が欧州で決定的反抗に遭うか、日米開戦が近づかない限り、日本の外交政策は急進派が牛耳るだろう。
1940年10月11日 英国外務省報告

天皇を始め、秩父宮、吉田茂、白洲次郎らが、英米との協調を望んでいるが、しかし、現実は、正反対に向かっていると、クレーギーは、懸念した。

このままでは、日本は、ヒトラー率いる、ドイツと運命を共にする。

ドイツは日本の指導者を催眠術にかけ、三国同盟で米国は怖気づくと吹き込んでいる。実際は、日本は深い泥沼に入り込み、逃げ道のない所まで、身も心もドイツにのめり込むだろう。
大きな惨事がない限り、日本に穏健派政権が出来るのは望めない。・・・いずれ、英国も日本と戦争に突入する事を念頭に、対日本政策を立案すべきである。
1940年12月24日 英国外務省報告

戦争前夜
それは、1941年4月から、始まる日米交渉である。

この交渉は、前年の11月末、二人の米国人神父が来日し、日米関係の正常化を訴えた事が、発端である。

二人は、欧州戦争が本格化する前に、太平洋の日米関係を正常化しておく必要があると、訴えた。
これを土台に、産業組合中央金庫理事、井川忠雄や、陸軍省の岩倉豪雄大佐らが、神父と協議を重ねて、非公式の、日米諒解案が、まとめられた。

この案に、政府、陸海軍も同意し、日米交渉が、進むかに見えた。
ここで、思わぬ、障害が発生する。

ソ連、ドイツ、イタリアの歴訪から帰国した、松岡外務大臣が、猛反対したのである。
それは、日米交渉は、三国同盟の趣旨に反するというものである。

日本政府の分裂を抱えたまま、日米交渉は進められたが、状況は悪化の一途を辿っていった。
徳本栄一郎。

日本軍の南部仏印進駐に対し、7月25日、米国は、在米資産凍結を布告し、8月1日、対日石油輸出を全面停止した。
この、経済制裁は、日本に、大きな打撃を与えた。

10月16日、日米交渉で、行き詰まった、近衛内閣は、退陣し、東条英機が、後を継いだ。

戦争の可能性が、高まる中、クレーギー大使は、本国に、訴えた。
東条を首相に任命する際、天皇は日米交渉を継続し、全力で戦争回避を図る事を条件にした。・・・天皇がどんな形で介入したにせよ、これは前例のない出来事である。また、東郷外務大臣は、急進派が外交政策に介入し続ければ辞任する意思も明らかにした。
1941年10月30日 英国外務省報告

危険なのは、穏健派が次第に力を失いつつある事だ。・・・上層部は、今後数週間に全力で合意に到らないと、どんな展開になるか分からないと非常に危惧している。
1941年11月14日 英国外務省報告

東条内閣が誕生した時に、天皇が、内大臣の木戸幸一に「虎穴に入らずんば虎子を得ずだね」と、語った。
つまり、あえて、開戦論者の東条を首相に任命して、主戦派の軍人たちを、抑えようという、天皇の狙いである。

クレーギー大使の情報源は、確かに日本の立場について権威ある説明を行っている。だが、彼らが関係国は全力で合意に至るべきと言う場合、普通、英米の努力のみを指す。・・・事態の切迫と悲劇の可能性を繰り返すのは、われわれへの精神的脅しである。それに惑わされてはならない。
1941年11月15日 英国外務省報告

だが、英国の反応は、変わらなかった。

天皇自身は日米開戦を望まず、穏健派も必死に和平工作を進めている。だが、これら東京の情報に耳を貸さず、今すぐにも対日宣戦布告しそうな調子だった。
徳本栄一郎

チャーチル首相が、公の場で、対日宣戦布告に言及した。
米国は太平洋の平和を守るため、最大限の努力を続けている。その努力が実るかどうか、われわれには分からない。だがもし、その努力が失敗に終わり、米国が日本と戦争に入るならば、英国は一時間以内にそれに続くであろうと申し上げるのは私の責務である。
新ロンドン市長の就任式での挨拶。
1941年11月10日

