2010年09月17日

天皇陛下について43

第一次大戦終了後及び第二次大戦修了後の各国の革命により、元首の語を使っていた国の憲法も改正され元首の語はほとんど世界各国からその影を没し去り、日本もその一つとなった。
里見岸雄

それでは、元首が、無くなったのかといえば、違う。

しかし、英国憲法に「国王は元首である」と書いてなくても、英国王は英国元首として、また、米国憲法に「大統領は国の元首である」と明規していなくても、米国大統領は米国の元首として、国際法上確認されているのである。現在では伊太利の1947年の共和国憲法が、その第87条に「共和国の大統領は国の元首であり且つ国民の統合を代表する」と規定しているのが、元首の文字を使っている憲法の唯一例となっている。
里見

元首と、書かれていなければ、元首が存在しないのではない。
英米仏独その他の、諸国は、日本も含めて、国家元首のない国となるとは、誰も考えないことである。

天皇は、憲法の定める通り、政治に関する機能を有しない。それ故、天皇が君主であり、元首であるということは、厳密には言えない。とは、へぼ学者が言うことである。

天皇の象徴とは、米国製の、規定であるが、それは、国内法上の地位であり、国際法では、象徴を、元首と区別し、認めているわけではない。

つまり、天皇は、象徴であるというのは、国内法であり、外国では、国交上、天皇を元首と認めて、対応している。
それは、敗戦後から、見ての通りである。

首相は、コロコロ代わろうが、天皇陛下のみは、不動の存在として、ある。
だから、天皇にお目通りすることを、海外の賓客は、求めるし、更に、喜ぶ。
また、日本国民も、それで、面目が立つ。

その、天皇の存在に、代わるものがあるだろうか。

更に、日本には、伝統として、上下の、関係がある。
上は、天皇であり、下は、国民である。

民主化、主権在民・・・
素晴らしい理想である。また、その理想を、取り入れた。
しかし、それは、それ、なのである。

日本民族の、知恵は、上、カミとして、天皇を戴くのである。

更に、理想なのは、天皇、昭和天皇自らが、主権在民を、民主化を、勧めた、求めたことである。

だから、こそ、多くの真っ当な国民感情は、天皇の存在意義を、十分に感じ取り、陛下として、崇敬するのである。

崇敬できないのは、先祖の因縁が悪い。いや、遺伝子が悪いのである。

革新的考え方を、持つといわれた、左派、左翼系の人たちは、そこが、分からない。
随分と、頭の悪いことである。

更に、ここで、天皇制廃止を、唱えた人たちが、敗戦後、日本にいたということである。

これも、天皇制という。
日本には、天皇制は、無い。

制度としての、天皇の存在は無い。

天皇の存在は、制度ではなく、自ずから成るものである。
民族の知恵だといった。

国民を、公宝、おほみたから、と、呼ぶ元首は、他国には、いない。
民ではない。
民は、公の、宝であると、高らかに、宣言した、すめらみこと、の、心は、国民をして、自ずから、成る存在として、天皇を擁立したのである。

便宜上、制度として、考えるのは、簡単でいい。
しかし、事実は、制度ではない。
制度とは、あらかじめ、その制度によるための、準備をして、制度として、機能するように、努力するのである。

それとは、異質である。

慣わし、であり、よすが、であり、拠り所、であり、祖霊に認められた、つまり、神意に認められた、存在であると、考えるのである。

ここで言う、神意とは、欧米の言う、神の意思ではない。
祖霊が、求めたものである。
日本は、祖霊を、神とする。

神は、カミ、カム、カマと、大和言葉からなる。

そもそも、天皇がその御一身をもって日本国を体現され、また国民の統合を体示なさるという性質、即ち象徴性は、憲法によってはじめて生ずるものではなく、遠いむかしから、いつの世にもあったものである。・・・

天皇が象徴であるということは、天皇の社会的機能であって、それは本来、社会的に存在する性質である。明治の憲法の下においても徳川時代においても、それより以前の時代においても、天皇はいつでも日本国の象徴であったのである。
里見

