2010年10月06日

天皇陛下について 62

人類はじまって以来の、大戦・・・
それは、太平洋戦争ではない。

第二次世界大戦であり、大東亜戦争である。

今年、開戦から、70年、敗戦から、66年。いよいよ、戦争に関する、様々な、資料や、考え方が、出てきた。
再度、何故、戦争に突入したのかを、考えてみることにする。

筆の向くまま、気の向くまま、である。
ただ今、色々なものを、読んでいるので、後に、それらを、評価、批判する。

さて、昭和24年4月11日、マッカーサー元帥、罷免の臨時ニュースである。

権威に従順な日本人は、この旧敵国の総司令官に、いつしか尊敬と畏怖とを感じていた。
河原敏明

昭和天皇は、しばし、呆然とする。
そして、三谷侍従長により、詳細を報告される。
改めて、驚きを露にしたという。

六年前の、昭和20年、天皇の命運は、元帥の胸先三寸に、委ねられていた。
その元帥が、大統領電報で、罷免させられたのである。

25年6月に、勃発した、朝鮮動乱で、北朝鮮を後押しする、中国に対して、満州の爆撃と国府軍、台湾軍の、投入を強く主張して、ことごとく、トールマン大統領に反対した。
結果は、罷免である。

トールマンは、ソ連の介入により、第三次大戦に、発展することを、危惧したというが・・・

だが、それにより、マッカーサーは、日本の戦争の意義を、理解し、更に、納得したのである。

日本が、行った行為は、防衛上、必要不可欠だったということだ。

プライドの高い、マッカーサーは、皇居には、一度も、天皇を訪ねなかった。そして、その帰国に際しても、天皇がご訪問されて、その労を労ったのである。

老兵は死なず、ただ消えてゆくのみ
マッカーサーの、最後の言葉である。

日本国民への、メッセージは、なかった。
だが、マッカーサーが、米国議会での、帰国報告で、
日本人の精神年齢は12歳である、と、放言したのである。

熱烈だった、日本人の元帥敬慕も、一瞬にして、醒めたのである。

傲慢不遜・・・
という、イメージが、広がった。

実は、この言葉は、それ以後、欧米人によって、繰り返し語られたのである。

私も、ドイツ人司祭たちから、何度も、それを、聞かされた。
日本人の精神年齢は、少年だ・・・

それが、一体、どんな意味なのかを、理解することが、出来なかった。

つまり、欧米人とは、違うということが、第一なのであろう。
野蛮で、傲慢ではなく、曖昧、たゆたふ心を、持ち、意見を明確にしない。
何となく、場の空気に従う。
自己主張が無い・・・

上げれば、キリが無い。
そこで、精神的に、成長した、欧米化した、日本人は、精神的に、成長したのか・・・

国民意識希薄で、兎に角、日本は、遅れている。日本は、悪い。日本は、駄目だ。日本に希望は、無い・・・
まだまだ、ある。
そして、精神的に成長したのである。
つまり、日本人であることを、否定して、成長した・・・

反吐が、出る。

私は、マッカーサーが、日本に対してしたことの、貢献を挙げることにする。

日本の食糧難を救い、共産革命を抑え、経済を再建し、天皇の存在を認めた。
北海道の占領統治を、強引に要求した、ソ連に対して、それを、抑えた。
特記すべき、功績である。

それが、12歳の精神である、と言う言葉で、かき消されたことは、残念である。

私は、人が何を言うか、より、何を、行ったかを、重視する。
よって、マッカーサーには、感謝する。

マッカーサーの、後任は、リッジウェイ中将である。すぐに、大将となる。

彼は、実に、ヤンキー気質で、開けっぴろげだった。
自ら、天皇を表敬訪問し、気軽に、国民と、付き合った。

彼は、日本を、朝鮮動乱による、目覚しい経済発展と、アジアの安定勢力となる、日本の存在に対する、再認識があったといえる。

そして、九月に、講和条約が、サンフランシスコにて調印され、昭和27年、4月28
日、日本は、七年ぶりに、独立を回復する。

その以後の、日本の復興は、目を見張るばかりである。

ただし、戦争の傷跡は、深く、未だに、残っている。
敗戦から、66年を迎える、今年、平成23年、2011年の、今も、それは、存在する。

すべての、戦争犠牲者の数は、320万人である。
更に、兵士の遺骨は、114万人が、異国の地に眠る。

いや、眠ればいい。
もし、行くべき先を知らず、浮遊しているとしたら・・・
そんな、悲しいことは、無い。

今こそ、戦争犠牲者の追悼慰霊を持って、日本を新たに、創造しなければ、ならない。
日本の伝統は、祖霊、亡き人に対する、鎮魂の法である。
それは、天皇陛下によって、為される。

その、陛下の、御心を、国民が、祈りと共に、支えることである。

あらゆる、考え方を、認めた上で、国民が、心を、一つにし、慰霊の行為を、行うべきである。

国民は、鎮魂の法は、行えないのである。
みたましづめ、という。

皇祖皇宗の、威徳を持って、なされる、行為である。

国民は、追悼慰霊を実行する。
追悼とは、思い起こし、それを追体験する。
そして、慰霊とは、霊位に対して、真摯に対処することである。





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チェンマイの風 6

お地蔵さんの、お寺から戻り、小西さんと、遅い昼食を、ホテルで取る。

それで、今日は、タイマッサージを受けようと、皆、話し合う。
少し休んで、マッサージの店に行くという。
コータが、それでは、通りに面している店より、少し小路に入ったほうが良い店があると、辻さんと、千葉君を誘う。

私は、いつもの、安い店に行くことにする。

皆が出てから、私も、出た。

安い店は、料金が、すべて、50バーツ、150円値上がりしていた。
更に、知るマッサージ嬢が、一人もいない。
皆、年老いた人、そして、一人の、レディボーイである。

私は、どう言う訳か、レディボーイと、気が合わないらしく、その彼女に、睨まれた。

店に入った以上は、マッサージをするべきだと、フットマッサージを頼んだ。

一人の、おばさんが、私の足を、洗う。
そして、待つ。しかし、中々、治療が始まらない。
随分と待った。もう、限界だと思い、また次にしようと、思ったときに、一人のおばさんが、店に入ってきた。
その、おばさんが、フットマッサージの担当だった。
電話で、呼び出されたのだろう。