事実は、チャーチルが、日米戦争を望んでいたということである。
何としても、米国を参戦させたい、理由があったのである。


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チェンマイの風 12

カレン族の、酒は、日本酒と同じで、透明である。
焼酎に似た感覚の味である。
度数は、わからないが、40度近くあると、後で言われた。

それぞれの家の味がある。
それが、また、楽しみだということ。

強い酒とは、知らずに、盃を重ねる。
私は、酒を飲むと、物を食べない。
食べられなくなる。
だから、酒好きだといわれるが、旅の間は、飲みたいと思わないのだ。

壁の無い、台所付の、部屋で、飲む。
次第に、体が熱くなるので、私は、上着を脱いだ。

料理が出される。そして、ご飯である。
とても、美味しそう。
辻さんは、美味しい、美味しいと、食べ始めた。

私は、時々、辻さんの、盃から、千葉君の盃から、酒を入れた。
辻さんは、あまり飲めないはずと。

更に、千葉君も、酒は好きではない。
しかし、二人共に、酒も飲む。

次第に、開放的になる、私。
酒を飲むと、楽しくなる。

宴がたけなわになると、千葉君のギターを、辻さんが、希望する。

静かな、カレンの村に、ギターの音が響く。
すると、隣の家から、こちらに顔を向けて、聴いている姿あり。

私も、と、影を慕いて、を、歌うことにする。
千葉君の伴奏である。

扇子まで、持ち出して、私は、皆様に披露するように、歌う。
更に、足まで、打ち付けて。

床は、隙間のある、板で、出来ているのに・・・
危ない。

だが、酒に酔った私は、楽しい。
隣のおじさんが、やって来た。

そして、何と、先ほど、伺った、奥さんのお母さんの、お父様、つまり、奥様の、お爺様も、やって来た。

言葉が通じなくて残念だ・・・と、嘆くが、酒に酔った私には、言葉はいらない。
お爺様と、盃を酌み交わす。
お爺様に言った。
死んだら、話ができます
それを、奥様が、通訳して、大笑い。

前回は、二つのお祭りで、様々な、カレンの家の酒を、飲んだ。

飲み方の、基本は、注がれた酒は、一気に、飲み干すのである。
勿論、強要は、されない。

飲めない人は、別の人に、飲んで貰う。

結局、私は、酒だけを、飲んで過ごした。
皆、腹いっぱい食べたという。

夜の、九時を過ぎて、皆、解散である。
お爺様を、小西さんと、コータが、送る。

三人の男は、蚊帳を吊った、布団に寝る。
と、私は、もう少し、酒が飲みたいと、台所に行き、盃に、酒を注いだ。
そして、寝る部屋に戻り、一口飲む。
ああ、もう駄目・・・
もう、飲めないのである。

限界である。
私は、延々と飲むことが、出来ない。
体が、受け付けないのである。

千葉君が、蚊帳に入る。
コータと、少し話すが、何を言っているのか、自分でも分からない。
辻さんは、一人部屋である。

小西さんが、おやすみなさいと、声を掛ける。
お世話になりましたと、私。
すでに、相当に、酔っているのだ。

少し腹が、空く。
持参した、裂きイカを食べる。
そして、ポテトチップス・・・

電気が、消えて、真っ暗である。
いよいよ、蚊帳に入り、寝ることにする。

枕元には、携帯電灯がある。
深夜目覚めて、私は、小便をするために、家を出た。
危ない。
階段を、転げ落ちる感覚である。

真っ暗闇の中で、家の前に、小便をする。
何も見えない。
だが、ふっと、空を見て・・・
その、星空の美しさ。

なんて、美しいのだろう。
忘れていた。夜空のことを・・・

音もなく、闇の世界。
しばし、佇んだ。
生きている。ここに、こうして、生きている。
生きていることの、充実感である。
しかし、まだ、私は、酔っているのだ。

フラフラした、足取りで、階段を上がる。
もう一度、寝ることにする。

そして、朝の、音、鶏の鳴き声で、目覚めた。
だが、まだ薄暗いのである。

皆の、寝息が聞える。
辻さんの部屋からも、息が聞えるほど、静かなのである。

私は、携帯電灯を取り出して、タバコを探し、更に、水を取り出した。
水を飲み飲み、タバコを吹かす。
いよいよ、酒の酔いが、回って、水で流すしかない。

明るくなったので、外に出た。
ひんやりとする、朝風。
寒い時期は、気温が、5度まで、下がるという。
それでは、冬物が必要である。

コータが、篠笛を持って、降りてきた。
更に、お母さんも、出て来た。

朝の風景が始まる。

山の中で、自給自足の生活を続ける、カレンの人々。
更に、とても、長生きであるという。
よほどのことで無い限り、病気はしない。

病気をしても、検査するだけで、治療はあまりしない。
だが、病気が進行しないようだ。

昨夜の、お爺様も、ガンだが、生き続けている。

怪我をしても、そののまで、治るというから、凄い。
自然力である。
自然の気を、全身に浴びて生きているのである。


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2010年10月13日

天皇陛下について 69

チャーチルの狙いは、何か。

英国が、戦時体制に入ったとはいえ、独力で、ドイツ軍を撃破するのは、困難である。
そのためには、ずば抜けた、工業力、物量を誇る米国の参戦に頼るしかない。

日本の、穏健派の和平工作などに、米国が、応じてもらっては、困るのである。

1941年8月9日より、14日、チャーチルは、カナダ・ニューファンドランド島沖の、大西洋上で、ルーズベルト大統領と、会談した。

そこでは、ナチス打倒、戦後の世界構想が、話し合われた。
大西洋憲章である。

その議事録の、極東の項目である。
大統領は、八月六日に駐米日本大使から受け取った文書のコピーを首相に渡した。米国政府は日本政府に、日本の提案を話し合う用意があるが、その間、南部仏印の支配地域を広げず対中国戦の基地にもしない事が必須条件だと付け加えた。・・・首相はそれ以外に、米国が日本への経済制裁を更に強化するのが不可欠と述べた。