昔、人は、天皇を、天子様と、呼んだ、
天の子である。
その天を、象徴するもの、太陽を、祖霊と、見立てて、崇敬し、それに続く存在として、天子様を、頂いた。

敗戦後も、日拝といって、太陽を拝する行為が、あった。
もっとも、原始的で、いにしえを、思わせる、自然崇敬の形である。

そして、その先には、矢張り、日拝する、天皇の存在があった。
祖霊と、その子孫を、結ぶもの。
それが、天子様、天皇という、存在であった。

天皇は、いつの時代も、象徴であらせられた。
それを、別名、国体と、お呼びする。

日本国憲法が制定されたが、ゆえに、天皇が象徴とされたのではない。

事象の、徴ではない。
それは、国旗などの、日の丸のことである。

かむながらのみち、といわれる、人の道の、上にある、人格としての、存在。生身の人間が象徴なのである。

かむ ながら の みち
人が、より人になるための、ありうべく姿を、求める生き方である。

そして、日本人として、生まれた以上、現人神、ひととして、あらわれた、よりひととなるべき、生きるべき道を、生きるという、尊称として、それぞれを、そのように、観た。

ちなみに、天皇は、一人特別な存在として、現人御神、あらひとみかみ、と、お呼びする。



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神仏は妄想である 306

宗教に、入信するといことは、如何なることか。
それは、宗教の与える、神や仏を、信じて、奉るということである。
そして、その教義を受け入れる。
更に、自分の頭で、考えないようにする。

もう一つ、宗教に入信せずとも、それと、同じようになる人もいる。
何々主義者である。
更に、個人崇拝も、そうである。

一旦、信じてしまうと、思考が停止する。
勿論、本人は、考えての末の結論であると、思い込む。
しかし、信じる。任せるということが、心地よくなる。更に、物事の判断を、すべて、その教えや、主義に、帰結させる。

完全に、そうなると、人間は、知性を捨て、理性を捨てる。
勿論、最初から、そんなものが無い人も、いる。

大半が、宗教が何であるのかを、知らずに、近づき、果ては、信じて取り込まれる。
信じる者は、確実に騙される。

大きな、宗教ではなくても、小さな団体でも、所属する人は、その団体の教えに、偏狭になってゆく。

最も、恐ろしいのは、それを、他の人に、説いて、自分と、同じく信じさせようとすることである。

つまり、更に、罪を作るのである。

ある、法華経の講義に出ていた者が、私に、仏教批判を書くなと、言う。
その方法は、すでに、終わった方法である、云々・・・

その頭の悪い者は、一向に、自分が、洗脳されているとは、思わない。
更に悪いことは、それを、受け入れないと、本当に理解していないからだと、言う。
理解していないのは、自分の方であることに、気づかない。
そして、延々と、それの繰り返しをする。

本当に、救われない者に、なってしまう。

救われない。つまり、信じてしまう。信じると、救いは、無い。
人間が、進化して、生成発展してきたのは、考えてきたからである。
信仰は、それを、放棄させる。

そして、私のような、批判をする者を、破綻した論理という。

自分自身が、破綻していることを、知らない。
自分が、信じているものは、良いものである。
だから、あなたも、信じるべきだ、とは、あまりにも、破綻している。

歴史的・批判的聖書研究を、見ている。

復讐に燃える神についての記述は、一部のキリスト教徒が主張するように、旧約聖書にのみ書かれているわけではない。新約聖書の神でさえ、審判と怒りの神であることは、「ヨハネの黙示録」に親しんでいる読者なら知っていよう。燃えたぎる火の池が、神に従わなかった人々を待ち受けている。これは永遠に焼かれることを意味する。例えば二十年間といった一時だけ、神に背いた人々でさえ、永劫にわたって罰せられるという。たった二十年間の間違った生き方と引き換えに、二十兆年もの間、もがき苦しむのだ。しかもこれはほんの序の口に過ぎない。これが本当に神にふさわしい行いだと言えるだろうか?
アーマン

勿論、それは、聖書に書かれていることで、書いた人が、そのように、脅していると、いえる。
果たして、神に、相応しい行い・・・?
全く、神に相応しくないのである。

だから、私は言うのである。

どのようにでも、解釈できるのが、宗教の聖典であると。

牧師、司祭は、信者に、ありがたい・・・教えを、語り、信者を、気持ちよくさせる。
そして、その後では、神の裁きを説いて、信仰を捨てると、このように、神の裁きが下ると、脅すのである。