ようやく、マッサージが始まった。
しかし、生ぬるいのである。
オイルを塗り、ただ、撫でるようである。
力が、出ていない。

これは、私には、拷問に近い。
ただ、撫でられるのは、相手の気を吸う。
つまり、おばさんの、気を取ることになる。

片足だけで、止めようと思うが、何となく、躊躇する。
これでは、客は、付かない。

以前いた人たちは、こんなことは、なかった。
残念。
ここには、二度と来ない。

拷問のような、フットマッサージを終えて、諦めた。
今回は、マッサージは、これで、やらないと、思った。

周辺の店も、皆、値上がりしていた。
以前が、安すぎたのだ。

一時間、100バーツである。300円。
マッサージ嬢の、取り分は、30バーツ、90円である。

だが、コターと、後の二人は、とても、満足したマッサージを受けたという。
矢張り、小路に入ると、良いという、結論である。

辻さんは、そのマッサージ店に、再度行くほどだった。
兎に角、力が強い。テクニックがあるという。

料金は、高めである。
一時間、250バーツである。750円。
日本のマッサージと、比べると、天地の差であるが。

しばらく、皆、お休み状態になった。
今夜は、絶対行くと、決めた、チェンマイカレーの店で、夕食をする予定である。

辻さんの、奢りである。
だが、どう頑張っても、四人で、300バーツ以上は、食べられない。
実に、安い。

四種類のカレーを注文し、それに、カオニャオという、もち米で、食べる。
実に、美味しい。

七時に出て、八時にホテルに戻った。
私は、それで、十分である。
ついでに、果物を買う。

一つ、10バーツ、30円で、パイナップルと、スイカと、メロンを買う。
皆、食べやすく、切ってある。

こんなところが、タイの良いところでもある。
夜店の屋台で、食事をすれば、更に安く食べられる。
25バーツから、30バーツで、食べられるのだ。

ホテルで、食べる、十分の一の料金である。
麺類などは、そこで、食べると、美味しい。

ただ、食器を洗う場面を見ると、戸惑う。
二つの水の桶で、繰り返し洗うのだから、不衛生である。

食べる場合は、それを、見ないことにする。

だが、食堂で出される水や、氷は、安全になった。
以前のように、戸惑いなく、口に出来る。

三年前は、口に出来なかった。
氷も、危なかったのだ。

タイの、衛生も、進化したのである。

私は、早々に寝ることにした。
コータも、疲れたらしく、夜の街には、出掛けない。

そのまま、朝、五時まで、寝た。

目覚めた日は、コンサートの開催日である。
私は、五時過ぎに、ホテルを、出て、歌う歌詞を覚えるために、ターペー門広場に出て、歌の練習をした。

今回は、軍歌も、歌う。

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2010年10月07日

天皇陛下について 63

昭和30年代後半、日本は、神武景気に沸き、昭和元禄を謳歌した。
つまり、国民に、ようやく、ゆとりが生まれたのである。

そして、宮内庁は、懸案の新御所の建築に向けて、準備を進めた。

当時、昭和天皇の御文庫は、大戦中の、突貫工事で、二重天井の間隙に、雪混じりの、砂を詰めたせいか、湿度が異常に高い。
時期によっては、露が、壁や、コードを伝わり落ちるほどだった。

これでは、お上のご健康がと、側近たちが、憂慮したが、天皇陛下は、その時期にあらずと、断り続けた。
そこで、新築は、見送り、28年に、大改修を加えた。
側近用の、数部屋も、増やした。

宮内庁が、新御所の、建設を決めたのは、昭和34年である。

また、吹上御所と、平行して、新宮殿の造営も、進められた。

これについては、省略する。

それより、昭和天皇の、御心に、思いを馳せる。

敗戦後の、陛下の生活は、実に、質素であった。
それは、国民を、思えばこそ・・・

新しい御所に、移られる時に、陛下の手にあったものは、スリッパである。
すでに、そのスリッパは、減り続けて、半分ほどになっていた。

それでも、まだそれを、使用するという、お言葉に、側近たちも、意見が出来なかったと言う。

この身が、いかになろうとも・・・
それが、敗戦後の、昭和天皇の御心だった。

天皇陛下に、パチンコの玉を発射した者がいた。
正月と、天皇誕生日に、陛下が、国民に姿を見せて、手を振って、答える、一般参賀である。

ニューギニア戦線で、想像を絶する、飢餓と、酷熱のジャングルで、九死に一生を得て帰国した、奥崎謙三である。

戦争の最高責任者であり、超A級戦犯である天皇が、相も変わらず大きな顔で日本国民の象徴として認められ、マスコミがチヤホヤしていることに対して、私は飢えて死んでいった多くの戦友や無数の戦争犠牲者を考え、いつも我慢ならない激しい怒りをもやしていた・・・
奥崎

