2010年09月08日

あらっネグロス島へ 8

トゥマゲッティの、ホテルは、歴史的建物、ベル・タワーの通りに面した、道路を一つ隔てた、新しいホテルである。

だから、ガイドブックに載っていない。
一泊、900ペソ、1800円。
ツインルームで、広い。

最初に、もっと、安いホテルに向かったが、フロントの対応が悪いことと、部屋が、息苦しいので、変更した。

日本と違い、チェックインの時間が、早くても、入れてくれる。

そのホテルの一階にある、レストランに入って、食事をしていた時に、ホテル前に、二人の男の子、ストリートチルドレンが、現れた。

二人は、喧嘩をしているように見えた。
実は、じゃれあっていたのだが・・・

一人の、やられていた、男の子に、水を買って渡し、服を上げるから、待っていてと、言う。身振りである。
男の子は、頷いた。

そして、部屋に戻り、二枚の、シャツと、ズボンを持参した。
彼に、渡す。
すると、さきほど、買って上げた、ペットボトルの、水か無い。

どうしたの
指を差す。道路に、捨てられ、車に、破られていた。
どうして
すると、彼は、もう一人の、男の子を指差した。

あいつが、捨てたのか。
私は、その子を、呼んで、日本語で、叱った。
私の声は、大きい。それで、萎縮してしまった。
だから、彼を、呼んでも、その日は、来なかった。彼にも、衣服を渡したかった。

翌日、ビーチで、慰霊をして戻ると、彼らに、会った。
更に、もう一人の、男の子もいた。
彼らより、年上である。後で知るが、15歳だという。10歳程度にしか、見えない。

私が、掲げていた、日の丸を持ちたいと言う。
そこで、彼らに、渡した。
昨日、叱った、男の子も、けろりとして、着いて来た。

私は、裸足の、男の子に、サンダルを買うことにした。
近くに、市場がある。
そこまで、出掛けた。
そして、彼の好きな、サンダルを買って渡した。

一度、ホテルに戻る。
そして、昼の食事をするために、出た。
焼き鳥が美味しいと、聞いていたので、焼き鳥を食べることにした。

ホテル近くの公園の、前の店である。
すると、また、彼らが、現れた。

一緒に、食事をすることにして、私は、その店に誘う。
一人の、私が叱った男の子が、楽しそうについて来た。
そして、テーブルに着くのだが、二人の子は、入り口で、もじもじして入らない。

と、その時、店の奥から、走り出してきた、男がいる。
二人の子が、逃げた。

私たちも、外に出で、何が起こったのかを、見た。
小さな方の、男の子が、捕まった。
そして、何やら、男に、説教をされて、涙ぐんでいる。

コータが、その中に、割って入った。

彼らを店の中に、いれることは、出来ない。
物を買って、外で、食べさせるなら、良いとのこと。

昨夜、男の子は、店の厨房に入り、食べ物を盗んだというのである。

そして、それは、常態化していた。
どおりで、店に入らないはず。

私は、店に戻り、兎に角、一羽分の鶏肉を、注文し、ご飯を、五人分注文した。
彼らのために、ジュースを三本。
公園で、一緒に食べようと、思った。

開放された、男の子と、二人の子を、呼んで、食べなさいと、促した。
男に、叱られた子は、中々、来ない。
私が、何度も、手招きして、ようやく、来た。

三人が、食べ始めた。
食欲旺盛である。当たり前だ。食べ盛りである。

しばらくすると、店から、先ほどの、男が出てきて、私たちに、挨拶し、握手を求めた。
私たちは、子供たちに、食べさせて、食べなかった。

少し、離れた場所で、彼と、話をした。
彼の、名前は、ジョンソンさんである。

ミンダナオ島の、出身で、ここでは、農場を経営し、食堂を経営していた。

そこで、彼の話を、聞くことになる。
まず、私たちの、好意に、感謝した。
そして、話し始めた。

問題は、根が深いのです。
フィリピンは、貧しい。しかし、このままでは、いけない。
食べ物、衣服、その次に必要なものは、住まい。
子供たちに、それを、提供し、そして、教育が必要です。
そうでなければ、あなたたちの、好意も、単なる一時の、バンソウコのようなものになる。

その、通りである。

だから、私も、農場を経営して、働く場所を、提供し、親に働かせ、子供たちには、学校へやるように言うと語る。

つまり、ストリートチルドレンが、大人になっても、物乞いの精神から、抜けられず、子供が出来ると、子供を、働かせようとするらしい。

更に、施設を造り、何人もの人が、現状を打開しようとした。しかし、皆、途中で挫折する。それは、続けられなくなるからだ。

一人の人間では、無理である。
多くの人間が、関わって、運営しなければ、続かない。
今は、政府系の、施設がある。
そこに、支援を、是非して欲しい。

いつまでも、フィリピンが、このままでよいはずがない。
フィリピン人の、誇りを持つような、子供たちを、育てたい。

ジョンソンさんの話は、長かった。
そして、情熱に溢れたものだった。

私は、それを聞いていて、私の考え方と、方法が理想的だと、知る。
新しい建物を、造るのは、簡単である。しかし、それを、持続させることは、至難の業である。

だから、私も、建物や、施設を造らない。
すでに存在する、施設、学校に、支援するのである。

話している途中で、近くの人が、椅子を、運んで来た。
すると、これが、フィリピン人ですと、ジョンソンさんが、言う。

フィリピン人の、誇りを、取り戻す・・・

素晴らしいことである。

私は、次にこちらに、来た時に、あなたの店に立ち寄りますと、言った。
最後も、握手をして、別れた。

子供たちは、すでに、すべての食べ物を、食べていた。

私たちは、食事のことを、忘れ、一度、ホテルに戻った。




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神仏は妄想である 297

あなたがたも聞いているとおり、昔の人には、「殺してはいけない。人を殺した者はさばきをうける」と命じられていた。しかし、わたしはあなたがたに言う、兄弟に対して怒る者はみなさばきを受ける。また兄弟に「愚か者」と言う者は、衆議所に引き渡され、「ばか者」と言う者は、火の地獄に落とされる。
マタイ 5章

