2010年10月01日

天皇陛下について57

たしかに、いろいろ言い分はあるでしょうし、そのうちのいくつかには説得力もあります。けれども、どういう理屈を立てよとも、「どこかから起こって来たもの」が戦争の主因であるというスキームだけは変わることがありません。「大東亜戦争」を肯定する、ありとあらゆる論拠が示されるにもかかわらず、強靭な思想性と明確な世界戦略に基づいて私たちは主体的に戦争を選択したと主張する人だけがいない。戦争を肯定する誰もが「私たちは戦争以外の選択肢がないところまでに追い詰められた」という受動形態の構文でしか戦争について語らない。思想と戦略があって、それが戦争を領導するのだと考える人がいない。ほんとうにいないのです。どれほど好戦的な核武装論者でさえ、彼らのロジックを支えているのは「被害者意識」なのです。「北朝鮮がミサイルを撃ち込んでくるかもしれない」「中国が東シナ海のガス田を実効支配するかもしれない」そういうことにまで追い詰められたらこちらの軍事的な力がなければ話にならない。そういう被害者の構文でしか「現実主義者」は軍事について語らない。日本をいつ、どうやって、どういう方法で「追い詰める」のかを決定する権利は専一的に「あちら」にある。・・・・「追い詰められない」ための予防的手立てを講ずるということについてはほとんど知的リソースを投じない。まず、「あちら」が先手を打つからゲームが始まる。自分から「打つ手」というものは何も考えていない。現代日本のミリタリストたちもまたその発想においては、まことに「辺境」の伝統に忠実であると言わねばなりません。
日本辺境論 内田 樹

この方の、日本辺境論の、元は、中華主義から、発している。
歴史的に、日本は、中華の辺境地だったという、発想からの、評論である。

実に、面白いが、ここに、隠れた、反日思想がある。

実に、巧妙に、書かれているが、最終的に、辺境人でいいのである、ということになっている。

確かに、中華は、ある時期、世界の中華という、意識で、勿論、今でも、そうであるが、そのような、時期があった。
それは、それで、確かなこと。

そこで、日本人の、発想は、その歴史的事実から、今の今まで、逃れられないという、持論なのか、問いかけなのか・・・

であるから、この方の、戦争に対する、見方を、紹介する。

華夷秩序の物語以外のほとんど唯一の例外的な外交関係として日英同盟があります。この世界最強の海軍国との同盟関係を抜きにしては、日露戦争の勝利はありえませんでした。第一次世界大戦後に「五大国」の一国として国際社会に登場することもありえなかったでしょう。けれども、近代日本の礎石となったこの貴重な同盟関係を日本はその後解消します。解消したことが悪いと言っているのではありません。問題は、このような重要な外交上の決断にどれほどの積極的な理由があったのか、史料を読んでもよくわからないということなのです。
内田

それは、自分の想像力の欠如であるとは、考えない。
あくまで、中華主義の、日本論であるから、見えないのである。

日本の、文は、行間を読むという、伝統があり、今のように、西洋思想の、論理立てなど、発展していない、時代である。
そして、発展しなくても、よい時代が、続いていた。
それも、この方は、肯定している。

この方は、戦後の、思想家、識者たちの、文を、基底にして、論ずるのが、説得力があるので、明確な、ものの見方を、持っていない人は、やられる。

ヴェルサイユ講和条約の日本全権大使は西園寺公望でした。彼は自国権益にかかわること以外、会議でほとんど発言しませんでした。その日本代表の行動は会議参加国の多くを失望させ、それがやがて日英同盟の破綻へと繋がってゆきます。
どうして、日本の代表団はヴェルサイユ条約で自国権益の話しかしなかったのでしょう。たぶん、他国の首脳たちが何を話しているのかがよく理解できなかったからだと私は思います。もちろん、言葉や理路は理解できたのでしょうけれど、どうしてそういうことを言い出すのかそのモチベーションが実感できなかった。華夷秩序の物語世界の住人には「国際新秩序」という概念そのものが、なぜそのようなものが必要なのかが、理解できなかった。私はそうではないかと思います。
内田

明治維新以後、二度の、戦争に勝ち、二度と、戦争を起こしてはいけないと、日本人は、別に思っていなかった。そして、新しい世界新秩序の必要性を、感じていなかった・・・
確かに、その通りであろう。

内田氏がいう、世界の新しい秩序とは、何か・・・
ヨーロッパの人たちは、第一次大戦により、決定的打撃を受けて、戦争を、しないことを、考えた。当然である。

だから、もう、戦争をしなくてもよい、新秩序を、考えるという時に、日本は、何も、発言しなかったと、言う。

これは、事後予言である。

国際社会のために自分たちは何ができるのか、という問いを、自らに、向けた政治指導者は、日本には、いませんでした。と、この方は言う。

歴史の格差の、問題である。

そして、今も、いないことになる。

辺境人である、日本人は、国際社会のことを、考える、素地が無い。
更に、考える必要は無い・・・
とも、考えているようである。

この辺り、この本が、売れた理由であろうか。

勿論、本人も、これは、多く欠陥があり、批判されるものだと、述べている。
更に、最初に、結論を書いている。

日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだけれど、変化する仕方は変化しないということなのです。
内田

そして、丸山眞男を引用して、日本論を、はじめるときの前提として、これに付け加える言葉を、持ちませんと言う。

まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、と言いたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変わるけれども、にもかかわらず一貫した云々―――というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変わる、ということです。あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な「正統」の条件を充たさないからこそ、「異端好み」の傾向が不断に再生産されるというふうにもいえるでしょう。前に出した例でいえばよその世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が「伝統」化しているのです。

という、上記が、結論なのである。

それを、能力と、考えると、日本人は、とてつもない、才能に恵まれていると、言える。
変わり身の、早さ自体が、伝統化しているということは、適応できるということであり、変動する世界において、日本人ほど、素早く対応できるということである。

ということは、辺境人としての、日本を、論ずる、この方は、少し矛盾しているのか、私が、頭が悪いせいか、そう思うのだろうか。

もう少し、続ける。

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チェンマイの風

今回の旅の予定は、チェンマイ在住の、小西誠さんに、一任した。
そして、その予定を、見て、唸った。
毎日、予定がある。
今までは、一日活動して、一日、休むというものだった。
途中で、疲れては、続かないと、思ったからだ。