日本大使の、提案とは、事態打開を目指した、近衛首相と、ルーズベルト大統領の日米首脳会談などを指す。
この頃の、日本が米国に行う、和平提案は、逐一、英国のチャーチルに、渡されていたのである。

その上で、日本への、締め付けを強めるように、要請している。
日米開戦を、心から、望んでいる事実である。

日米交渉は、続けられたが、11月26日、米国務長官コーデル・ハルは、日本側に、対日覚書を渡した。
中国、印仏からの日本軍撤退、中国租界・治外法権の放棄、などである。

これを機に、日本が、ハワイ真珠湾攻撃を行ったことは、ご覧の通りだ。

この、第二次世界大戦、あるいは、大東亜戦争の、戦争責任者とは、ヒトラーであり、イギリスの、チャーチルであると、断定できる。

二年後の、チャーチルが、イーデン外務大臣に送ったメモである。
日本の攻撃で、米国が一丸となり参戦したのは天佑だった。大英帝国にとって、これに勝る幸運はなく、真の敵と味方が明白となった。日本が無慈悲に壊滅されることで、英語圏と世界に大きな恩恵を与える。
1943年9月19日

英語圏と、世界という、チャーチルの意識は、実に、傲慢極まりない。
イギリス
それは、人種差別主義の、権化である。

イギリスが、植民地にした、あるいは、掠奪した、土地の、原住民は、未だに、その差別主義の痛手から、開放されず、更に、その有様は、悲惨である。

一体、歴史というものを、どのように、見るか。
その見方には、歴史史観というものがある。

今までの、日本人たちは、歴史史観に、大きく縛られてきた。
日本が、無謀な戦争を起こしたこと、それが、悪だった。

天皇の戦争責任を問う。

冗談ではない。

日本が、侵略戦争をしたからの、悲劇である。
日本以外の、侵略大国は、そこでは、皆無である。

アメリカ、イギリスが、どほどの、侵略国家だったのか・・・

日米開戦の、翌年、英国駐日大使、クレーギーは帰国し、報告書を執筆したが、そこには、英米政府に対する、猛烈な批判を展開したとある。

クレーギーは、天皇を中心とする「穏健派」に注目し、彼らに軍部「急進派」を牽制させ、対英米戦を回避しようとした事を強調した。さらに、近衛首相とルーズベルト大統領にトップ会談計画は天皇自らの指示だった事、日米交渉で米国が何らかの妥協をすべきと報告しながら、本国政府が無視した事を指摘した。
また、真珠湾攻撃直前の11月20日、日本が米国に渡した和平提案は、天皇と穏健派の最後の賭けだったとして、それを拒絶した米国政府を強く非難していた。

「当時の日本に関する知識を持つ人間が、(ハル・ノート)受け入れの可能性があると信じたことは、私には理解し難い」

「この日本提案を活用しなかったのは、米国政府の失敗である。この時、強硬姿勢を変えていれば、開戦は少なくとも三ヶ月遅らせられた。この期間にドイツ敗北の可能性が出れば、対日戦争を回避する可能性も高まったはずだ」

「1941年秋の時点で、米国政府は日本の情勢を見誤っていたか、すでに日米開戦を決意していたかのどちらかである。

クレーギー大使の「最終報告」

英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

この報告書は、チャーチルを、狼狽させ、激怒させた。
英国王室にも、回覧されるのだが、国王が目を通せば、どんな反応になるのかとの、恐れから、チャーチルは、厳重な機密扱いにするように、外務大臣に、命じた。

ところが、その報告書は、すでに、1942年2月11日に、報告書として、外務省に提出していたのである。
そして、その内容から、上層部が、文書の配布を禁止し、外務省独自に、太平洋戦争の原因のレポートを作成したのである。

