2010年09月11日

神仏は妄想である 300

性的情欲を持たない人間は、まず、いないだろう。そうすると、牧師神学者真面目キリスト教徒の男の、自分はそういう情欲をもって女を見ることなどまったく無縁だ、と思い込んでいる連中が、実際には、自分で意識しようとしないから、かえってそれが嫌らしく露出する。彼らが女を見る目つきのいやらしさは、そこから生じる。自分が意識しようとするまいと、情欲は情欲なのだ。自分はそういうものを持っていないと思い込んでいるから、自分の中に無自覚なままに蓄えたその種の情欲を、屈折して嫌らしく表現することになる。
田川

付け加えれば、欧米の、カトリック司祭には、同性愛が多いから、女には、興味を持たずとも、男子に興味を持つという。
ローマ法王でさえ、司祭の男子に対する、性的虐待で、謝罪したほどである。

さて、マタイが、目を抉り出せと、付け加えたのは、本当に、そのように、考えたからであると、いう。
本気になって、実行しようとしたのである。
現代の、キリスト教徒より、真剣だったということだ。

マタイにもどって、重要な問題は、どうして法的規定をこのように精神主義的に拡大していくことができるのか、ということだ。それは、法とは何なのかを批判的につけえることによってはじめて考えることができる。
田川

以下、田川氏の、論調をまとめてみる。

法とは、本質的に、一つの擬制である。
人間の行為を、一つの抽象された水準においてのみ、扱う。
われわれの行為の、数多くの行為が、どこかで、法と関連する。
しかし、一つの行為が、法的な水準にのせられるためには、その行為を囲む、他のあらゆる要因が抽象される必要がある。

それは、極めて具体的な行為を、扱うが、実は、非常な抽象でしかない。
法とは、そういうものだ。

「姦淫」が法的な規定のもとに、論じられる場合も、同じ抽象がある。
その行為を、形成する具体的な、様々の、要因が、捨象され、行為の特定の、形式だけが、抽象されて、処置の対象となる。

「姦淫するなかれ」を「情欲をみたすために女を見ることはするな」にまで拡張したのは、いかにも、現実の実行行為だけを扱うはずの法の領域をこえて、法では規定しえない観念領域にまで拡大してしまった、と思えるのだが、そして事実そうに違いないのだが、他方では、法というもののこのように抽象する性格にうまく対応してものを言っているのである。
田川

そして、マタイの倫理拡大がいつもある種の誠実さをともなった説得力があるのは、そのせいである。
と、言う。

ユダヤ教の律法が、普通に考える法という意味と、宗教的社会倫理的規定でもあったという、点が重要である。

さらに、当時は、ローマの支配で、その法があり、そけだけ、律法は、倫理的側面ばかりが、強調されることになったのである。

そこから、マタイ的ユダヤ人キリスト教徒の精神主義も、生まれてくる。
そこで、マタイは、姦淫を犯す、具体的な目的をもって、見る行為は、正しくないと、留保をつける。

ただ、宗教倫理的な、解釈は、ユダヤ人に限られていたのではなく、オリエント世界に、広くあったものである。

アラブの、女たちの、ブルカを、思い出せばよい。
女を、見られないように、全身を、布で覆うのである。
勿論、それは、風土の影響も、多分にある。

イエスもまたこの発言によって法的規定を無制約に拡大しているのは確かである。
田川

ただ、この話を、延々とするのは、暇な学者に任せて、結論に行く。

イエスは、とても、逆説的、説教をした。

イエスがマタイのようにユダヤ教の法の精神を拡大、「完成」とようとしたのではなく、それに対決しようとしていったことは、彼の活動の全体から見て、あまりに明らかである。
田川

実際、罪を咎められるのは、誰かということである。
社会的地位のある人々は、罪に問われないという、矛盾があるのだ。
罪に問われるのは、いつも、社会に抑圧され、差別される人間である。
当時が、そうである。
以前書いた、当時の、ユダヤ州のことを、思い出して、もらいたい。

ヨハネ福音書にある話が、イエスの、考え方である。

姦淫の罪で、捉えられた一人の女を、石打の刑にしようと、律法学者、パリサイ派が、神殿に、連れてきた。
そして、そこにいた、イエスに、どう思うかと、問う。
イエスは、あなたたちの中で、罪の無い者が、まず、この女に、石を投げよ、と言う。

そこで、一人去り、二人去りと、皆、去ってしまう。
イエスは、女に、二度としないようにと、言葉をかける。

男と女の性的関係が、それを包むすべての人の人間的、社会的過程をぬきにして、それだけ抽象して抜き出されて、「姦淫」として法的に罰せられる、というのは、所詮不当なことなのだ。
田川

その、不当の、犠牲者は、罪人と、言われる人たちであろう。

イエスは、偽善を徹底的に、嫌い、攻撃した。
つまり、ユダヤ教の、律法のあり方自体に、偽善を見抜いたのである。
結局は、支配層の、もの。支配層が、勝手に、暇つぶしに、下層階級の人々を、翻弄するという、遊びに、激怒したのである。

これは、田川氏が言っていることではなく、私の考えである。

そこで、情欲を、みたすために、女を見る男は、姦淫するのと、同じではないかと、問い詰めたのである。
それが、マタイの福音のあの、箇所である。

当時の、ユダヤ教の、支配層は、兎に角、下層民を、裁く事が、楽しみだった。
実に、嫌らしい、趣味である。
そして、現代の、キリスト教の、すべての、宗派の、指導者も、同じであると、言う。

アメリカで、有名な、テレビ伝道師が、高級娼婦を買って、遊んだことが、知れた。
何と、いけしゃーしゃーと、人々の前で、懺悔して、その地位を守った。

イエスは、こういう、偽善が、大嫌いである。

イエスは、法を無制約に拡大してみせることによって、そのうさんくささを明るみに出し、愚弄し、粉砕しようとした点だった。・・・・
イエスの方は、その秩序がはらんでいる本来のグロテスクさを、拡大してみせることによって暴き出したのである。
田川

もう一つ、面白いことは、性関係とは、男女関係であるが、女だけが、捕らえられるという、不思議である。
男だって、同じだろう・・・

旧約では、男女が、石打の刑に、処せられた。
きっと、私の想像では、マタイ福音の場合、相手は、支配層に近い男だったのだろう。

律法学者、そして、パリサイ派、更に、現代の、聖職者といわれる、偽善者たちは、イエスの、最も、嫌った人間たちである。

イエスは、法的秩序からの解放を叫んだだけで、すでに殺されてしまったのだが。
田川

男と女の、情欲とは何かということを、イエスは、何も語らない。
要するに、語れなかったのである。
つまり、解らなかったと、私は、いう。

解るのは、ただ、出来れば、人間は、一人でいるのがよいだろう・・・である。
とういうこと・・・イエスは、いつも、男たちと、行動していた。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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