ところが、小西さんの、予定表は、毎日のスケジュールであるから、戸惑った。
しかし、小西さんに、一任すると、言った。

バンコクに、深夜到着し、コータの滞在していた、アパート、マンションに、一泊して、翌日の、昼の便で、チェンマイに向かう。

季節は、雨季である。
チェンマイは、昼間、暑いが、朝夕と、涼しい時期である。

小西さんの迎えを、受けて、チェンマイである。
その、風は、思い出深い。

私は、五年前に、チェンマイに、出掛けた。
その時も、10月である。
国王、在位60周年の年である。

それから、今年で、四回目のコンサートを開催するほど、チェンマイとは、深い縁が出来た。

北部タイに、出掛けるときは、チェンイマに立ち寄った。
だから、チェンマイの町を、見ると、懐かしい。
田舎に戻ったような、心境になる。

空港に、小西さんが、出迎えに来てくれた。

四名で、100キロの、支援物資を持参したから、荷物が、大変な量である。

自分のものを、極力少なくして、支援物資を、大量に、運ぶ。

勿論、帰りは、すべて、無くなる。
行きは、大変だが、帰りは、楽々である。

その夜は、タイ舞踊を見られる、お店で、北部タイ料理を食べるとの、予定である。
小西さんが、前回も、それを、提案してくれたが、私は、お断りして、小西さんと、じっくりと、話したいと、御願いした。

少数民族の人たちの、舞踊と、その、紹介を兼ねての、舞踊であるから、実に、意味深いものだった。
こんなに、多くの民族がいるのだと、再認識できた。

更に、食事は、食べても、食べても、終わらない。
つまり、足りなくなると、何度でも、それを、足して、くれるという食事である。

どの程度食べたのか、分からなくなる。
気づいた時は、腹一杯で、とんでもなく、食べたことに気づく。

今回は、私と、コータと、辻さん、千葉君と、四名である。

小西さんから、言われていた、料金より、安かった。
あれほど、食べて・・・この、値段、である。

食事の時も、舞踊があり、食事が終わると、別棟に場所を移し、民族舞踊を、見る。

あっという間に、三時間を、過ごした。

時間は、夜の、10時、日本時間の、12時である。

ホテルに、戻ると、疲れが、どっと、出た。

明日は、慰霊碑を巡る。
早々に、寝ることにする。

ホテルは、旧市街の中にある、ターペー門の前の、ホテル。
前回と、同じである。
だが、内装をしていて、とても、綺麗な部屋になっていた。

一人、800バーツ、2400円。二人部屋は、1100バーツである。

旅の最中は、酒を、飲まない。
というより、飲みたくない。
それで、眠たくなるので、二重に良い。

夜は、エアコンがいらない。
丁度よい、温度になる。

チェンマイは、北部タイの、最大の都市であり、タイでは、バンコクに次ぐ、第二の都市である。
しかし、そんな雰囲気は、無い。

北部、東北部から、出てきて、働く者も多い。
しかし、貧しい人が多い。
一般紙的な人の、給与は、一ヶ月、15000バーツ前後、45000円である。それも、よい方で、ある。

マッサージ嬢などは、お客の、数の売り上げの、三割を受け取る。
客がいなければ、収入が無い。

地方から出てきて、体を売る、女性たちも多い。
家族に仕送りをするために、我が身を、犠牲にする。

貧しい国は、どこも、同じである。

私たちの、ホテルの周辺も、夜は、騒がしい。
ゴーゴーバーや、飲み屋が、軒を連ねている。

だが、その音は、遠くに聞こえる。
チェンマイの夜風は、心地よい。

久しぶりの、チェンマイの夜を、眠る。
旅の、目的は、明日から、はじまる。
流れに任せるだけである。
ああ、チェンマイの夜は更けて・・・

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2010年10月02日

天皇陛下について58

日本人が集団で何かを決定するとき、その決定にもっとも強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」であると看破したのは山本七平でした。
私たちはきわめて重大な決定でさえその採否を空気に委ねる。かりに事後的にその決定が誤りであったことがわかった場合にも、「とても反対できる空気ではなかった」という言い訳が口を衝いて出るし、その言い訳は、「それではしかたがない」と通ってしまう。
内田

そこから、戦争のことに、言及してゆく。

戦艦大和の沖縄出撃が軍略上無意味であることは、決定を下した当の軍人さえ熟知していました。しかし、それが「議論の対象にならぬ空気の決定」となると、もう誰も反論を口にすることができない。山本七平はこう書いています。
「これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の言葉はどうか。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の評論に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答えうる以上に弁疏しようと思わない」であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう。彼が「ああせざるを得なかった」ようにしたのは「空気」であったから・・・」

これに対して、丸山眞男は、「超国家主義の理論と心理」の中で、見事な分析をしていると、この方は、言う。

ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然るにわが国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。
丸山

世界的体系や、公権的基礎づけが、ないことに、注目すると、言う。

丸山の言う「ずるずる」というのは、その政治的行為を主宰する主体がいないことを示す擬態語です。ある政治的判断について、その意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪のすべてについて責任を取ろうという人間がいない。既成事実の前には再現なく譲歩し、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。
内田

丸山が、日本人の思考原型は、
「現実的」に行動するということは、だから、過去への繋縛のなかに生きているということになる。
と、述べている。

とても、よく分析しているが、これは、頭の良い人の、遊びである。

現実と、現状を、生きていない、頭の良い人は、このように、論理の中に、埋没する。
勿論、彼らは、物を書いて、ナンボの生活をしているので、それが、商売である。

何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入した・・・

あれから、つまり、開戦から、70年を経る。
昭和天皇が、どのように、努力されて、戦争回避を願ったか・・・
更には、昭和天皇が、全責任を負うと、言う。

ナチスは、堂々と、その論理を持って、開戦に踏み切ったが、日本は、ずるずると・・・
そして、それは、今も、変わらず。
それで、また、いいのである。
それは、辺境人だから・・・
内田氏は、言う。

ずるずるとが、幸いした、日本だったということだ。

敗戦後に、私は、開戦方針を主導したと、名乗る人間が、大日本帝国の指導部には、一人も、いなかったという。
それが、日本人の思考法であり、それが、辺境人だから、故のものである。
肯定もし、否定もする。という、内田氏である。