最もなことである。
彼は、強度の偏執病と、診断されたが、違う。
真っ当である。

私の、父は、少年志願兵として、木更津に出向いた。
そこで、敗戦を、迎えた。

父は、私に、よく、言った。
天皇・・・・そんなもの
どれだけの人が、死んだか・・・殺されたか・・・
皆、天皇陛下のためだと言って、死んで、殺された・・・

あっくたらもの
方言で、あんなもの、という意味である。

最後まで、天皇に対する、敬意を、見せなかった。

当然である、
父の、上の世代が、皆、帰国しなかったのである。
死んだ。
戦争で、死んだ。

あのまま、皆、漁師や、田圃で、働いていた。平和に、貧しいが、幸せに。
誰が、あれを、破ったのか・・・
その、怒りが、父を、天皇存在への、怒りに代えた。

当然である。

私も、多くの戦地に追悼慰霊に、出掛けて、思う。
何故、こんな所まで、来て、死ななければ、いけなかったのか・・・

救いは、母の言葉だった。
天皇だって、利用されたんだ・・・

誰に、利用されたのか・・・
母も、はっきりと、解らない。

生きて帰った者は、皆、そのように、思うだろう・・・
その感情を、止めることは、出来ない。
だから、天皇を、憎むことである。

憎んで、憎んで、憎む・・・
天皇の御心は、それを、十分察知していた。

だから、この身を裂いても・・・
国民を救いたい・・・

君主というものは、何と、憐れで、哀しいものか。
天皇陛下は、何と、憐れで、悲しいものか。
そして、最も、国民の中で、不遇である。

そんな、状況と、心境を、一人の国民として、想像出来ないほどの、お方なのである。

そして、更に、である。
もし、天皇の望む通りに、その身を、八つ裂きにされていたら・・・

国民の目の前で、ギロチンに掛けられ、その首が、飛んだら・・・

憎みは、解消されたただろうか。
決して、解消されない。
益々、憎みは、高まり、皇室全員を、殺しても、まだ、足りないだろう。

それも、昭和天皇は、察知していた。

そして、最も、恐ろしいことは、国内の混乱と、内戦、更に、国が、滅びることである。

そうなれば、天皇は、死んでも、死に切れないばかりか、皇祖皇宗に対し奉り、断腸の思い激しく、進んで、地獄、地下に、霊位は、赴くだろう。

それならば、生きて、天皇という、身分によって、国を、立て直すことである。
最も、辛い、苦しい道を、天皇の御心は、感受した。

歴代天皇は、国民の平和と、豊かさを、祈っていたのである。
それを、そのままに、引き継ぐこと。
それ以外の、方法を、考えては、ならない。

ポツダム宣言受諾の、後で、涙を流す戦争責任者たちに、必ず、私が、日本を、立て直すと、言明した。

この、天皇の決意。

私は、恐れ多いことだが、見事だと、思うし、この国の君主たる、天皇が、このようなお方であることに、誇りを持つ。

奇麗事なら、何でも言える。
天皇の継続は、奇麗事ではなかった。

針の筵に座って生きることだった。

その、御心、あまりにも、貴く、高く、久しく、広く、懐かしいのである。

世界の、為政者で、戦争責任を、その身で、負った者は、いたか・・・
ギロチンに掛けられたり、亡命して、難を逃れる。

日本の天皇にして、君主たる道、示されたのである。

恐れ多くも、この、陛下の御心に、叶う国民の一人でありたいと、願う。

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チェンマイの風 7

第四回、日本の歌、メモリアルコンサートは、夜、六時開演である。
会場入りは、五時。

それまでに、時間がある。
ホテル前の、食堂で、四人で、食事を済ませてから、私は、少し休んで、矢張り、マッサージに行くことにした。

新しい店を探す。
沢山あるので、ひとつ一つの店の前で、中を確認する。
小太りの女を、捜す。
力があるからだ。

そして、若ければ、なお、いい。
と、一軒の店の前に、二人の女性がいた。

マッサージと、呼び掛けられる。
タイマッサージ、200バーツである。
料金は、店により、色々違ってきた。統一していない。

よしと、タイマッサージをすることにした。
一時間である。
力が強い・・・これは、良い。
だが、古典的なマッサージで、下半身を40分ほど、揉み解す。
足を徹底的に、揉むのだ。

それもいい。しかし、私は、上半身も、そのように、して欲しい。が、無理。
バンコクなどの、マッサージは、変化が、著しい。
日本人の体質を見抜いて、上半身を、しっかり、揉むマッサージも現れた。

日本人は、肩から、肩甲骨が、一番、凝る。
それに合わせた、マッサージの、技術が欲しい。

まあ、満足して、終わった。
チップを、20バーツ渡す。

ホテルに戻り、歌の歌詞の練習をする。
今回は、加藤隼戦闘隊を歌う。
軍歌である。
実に、勇ましい歌。

エンジンの音、轟々と、隼は行く、雲の果て
翼に輝く日の丸と、胸に描きし若鷲の
印は我らが、戦闘機

開戦により、マレー、ビルマ戦線で、武勲を立てた、加藤隼隊である。
だが、加藤中佐は、戦死する。
それを、映画にして、この歌をつけた。
当時は、国民の意気を高めるものだった。

子供から、お年寄りまで、幅広く集まると、聞いていた。
童謡から、歌謡曲、歌曲まで、実に幅広い、プログラムを作った。

私は、浮波の港、王将、加藤隼隊、男の純情、君忘れじのブルース、そして、人生の並木道である。

一部であるから、最初は、タイ国王賛歌、そして、君が代斉唱である。
その後、私の舞台になる。

四回目ということで、今までに無い曲をという、アドバイスを頂いていた。

男の純情、という、歌を入れたのは、意味があった。
前月、フィリピン、ネグロス島への、慰霊に出かけた。
誤って、バコロドではなく、トゥマゲッティに飛んだが、ネグロス島の戦記を読み、兵士たちが、励ましあうために、歌った歌の中に、それが、あった。
手記の作者は、その歌詞まで、入れていたので、相当の思い出があると、見た。
それで、ネグロス島の、戦禍を紹介し、この歌を歌うことにした。

男、命の、純情は
燃えて儚い、金の星
夜の都の大空に
曇る涙を誰が知る

戦死、病死、餓死・・・
そんな中で、歌を歌う。
せめてもの、慰め。
私は、そんな心境になったことはない。
彼らは、次に死ぬのは、俺だと、思いつつ、歌う。

ホールは、ホテルから、歩いて、すぐである。
出発は、四時半。コータは、四時に出た。
小西さんたちが、垂れ幕を張るために、四時に出ますということだったからだ。

辻さんは、絽の黒留袖、私は、緑の、絽縮緬を着た。
それだけでも、目立つ。
そして、お客様も、着物姿を喜ぶ。
中々、着物姿は、見られないのである。

ホールでは、すでに、小西さんたちが、第四回 天山 チャリティコンサート in チェンマイ、という・・・

驚いた。
天山である。
チェンマイ在住の、書家、書道師範の方が、いつも、書いてくださる。

天山の文字が、一筆で、書かれている。
勿論、その部分は、日本に持ち帰った。

来年は、第五回、天山チャリティコンサートになるのだろうか・・・

顔馴染みになった、皆さんと、会うのが、楽しみである。

辻さんが、リハーサルをはじめた。
千葉君との、共演である。
私は、外で、歌詞を覚える。

静かに暮れる、チェンマイの夕暮れ。

不思議なものである。そして、あはれ、である。あはれに懐かしい。

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2010年10月08日

天皇陛下について 64

昭和天皇の、地方巡幸は、21年2月から始まり、26年までに、本州、四国、九州を終えた。

そして、29年の、国体を機に、北海道巡幸が、実現した。

28年には、奄美大島などの、南西諸島、続いて、43年に、小笠原諸島が返還され、沖縄の返還運動も、年々、盛り上がっていた。
だが、沖縄は、米国の対ソ連、対中国の政略上、極東における、重要な位置にある。それを、返還すると言うのは、米国の、国防を危うくする恐れがあった。