聖書には、あらゆることが、書かれていて、後で、どうにでも、理屈を付けられるようになっている。

聖書の読み方 北森嘉蔵
旧約における新約
それは、旧い契約が破られて、新しい契約によって回復されるということである。この点をきわめて明確に語っているのは、旧約聖書のエレミヤ書である。(したがって、そのかぎりではエレミヤ書はいちおう旧約に属してはいるが、実は旧約・新約を総括するような立場に立っているといえる)そこには次のように書かれている。―――主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトから導き出した日に立てたようなものではない。私は彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われるーーー

ここに書かれている「エジプトから導き出した日に立てたようなもの」というのは、モーセがイスラエル人をエジプトから脱出させた後、シナイ山において神から与えられた十戒のことである。

第一戒
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

すなわち、人間がただひとりのまことの神のみを愛して、貞潔を誓うことである。それは夫と妻の関係にもたとえられ。しかし、妻たるイスラエルは夫たる神を裏切って、他の神々を愛し求め、姦淫の罪を犯した。これによって、神は契約を破棄して、人間との関係を断とうとした。これが神の怒りである。

しかし今や、神は「新しい契約」を立てることによって、断絶した人間との関係を回復したのである。これが罪のゆるしである。

上記が、牧師や、司祭が、真顔で言う、嘘である。

イスラエル人と、人間全体を、勝手に結び付けている。
新約聖書と、旧約聖書の結びつきを語るが、少し、歴史的・批判的聖書研究をした者には、全く、説得力がない。

エジプトからの、脱出も、嘘だった。
十戒は、モーセが、イスラエル人と、神との契約であったもの。
全人類ではない。

面白いのは、他の神々を、愛し求めていると、他の神の存在を認めている。
つまり、神は、他にも、存在しているのである。

勿論、他の神というのは、偶像であると、断定する。

それを、神が、ヤハゥエが語るのではない。
書いているのは、人間である。

ルカ福音書の中で、イエスが、
モーセの律法と預言者と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する
と、言わせる。

ルカを名乗って、勝手に言うのである。

どこも、かしこも、嘘だらけである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 307

ここで、マタイに戻り、マタイ福音書が、如何なるものであるかを、検証する。

なぜイエスは奇跡を行うのだろうか?ほとんどの人は、彼が人びとを憐れみ、人びとを苦痛から解放してあげたかったからだと答えるだろう。事実、この答えは、共観福音書には当てはまる。しかし、それだけではない。共観福音書に出てくる奇跡は、待望の王国が、イエスの内部にすでに到来しつつあることを示唆しているのだ。

主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕われている人に開放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ・・・
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは言った。
ルカ四章

別の箇所で、洗礼者ヨハネの弟子がイエスの下にやって来て、イエスが終末期に出現する人なのか、それとも誰か別の人間が現れるのか聞いている。それに対し、イエスは次のように答えている。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞えない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」マタイ十一章。共観福音書のイエスは、神の国へ人びとをいざなう、永く待たれた人物として描かれている。
以上、アーマン

だが、そうであるにも、関わらず、共観福音書では、彼を信じない人々に、自分が何者であるかを示す、奇跡を行うことを、拒絶するのである。

マタイでは、何人かの、ユダヤ人指導者が、イエスに、先生、奇跡を見せてくださいと、要求するが、イエスは、断固たる口調で、
よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない
と、言う。
そして、ヨナが、大魚の腹の中で、三日三晩死んでいたように、人の子も、大地の中に、三日三晩いるだろうと、述べる。

旧約聖書の、ヨナの書にある、話しである。
アッシリアの首都ニネベに、神は預言者ヨナを、遣わす。しかし、ヨナは、神の命令に背く。そこで、彼は、海に投げ込まれ、大魚に飲み込まれて、三日後に吐き出される。
それ以上、神の命に背かず、ニネベに行き、神の教えを説いて、町の人々を、改宗させる。

イエスは、それと同じ状況を比較したのである。

イエスは、神に楯突く人々に、教えを説くが、彼らは、悔い改めようとしない。
しかし、イエスは、自分が聖なる、存在であることを、証明するために、奇跡を起こすことを、拒む。