日本人は、パーツ主義である。
全体は、別物として、存在する。
その、存在は、空気なのである。

十分に、分析した。

それが、最高の、民主的思考法だと、誰もいわない。

民主的思考法というものは、そういうものであろう。

ポツダム宣言受諾に際して、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限」は「連合国最高司令官に従属」するという条項の解釈をめぐり、これが、国体の変革を意味するかどうか、御前会議の場で、激しい議論になった。

日本国の本体であるところの「国体」というのは他国に従属しても政体の根本理念が変わっても変わらないものとして観念されていたわけです。それは、国体の定義を下す権利は政府にも天皇にも誰にもないと主張した「神州防衛派」の思考ともとは同型のものでしょう。
内田

更に、続けて
でも、私はこの国体規定を「ナンセンス」と哂うことはできないと思います。まさしく、日本の国民的アイデンティティの中心は、この「他国に従属しても政体の根本理念は変わっても変わらないもの」すなわち、「状況を変動させる主体的な働きかけはつねに外から到来し、私たちはつねにその受動者である」という自己認識の仕方そのもののうちにあるからです。
と、言う。

その通りだと、思う。
よくよく、分析している。

しかし、その中でも、心身ともに、辛苦し、その身を、引き裂いても、国民を守り、更に、日本を、救おうとした、天皇陛下の、存在には、触れないのである。

この方は、日本の辺境人として、そのまま、辺境人を、貫いてゆこうと、書くが、果たして、痛みというものを、知る者なのかは、解らない。

民主的な、日本の思考法の中で、それを、痛みとして、国の、君主である、天皇陛下の存在を、忘れて、分析など、出来るものではない。

下々の国民、更には、そこから、選ばれた国の、指導者たちの、分析なのであろう。

空気、確かに、空気は、生きている。

議論の末は、天皇陛下に、承認されて、お言葉として、詔として、発令してきた、日本の政治である。

再度、
思想と戦略があって、それが戦争を領導するのだと考える人がいない。ほんとうにいないのです。
と、内田氏は、言う。

そして、被害者意識によるものが、すべてを、仕切ると、言う。

そして、それでいい、のであると。

それならば、最後まで、外交努力にて、収めたいと、希望された、昭和天皇の、御心は、どうなるのか。

そして、思想と戦略の無い、指導者たちが、この期に及んでは、戦争しかないと、空気で、決めたこと・・・

それほど、おかしなことか。
天皇陛下を、説得した、指導者は、本当に、ずるずると、行為したのか。

それは、日本流の、思考法であろう。
内田氏の言う、辺境人でも、何でもいいが・・・

分析は、よくするが、現実的、更に、現状を、ただ、言語化するという、評論の、限界を、感じてのことか・・・

明確に、言語化しなければ、世界に通用しない。
思想、思考法を、明確にしなければ、ならない。
それでなくては、世界的社会の中では、通用しない。

私は言う。
だから、今までの、思考法では、世界は、いつまでも、同じことを、繰り返し、戦争もまた、繰り返すから、日本的、思考法、真の、民主的思考法を、理解してもらうべきだと、思う。

そのためには、盟主たる、天皇陛下の存在が、必要不可欠である。


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チェンマイの風 2

チェンマイ、二日目の朝、9月30日である。

朝食は、ホテル並びの、現地の人の食堂に行く。
その食堂は、朝の7時から、夕方で、閉まる。
長期滞在の、欧米人にも、人気があり、昼前後は、混み合う。

本日は、追悼慰霊を主とする、予定である。

出発は、午前11時。
まず、チェンマイ市内の、ムーンサーン寺の敷地内にある、野戦病院跡に、出掛ける。

車は、小西さんに御願いして、大型のバンを頼んでおいた。
日の丸と、御幣の、神紙を持参する。

寺の敷地内であるから、派手なことは、出来ない。
静かに、黙祷と、清め祓いをする。

慰霊碑のある、前の建物には、当時の、日本軍の物が、展示されてあるというが、その日は、開いていなかったので、慰霊だけにした。

昼間は、矢張り、暑い。
自然に汗が出る。

私は、単の着物を、浴衣の扱いで、着た。

辻さんは、浴衣である。
コータと、千葉君は、写真を撮ったり、ビデオを撮る。
今回は、初めて、ビデオ撮影をした。

勿論、私は、ビデオがあろが、なかろうが、やることには、変わりない。

ムーンサーン寺を出て、バンカート村に向かう。
そこには、タイ・ビルマ戦線で、亡くなった、12000名の兵士をお奉りする。
私たちは、何度も来ている。

辻さんと、千葉君は、二度目である。

とても、綺麗に整理されていた。
更に、慰霊碑を囲む壁が、新たに白い壁に、塗り替えられていた。

多くの人たちの、慰霊の思いもあり、霊的にも、清々しい。

御幣を立てて、祝詞を唱える。
いつもの通りである。

その途中で、あるお方が、お見えになった。
尊い霊体である。
と、私は、感じたので、少し、後ろに下がった。

そして、更に、祝詞を続けた。

四方を、清め祓いして、深く黙祷する。

遺体を井戸に、投げ入れられた兵士の遺体は、そのまま、井戸の中である。
更に、まだ、すべての遺骨が、集められてはいない。
もう、どこにあるのかさえ、解らない。

その周囲の遺骨に対して、追悼の鐘が、建てられた。

私たちは、その、鐘楼に上がって、鐘を突き、慰霊の思い深く黙祷する。

タイ・ビルマ戦線とは、インパール作戦のことである。
それが、一つ、そして、もう一つの、ビルマ戦線の、犠牲者もいる。

インパール作戦については、以前の旅日記に、詳しく書いている。

今回は、カレン村にて、道を誤り、若い兵士が、亡くなったとされる、山裾で、慰霊を行った。その際に、少し、それに触れることにする。

車のエアコンが、弱く感じられるほど、暑い。
朝夕は、涼しいが、矢張り、昼間は、気温が上がる。

次に向かったのは、生き残った兵士、藤田松吉さんが、建てられた、慰霊碑である。

ランプーン県パーサン郡にある。
私たちは、昨年も、訪れている。

あまり、知られていない、慰霊碑である。

藤田さんは、自ら、戦友の遺骨を集めたという。その遺骨を、納めていた塔でもある。
今は、すべて、千鳥が淵墓苑に納められたという。

藤田さんの、遺骨のみが、お奉りしてある。

今回の、私の目的は、藤田さんの、慰霊碑に、結界を張ることだった。
タイでは、霊的存在を、すべて、ピーと呼ぶ。
それは、良いもの、悪いもの、関係なく、人々は、畏敬し、恐れる存在である。

