2010年09月09日

あらっネグロス島へ 9

これから、私は、セブ島を拠点にして、フィリピンの、各島へ、慰霊と、支援に出掛けるだろう。

日本軍は、フィリピンの島々で、戦争を繰り広げた。

しかし、何故、フィリピンは、貧しさから、抜けられないのか・・・

様々なことが、考えられる。

その歴史は、スペイン植民地時代に、さかのぼる。
長きに渡る、スペインによる、植民地の間に、フィリピン独自の、文化や伝統が、破壊された。

それは、特に、カトリックによるものである。
最初は、イスラムの島々が多かったが、武力で、キリスト教を押し付けた。

今でも、キリスト教に、虐殺された、ミンダナオ島の一部が、反政府となって、抵抗している。

更に、アメリカによる、統治である。
すべて、アメリカ式に、変えられた。
アメリカの文化が、最高という意識は、今でも、ある。
だが、アメリカの文化といっても、伝統ではない。
実に、そこの浅いものである。

そして、第二次世界大戦の、一時期、日本軍が、統治する。
その時に、少しばかり、日本軍は、フィリピン、独自の、伝統と、文化を、回復するようにと、指導した。

だが、それも、一時的なもの。
日本の敗戦で、もう一度、アメリカ支配に陥る。

アメリカは、フィリピンに、莫大な資金を投資した。しかし、それらが、国民に行き渡る前に、消える。
つまり、政治家により、搾取される。

アメリカ軍の、駐留も、無くなった。
要するに、捨てられた。

今、フィリピンの歴史的遺産といえば、すべて、スペイン時代に、建てられた、教会である。
その長きに渡る、支配のうちに、フィリピン人は、何かを忘れた。

熱心な、カトリック信者が、多いが、それは、当初、押し付けられたものである。
だが、時代を経て、ついに、拠るべき所が、教会となったのである。

貧しい人々は、すべてを、搾取されている。

政治からも、教会からも、である。

更に、お金がなければ、教会で、葬儀もできないのである。

私は、何度も、人々が、教会ではなく、地元で、葬儀をするのを、見た。
路上に、遺体を置いて、カンパを募る。
墓の費用である。

フィリピンの歴代大統領は、悲しいかな、一部を除いて、すべて、身内に、支援金を流した。
国家の予算が、個人的に、流用される。
政治家もまた、同じく。

政治の伝統のようである。

多くの島があるが、島は、兎に角貧しい人たちが多い。
だが、その中でも、富裕層がいる。
すべて、中華系である。

地方の議員を、抱きこみ、彼らの、希望通りの、法整備を、作っている。
金の流れが、彼らに向かうように、である。

レイテ島に、出掛けた時に、バイクタクシーの、運転手に聞いた。
それは、毎日、借りるのであり、自分で、持つことは出来ない。
そのように、法律が、条例が、作られている。

その、バイクタクシーを、貸すのが、中華系である。

人々は、二重、三重に、搾取されている。

革命を起こすしかない。
しかし、革命も、瞬時にして、終わる。

軍隊が、一体となって、起こさなければ、無理である。

だが、その軍にも、汚職が広がるのだろう。
不穏分子は、密告される。

さて、歴史の、種を探しても、詮無いこと。

現在の、アキノ大統領が、どこまで、フィリピンの民衆の、期待に応えるか。

フィリピンは、スペイン統治時代の、その前の歴史を、学び、フィリピンの、誇りを、取り戻して、欲しいと願う。

英語教育に、力を入れたが、それは、海外に働きに出るために、必要なもの、のみである。
英語教育が、国の力には、ならなかった。
それより、自国の言葉を、しっかりと、身につけて、そこから、物を考える力を、養うべきだった。

今でも、エリートたちは、アメリカを目指す。
しかし、目指すアメリカには、何も無い。

フィリピンの希望は、日本である。
伝統の国、日本が、フィリピンの、希望になりえる。

ミンダナオ島の、反政府軍は、必ず、政府との話し合いに、日本を指定する。
何故か。
他の国は、すべて、キリスト教国である。
イスラム国家は、ひとつもない。
そこで、日本を指定し、日本の、冷静な対処に、期待するのである。
日本は、世界の平和に、貢献できる、唯一の国となる。

宗教の国で無いということだ。
日本は、伝統の国である。
その、日本の役割が、世界平和の貢献に、大きく寄与できる。

私は、実感として、それを、感じる。

新しい時代は、宗教闘争の時代ではない。
長い歴史を有する、世界が、納得する、伝統を有する、日本が、希望となるのである。




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神仏は妄想である 298

怒るのは神であって、人間は怒ってはならない、という発想が強くなっていく

キリスト教発生以前のユダヤ教が全部そうだというわけではないが、この傾向は特に知恵文学に系統においてはっきり出てくる。「怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い」(箴言の書)など。もっとも、知恵文学の場合、イスラエルの伝統的な発想だけではなく、外来の処刑訓も加味されて、感情的に激するのは愚物であって、賢い人間はいつも冷静さを保つ、と言っているのだが、そういう処世訓が神観念へと疎外された「怒り」に結びつく時、人間の怒りは神に逆らうことであって、怒ることは神にのみまかせておけばよいのだ、という考え方になっていく。
田川