マタイは、イエスが、三日三晩、死の眠りついて、再び、その姿を、現すという、復活を最重要テーマとして、福音書を書いている。

アーマンは、マタイの、一貫したテーマが、ここにあると言う。

「マタイ」では、イエスは自分の正体を明かす手段としてしるしを行わない。「マタイ」の中で、奇跡が奇跡と呼ばれ、しるしと呼ばれないのは、そのためである。奇跡は、それを必要とする人びとを助けるための力の発現であり、神の国がまもなく訪れることを示すためのものなのだ。
アーマン

ここで、マタイは、まもなく、神の国が、訪れることを、示すという。
だが、あれから、二千年を経ても、神の国は、訪れない。
まもなくとは、一億年程度のことか・・・

さて、ヨハネでは、全く違う。

ヨハネでは、イエスの行いは、奇跡ではなく、しるしとして、呼ばれて、更に、イエスが何者かを、証明する。
人々に、彼を信じさせるために、しるしが、行われるのだ。

目を惹くのは、イエスが、ユダヤ人指導者たちに、ヨナのしるし以外のしるしを見せることを拒む「マタイ」の物語が「ヨハネ」には全く見当たらないことである。しかし、なぜだろうか?ヨハネは、イエスがしるしを通して宣教活動を行ったと考えているのだ。「ヨハネ」には、荒野での三つの誘惑についての記述もない。これはどうしてだろうか?ヨハネにとって、奇跡的なしるしによってイエスがそのアイデンティティーを示すことは、決して悪魔の誘惑によるものではないのだ。これこそ、彼の聖なる仕事なのである。
アーマン

これで、十分に、それぞれの、福音書の、記述が、それぞれの、価値観によっているということが、解る。

そして、それは、統一されたものではない、ということ。

つまり、イエスという、人物が、いかなる者であるのかということが、不明なのである。

造られた、イエスなのである。
本物の、イエスは、どこにあるのか・・・
誰も、知らない。

マタイの、物語を解く鍵になるのは、宣教を始める前の、荒野での、悪魔の試みであると、アーマンは、言う。

最初の誘惑
四十日、断食をしていたイエスに、石をパンに変えよと、悪魔が言う。
イエスは、人はパンのみで生きるのではない。神の言葉によると、言う。

二つ目の誘惑は、イエスをユダヤ教の神殿に、連れてゆき、飛び降りろという。すると、天使が助けるだろうと。
この意味は、群集の中で、奇跡を見せて、真に神の子であることを、証明せよと、誘惑されている。
イエスは、言う。
あなたの神である主を、試みてはならない。

三つ目の誘惑は、悪魔を崇めれば、地上の王国を与えるという。
この世の支配である。
しかし、マタイは、イエスが、最後に、この世の支配者になるめことを、知っている。
しかし、そのためには、十字架で、死ぬこと。
この誘惑の意味は、受難など、受けなくていいというもの。

「マタイ」では、超自然的な現象を通して、イエスが自分の正体を立証する場面が、極めて厳格に除外されている一方で、「ヨハネ」では、イエスのアイデンティティーを証明することこそが、奇跡の眼目なのである。
アーマン

少し話は、それるが、エホバの証人などの、新興宗教が、この世は、悪魔が支配するという、その考え方は、マタイ的である。
悪魔を崇拝すれば、地上の支配する権利を有するのである。

カトリックから、プロテスタント、そして、キリスト教新興宗教に至るまで、この、矛盾した、聖書、福音書を、テキストとして、採用している。
更に、聖書主義などは、本当は、迷いに迷うはずであるが、堂々と、妄想全開で、勝手な解釈を平然として、行う。

そして、主イエスは、主なる神、ヤハゥエという、魔神に至るという・・・

聖書作家に、振り回されて、信仰も何も、あったものではない。

すると、敬虔なキリスト教徒、牧師、司祭たちは、言う。
それぞれが、それぞれで、イエスを、書いている。
それを、総合して、イエスという、神の子の、全貌が分かるのである。
嘘である。

それぞれが、別の次元と、価値観で、書いているのであり、改竄、また、改竄しているのである。

自分たちに、都合よく、書き改めている。

イエスキリストは、造られた、創作された、存在なのである。
それは、皆、妄想の産物なのである。

キリスト教の、霊性・・・などいうものは、全く無いものである。
その根拠が、全く無い。

霊性とすれば、自己暗示である。
聖人の中には、脱魂、という、状態もあったというが、あれは、ヒステリーである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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