過去十年間の、日本を巡る情勢は、戦争に向かい、穏健派への期待は、全くの幻想と、一蹴したのである。

如何に、昭和天皇が、戦争回避を行っていたか。
つねに、外交を、つねに、和平をと、願いつつ、日々を送られていたのである。

320万人の、犠牲者を出した、第二次世界大戦。
更に、関係各国の犠牲者を含めると、膨大な犠牲者を出した戦争。

更に、日本兵の、114万人の、遺骨が、未だ、戻らないのである。
断腸の思いに、尽きる。

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チェンマイの風 13

道に迷い、ビルマからチェンマイに向かっていた、一人の若い日本兵の、追悼慰霊は、朝の光の中で、行いたいと、考えていた。

皆が、起きてきたので、食事の前に、慰霊をしますと、言う。
私は、早速、慰霊の準備を始めた。
それは、小西さんの、家の庭で、行うと、考えた。

その兵士の埋められた場所が、解らないのであれば、何処でも、同じであると。

ところが、小西さんが、その山裾まで、行くという。
奥様が、その場所を知っているのだそうだ。

それではと、車に乗り込む。

ところが、中々、その場所に到着しない。
どんどんと、山奥に入り、田圃が、広がり、川が流れる場所まで来た。

更に、車を降りると、奥様の案内で、道無き道を、歩く。
川も渡る。
四本の竹で出来た、橋を渡る。

ゆらゆらと、揺れる橋を渡る。
そして、更に、田圃の中を、歩く。

目の前に、小高い山が見える。
それに、向かって歩く。
私は、その山裾に、埋葬されたと、思った。

朝露の中を歩く。

奥様が、あの、山の辺りですと、言う。
私は、この辺で、いいですよと、声を掛けた。

丁度、太陽が、昇り始めて、光に満ちている。

昨夜、酒を飲みすぎた私は、あまり、声が出ない。

日の丸を、辻さんに、掲げてもらい、御幣を、奥様に、預けて、皆で、太陽を拝する。

そして、慰霊の儀である。

神呼びをする。
祝詞を差し上げ、更に、その途中で、亡き兵士に、語りかけた。

ここで、亡くなられた、あなたのことを、忘れません。
私たちは、そのために、やってきました。
どうぞ、私の音に乗って、古里、父母の元へ、また、靖国へ、あなたを、待つ人たちの、ところへ、お戻りください。

清め祓いの、言霊、音霊を、数霊を唱えて、更に、祝詞を続けた。
そして、お送りの、音霊で、深く追悼と慰霊の儀を、行う。

私の心に、入ってきた、イメージは、感謝の思いと、空を見上げて、亡くなられたということである。

インド、インパールから、撤退し、ビルマの山を越えて、タイに入り、チェンマイを目指した。多くの兵士が、そうである。
だが、隊から、離れて、一人、黙々と、歩き続けた。
タイの、国境を抜けて、歩きに歩いたが、その場所が、解らない。
力尽きて、カレンの村に入り、懐かしい、田圃の中で、息絶えた。

はかなくもあはれ

せめて、村人に出会っていれば、助けられたはず。
村の中に、入らず、迷い、田圃の中に、入ってしまったのである。

あはれである

深く、黙祷を捧げて・・・

退路は平坦な水田地帯がひろがり、日中の撤退はおそらく死をまぬがれない。満月にちかい月が煌々と冴え渡り、付近を青白い風景に浮き出させた。
弓兵団インパール戦記 井坂源嗣

撤退しつつも、敵と戦わなければならなかったのである。

戦う武器のない兵隊ほどつらく悔しいものはない。小銃弾の一発も撃たず、壕の中にじっとひそんでいた。
井坂

日の出とともに、地獄がやってきた。日本軍全体が夜は極楽、昼地獄と思うようにならざるをえなかった。私は頭にも草で偽装をほどこし、壕に入って敵の方向をにらんでいた。二昼夜一睡もできずにいる疲弊しきった私の右背後から、太陽がしだいに高くなってきた。
井坂

いまは亡き戦友よ、ほんとうに魂があるのなら、おれの背中に乗って、一緒に戦いのないところまで行こう。ひとりでに出る涙を、汗を拭くふりをして手でこすった。遠い南の山々が雲か霞か涙のためか、おぼろになって見えなくなった。
井坂

豪雨のシッタン平地の湿原と、濁流渦巻くシッタン河を渡るにさいし、敵の空陸からの火力をあび、悲惨に状況のもとで精根つきた彼ら各兵団は、膨大な犠牲を出すにいたった。終戦を目の前にして兵士たちの多くが、無惨な姿でビルマの露と消えた。
井坂

とくに悲惨だったのは、患者部隊であった。シャン高原を横断して、タイのチェンマイに出ようとした兵隊は、食糧医薬品もないまま、自力で行軍を強いられ、山中に倒れていった。われわれの通過したあとの道すじには、病魔と戦いながらつぎつぎと体力を消耗し、倒れ伏した兵隊が、屍を山野にさらしていたと聞いた。
井坂

「ただいまより、謹みて、天皇陛下のお言葉をお伝え申し上げる」
奉読されたのは、終戦の詔勅であった。日本は降伏したのだ。奉唱なかばにして熱い涙がとめどなく流れ落ち、胸もとまでも濡らした。
「何のために、苦しい戦いをがまんして頑張ったのだ。戦友の隊員たちは、何のために死んだのだ。それなのに降伏とは、われわれはもう生きる必要はないのか」
今後における将兵の心得を訓示する連隊長の言葉は、とうてい耳には入らなかった。
夢であってほしいと思って・・・・
事実は完全な日本の敗戦であり、軍旗もすでに奉焼を終わったと知らされた。軍隊も解体し、日本もいつか見た夕日のごとく沈んでなくなるのか。全員、茫然自失の状態で宿舎に帰る。
井坂