47年5月、沖縄が返還された。
実に、27年ぶりに、日本に復帰した。

ここで、少し沖縄の歴史を、言う。

沖縄は、14世紀以来、独立国であったが、薩摩藩の侵攻により、圧制と搾取により、苦難の時代が、続いた。
そして、明治維新を迎える。

久米島には、久米島紬という、織物がある。
日本で、最初の、織物産地である。
そこから、八丈島に、その技術が、伝播された。

薩摩藩の時代、久米島の人々は、久米島紬を着ることは、出来なかった。すべて、薩摩藩に奉納である。
もし、着ていることが、見つかれば、即座に、斬られた。
そんな、悲しい歴史がある。

更に、与那国島では、人頭税に苦しんだ、人々が、悲惨な行いをした。
妊婦を、崖から、崖へと、飛ばせて、落ちた者は、死んだ。
そうして、人の数を、減らす。

そして、戦争では、唯一、戦場と、なったのである。
子供たちから、女学生まで、銃を取り、担架を担いで、苛烈な戦場を駆け巡ったのである。

9万4千人の県民が、亡くなった。
ちなみに、軍人は、9万数千人である。

昭和天皇は、何故、すぐに、沖縄に巡幸しなかったのか・・・

疑問である。
そこに、昭和天皇の、重大な秘密がある。

筑波大学、進藤助教授が、米国、国立公文書館から、発見した。
22年9月18,あるいは、19日、寺崎英成宮内省御用掛が、GHQ外交局長シーボルトを訪ねて、沖縄についての、天皇の意向を伝えている。

天皇は、米国が今後25年から、50年ほど、日本に主権を残した形で、沖縄諸島を軍事占領することを、希望している。米国の利益になり、日本を守ることにもなるからである。

それを、シーボルトは、9月20日に、マッカーサーに、伝えている。
更に、二日後、米国の、マーシャル国務長官に送付したのである。

新憲法により、政治権力を失った天皇が、この提言をしたということは・・・

この、世界、54年4月号の、雑誌を見た共産党が、衆院で取り上げ、この事実は、沖縄を見捨てるものであり、かつ、天皇の国政関与を禁じた、憲法に違反する、と、追及したのである。

政府は、それを、裏付ける資料は、日本側には無いとのこと。

確かに、日本側には、無いのである。

それに関しては、あまりに、重大なことゆえに、自然消滅してしまった。

だが、一面、私は、昭和天皇に関しては、実に、鋭い感性を持ち、多々、日本復活のために、様々な方法を、考えていたということを、付け加えておく。

情報は、新しくなる。
つまり、情報は、刷新され、事実が、よりよく、見えるようになるのである。

沖縄、巡幸・・・
昭和天皇は、希望されていた。
しかし、その御心には、拭い難い、核心があった。

耐え難きを、耐え、偲び難きを、偲ぶ。

どんなに、優れた人間であろうとも、過ちや、どうしても、という、決断がある。

確かに、政治権力を失った、天皇の言葉は、事実としても、権威の無いものとなる。
だが、それを口にしたと、仮定してみると、天皇の御心の痛みである。

敗戦を体験して、国を守るということは、軍事力でしかない。
守るということは、現実なのである。
理想を夢見ている、暇は無い。

では、沖縄の人たちは、どうだったのか・・・
実に、複雑な心境であろう。

沖縄の人から来て欲しいという、話しは、聞いていない。だが、沖縄の置かれている立場など、難しい問題もあるので、今は、行くとか、行かないといえない。
天皇陛下の、実に苦しいお言葉である。

確かに、革新勢力が強く、反天皇の嵐が吹き荒れていた。
警備当局も、反対している。

父天皇に代わって、復帰三年後に、それを、成したのは、皇太子殿下である。
今上天皇陛下である。

今上天皇陛下は、
たとい、石をぶつけられてもいい、それでも、地元の人たちの中に入ってゆきたい
との、決意であった。

そして、ひめゆりの塔で、花束を捧げて、黙祷したとき、突然、火炎瓶が、火を吹いた。
石が投げつけられ、炎が燃え上がった。

しかし、陛下は、微妙だにせず、泰然として、他の二つの塔に参拝された。

更に、遺族団を慰問されたのである。
過去に多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望しつづけてきた沖縄が、さきの大戦ではわが国では唯一の、住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い今日に至ったことは、忘れることのではない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方がたのことを思うとき、悲しみと痛恨の思いに浸されます。
私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、県民の傷痕を深く省み、ともに力を合わせて努力してゆきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、いっときの行為や言葉によって、あがなえるものではなく、人びとが長い年月をかけてこれを記憶し、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ・・・

この、誠実に満ちたお言葉は、天皇陛下からの、搾り出す、痛恨の極みであったと、考える。

記憶し、深い内省の中にあって、この地に、心を寄せる。
追悼慰霊である。

私は、自決の島、渡嘉敷島の、慰霊碑を、訪れたときに、天皇陛下を、拒絶する、風を感じた。
だから、昭和天皇を、お呼びした。目に見えない霊位であれば、この祈りに、応えていただくという、思いである。