精霊もあり、人霊もある。

慰霊碑に、それらが、取り憑かないように、である。

通常の、慰霊の儀を行い、最後に、結界を張るための、行為をする。
更に、近くの川に、昔、礼拝されていた、霊的存在に対しても、ある、行為をした。
皆が、忘れてしまっているのである。

藤田さんは、カトリックだったので、辻さんに、ピエ・イエズを歌ってもらった。
私も、キリエ・レイソンを唱えた。

いつもより、時間がかかった。
そして、最後に、御幣を川に流す。
その川の主に、特別な挨拶をした。

昔、その川の主は、その地域の守り神として、皆の信仰を集めていたのである。

祠の跡も無い。
タイの人も、近代化の波に飲まれて、昔の風習を忘れる人もいる。

時間は、二時半を過ぎていた。

そのまま、ホテルに戻り、三時過ぎに、ホテルのレストランで、遅い食事をした。
私とコータ、辻さんと、千葉君、そして、案内の、小西さんである。

辻さんと、千葉君は、食事の際に、いつも、ココナッツジュースを頼んでいた。
自然の、スポーツ飲料である。
更に、その中の、白い実を、スプーンで、取って、食べる。

タイの、果物は、豊富だ。
私も、色々な果物を、食べる。
日本では、あまり、食べない。タイの、果物の、美味しさに適わない。

食事の後は、全員自由である。
皆、一眠りしたようである。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月03日

天皇陛下について59

ひねくれた考え方ですけれど、華夷秩序における「東夷」というポジションを受け容れたことでかえって列島住民は政治的・文化的なフリーハンドを獲得したというふうには考えられないか。朝鮮は「小中華」として「本家そっくり」にこだわったせいで政治制度についても、国風文化についてもオリジナリティを発揮できなかった。それに対して、日本列島は「王化の光」が届かない辺境であるがゆえに、逆にローカルな事情に合わせて制度文物を加工し、工夫することを許された(かどうかは知りませんけれど、自らに許しました)。
内田 樹

このように、日本を、辺境の地と、捉える考え方から、日本を見詰めるという、作業は、尊敬する。
ただ、それに、いつまでも、拘泥し、さらに、それで、いいではないかという、この方の、論旨には、すべて、賛成できるわけではない。
だが、参考に、見てみる。

この国際社会における微妙な(たぶん無意識的な)「ふまじめさ」。これはもしかすると、辺境の手柄の一つかもしれないと私は思うのです。はるか遠方に「世界の中心」を擬して、その辺境として自らを位置づけることによって、コスモロジカルな心理的安定をまず確保し、その一方で、その劣位を逆手にとって、自己都合で好き勝手なことをやる。この面従腹背に辺境民のメンタリティの際立った特徴があるのではないか。・・・・例えば、この「コスモロジカルな劣位」を逆手にとって、自己利益の追求に専心するという生存戦略は1945年の敗戦のあとに日本人が採択して歴史的成功を収めたものだからです。
内田

それでは、その後に、書いている、
私たちは現にアメリカの「核の傘」の下で軍事的安全を享受しています。政府は核拡散には反対しても、アメリカが核を保持することに反対したことはない。それどころか、近年では日本の自主核武装の必要を論じる政治家や評論家がおり、その支持者たちがいる。そして、たぶん誰も反対しないのは、第二次世界大戦末期にもし日本が原爆を開発していたら、大本営はそれをニューヨークやサンフランシスコのアメリカの非戦闘員の上に落とすことをためらわなかっただろうし、当時の日本国民はそのニュースを歓呼の声で迎えただろうということです。そういう国民が発信する「核廃絶」のメッセージが国際社会に対して指南力を持つことはむずかしいだろうと私は思います。
内田

上記は、とても、おかしい。

日本国憲法は日本人が書いたものではありません。これは護憲派も改憲派も事実関係ではもう争ってはいません。GHQのニューディーラーたちがその当時の憲法学の最先端の知見を総動員して、人権宣言や独立宣言やワイマール憲法やソ連憲法を素材にして起草したものです。間違いなく、理念としては実にすぐれたものです。でも、これは日本人が作ったものではない。日本人がそれまでの歴史的経験を踏まえて、その叡智を集結して、長期にわたる国民的合意形成の努力の果てに、振り絞るようにして世界に宣言したものではありません。敗戦の結果、われわれよりも文明的な上位にある国から「下賜品」として与えられたものです。
内田

「コスモロジカルな劣位」を逆手にとって、自己利益の追求に専心するという生存戦略は1945年の敗戦のあとに日本人が採択して歴史的成功を収めたものだからです。
と、書いている先から、上記のような、実に多弁な、論理的な、意見を書くという、姿勢に、私は、頭だけの、思考作業と、判断する。

文明的な上位にある、国から、下賜されたとは・・・
文明的に、上位にある国とは、アメリカ、その他西欧諸国のことか・・・

中華の、辺境、更に、アメリカ、連合国の文明を上位として、解釈するという・・・

更には、原爆が日本にあれば、当然使用した・・・

それを、前提にして、論理的に、書く、思考するというのは、血の通わない、人間が、頭脳だけで、言葉を、遊ぶものだということを、知らない。

敗戦後の、思想家たちの、基本を踏まえて、辺境論を論じるのだろうが、辺境意識を、いつまでも、持つというような感覚に、私は、この方の、知性の、辺境と、偏狭を、見るのである。

そういう国民が発信する「核廃絶」のメッセージが国際社会に対して指南力を持つことはむずかしいだろうと私は思います。
と、何故、そのように言えるのか。

そういう国民・・・
つまり、原爆を持っていたら、使用したであろう、国民が・・・
ということ。
信じられない、蒙昧である。

もし、歴史が、こうであれば、云々・・・という、お話しに、現実味を感じて書くと言う神経は、ただ事ではない。

原爆は、無かったのであり、使用したくても、出来なかったのである。
現実は、原爆を使用しなかったのである。

それを、前提として、書くことが、出来るならば、何とでも、書ける。

更に、
日本人がそれまでの歴史的経験を踏まえて、その叡智を集結して、長期にわたる国民的合意形成の努力の果てに、振り絞るようにして世界に宣言したものではありません。
この方は、一体、何を言いたいのであろうか・・・