撤退に際しても、多くの日本兵が亡くなったのである。
あはれ・・・である。


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2010年10月14日

天皇陛下について 70

半世紀以上前、世界を戦雲が覆う中、懸命に戦争回避を図った人間たちがいた。生命の危険を冒し、敵・味方を超えて連携した人々だった。
しかし、その彼らも、時代の流れを変える事は出来なかった。
日本は太平洋戦争に突入し、国中が焦土と化し無条件降伏した。日本人は初めて、外国の占領を体験し、良心と信念に従った者の記憶は、人知れず埋もれてきた。
歴史の重さ、はかなさ、虚しさ、全てが凝縮されたような想いに襲われていた。
しかし、戦争回避に向けて築かれた人的つながりは、戦後になって重要な意味合いを持つことになる。戦前、水面下で連携していた昭和天皇、吉田茂、白洲次郎たち。敗戦と占領という舞台で、彼らは第二のドラマが幕を開けるのであるーーー。
英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

米国政府は承知していたはずだ。私がこの文書の存在を教えられた時、国務省は、これを極東問題の理想的解決、ユートピアとして扱っていた

われわれは米国と密接に連絡、協議してきた。しかし、最後の決断と行動は、米国政府が独自に取ったという事を、未来の歴史家は認識すべきである
1943年9月18日 英国外務省報告

文書とは、ハル・ノートのことである。
アメリカは、日本が、ハル・ノートを受け入れないことを、知っていた。
知っていながら、要求を突きつけた。

結局、クレーギーの最終報告書は、外務省のレポートと併せて、国王を含む要人に、配布された。
そして、戦争に至る英米政府の責任は、巧妙に、ぼやかされた、のである。

チャーチル首相は、歴史家としても、知られ、戦後は、第二次大戦回顧録、にて、ノーベル文学賞を受賞した。

反する、クレーギーの最終報告書は、注目されず、片田舎のコルチェスターと英公文書館に眠っていたという。

1998年、今上天皇が訪英した際に、クレーギーの息子、その孫の、親子が、ロンドン市内のレセプションに、招待された。

その時に、二人を含む、出席者に、天皇は、1953年の、エリザベス女王の戴冠式出席のために、初めて訪英したときの思い出を、語り掛けたという。
以下
当時は平和条約が発効してちょうど一年後のことであり、英国民の日本に対する感情の厳しいときでもありました。しかしその中にあってサー・ロバート・クレイギー・日本協会会長・・・はじめ会員の温かいおもてなしを受けたことは心に残るものでありました。日英関係の断たれた絆を修復するために力を尽された人々の努力を忘れることは出来ません
1998年5月29日

軽々と、天皇の戦争責任を口にする者たちに、言う。
歴史の事実を知ることである。

これに関して、更に深く、私は、追及してみたいと、思う。

以前に書いた、大筋の、流れを前提にして、読むことで、更に、深く理解されることと、思う。

天皇陛下について、であるから、歴代の天皇陛下、更に、古代史からの、天皇について、書く予定である。

しかし、最後まで、書ききれるか、どうかは、解らない。
富士王朝からの、天皇の歴史を書くまでと、思うが、死ぬまでに、書くことができれば、幸いである。

もし、天皇が開戦の詔勅に判を押すだけの、そけだけの存在だったにしても、その「御名御璽」がなければ、国家の国民への戦争命令が発動されないのである。そうだとしたら、そういう重大な命令に判を押したことへの責任がある。しかし、昭和天皇は軽々しく判を押して済ますような無責任な人ではなかった。それゆえに、開戦に同意した(同意せねばならなかった)ことへの、みずからの責任を十分に認識していた。
畏るべき昭和天皇 松本健一

ポツダム宣言が発表されたとき、かつて、三度首相を勤めた、近衛文麿は、敵から無条件降伏を突きつけられた天皇は、戦争責任を負って、退位、もしくは、自決すべきだと、激しく、述べた。

もう、こうなったら、天皇は退位するべきですね。そうすることによって皇室を護ることができるでしょう。やはり、陛下にはこの戦争に責任がある。戦艦に御座乗いただいて、戦死していただくのが、一番よい。自決していただくのが、もっとよいと思いますがね。そのうえで国民も、軍も、無条件降伏をすることに納得がゆくでしょう。

松本氏は、この発言に、近衛の、みずらの責任を回避する、方便に近い言い方だという。

近衛こそが、東条英機にもまして、戦争へと、日本を引きずり込んだ、政治責任者であるというのだ。

天皇の宮家に連なる、五摂家の一つである、近衛家の当主たるものとして、天皇陛下に対し奉り、あまりに、不遜な言葉である。

近衛の、考え方は、戦争の責任を、すべて昭和天皇一つに還元して、守るべきは、皇室と、そのシステムであり、一人の天皇の地位や命なのではないということである。

昭和天皇御自身は、一度、退位を考えている。
しかし、はじめは、内大臣だった、木戸幸一が、これに反対し、のちには、首相の吉田茂が、断固認めなかったのである。

松本氏は、天皇が近衛の言うような、自決を一度も、考えなかったのは、開戦に際して、出来る限り、それを回避しようと努力し、それでも、立憲君主として、内閣が決めたことには、拒否を言わないという、立場を正しく守ったと、考えたからだと、言う。