作られていく、感情であり、更に、神観念の中に没入させるという、手である。
それを、神観念へと、疎外すると、表現する、田川氏である。

いよいよと、偏狭な心境に入っていくのだが、それは、何も、ユダヤ、キリスト教だけに、言えることではない。
宗教のすべてが、神観念や、仏観念へと、疎外するのである。

つまり、信仰が、深くなれば、なるほど、そういう傾向を帯びる。

私は、もう一つ、別な言い方をする。
疎外する、つまり、逃避するのである。

たとえば「ソロモンの詩」では、「私の舌と私の唇を真理の言葉でつつみ給え。怒りと不合理な憤りを私から遠ざけ給え」という祈りが出てくる。そして、「怒り」は人間の持つべきものではない、ということを、「ベンシラの知恵」ははっきり言い切っている、「心の憤りは女から生まれた者のためにあるのではない」。「女から生まれた者」つまり人間には、怒ることは許されていないので、怒ることができるのは神のみである、というのだ。
田川

新約聖書において、「怒り」は神の意志に逆らうことだ、とみなす見方の理解がつく。当時のユダヤ教のこれらの文章、ことに知恵文学では、人間の怒りは非理性的な感情の爆発として退けられている。右に「心の憤り」と訳した句は、むしろ「情の怒り」と訳すべきで、ていねいに言えば、「憤りの感情のもつ怒り」という意味である。このように、人間の持つ怒りを愚かな感情のほとばしりとみなし、正統な、あるべき当然の怒りは神のみ帰する、というところに、宗教的な疎外の特質がある。正統な怒りを神にのみ帰してしまったら、しいたげられた民の腹の底から煮えたぎる怒りを神への不従順として抑圧してしまうことになるのである。
田川

これが、宗教指導者、支配層の、狙いである。

こういう、ものの考え方、つまり、ヘレニズム的な、世界支配の中で、私的個人の、安心立命を願う、ユダヤ教の、知恵文学、ローマの世界支配の中で、私的個人の、宗教的救済のみを、願う、パウロや、その亜流に、主として、現れるのである。


このように、実に、偏狭で、矮小である。
宗教とは、人を、支配するために、とことん、練られた、巧みな言葉の世界であると、言える。

そして、それは、人間によって、作られているということである。

「怒り」というものをすべて感情的な動きの類似性からのみ形式的に一般化して、一切の怒りは愚劣な感情の動きだ、などと断じられたのでは、やりきれない。
田川

しかし、イエスは、随分と、怒る。
新約聖書には、イエスの怒りの様が、四福音書に、多く記される。
これは、怒りを発することが、出来ない、民の代わりに、怒る如くである。

そして、イエスの、怒りは、支配層、指導者層に、向けられた。

マタイ教団は、それを、どのように処理しようとしたのか。

マタイ教団では、イエスの言葉、反対命題を、旧約聖書的教条に対する批判的対決とは、解さず、むしろ、彼らの「義」の完成という発想で、捉えた。
旧約聖書では、不十分な、「義」というものを、より大きく、十分に完成したものであるとする。

しかし私はいう
という、イエスの言葉を、それより、よりよく、より徹底して、言うと、解釈されたのである。

旧約的教条に反対するのではなく、完成命題とした。

山上の説教とは、イエスの強烈なユダヤ教批判と、マタイ教会のユダヤ教を発展的に継承しようとする視点との、ごった煮なのである。
田川

つまり、マタイ教団も、ご多分に漏れず、ユダヤ教のみならず、宗教的に、作り上げていく、教義なのである。

田川氏は、神学者であるから、多くの例を、引いて、解説している。
私は、それを、省略する。

マタイは、精神主義である。
すべてを、精神主義に、拡大して、発想する。

重要な問題は、正当な怒りはすべて神のみに属する、という宗教的に疎外された発想の中で、社会的に抑圧された者の怒りすらも骨抜きにされていく、というからくりをしっかりと見抜いておくことであろう。
田川

マタイは、精神主義的な、教団内倫理と、ユダヤ教から継承した、宗教的に疎外された、「怒り」の理念を定着させることになる。

ところで、兄弟に対して・・・怒る者は・・・
異教徒に対してではない。

同じ信徒同士のことである。
兄弟を殺す者は、裁かれる。しかし、異教徒を殺した場合は、裁かれない・・・

とっても、狭義の意味での、教義であろうか・・・

キリスト教徒が、イスラム教徒を、殺しても、問題は無い。
または、それほど、重要なことではない。
こうして、無明の教義が、作られていく。
疎外が、逃避になり、そして、何かを忘れていく。信仰というものの、闇である。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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