上記の、今上天皇の、お言葉は、県民の琴線に触れたが、癒されない、そして、尽きない恨みというものがある。

その代表とされるのは、天皇陛下の、存在である。

昭和天皇は、恨んで、恨んで、恨んで、下さいと、仰せられるだろう。

この世には、どうしようもないことがある。
その、どうしようもないことを、どのように、生きるか。

天皇という、存在の悲しみは、計り知れない。
それを、歴史を通して、見て行くことにする。


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チェンマイの風 8

コンサート開場は、五時半である。
私と、辻さん、そして、小西さんの奥様が、受付に立った。

出演者も、受付に立つというのが、私の方法。
いらしてくださる、皆様に、ご挨拶する。

お久しぶりです、お元気ですか
待っていましたよ
楽しみにしていたんですよ

更に、初めて来られた方は、
情報がなくて、今回初めて、知りました、という、老夫妻もいらした。

奥様の方が、何と、ご祝儀を包んできたから、驚いた。
おめでとうございます

昨年よりも、人が多い。
ようやく、知れ渡ったようである。といっても、それは、小西さんの、お陰である。
至る所に、チラシを、配布し、チェンマイ在日の人たちが見る、フリーペーパー、チャオという、雑誌に、二度も、取り上げていただいた。

感謝しても、足りない。

開演前、5分。
私たちは、小西さんの奥様に、後を頼み、楽屋に入る。

本日は、四名全員が、舞台に出て、タイ国王賛歌を歌う。そして、全員で、君が代斉唱である。

六時に、小西さんの挨拶が、はじまった。開演である。

そして、私たちが、呼び出された。

私が、それでは、皆さん、ご起立ください。
タイ国王陛下に対し、敬意を表して、国王賛歌を歌います。
私は、歌詞を見て、コータは、覚えているので、そのまま。
辻さんが、伴奏である。
そして、千葉君が、立つ。

国王賛歌は、通常のタイ語ではない。
王室への、特有の言葉である。

発音が、難しい。しかし、タイ国において、国王賛歌を歌うことは、とても、意義あること。それも、日本人である。

タイでは、国歌斉唱、国王賛歌の場合は、起立する。
タイ人が、起立しない場合は、懲役刑がある。

カァオラチャプターーーー
静かに始まり、高揚して終わるという、歌である。

歌い終えると、自然に、拍手が起こった。
そして、君が代斉唱である。
日本人全員が、斉唱した。

コータ、千葉君が、退場して、私は、辻さんのピアノ伴奏で、浮波の港、を、歌う。

私は、舞台全体を使う。
要するに、動き回る。

日本の、高度経済成長が、始まった年に、大流行した歌があります。
王将です。

戦時中、この歌が、国民の戦意を高めました。
今は、軍歌を嫌うのではなく、その軍歌を歌った時代を、検証するという、意味で、興味がもたれています。

開戦により、マレー、ビルマ戦線にて、武勲を挙げた、加藤隼戦闘隊です。その、加藤中佐も、戦死しました。

この歌では、辻さんも、高揚して、歌詞を、伴奏しながら、朗読するという、ハプニング・・・
私は、それを、手で、制した。
歌い終わって、拍手を頂き、辻さんが、退場する。

そして、千葉君の、伴奏で、男の純情を歌う。
その前に、ネグロス島の、戦禍について、話した。

戦死、餓死、病死だけではなく、力尽きた兵士たちが、温泉に浸かりながら、息を引き取るという、その場面を読みまして、私は、佇み、何度も、読み返しました。
その遺骨は、川を通り、海に出て、日本に流れついたでしょうか。

その彼らが、励ましあって、日本の歌を歌ったとあります。
中でも、この歌の、歌詞が、書かれてあり、思い出深いものと、感じました。

そして、君忘れじのブルース、人生の並木道。

私の、舞台が、終わった。
千葉君の、ソロ演奏で、一部が、終わる。

冷房が効いているが、汗だくになる。

これで、また、一つ、予定を、こなした。
私は、辻さんのステージを、楽屋と、ホールの扉から、聴いた。

童謡を歌う辻さんと、お客様が、一緒に歌っている。
感動した。
辻さんは、何も言わなかった。しかし、皆さんが、歌いだしたのである。

最後の、二曲は、私の作詞したもの。
南の島で、亡くなられた方を思い、作詞した、帰り来ぬ風、である。
そして、逢いたくて。

あなたに逢いたくて生まれてきたの

終演である。

再び、お客様を、お送りする。
来年も、待っています
お元気で
次も、期待します

初めて来られた、81歳の男性の方は、感動した、面持ちで、このようなコンサートが無くて、残念に思っていた。今は、皆、作り物のコンサートだ。生の声を聴きたかった。という。

そして、昔を思い出したと、頭を下げた。
来年も、生きれていれば、是非きます

戦争体験者である。
気持ちは、よくよく、解った。

お客様を、送り出して、手際よく、後片付けをして、ホテルに戻る。

小西さん一家と、ホテルで、食事をする。

私は、何も食べられない。
疲れすぎて、口に入らない。
ただ、ココナッジュースを飲んだ。

兎に角、四回目を、無事に終えた。
すべては、小西さんの、協力のお陰である。
私たちだけでは、出来ないこと。

再度、小西さんに、お礼を述べた。

そして、来年のことである。
一年準備をしても、一時間半で、終わるコンサートというもの、人生に似る。

疲れた私は、来年は、一度、お休みしたいと、思うのだが・・・
いや、明日になれば、また、来年のコンサートを考えるはず。

来年は、五回目である。
そう、生きていれば、出来る。

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2010年10月09日

天皇陛下について 65

私は、天皇陛下について、書いている。
昭和天皇だけの話しではない。

ただ、昭和天皇ほど、世界的に知られた天皇陛下は、いない。
それでは、世界的に、どれほど、昭和天皇は、興味や関心を、持たれたのか。

国内の資料だけでは、それは、分からない。
そこで、公開された、イギリスの秘密文書から、天皇陛下を観察したものを、見ることにする。

英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎著、から、それを取り出す。

はたして日本は、国家として統一した意思を持っているのか。昭和天皇は、軍や政府を掌握しきれているのか。
盧溝橋事件やヒューゲッセン事件を経て、英国政府は疑念を抱きはじめた。
秩父宮が日本へ出発した直後の1973年9月24日、英国外務省が作成したレポートは、彼らの疑念を如実に表している。天皇を頂点とする、日本の政治システムの分析だった。
徳本栄一郎