兄弟に対して、怒る者は、みな、裁きを受けると、イエスが言う。
おかしい。
イエスは、いつも、怒っている。

殺人と、怒りが、同じものだと、言うのである。

怒りを殺人と同一視して、どちらも同じ罪に定められる、とする奇妙な論理はどこから来たのであろうか。こういう論理展開はグロテスクである、と言わねばならない。もっとも、キリスト教神学者の中には、どうにもならないほどに非論理的な者がいるので「グロテスクなものがまさにイエスの要求の絶対性を示している」なんぞと言いつのる者がいるのだから(G・シュテーリン)、いやになる。
田川建三

階級的な支配権力を持つ者が勝手に「怒って」その「怒り」を人殺しに結びつける時には、その「怒り」は断じて許せない。しかし、「社会の一員であることを認められず、許されない」人間が怒るのは当たり前なのだ。それとこれとを一緒にされてたまるか。狭山差別裁判の石川氏に、怒ってはいけません、なんぞと誰が説教できるのか。
田川

田川氏は、二つの問題があるという。

一つは、人間が怒ることは、それ自体として正しくない。
これは、旧約以来の伝統的、見方である。

もう一つは、怒りと、殺人を同じくするという、観念的拡大である。
それが、マタイ教団の、独自の発想だという。

だが、旧約聖書に出る、「怒り」の概念を調べると、そこには、人間の怒りが、語られることが、極端に少ない。
怒りは、大半が、神の怒り、なのである。

旧約聖書は、イスラエル民族主義の、塊であるから、神の怒りは、イスラエル民族以外に、向けられるものと、考えられるが、実は、イスラエル民族にも、向けられている。

エゼキエルが、エルサレム滅亡について、語る場合、「私は君たちを一緒にして、君たちに向かってわが怒りの火をあおり、火の中で君たちは、とかされる」と、歴史的過去、もしくは、未来の、戦禍や災害が、神の怒りの、表現とされると、田川氏は言う。

キリスト教の、馬鹿さ加減は、聖書を、歴史書としても、捉える点である。
聖書は、宗教の文書であり、作為ある、書き物、つまり、何とでも、解釈できるものなのである。

それを歴史の現実として明らさまにとらえることをせず、神によって不可抗力に定められたこととみなす。歴史の中のことを、超越的な観念「神」の世界へと追いやる。まさに典型的な宗教的疎外である。
田川

スマトラ島地震の際に、イスラム指導者、及び、キリスト教原理主義の指導者が、神の怒りに触れたのであると、語ったのを、聞いて、唖然とした。
いや、呆然とした。

一体、どこから、そんな、とんでもない、発想が、出で来るのか・・・
つまり、観念「神」の世界へと、追いやるのである。

更に、悪いのは、彼らには、許せない、者たちの、行状が、良くないからだと、決め付けるのである。

こういうのを、手に負えないという。

戦争の際の、それぞれの、祈りを、聞くと、また、愕然とする。

キリスト教徒は、神のための、戦争勝利を祈り、イスラムは、同じく、聖戦であると、祈る。

次に、田川氏は、ヨブ記の著者による、話題を書く。

当時の月並みだが、支配的な宗教世論であろうけれども、因果応報的な、発想で、「神の怒り」を、個人倫理の水準にも適用する、自然災害は、「神の怒り」と、みなされ、それは、「悪しき人」の家は「大水に押し流され」「激流がその怒りの日に押し流す」という。

この種の宗教論理がうさんくさいのは、うさんくさいどころかひどく実害があるのは、しばしばこれを論理的にひっくり返して、自然災害の犠牲者の悪口を言うことになるからである。あの人の家が押し流されたのは、あの人が何か悪いことをしたからにちがいない、と、こうして自然災害の犠牲者には更に人間社会の偏見という二重の災害が押し寄せる。
田川

実に、差別の、最たるものである。

だが、ヨブ記の、著者は、旧約には、稀な、考え方をした。

常識的な良心が、あれば、自然災害は、悪しき者にも、良き者にも、平等に襲いかかる。
だから、悪しき者、に対する、神の報いと言って、説明するなという。

そして、極めつけは、むしろ悪しき者の方が、災害から、免れると、言うのである。

話は、より、具体的になるが、要するに、宗教では、問題を、すべて、神に、帰結させるということである。

勿論、良いことも、である。

それを、田川氏は、宗教的疎外であるという。

「疎外」とは、自分の現実の中にあるものを屈折させてそとに放り出す、この場合なら宗教的観念世界へと放り出すことである。
田川

時代が、下り、個々人の、倫理が、民族共同体の問題とは、別に考えられるようになっても、怒るのは、神なのである。

この伝統の中では、人間の、怒りというものを、真剣に考えさせないのである。

これは、恐ろしいことである。
すべての、事象が、神に帰結するという、妄想である。

人間の、倫理的な、怒りを、真に考えない場合は、人間まで、疎外するのである。
つまり、人間の場所がないという、矛盾である。

宗教には、人間の場所が無い。
それらは、すべて、神や、仏の、場所なのである。

これほど、人間と、関わらない観念は、無い。

そこに、逃げ込んで、苦悩する様を、信仰の深さと、勘違いした、多くの人々。
日本では、鎌倉仏教に代表される。

更に、続けて、見ることにする。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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