敗戦後の、日本の状態を、何も、把握せずに、いや、その前に、
この「コスモロジカルな劣位」を逆手にとって、自己利益の追求に専心するという生存戦略は1945年の敗戦のあとに日本人が採択して歴史的成功を収めたものだからです。
と、書いているではないか。

劣位・・・
この方の、書いたものは、反日精神であると、判断するしかない、のである。

そして、読者を、騙すのは、辺境人で、いいじゃないか・・・
そうして、これからも、生きてゆこう、である。

自虐史観と、何の変わりも無い。

思想的にも、戦略的にも、何もなく、ずるずると、戦争に突入した。
そういう国が、日本という国である。

生存者の、戦記を読んでいて、そのような、書かれているのを、読む時に、私は、そこに佇むが、この方は、戦争体験もせず、単なる、言葉の寄せ集めを、読んで、更に、遊びとして、このようにして、日本を、堕落させるのである。

それに関しての、具体的な、この方の書いた戦争の分析を、読んでみることにする。

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チェンマイの風 3

翌日から、チェンマイでの、朝の食事は、ホテルで、食べることにした。
というのは、泊り客には、チケットを買うと、二人分が、食べられるという、特典があったからだ。

しかし、支払いの時に、どうも、腑に落ちない。
私が、それを、理解していなかったのである。
要するに、同じ物を、二人が注文すると、一つの料金でいいというもの。

別なものを、注文すると、それぞれの、値段になるのである。
だから、四日目の朝、私は、フロントで、喧嘩をした。
日本語で、大声で、怒鳴った。
説明不足だ・・・

英語で、通訳するコーターに話し掛けて、私の方を見ない。
タイ人は、大声を嫌う。

まあ、そんなことは、いつものこと。

三日目の朝、ホテルのレストランの外で、アメリカンブレックファーストを注文する。
コーヒーを、飲みつつ、タバコを吹かす。

すると、辻さんが、やって来る。
それから、コータが、来た。
最後に、千葉君が、来た。
四人揃って、朝ごはんである。

八時を過ぎると、日差しが、強くなる。
ターペー門沿いを走る、朝のラッシュを眺めながら、食べて、話す。

昨日の、追悼慰霊の話である。
辻さんは、もう一度、行くべきだとのこと。
次回も、藤田さんの、慰霊碑に行くべき。
その理由は、人があまり、訪れない場所であり、慰霊碑として、寂しい感じがするという。

結界を張る時に、辻さんに、塩を撒いてもらった。
四方に、私が、御幣を置いて、その後を、塩で、清めたのである。

そうねーーー
私は、答えた。
私の中には、行くべき所が、沢山あるのである。
ミャンマーの、マンダレーに早く行かなければならないとか・・・

来年のことだから、また、来年考える、という、感覚である。

三人は、おかゆを食べている。
私だけが、一番高い、アメリカンブレックファーストである。
それで、腹が一杯になる量である。

今日、三日目は、サンサーイ県にある、山岳民族子女職業施設での、衣服支援と、メーリム寺の境内にある、戦没者慰霊の、お地蔵さんのところに行く。

女子物であり、寒い季節のものを、大量に持参して来た。
更に、伺う前に、生理用品を買ってゆく。

おおよそ、300名ほどが、そこで、暮らし、学んでいる。
全員が揃うことはない。
今日は、100名程度ということだった。
それなら、間に合うと、思った。

出発は、同じく、午前11時である。

辻さんと、そのための、準備をしなければならない。
衣服の仕分けである。
おおよそ、女子物は、辻さんに、任せていたので、簡単に出来る。

あらかじめ、船便で、送っていたものは、私の勘違いで、二箱ともに、子供物だった。
本当は、一箱が、子供で、もう一箱が、寒い季節の男物だったはず。
しかし、それが、大変助かることになる。

カレン族村用に、用意したものだ。

部屋に戻り、辻さんと、仕分けをする。
辻さんの、大きなバッグと、二つのバッグが、女子物である。
更に、それに、私の持ってきた物を、少し足す。

そして、今日は、千葉君に、ギター演奏をして貰う、と共に、辻さんには、歌ってもらう。
そこで、私が、踊ることになるのか、どうかは、その時に、決めることにした。

前回、私は、次は、日本の踊りを見せますと、言っていたのである。

小西さんは、必ず、早めに来ることを、知っている私は、早めに、荷物を、一階に下ろすことにした。

武士は、遅刻はしないのである。
小西さんは、武士である。
小柄であるが、合気道と、タイの、ムエタイ、つまり、ボクシングを身につけている。
喧嘩をすれば、どんな大男でも、やられるはずだ。

矢張り、小西さんは、11時前に、到着した。
運転手の、おじさんも、同じく、到着である。

早速、支援物資を、車に積み込み、生理用品を買うため、卸売りの、市場に向かう。

生理用品の、見定めは、辻さんに、任せる。
男には、どれがいいのか、分からない。

辻さんは、三種類の生理用品を選んだ。
説明を受けるが、よく分からない。
小西さんが、数を数えてくれた。

それぞれ、600個である。
料金は、約2000バーツ、6000円である。

私は、その他に、小西さんの奥さんの、お母さんにと、お菓子を買った。
カレン村に行く時の、お土産である。

生理用品を車に、積んで、施設に向かった。
町を、抜けて、自然溢れる場所にある。
とても、良い環境である。

昨年来た道を、思い出した。
林を抜けて、森の中に入るようである。



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2010年10月04日

天皇陛下について60

相違点は本質的には一つしかありません。幕末の日本人に要求されたのは「世界標準にキャッチアップすること」であり、明治末年の日本人に要求されたのは「世界基準を追い抜くこと」であったということ。これだけです。
日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から領導することが問題になると思考停止に陥る。ほとんど脊髄反射的に思考が停止する。あたかも、そのようなことを日本人はしてはならないとでも言うかのように。あたかも、他国の範となることが日本人だけには禁じられているとでも言うかのように。そのようなことをしたら日本人はもう日本人ではなくなってしまうとでも言うかのように。
内田