憲法の理論上、大元帥の天皇は陸海軍を統帥しているが、実際には、皇族や宮内庁省、軍部の意見を受けて行動する。・・・したがって、天皇を取り巻くアドバイザーが、その意思に影響を及ぼし、日本の政策を決定していく

昭和天皇の性格分析
周囲の人間の操り人形とならないためには、強い個性が求められるが、今の天皇は、それを持ち合わせていない。彼は気立てが良く、従順な性格だが、特に知的で明敏には見えない
天皇は弟の秩父宮のような自由を与えられず、自分の意見を形成する機会も持てなかった。・・・・大正天皇が発狂した時、彼は摂政に就任し、二十五歳で天皇に即位した
個人としての天皇は、自由主義や穏健主義の傾向が見られる。重大局面では、軍部に対抗して行動し、1932年、上海からの日本軍撤兵は、天皇によるところが大きかった
1937年9月24日 英国外務省報告

イギリスは、明治維新の頃から、情報を収集し、日本の権力構造を、見抜いていたという。

上記を見ると、天皇陛下は、強い意思や権力を持たないという、分析である。

1938年2月、新しく就任した、外務大臣、エドワード・ハリファックス卿の元に、10ページの文書が届けられた。
日本支配における水面下の分裂、その内政・外交上の影響、である。

そこには、宮中での、昭和天皇と、秩父宮を中心とする、二大勢力が対立を深めているとのこと。

更に、事態を複雑にしているのは、大正天皇の皇后である、貞明皇太后の存在である。

彼女は、秩父宮を贔屓し、昭和天皇には、しばしば政治的助言を与えているというものである。

その上で、昭和天皇は、周囲の環境の産物として、指摘された。
自分の地位の危うさ、目前の見えざる敵の存在に、昭和天皇は精神的に不安定になり、疑い深くなっている。・・・ニ・二六事件は、力ずくで彼らを追放しようとして失敗した企てだった
1938年3月12日 英国外務省報告

報告書は、秩父宮を黒幕と名指しはしないが、彼を擁立して、体制変革を狙う勢力が、宮中に存在すると、結論づける。

人間、天皇の、その危うさ・・・
激動の歴史の中にある、昭和天皇というお方の、状況が、実に、危ういものであることを、見せ付ける。

ここには、大君であらせられる、天皇陛下の・・・
という、姿は、無い。皆無である。

当時の、在英大使は、吉田茂である。
吉田は、昭和天皇の側に立つ人間である。

しかし、イギリスは、その対応にも、不信感を抱いていた。

日本大使に関する限り、その文書が、日本に自由主義政府を作る成算を高めるというのはナンセンスだ
吉田は、日本ではあまり重く見られていない。彼が帰国を希望している事は理解できない。それにより、何を達成しようとしているのかも分からない
1937年1月27日 英国外務省報告

吉田は、中国問題で、日英の協調による、十の具体案を提出していた。
日英協調の協定締結を、強く望んでいたのである。

そこには、英米との和平を望む、リベラルな穏健派が存在し、その中核が、天皇陛下であると示唆するものである。

だが、イギリスは、日本軍の中国での行動を見て、穏健派が、本当に存在するのかを、探っている。

そして、決定的なことが、起こる。

1937年6月2日、吉田が、第二次覚書を、英国外務省に提出した。
日本は、中国華北地方を分離し、外国利権を排除する意図はない。日英の通商、財政面での協力を進めることが、柱だった。

しかし、折衝が続く中、7月7日、盧溝橋事件が発生し、日中は全面戦争に突入する。
中国中枢への、日本軍の南進は、英国権益への挑戦を意味した。

すべてが、水の泡となった。

吉田は、本国から正式の指示ではなく、上層部の人々から非公式、個人的に、英国の仲介を探るように指示されているようだ。・・・日本の華北や上海での英国民の扱いを見ると、英国が日本を経済支援すべきとの吉田の憶測はナイーブである。現地で一体何が起きているか、彼は無知に違いない
1938年4月13日 英国外務省報告

確かに、吉田の背後には、天皇をはじめとする、英米協調派が存在するが、前年からの、日中戦争の経緯を見ると、東京の政府と、現地の日本軍は、全く意思が統一されていないとの、判断である。

何故、大戦に到ったのか・・・

歴史は、必然的なものであると、仮定する。
どれほど、人間が、心を砕き、和平を望んでも、歴史が、それを、許さないとしたら・・・

いまだ、誰も、そのように、考える者がいない。
それで、私が言う。

様々な、分析をする。
そして、それが、実に有意義に、生きる場合がある。
しかし、生きない場合もある。

私は、そう思う。

イギリスから、見れば、天皇陛下も、一つの駒である。

実際、戦争責任などとは、実に、あはれで、愚かなことである。

ただし、人間の英知による、努力を否定するものではない。
運命論を言うのではない。


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チェンマイの風 9

10月3日、日曜日、朝、10時出発。
昨夜のコンサートの熱も、覚めやらぬ間に、カレン族、トゥンルアン村へ、出発である。

途中、バンカート学校の、新しい寮生たちに、衣服支援を行う。
その、男子寮は、日本政府の支援で、造られた。

女子寮もあるが、今回は、男子のみに、支援する。

バンカート学校敷地には、タイ・ビルマ戦線の慰霊碑があり、先日、慰霊に訪れている。

その、慰霊碑を抜けて、新しい男子寮に、向かう。

すでに、私たちを待っていて、椅子が、並べられていた。

小西さんの車に、総勢、六人乗った。
後ろの荷台に、コータと、小西さんの奥様、お嬢様が乗っていた。
タイでは、珍しいことではない。
荷台に人が、大勢乗る。

支援物資があるので、バウンドがあり、乗り心地がよいと、コータは、寝ていたようである。

到着すると、先生と、少数民族の生徒たちが、やって来た。
私たちは、急いで、衣服を出した。
男子物を、分けてあったので、即座に、手渡す事が出来た。

机の上に、衣服を並べて、自分の好きなもの、また、家族のために、必要なものを、取るようにと、言った。
最初は、遠慮がちだったが、先生たちに、促されて、生徒が、次第に、衣服を物色する。