近衛は、GHQに、戦犯として逮捕されることを嫌い、服毒自殺をした。
その手記に対して、昭和天皇は、
どうも、近衛は自分にだけ都合のよいことをいっているね
と、仰せられたという。

近衛の手記には、戦争に突入し原因を、統帥権の独立、つまり、軍の統帥が、国務から、独立して存在することが、原因だと、見ている。

そもそも統帥が国務と独立して居ることは、歴代の内閣の悩むところであつた。今度の日米交渉に当っても、政府が一生懸命交渉をやっている一方、軍は交渉破裂の場合の準備をどしどしやっているのである。しかもその準備なるものがどうなっているかは我々に少しも判らぬのだから、それと外交と歩調を合わせる訳に行かぬ。船を動かしたり動員したりどしどしやるので、それが米国にも判り、米国は我が外交の誠意を疑うことになるという次第で、外交と軍事の関係が巧く行かないのに困ったものであった。
旧仮名遣いを改めて書いた。

当時の、政治家は、この統帥権の独立に、大いに悩んだと言う。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チェンマイの風 14

若い兵士の、追悼慰霊を、終えて、私は、二日酔いであることに、気づいた。

忘れていた。
それよりも、若い兵士の、心情を思い、涙した。

さて、来た路を戻る。
とても、大変だった。
来た時よりも、しんどい。
川にかかる、竹の橋を渡るとき、驚いた。こんなに、危険なものはないと・・・

落ちたら死ぬわけではないが・・・

綺麗な流れである。
私は、そこに、御幣を投げ入れた。
清めたまえ、祓いたまえ

心霊も、驚いているだろう。
二日酔いの、迫力である。

高級霊位は、私の臭さに、遠くに、いらしたと思う。

朝、水を、1,5リットル飲んだ。
ペットボトル一本である。
ご飯を食べるより、水が好きだ。
だから、少しは、救われる。

また、車に、揺られて、戻る。

本日は、チェンマイに戻る前に、学校での、支援がある。
それが、楽しみ。
前回、出会った子供たちに、会える。

戻って、朝食である。
私は、迷惑をかけまいと、パンや、ジャム、ソーセージを、買ってきた。
しかし、コータと、千葉君は、炊いたばかりの、ご飯を、要求。
そして、小西さんの、奥様が、作った、スパイスの効いた、スープを、おかずに食べる。
私も、スープを頂いた。

自然の中からの、薬草のような、スパイスである。
何と、体に良いことか。

前回は、私たちのために、奥様の、お母さんが、鶏を、潰した。
それで、今回は、もったいないので、遠慮した。というより、鍋の、蓋を開けて、顔が見えるのが、怖くて、遠慮したのだ。

殺して、食べる。
日本にては、そんな意識は、無い。
スーパーで、鶏肉を買って、平然として、食べる。
もし、自分で、殺して、食べるとしたら・・・

大半の人は、出来ないだろう。
それが、文明進化の問題である。

生き物を、殺して、食べるのである。
生き物から、生きられる、エネルギーを得る。

長年、飼っている、ブタを、殺す気持ちになってみる。
想像出来ない。
しかし、そうして、命を、つないでいる。

食べなければ、死ぬ。
死なないために、生き物を、食べるのである。
この、当たり前のことが、日本では、遠くに押しやられている。いや、先進国は、皆、同じである。

ブロイラーばかりを、食べていると、本当の、鶏の味を知らない。
食べるための、鶏を、機械的に、作るのである。
本当の、鶏の肉は、硬いのである。

ケンタッキーという、店の、鶏肉など、食べていると、必ず、滅びる。
美味しいのではない。餌として、与えられているのである。

更に、ジャンクフードである。
ハンバーガー・・・などなど・・・
あれは、皆、餌である。

本当の、ハンバーガーを食べてみると、良い。
実に、美味しいか、不味い。

何の肉が、入っているのか、解らない。
食用ネズミ、食用ウサギ・・・などなど・・・食用カエルか・・・
ミミズかもしれない。

サイコロ牛肉・・・あれは、作り物。とんでもないモノを入れて、作られる。
何から、何まで、嘘を、食べているかも・・・しれない。
安い、回転すし・・・
皆、騙されている。

そうして、年間、四キロの、添加物を体に取り入れている。
解毒作用・・・そんなものを、超えている。

今の、四十代以下の人たちは、ニセモノを、食べ続けたのであるから、とんでもない、病気にかかるだろう。

気づいた時は、遅い。
更に、中国産のもの・・・あれは、すへでが、毒だといっても、いい。
貿易・・・中国と・・・信じられない。自国民にさえ、毒を食べさせて、平気でいる、国である。
反日の、中国人が、日本に、真っ当なものを、輸出するか・・・