鋭い分析。

更に、
この脊髄反射的な無能化から、私たちはこれが民族のアイデンティティにかかわる問題だということを察することができます。というのも、長期にわたる国益を損じても守らなければならないものがあるとすれば、それは論理的には一つしかないからです。それは国益を享受すべき当の主体です。日本人が国益を損なっても守ろうとするものがあるとすれば、それはひとつしかありません。それは日本です。
内田

そこから、日清戦争後の、日本の、歩みを、
日本はそのあと韓国を併合し、満州国を建国し、インドシナを抑え、フィリピンを制し、大東亜共栄圏と称して「あまねく東洋を威服せん」としました。私たちが忘れてはならないのは、その行為の邪悪さや愚かしさではなくて、それらの行為がすでにその三十年も前に国際世論によって正確に予測されていたという事実です。・・・どうして予見できたかというと、それら一連のアジア戦略は「帝政ロシアが日露戦争に勝って、そのまま満韓を支配した場合にしそうなこと」だったからです。事実、日本は「ロシアだったらやりそうなこと」をほとんど一字一句たがえずにそのあと満韓において再演したのでした。
内田

更に、
だから、この作業は本質的には「キャッチアップ」なのです。ロシアが制定してくれた「世界標準」に追いつこうとするとき、日本人はきわめて効率的に知能を使うことができる。指揮系統が機能していなくても、出先機関が動けたのも、出先機関の「暴走」を参謀本部が糊塗し、軍略全体のうちに位置づけることができたのも、彼ら全員が「見えざる台本」を共有していたからです。
内田

陸軍の、暴走も、然りであると、言う。
このまま、この方の、論調に、のめり込んでしまいそうである。

確かに、
その中に「諸国民に先立って、日本が人間としての範を示すべきこと」を提言している人は一人もいません。もし「日本が諸国民に卓越している」というのがほんとうなら、これまでどの国みのどの国民も思いついたことがないような種類の、真にオリジナルな、そして同時に真に普遍的な、国際社会の行く末をあかあかと照らし出すような理念やプログラムが日本人によって提言されていていいはずです。でも、この「世界に冠絶する」日本のナショナリストたちが提言しているのは「他の国が「こんなこと」をしているのだから、うちも対抗上同じことをすべきである」という提言だけです。それだけです。・・・
内田

要するに、日本人は、他を見て、これからの、行為を思考するというのである。
一見、胸のすくような、観察と、洞察である。
さらに、批判である。

だが、そこにある、共生と、調和ということを、考える日本人という、評価は無い。

ヨーロッパ思想史が教えてくれるのは、社会の根源的な変革が必要とされるとき、最初に登場するのはまだ誰も実現したことのないようなタイプの理想を今ここで実現しようとする強靭な意志を持った人々です。
内田

これは、比べられないものを、比べるという、あまりに、無謀な、考え方である。

この方も、辺境人の一人であるから、最もなことであるが・・・

日本の、適当な、識者や、思想的偏りの、人々に対して、の、批判なのであろう。

幕末から後で、自分の言葉であるべき社会像を語り、それを現実に繋げ得たのは坂本竜馬の「船中八策」くらいでしょう。
内田

この方は、横の、関係のみ、見るが、上下の関係は、見ない、見えない。

天皇のお言葉・・・
明治天皇の、五箇条のご誓文に関しては、見ない。

真にオリジナルな、そして同時に真に普遍的な、国際社会の行く末をあかあかと照らし出すような理念やプログラムが日本人によって提言されていていいはずです。
と、言うが、それでは、ご自分が、打ち出してみると、いい。

この方も、辺境人なので、それは、出来ないらしい・・・

今まで、様々に、分析された、戦争のことがらに、対して、新しい思考法で、論じているが、軍部の暴走などは、何故、そのようになったのか、実によく分析されている。

日本は、激しい利害関係を、体験しないできたのは、島国だからであり、それは、何も、卑下することではない。
さらに、空気で、決めるということも、問題ない。

歴史は、確定しているのである。
その、確定している、歴史の事実を、どのように、理解するのも、自由である。

日本の右翼左翼に共通する特徴は、どちらも「ユートピア的」ではないこと、「空想的」でないことです。すでに存在する「模範」と比したときの相対的劣位だけが彼らの思念を占めている。
内田

右翼左翼を、相手に、こんなことを言うのは、辺境人らしい。

そんなもの、ことを、相手にしていられないのである。

兎に角、横にしか、批判が向かないのである。
上下というものの、感覚を見失っている。

勿論、その分析は、聞くに価する。
しかし、分析は、分析で、終わる。
最後まで、分析して、そして、辺境人の、特徴をさらに、生かすことだとは、いい気な、商売である。

物書きの、限界を、示した意味では、とてもよい、評論である。


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チェンマイの風 4

私たちが、施設に到着すると、職員の方々が、出て来られた。
挨拶をする。

すると、すぐに、施設内に放送が流れた。
ニープンという、日本人という言葉が、分かったので、日本の皆さんが、来ましたので、集会室に集まってください、とでも、知らせていると、思った。

私たちも、集会室に、支援物資を、運ぶ。

校長先生が、いらした。
二度目の再会である。

お元気ですか
日本語でいう。
あちらも、タイ語で、答える。

今回は、50名ほどの、女子が、残っていた。
他の女子たちは、休みがはじまり、帰郷しているもの、近くの大学に出ているものである。

施設で、暮らしつつ、学び、ある者は、近くの大学へ行く。

お寺によって、運営されている、施設である。

男子は、僧侶になって、寺で生活できるが、女子には、それが無い。それゆえ、お寺に、交渉して、女子のためにも、施設を創ってくださいとの、願いに、寺が応えたのである。

だが、男子が、先行で予算を使う。その、余りで、経営されるから、貧しい。

皆、少数民族の、女子たちである。

全員が揃った。
私は、以前、民族服を着ていたことを、言うと、校長先生が、何か言う。
すると、生徒たちは、もう一度立ち上がり、集会室を出た。

民族服に着替えてきたのである。

最初に、私たちは、タイ国王讃歌を歌うことにした。
コータみが歌詞を暗記しているので、私と、辻さんが、メロディーを唱和した。

全員が起立した。
タイの場合、国歌と、国王讃歌の際に、起立しないと、罰せられるのである。
長いものだと、懲役4年の刑を受ける。

それが、終わり、辻さんに、さくらさくらを、歌ってもらう。

それから、支援がはじまる。
私が、挨拶した。
今回は、寒い季節の衣服を多く持ってきました。
あなたが、必要なければ、家族の方で、必要なものを、二つ取ってください。