寒い季節のものを、主にして、今回は、持参した。
ジャンバーや、ジャケットなども、必要になってきたのだ。

タイ、ラオス、ベトナム、ミャンマーなどの、北部地帯は、寒冷化が進み、11月から、1月にかけて、気温が、一気に下がるという。

寒さで、死者も出るほどである。

それは、意外に知られていない。
東南アジアは、暑いとばかり、考えている人たちが多い。

生徒たちは、一つ、二つと、取り分けた。
一通り、行き渡り、一段楽する。
私たちは、もてなしの、水と、お茶を、頂いた。

そして、私が、挨拶した。
時々、こうして、衣服を持ってきます
皆さんと、友達になるのが、楽しみです
また、会いましょう

一人の生徒が、代表して、挨拶した。
このたびは、ありがとうございます
心から、お礼を申し上げます

その生徒は、チェンマイ大学に入学が決まったと、先生が、仰った。

少数民族の生徒たちは、すべて、奨学金などで、学校に通う。
優秀な成績なのだろう。
彼も、自力では、大学進学は、出来ないはずだ。

私は、昔、札幌で、アジア人留学生たちへの、ボランティア活動をしていたことを、話した。
北海道大学には、タイからの、留学生も、多かった。

今では、帰国して、チェンマイ大学の、教授になっている人もいる。

ただ、日本での生活と、アジア人に対する、差別意識に、挫折する留学生もいた。
甚だしい場合は、自殺である。
タイ人の、女性留学生が、自殺した。
勿論、そのことは、話さなかった。

日本人は、白人に対しては、歓迎するが、アジア人を、見下げてみる人が多い。
極めて、悪質な、差別意識である。

タイでも、少数民族は、少なからず、差別の対象にされている。
残念なことだ。

就職に際しても、タイ人でなければ、採用されないことが多いと、聞く。
であるから、少数民族の学生が、就職するには、余程の、学力と、才能が要求されるという。

チェンマイ最初の夜に、タイ舞踊の食事に出掛けたが、そこでは、少数民族の、踊りも、紹介された。
彼らは、その芸や、民芸品を売って、細々と、生活を立てている。
方法が無いのである。

または、女性は、マッサージ嬢になる。
それでも、駄目な場合は、体を、売る。

住む場所も、山岳地帯が多い。
町から、遠く離れた場所に住み、文明とは、無縁な生活である。
それは、一面、良い。しかし、文明化に、着いてゆくことも必要なのである。

学歴も、必要である。
里親制で、支援するのは、大半が、少数民族の、子供たちである。

自給自足の生活で、満足できるのは、ある程度の、年齢の人たちだが、若者は、町に出てゆかなければならない。
稼ぐことが、必要になる。

どうしても、お金が必要になるのだ。
その、丁度よい具合を、見て、民族の、誇りを失わない生き方が、求められる。

私たちは、また、国王賛歌を、そこで、歌った。

少なくても、味方がいると、思う心が、強くさせる。私たちは、彼らの味方になりたいと、思う。
出来ることしか、出来いのだが・・・
再会を約束して、カレン村に、向かった。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月10日

天皇陛下について 66

ロバート・クレーギは、駐日英国大使として、1937年9月に、赴任した。

10月14日、クレーギーは、天皇陛下に、拝謁する。
その際の、天皇陛下のお言葉が、残る。

日中事変で日英関係が急速に悪化している事に、私は深い懸念を持っている。それまでのロンドンでの対話に、大きな期待を寄せていただけに真に残念である。
この関係を食い止め、かつての良好な日英関係に戻すのを、自分は心から願っている。その事を、日夜考え続けている。どうか、大使も力を貸して欲しい。

クレーギーが、答えた。
両国の困難を取り除きたいとの真摯な願いはよく分かりました。私も両国の関係改善に全力を尽させていただきます。ただ、良好な日英関係を築く唯一の基盤は、中国を敵ではなく友人にする事です。

天皇が応じた。
その方向に、すべての努力を傾けねばならない。
1937年10月23日 英国外務省報告

ただし、日本の軍部は、日中戦争の士気高揚に、しきりに反英感情を煽るのである。
英国が、南京政府を支援し、日本を牽制しているというものである。

だが、皇族は、英国への愛着と、忠誠心を捨てては、いない。今後の、対日外交で、重要な武器となると、クレーギーは、漠然とした、期待を抱いた。

ところが、10月28日の夜、宮城と向かい合う、英国大使館の正門に、若者たちが、集まりはじめ、「英国は中国から手を引け」「英国と徹底抗戦すべし」などの、垂れ幕を持っている。

アジア主義を唱える団体であり、やがて、若者たちの、一群が、敷地内に侵入した。

大使館は、国際法上、外交特権を持ち、その敷地は、不可侵である。

更に、若者たちは、大使を出せと、要求する。

若者たちが、残した声明である。
欧州の抑圧を取り除かない限り、アジアに平和と繁栄は実現しない。・・・日中戦争は日本と中国の戦いではなく、南京政府を支援する英国やロシアとの戦いである。これはアジア開放の歴史的闘争で、われわれは日本の政策を全面的に支持する。
1937年11月4日 英国外務省報告

日中戦争の開始以来、日本軍は、南京の国民政府に圧力を加えるため、空爆を行ってきた。南京、上海、漢口などの、主要都市を空爆した。この都市空爆は、民間人の大量の死者、負傷者を出し、連日、世界のマスコミで報道された。それが、欧米での、反日運動を激化させていた。

しかし、実は、それは、中国側の報告なのである。
当時の、蒋介石政権は、積極的な欧米メディア工作を行っていた。
中国側の被害を、大きく誇張するという。
それに、日本政府は、翻弄された。

中国のプロパガンダへの対応で、外務省と参謀本部は、意見が異なる。外務省は中国の虚偽に具体的に反論する意向だ。一方、参謀本部は、中国の主張はあまりにグロテスクで、反論するのは時間の無駄としている。
1937年10月6日 英国外務省報告