日本人など、死ねとばかりに、毒を入れるだろう。

中国製品が、安いのは、単なる、罠である。
他民族は、死ね・・・と、思っている。

安いものは、危険である。
私は、高い値段のものが、割引になるのを、待って買う。
とても、旅日記の、主旨と、かけ離れたことを、書いたが、このまま、掲載する。

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2010年10月15日

天皇陛下について 71

近衛は、日中戦争のはじまる昭和12年から、対米英戦争のはじまる、昭和16年にかけて、三度内閣を組織し、都合二年十一ヶ月に渡り、政権を掌握している。

その、近衛の天皇批判は、深く慎重に受け止めなければならない。

近衛は、日本が日英と、戦争に突入した最大の原因を、統帥権の独立、とした。
そして、その問題を解決しなかったのは、昭和天皇であるという。

この局面を打開するには、陛下が屹然として御裁断遊ばされる以外に方法はなしと・・・
陛下には、自分にも仰せられたことであるが、軍にも困ったものだということを、東久邇宮にも何遍か仰せられたと拝聞する。その時、殿下は、陛下が批評家のようなことを仰せられるのは如何でありましょう、不可と思召されたら、不可と仰せられるべきものではありますまいかと申上げたと承つている。
このように、陛下が、御遠慮勝ちと思われる程、滅多に御意見を御述べにならぬことは、西園寺公や牧野伯などが英国流の憲法の運用ということを考えて、陛下は成るべく、イニシアチーブをお取りになられぬようにと申し上げ・・・
現代仮名遣いにした

日米開戦を阻むためには、天皇が断固として、御裁断遊ばされる以外に方法が、なかったというのである。

それは、天皇が専制的な君主であるべきだということである。

これに対して、昭和天皇は、
どうも近衛は自分にだけ都合のよいことをいっているね
と、批判のお言葉である。

政治の最終責任者が総理大臣であることを考えてみれば、イギリス風の「立憲君主」たらんとした昭和天皇に責任を帰すよりも、まずは近衛文麿に政治の責任を問うべきだろう、とおもわれる。
畏るべき昭和天皇 松本健一

確かに、天皇は、和戦何れか、と言う際に、開戦を回避する努力をしたが、消極的とも見える態度をとったとも、いえる。

その、天皇の消極的と見える態度は、皇太子時代の訪欧に反対する右翼、ニ・ニ六事件のような軍事クーデター、そして、敗戦時の徹底抗戦派によるクーデター計画などに対する、恐れがあった。

天皇陛下の独白録
開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何等異なる所はない。

近衛の言う、天皇親政を否定し、それでは、専制君主と何ら異なるところはない、というわけになる。
立憲君主としての天皇は、内閣の決定を裁可して、開戦に同意するしか方法がないということである。

天皇陛下独白録
今から回顧すると、最初の私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら無条件降伏に対し、「クーデター」様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に私が「ベトー」を行ったとしたならば、一体どうなっていたであろうか。・・・
国内は必ず大混乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びることになったであろうと思う。

私は、色々と、調べる前に、この陛下の言葉の通りのことを、思った。
当時の状況では、戦争に反対すれば、陛下のお命さえも、危ういものだったと、思うのである。

松本健一氏は、
つまり、天皇の怖れはーーーもしじぶんが開戦の閣議決定を裁可しなかったら、ニ・ニ六事件のような軍事クーデターが起き、果ては軍人たちに受けのよい秩父宮を皇位につけて、やみくもに開戦に走ったのではないか、というものだった。
と、言う。

近衛は、GHQから逮捕状が出ると、服毒自殺をした。
それを、聞かれた陛下は、
近衛は弱いね
と、仰せられた。

天皇とすれば、じぶんの一存で進退を決する近衛を羨ましいとおもう一方で、民族を戦争へと引き込んだ政治に対する「責任」というものは、一人が「自決」すればすむような軽いものではないぞといいたかったにちがいない。
松本健一

天皇の戦争責任問題は、敗戦後の、一つの大きなテーマになっていた。
声高に、天皇の戦争責任を言う者も、多数いた。
しかし、今、歴史の史実が、明るみにされて、更に、敗戦後60年辺りから、どんどんと、資料が出てきた。

皆さん、お勉強不足ではなかった。
事実の、情報不足だったのである。

これから、しばらく、松本氏の、畏るべき昭和天皇から、事の次第を見て行く。

以前に書いたことが、更に深まるはずである。

そして、もう一度言う。
歴史は、必然か、偶然か・・・
歴史に、必然的なものがあるならば、戦争という、ものも、その一つにある。
歴史の進化が、それを求めることもある。

