2010年09月12日

神仏は妄想である 301

ここで、一端、マタイ福音書のみの、検証から、聖書全体、新約聖書の、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書との、関係から、マタイを、検証してみる。

手引きは、最近出された、キリスト教成立の謎を解く、バート・D・アーマン著である。

神学者が、批判的キリスト教、及び、聖書の本を書くことは、実に理想的である。
そして、今では、批判的に、それらを、俯瞰することが、最も、聖書、キリスト教を、理解する上で、必要なことである。

ただ、キリスト教徒であれば、理解可能なものもある。
また、聖書に触れていない者には、意味の無いことである。

歴史的・批判的アプローチでは、異なる一連の題目が立てられるため、異なる一連の疑問が提示される。このアプローチの中核となるのは、聖書が書かれた時代背景に照らして、聖書の記述は何を言わんとしているのか、という歴史的な疑問である。
アーマン

聖書に書かれたことを、無批判に読み、ただ、信仰という名によって、理解するという、方法は、時代遅れも甚だしい。

それぞれの、福音書には、それぞれの、意図があり、それは、確実に創作されたものであるということだ。

更に、キリスト教徒は、聖書を、歴史書でもあると、誤解している。

細部に渡って、矛盾するものを、信仰という、名で、封じ込める。
兎に角、信じればいいと、なる。
そして、信じる者は、確実に、騙されることになるのである。

記者はいつの時代の人間なのか?彼らはどのような時代状況下に置かれていたのか?記者が生きていた時代に、彼らはどのような主張を展開しようとしていたのか?彼らはいかなる当時のいかなる文化的・歴史的先入観に影響を受けていたのか?彼らはどの出典をよりどころにしているのか?彼らが拠り所にした出典はいつの時代のものか?・・・・
アーマン

そして、それは、
それどころか、そもそも聖書のオリジナル・テキストがもはや現存しないとしたらどうなる?ヘブライ語で書かれた旧約聖書や、ギリシャ語で書かれた新約聖書が筆写されてきた何世紀もの間に、善意に満ち溢れてはいたものの少々軽率な書写が写し間違えたり、自分の解釈の都合がいいように聖書を書き換えようとした書記が、意図的に改竄していたとしたら?
アーマン

そして、それは、大いにあり得ることなのだ。
それが、他の福音書と、比べてみると、明確に解るのである。

作為がある。
そして、無理やり、こじつけた記述。

更に、恐ろしいことは、カトリック教会が、承認した、聖書の群れに、大いなる矛盾が、多すぎるということ。
その、矛盾を、教会という、権威で、押し潰したということ。

現在の、プロテスタント系聖書研究は、徹底的に、批判的に、聖書研究を行う。
そこでの、矛盾に、堂々と、挑戦している。
そして、信仰を捨てる者、信仰を、持ち続ける者と、様々である。

私は、すでに、何十年前からの、キリスト教の、崩壊を、予知していた書籍を、多く持つ。今、それらが、実に、役に立つ。

無批判に、聖書を、信奉している、多くのキリスト教徒がいる。
それらの、信仰は、ほぼ間違いなく、救いではなく、逃避という、信仰形態に、陥っている。

特に、激しいのは、貧しい国、政治的力の無い人々の国で、それは、行われている。
人々は、その諦めを、信仰という、精神的逃避の世界に、滑り込ませて、何とか、生きているのである。
それを、信仰深いとは、言わない。

信仰への、逃避であり、更には、信仰の疎外である。

そして、彼らは、死んだら、天国に行くことは、まず、あり得ない。
それは、私の霊学に照らしてみて、確実に、そのようである。
精々、教会の上空に、漂う霊となるのである。

更に、狭義、宗教霊界に、存在するだけになる。
勿論、そこには、イエス・キリストは、存在しないし、主なる神も存在しない。

聖書に書かれる、父の右に、おわす、イエスという、図は無い。

まことに、信仰とは、不自由になることであり、本来の魂の自由を得る、宗教信仰に、なっていないのである。

そして、巨大宗教団体は、商売に陥って、久しい。

バチカン銀行総裁、ポール・マンチンクスは、
アヴェ・マリアと唱えているだけでは教会は運営できないのだ、と、言い放ち、不正金融操作を、行っていた。

バチカンは、ローマ法王のいらっしゃる、神の代理人がいらっしゃる場所ではない。
世界中の信徒たちから、集めた、お金を、更に、増やすべく、金融操作を行う、巨大、会社となっている。

だが、すべての、宗教が、そうである。

その魂を、売り渡したのである。
金に。

日本の宗教団体も、まさしく、そうである。

布施を、集めるために、あの手この手の、手練手管で、信者を食い物にする。
だから、信じさせるのである。
それは、魂の救いではなく、騙せるからである。

信じる者は、確実に、騙されて、布施をする。
一度、宗教組織に入った者が、そこから、抜けるのが、いかに難しいか。
人間には、属性欲望がある。
つまり、どこかの、集団に所属したいと言う、欲望である。
宗教は、それを、実に、巧妙に取り入れている。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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