今回は、辻さんが、女子用の下着を、持参したことも、いう。
そして、下着の貰わない人には、私が、用意した、ハンカチ、ミニタオルを、差し上げることにした。

左側の列から、衣服を取ってもらう。
最初は、控え目だったが、慣れてくると、色々と、衣服を手に取り、探し始めた。

辻さんは、パンティの前に立ち、必要な人に、色など選ばせる。
私は、衣服の前に立ち、サイズを合わせてあげる。

静かだった、会場に、少し声が響くようになる。

中に、男子物も混じってあり、私は、それを掲げて、ブラザーのいる人は、貰ってくださいと、言った。
英語の授業があり、少しの英語は、通じる。
勿論、私の英語は、実に、怪しいが・・・

遠慮しつつ、手を上げる生徒たち。
それを、手渡しする。

手渡し。
それが、確実な、方法である。
手から、手へと、確かに渡す。

支援した下さった方々の、ためにも、その基本は、変わらないし、変えない。

それが、どんなに大変なことでも、である。
その、手間暇かけることに、私の支援の実がある。

誰に、渡ったのか、解らないような、支援はしない。

手と手、顔と顔が、見詰め合う、手渡しの凄さである。

相手は、私のことを、忘れない。
私が忘れても、相手は、忘れない。

すべての生徒が、衣服を取って、元の場所に着いた。

それでは、ギター演奏と、歌を披露します。
コータの訳である。

ところが、私が、日本の天皇陛下と、タイ国王陛下は、とても、親しい、友人ですから、私たちも、親しく付き合いましょうといったが、コータは、天皇と、タイの、お釈迦様は、友人で・・・

小西さんの登場である。

更に、私は、日本人と、タイ人は、とてもよく似ている。
曖昧で、争わないところ・・・

でも、戦争の時には、一緒に戦いましょうね。
その部分は、カットされた。

千葉君の、ギターソロが始まった。
真剣に聴く生徒たち。

そして、辻さんの、万葉集の歌である。
千葉君のギターと、コータの、篠笛、そして、私は、踊ることにした。
全員の、出演である。

勿論、私が、一番目立つ。
何せ、皆の、前に出て、踊る。踊る。

後で、辻さんから、先生のための、裏方だったと、言う。
辻さんの、前を、行ったり来たり・・・

皆の目が、私に向かう。

すべてが、終わり、記念写真を撮る。

若い女の子の、エネルギーを、久しぶりに感じた。

残った、衣服は、他の生徒たちに、差し上げてくださいと、校長先生に言う。

皆さんは、私たちを、見えなくなるまで、見送ってくれた。

日本語、英語、タイ語、それぞれの、民族の言葉が、入り乱れる、お別れである。

車に乗り込むと、矢張り、汗だくだった。

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2010年10月05日

天皇陛下について 61

戦後も事情は変わりません。日本が世界に向けて「私が世界標準を設定するので、諸国民もまたこれに従っていただきたい」という文型で教化的メッセージを発信した例を私は知りません。
内田

この方は、実に鋭い分析をするが、唯一、欠けているのは、宗教に関して、である。
宗教的要素を、すべて除外して、分析する。
諸国民とは、ユダヤ、キリスト、イスラム教に対してを、言うのか・・・
世界は、民族と、宗教が、実に密接に関わっている。

そんな中で、諸国民に、メッセージをという、辺りは、いかがなものか。

それで、
「教化」というのは、「諸君は私のメッセージを理解せねばならない。なぜなら、諸君が私のメッセージを理解せねばならない理由を諸君はまだ知らないが、私はすでに知っているからである」というアドバンテージを主張できるものだけがなしうることです。人々がまだ知らないことを、すでに知っている人間にだけできることです。そして、私たちはこういう言葉を口にすることができない。どれほどつよく望んでも口にすることができない。
内田

それを、出来るのは、金をふんだんに使い、世界にメッセージを発信する、宗教団体、S会であろう。
会員の、金をふんだに使えば、どんなメッセージでも、出せるのである。

私たちにできるのは「私は正しい。というのは、すでに定められた世界標準に照らせばこれが正しいからである」という言い方だけです。それ以外の文型では「私の正しさ」について語ることができない。
内田

そして、次ぎの分析は、学者らしい。
「日本は世界に冠絶するすばらしい国だ」と揚言する人がたまにいます。けれども、彼らはつい日本がいかにすばらしい国であるかを挙証してしまいます。誰にも納得できそうな実例を挙げて、「ほら、日本はこんなにすばらしい国でしょう」と胸を張る。その人たちが忘れているのは、「世界に冠絶する国」は世界に冠絶する所以を挙証しないということです。「「私が世界に冠絶している」ということについて、ぜひみなさんの同意を賜りたい」という態度そのものが「世界に冠絶している」という前件と背馳するからです。
内田

実に、論理的であり、論理破綻をする、私には、さすがと、思わせる。

「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を設定することはできない」、それが辺境の限界です。
内田

この方は、運命論者のようである。
辺境の、限界です。
私は、時代性と、時代精神だと、言う。

日本が、一時期、辺境と、言われる所以は、理解する。しかし、それは、その時代性の問題である。更に、今も、それが、続いている。
この方は、おおよそ、1500年前から、であると、言う。

推古天皇辺りからの、ことである。

ですから、知識人のマジョリティは「日本の悪口」しか言わないようになる。政治がダメで、官僚がダメで、財界がダメで、メディアがダメで、教育がダメで・・・要するに日本の制度文物はすべて、世界標準と比べものにならないと彼らは力説する。そして、「だから、世界標準にキャッチアップ」というおなじみの結論に帰着してしまう。
内田

その通りである。

学ぶべき見本が外部にあり、それと比べて相対的に劣位にあるわが国の諸制度を改善せねばならない。そういう語法でしか、右翼も左翼も中道も知識人も非知識人も語ることができない。そして、そういう語法でしか語ることができないということに気づいていない。
内田

全く、その通りである。

指南力のあるメッセージを発信するというのは、「そんなことを言う人は今のところ私の他には誰もいないけれど、私はそう思う」という態度のことです。自分の発信するメッセージの正しさや有用性を保証する「外部」や「上位審級」は存在しない。そのようなものに「正しさ」を保証してもらわなくても、私はこれが正しいと思うと言いうる、ということです。どうして言いうるかと言えば、その「正しさ」は今ある現実のうちにではなく、これから構築される未来のうちに保証人を求めるからです。私の正しさは未来において、それが現実になることによって実証されるであろう。それが世界標準を作り出す人間の考える「正しさ」です。
内田