更に、偶然の産物だとしても、そこに、人間の意志が介入する。
矢張り、必然というしかない。

人間が、起こすことは、必然なのであり、そこに、偶然というものが、介入するならば、それは、偶然性という、不可抗力である。

その、不可抗力を、どのように、捉えるかに、人間の人生力がある。

偶然を内的必然と、捉えるとき、人間は、人間としての、知性、理性を持って、思索することができる。

歴史を、内的必然として、捉える。
そこから、歴史が輝くように、見えてくる。
私は、そのように、思う。

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チェンマイの風 15

食事を終えて、本日は、学校での支援をして、そのまま、チェンマイに、戻る予定である。

私は、子供たちに、手渡して、終わると、考えていた。
子供たちは、おおよそ、70名という。
少し心配なのは、全員に渡せるかということだ。

船便で、送っておいた、ダンボール箱が、二つ、バッグが、四個である。

すべてを、車に積み込み、学校に向かう。
その前に、お母さんに、さようならの、挨拶である。
お父さんは、出掛けていたので、会えない。

小西さんの、奥様と、お嬢様も、一緒に、チェンマイに戻るという。
全員で、行動である。

帰り道にある、学校に到着する。
すると、何と、子供たちが、待っていた。
更に、手渡す前に、子供たちによる、私たちへの、歓迎の芸である。

民族舞踊の披露と、竹竿を使った、面白い遊び方を、見せてくれた。

女の子たちは、皆、白い民族服を着ている。

私たちは、四名が、並び、挨拶する。
そして、コータを中心に、王様賛歌を歌うことにした。

更に、辻さんに、さくらさくら、を、歌ってもらう。

五歳程度から、12歳程度までの、子供たちである。
どうも、学校入学前の子供たちも、いるようである。

聞いていた、人数より、多い。
果たして、足りるか・・・

いよいよ、一人一人に、手渡すことになった。
男の子と、女の子を、分けて、私が、男の子、辻さんが、女の子を担当する。

一人一人に、合わせた、衣服、ズボンなどを、手際よく、手渡していく。
小さな子供から、はじめた。

子供たちは、控え目である。
一人、一人に、手渡すという、私の活動。必ず、顔と顔を合わせる。
渡す時に、私は、オッケーと、声を掛ける。
子供が頷く。

次第に、汗だくになる。
日差しも強くなる。

一時間ほど、かかったかもしれない。
最後に、赤ん坊用の、物を持ち上げて、赤ん坊のいる人は・・・と、私が問いかけると、それが、通訳されて、女の子たちが、手を上げる。
その時は、少しばかり、取り合いになったのが、面白い。

そして、更に、大人物もあり、お父さんや、お兄さんのいる人と、問いかける。
手が上がる。

私は、大人物が、別にして、取り分けられているのを、知らず、それも、子供たちにと、思ったが、辻さんが、先生たちに、渡すものだと、教えてくれた。

先生たちも、必要だったのだ。

ということで、すべての、支援物資が、無くなった。

すると、小西さんが、子供たちのために、ギターや、歌を披露して欲しいと、言いに来た。

子供たちが、整列して、座る。

私は、千葉君に、ギター演奏を頼んだ。
野外での、演奏が、どのようになるのか・・・
ところが、ギターの音が、響くのである。
感動した。

更に、辻さんに、歌を披露してもらう。

最後に、先生たちも、呼んで、辻さんは、踊りをつけながら、大きな栗の木の下で・・・を、歌う。先生たちも、それを、覚えようとしている。

三度ほど、繰り返して、先生たちが、覚えた。
子供たちも、立ち上がって、真似をしている。

辻さん、が、後で言う。
バリ島の子供たちと、会った時に、カレンの子供たちも、この歌を知っていると、いいことだ・・・・と。
えっーーーーー

バリ島の子供たちと、カレンの子供たち・・・・
どうして、そんなことが、考えられるのか・・・

距離感覚からしても、会うのは、実に難しいはず。

辻さんの、飛びぬけた、その感覚は、素晴らしいのか、飛躍しているのか・・・
私は、絶句した。

まあ、兎も角、楽しく終わったので、考えないことにした。

車に乗り込み、さようなら、である。
皆さん、また、会いましょう。
子供たちが、手を振る。
先生たちは、頭を下げる。

また、会いましょう。また、逢いたい。

車は、チェンマイに向かった。
私は、急に、眠気である。疲れた。
しばし、揺れる車だが、うとうとする。

そして、ようやく、舗装された路に出た。
カレンの村に来るのは、大変である。
穴ぼこの路を、走るのは、とても、運転技術がいる。

チェンマイ市内に、入り、ホテルに向かう。
同じホテルではない。
コータが、見つけた、新しいホテルは、ナイトバザール周辺のホテルである。
夜が、騒がしい場所。

明日、三時まで、一つの部屋を使用するということで、三つの、部屋を予約していた。
一人、800バーツ。私とコータの部屋は、1100バーツである。
朝食が付いている。

ホテルに着いて、小西さん一家と、最後の、食事をする。
時間は、一時を過ぎていた。

食事を終えて、部屋に入ると、今までの、疲れが、一気に出た。
終わった・・・・・
終われば、あっという間の出来事である。

まさに、人生、そのもの。

いずれ逝く
この世のことを
捨ておきて
何事も無く
あはれ が残る


posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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