今も、昔も、中国の、嘘八百は、変わらない。

日本では、次第に、アジア主義者が、活動を起こし始めた。

新聞も、連日、ブリュッセルの九か条約国会議の、欺瞞を指摘し、雑誌なども、戦慄する大英帝国、日英戦わば・・・などの、特集を組んだ。

国民は、強烈な、反英感情を持つことになる。

過去六年の日本は、軍備拡張の予算を確保するため、(外国の脅威を煽る)プロパガンダを行ってきた。・・・これらの扇動行為に深い根拠があるとは思わないが、危険な側面も抱える。神秘的信念を持つ青年将校が、中国の戦局に大きな影響を持ち、深刻な事態を起こすリスクがある。・・・彼らの行動を強く支持する群集心理も働いている。
1937年12月2日 英国外務省報告

英国は、天皇、要人が、英国との関係改善を望んでいることを、理解したが、現実には、日中戦争に続き、英国の権益にも、脅威となっている、状態である。

英国が、注目したのが、日本の、金保有量である。
結果は、日本政府は、日銀の金には、手をつけていないが、他の在庫から、五億円相当の金を輸出している。
この戦争は、永遠に続けられず、いずれは、終結させなければ、ならないだろう。
という、英国側の、考えである。

1938年1月、近衛首相は、国民政府を相手とせず、との、声明を発表した。
これにより、日中戦争終結の交渉は、頓挫した。

英国は、そのネットワークを最大限に生かして、日本の内情を、探った。

日中戦争の長期化に伴い日本は疲弊し、いずれ英米に頼らざるをえない。日本は国力の全てを投入して、華北地帯への侵攻、上海と南京の支配を達成したが、その結果に落胆している。今後、金のかかる戦争を継続しなければならない事に不安も感じている。
中国やドイツやソ連の助言を受け、戦力を立て直しつつある。・・・日本が本気で仲介を求めるまで、今後も中国を支援し、彼らが望む限り戦闘を続けみさせるべきである。その上で適正な平和を達成できる。
1938年4月13日 英国外務省報告

英国政府は、誠実な紳士を演じていた。
日本と中国、双方と、関係を維持してきた。

その上で、日中の思惑、軍事力、経済力を分析し、英国にとって、最大の、メリットを探っていたのである。

現時点では、さらなる犠牲者が出ても、日中戦争を続けさせた方が、得策である。
やがて、日中が疲弊しきったところで、善意の仲介役として、登場するという、英国のシナリオである。

国益。
すべては、それぞれの、国益を、考えての、分析、行動なのである。

相手の、国の事情などは、関係ない。
自国の、国益が、最優先なのである。

posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チェンマイの風 10

カレン村へ行く道の途中に、小西さんが、瞑想を行っている寺がある。
そこに、立ち寄った。

中に入ると、丁度、瞑想指導の、ご住職がいらした。
何の飾りもない、タイの僧侶の衣を着ていた。

自然体で、どこにも、力が入らない姿勢である。

自然と、同化しているのである。

私たちは、小西さんの案内で、岩場の瞑想場所に、向かった。
大きな、磐穴である。

一人の僧侶が、瞑想をしている。

私たちは、その、大きな磐の口の前に立ち、中を眺めた。

そこに立つと、まず、息がしやすい。
そして、少しすると、体の弱っている場所に、痛みが起こる。
私は、目の奥から、側頭部である。

鼻が通るのである。

瞬間、この場所では、病が、治ると、直感した。

ちなみに、古神道では、山の中の、修行を、危険視する。
とても、危ないのである。
山の霊的存在に、憑依されたり、とんでもない、霊能力を得たりする。

滝行などは、最悪である。

しかし、この場所は、入り口が広く、公開されている。
隠されているのではないから、安全であると、感じた。

息を、意識できる。
即座に、息遣いを意識できるとは、凄い場所である。

日本でも、パワースポットと呼ばれる場所があるが、これほど、息を意識できる場所は、少ないし、大半の場所、勘違いが多い。

気が付くと、他の皆は、次に移動していた。
私も、彼らを追いかけた。

建物の中で瞑想する、場所に案内された。
そこには、誰もいない。
が、しかし、私には、二名、あるいは、三名の気を感じた。
つまり、霊体になった、方々が、瞑想していると、感じた。

そのことは、誰にも言わない。

日本の、修験道の場所には、そういう、霊体が多い。
死後も、その場所にて、修行するのである。
それは、あまり、良いとは、言えない。

修行自体に、囚われているからだ。
つまり、自縛である。

だが、あの、洞窟は、素晴らしかった。
多くの瞑想希望者が、やってくるという。

初期仏教の頃の、瞑想法を、受け継いでいると、いう。
つまり、釈迦ブッダの瞑想である。

それが、宗派、宗教を超えて、世界に広がっているらしい。

先の、住職様は、その、指導者の中でも、特出している。

宗教、特に、仏教は、行が、中心の教えである。
思想ではない。
行為が、先行する。

更に、瞑想法は、禅とは、違う。
日本の禅は、中国禅である。
インドの、ヨーガ、ブッダの瞑想法とは、異質なものである。

言葉が、先に来るものではない。
感じることが、先に来る。

解らないという言葉があるが、解らないことは、言わない。感じることなのである。
瞑想とは、感じる力であり、更に、同化する力である。
ただし、我というものを、失わない。

我というものは、とでこにも、無いという、詭弁は、言わない。
ただ、その我が、変容するのである。

兎に角、小西さんの、瞑想修行の場を、見ることが、出来たのが、幸いだった。

車に乗り込み、更に、山の中に入る。
路は、次第に、揺れる。

山道だらだら・・・
村の入り口に入ると、象の出迎えを受ける。

カレンの男たちは、象使いでもある。

すぐ目の前の、象は、迫力がある。
私は、メロンの食べ残しを、象の鼻に渡した。
その、鼻に、巻かれると、大の大人でも、危ない。

そのうちに、犬が出てきた。
鶏が出てきた。
更に、黒い子豚が出てきた。
いよいよ、カレン族の村である。

懐かしい風景である。
私は、二年前に、来ている。
ああーーーー懐かしい。


posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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