実に、教育的発言である。
私も、賛成する。

そろそろ、この方の、一部をもって、終わりたいと思う。

私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。外部に、「正しさ」を包括的に保証する誰かがいるというのは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想です。
そして、それはもう私たちの血肉となっている。どうすることもできない。私はそう思っています、千五百年前からそうなんですから。ですから、私の書いていることは「日本人の悪口」ではありません。この欠点を何とかしろと言っているわけではありません。私が「他国との比較」をしているのは、「よそはこうだが、日本は違う。だから日本をよそに合わせて標準化しよう」という話をするためではありません。私は、こうなったらとことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです。
内田 改行は、私

そこには何か固有の召命があると考えることは可能です。
とも、言う。

私は、戦争に関しての、記述のみを、取り出してと、思ったが、この方の、結論までをと思い、引用してきた。

大東亜戦争は、ぶっちゃけて言うと、欧米が日本の台頭を、極度に恐れたのである。
ずるずると、戦争に突入したのは、日本ではなく、あちらなのである。
今のうちに、潰しておかなければ、えらいことになる、との、あちらが、日本を、ずるずると、戦争に引き込んだのである。

昭和天皇は、最後まで、戦争回避で、外交努力でとの、御心だった。

それから、空気で、決まる・・・
冗談ではない。
空気で、決まって、320万人も、死んだ。

更に、兵士たちは、空気で、決まって、いのちを、国のために、捧げた。
冗談ではない。

一人の人間を、殺したり、殺されたりしても、大騒ぎである。

あれだけの、人間の死が、空気で、決まる。
いい加減にせーーーーと、私は言う。

生きている者は、本当に、いい気なものである。
死人に口無しである。

内田氏の、分析は、論理的かつ、敗戦後の、思想家たち・・・の、考え方を、踏襲して、書いている。
だが、私から、言わせれば、単なる、金になる、暇つぶしである。


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チェンマイの風 5

職業訓練施設から出た、私たちは、初めて訪れる、メーリム寺の境内にある、戦没者慰霊の、お地蔵さんを訪ねた。

しばし、車に揺られる。
この、揺れが、とても、疲れることになるのだが、まだ、緊張感があり、あまり感じないのである。

昨日の、車も、おおよそ、五時間であった。
そして、本日である。

少しばかり、場所を探すのに、時間がかかった。

ようやく、お寺に到着して、お地蔵さんの場所に向かう。
お寺の境内であるから、静かに行為しなければならない。

数名の、タイ人もいた。

皆、笑顔で、迎えてくれた。

その辺りにも、日本兵の遺骨が、多く発見されたという。
お地蔵さんを建てられた方は、生き残りの方の奥様である。
ご主人、亡き後、平和を願って、建立されたと、聞いた。

まず、そのお地蔵さんと、横にある、祈念の言葉を読む。

可愛らしい、お地蔵さんである。
だが、残念なことに、魂入れが、されていないようである。

タイのお坊さんが、立ち会ったというが、特別なことは、しなかったようだと、見た。

インパール作戦の、日本兵が、いかに、北部タイで、亡くなったかを、また、知ることになる。

インド、インパールから、ビルマを越えて、皆、チェンマイを目指した。しかし、チェンマイまで、辿り着けずに、力尽きて、亡くなったのである。
北部タイ全域に、広がっている。

慰霊碑は、そこで、祈るためのもの。
そして、慰霊碑は、管理されなければならない。

でなければ、不浄な霊的存在が、そこに、留まることがある。

何もしない前の、写真を撮った。
それを、見ると、矢張り、不浄霊の存在が、確認される。

タイでいうところの、ピーという、霊的存在である。

タイでは、至る所に、ピーの祠がある。
家々に、それが、ある。
そこに、供物を捧げて、鎮まるように、願うのである。

町全体の、ピーの祠から、村全体もの、更に、家々のものと、実に多い。

私は、まず、お地蔵さんの前で、清め祓いを、音霊で行った。
お寺の境内であるから、失礼のないように、である。

静かに、祝詞を上げて、日本兵の亡き人々を、思った。

祓いの、御幣は、使用しない。
最後は、拍手である。

終わった後で、写真を撮った。
最初の写真より、明るい光がある。

誰とも、知らない、亡き日本兵の、慰霊を思い、建立された、慰霊碑は、誰かが、訪れて、慰霊の思い深く祈るべきである。

昨日の、野戦病院跡の、お寺の住職が、タイ・ビルマ戦線の、慰霊のきっかけを、与えたという。

しらべかんがさん、率いる、一団が、慰霊のために、そのお寺を、訪れた時に、住職に言われた。
あなたがた、日本人は、人間であろうか・・・
ここには、多くの日本兵の遺骨が、ある。
それを、そのままにしている、あなたがた、日本人は、それでも、人間なのか・・・

一団の中には、生き残りの方もいたという。
そして、その人の口から、チェンマイに向かう途中で、多くの兵士が亡くなったと、聞く。

最初は、少し穴を掘り、埋葬した。
その後は、土をかけて、埋葬した。
そして、最後は、遺体を踏み付けて、歩いたという。

それほど、大変な道のりだったのだ。

その後、一団は、慰霊の団体を立ち上げて、遺骨収集に専念することになる。

バンカート学校の敷地内にある、タイ・ビルマ戦線戦病歿者追悼乃碑が、その成果である。
私と、コータは、四度そこを、訪れて、追悼慰霊の儀を行っている。

辻さんと、千葉君は、二度目である。

すべての、遺骨が、収集されたのではない。
まだ、どこかに、遺骨は、ある。
しかし、何処にそれがあるのかを知る、タイ人の方々も、亡くなり、解らない。

山川に、野原に・・・
今は、自然と同化して、自然に帰っているだろうと、思う。

その霊位に対して、敬意と、哀悼の意をもって、望む。

忘れては、いないという、気持ちを示す。
それだけでも、十分な慰霊である。

名残惜しく、お地蔵さんと、分かれた。

また、再び、ここに来ることが、出来るように、と、私は、思った。
その辺り一帯が、慰霊の場所である。

posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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