2010年09月07日

あらっネグロス島へ 7

今回、私は、勘違いのために、ネグロス島の、激戦地であった、バコロド近郊の、シライ市、そのシライ川に沿っての、マンダラガンの山での、戦争犠牲者の、追悼慰霊が、出来なかった。

しかし、少し、その戦禍を紹介する。
次回の旅日記の、時は、より詳しく、紹介することとして・・・

ネグロス島戦記 池 平八著
そこから、兵士たちの、死に様の、一つを、紹介する。

このような、死に様も、あったということを、知って欲しい。

多くの戦友の命が、一瞬のうちに、引き裂かれ、飛散する。右の陣地で、そして中央陣地で、はたまた左方陣地で、間断なく光の渦が、逆巻く。生き地獄の鬼火が、各所に次々と燃え上がり夜空を真紅に染める。そのつど戦友の生命が乱舞しながら闇の底に消えて行く。

日本軍は、連合軍の、猛烈な、攻撃を受けた。
それは、徹底したものである。

その、戦友の死の様をみて、池氏は、
人間の名状しがたい生の尊厳さを、改めて体得した。
と、書く。

さて、私が、一番、驚き、そして、佇んだ、死に様である。

敵の熾烈な爆撃に、駐屯軍は他の安全な場所を求めて去り、ここにはもう他部隊はいないと思っていたのであるが、下方の温泉場では、毎日数十人の見知らぬ戦友たちが入浴していた。

自分たち以外にも、まだ相当数の残留者がいるのかもしれない。一見して彼らは健康体のようである。毎日入浴する兵たちが、同一人物であるか別人であるのかわからないが、朝から夕方までの長時間、湯につかり続けている。

彼らが入浴するので、私は汚物の洗濯はできるだけ下流でするようにした。だれも無口で、話し合っているようすがない。ひたすら湯につかっている。

その後、数日間も敵の空爆はなく、静かな日々の連続だったが、突然、異変が起きたのである。

湯の中の兵が昨夜一人、今日一人と、死んでいくのだ。

石にもたれて下半身を湯の中に浸したままで息絶え、やがて流れに揺れながら湯の底に沈んでいく。

名も知らぬ戦友が、死んで、水中に沈んでいる。

ゆらゆらと揺れ動く者。そうしたなかであとから来た戦友は無表情、無言で温泉に入っている。

だれもかも、この私にしても、己の周囲に起こる事象に反応しなくなっている。全ての感動も感情も驚きの色もない。きたるべきものがきたにすぎない。ただそれだけのことである。生き残った者も、明日まだ生き続けられるとは限らない。いずれは、われもまた多くの戦友と同じ運命の道をたどるのだ。心の中に、こんな潜在意識をもっている。兵はただ死するのみなのだ。

やがて、湯の中の死体は、一日、二日と温泉の湯でふやけて溶け始める。

手足の指先から、透明なゴム製の手袋を脱ぐように、一ミリ、二ミリ・・・五ミリ、透き通るようにうすい皮膚の手袋ができる。

五本の指先からこれだけ脱けるのに約二日を要した。

この手袋が皮下の肉と分離して抜けるものであろうと、毎日洗濯のつど、観察していたのであったが、自然の状態のままでは、これ以上は無理であるらしく、その後は一ミリも長くはならない。ゆるやかな水の流れに、指先でかすかに揺れている。

やがて、体の各部分の皮膚は次々と破れ、肉はただれ、下流に流れ去る。その静かな水の流れを無言で見つめつつ、汚れた水を遠くにおしやりながら洗濯する。

四、五日後になると、遺骨が水底に静かに横たわった。

神秘な水葬の儀式が厳粛に執行されるように、美しく磨かれた白骨が水中で静かに眠る。

人骨の中で、もっとも重い頭蓋骨は、その後、数日間も水底に沈んだままであった。

そうした温泉に、兵士が一人、また一人と訪れて眠りながら入浴する。

戦友の腐乱死体が浮いていようと沈んでいようと、だれも拘泥などしないのだ。

だれもが無関心に湯につかり、やがてまた黄泉の国へと旅立っていく。

その後、スコールによって増水した渓流が濁流と化し、温泉に沈んでいた戦友の白骨を流し去った。濁流はまた清流に戻り、元の温泉郷が再現された。神の手による浄化であろうか。

下流に押し流された戦友の白骨は、このネグロス島の島を離れ、黒潮の流れにのって太平洋へ出る。八重の潮路の長い海の旅の果てに、はたして北の国、故国日本の浜辺に無事にたどり着くだろうか。そうあってほしいと祈ったのだが・・・

上記、私が、読みやすく、改行している。

この、遺骨は、流れに乗って、日本の浜辺に着くことは、なかったであろう。
また、山の中に、散乱した、遺骨も、今は、自然の中に、埋没しているだろう。

死んだら、終わりだから、それは、それでいいのか。

そんなことは、無い。
人には、想念がある。思念がある。
それは、死後も、残る。

顕在意識が、無感動でも、潜在意識は、深い悲しみと、絶望であろう。

死人に口なし、である。

誰かが、この、兵士たちの、思いを、言葉にしなければ、ならない。

一体、人生とは、何か、と、問い掛けることが、出来る人は、幸いである。
彼らは、それを、問いかける間もなく、戦地に赴き、死ぬことになったのである。

賢い者も、愚かな者も、だれかれなく、戦争という、狂気の只中に、入れられた。

池平八氏の、言葉に
熾烈極まりない戦い、飢餓、あまたの若き戦友たちの悲惨な死、そして副官の死。それらを思えば、この遅過ぎた降伏に、憤りを感ぜずにはおれない。
と、ある。

心からの、冥福を祈る。
そして、必ず、追悼慰霊に、私は、行く。
私が行かなければ、誰が行くのか。




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神仏は妄想である 296

イエスの時代の、ユダヤでは、まだ、大土地所有者と、大商人とが、分離していなかった。

大土地所有者は、彼らの、広大な土地に、バルサム材、棕櫚の木を植えて、これから取れる、高価な薬品、香料を輸出することで、莫大な、利益を上げるだけではなく、小麦まで、国内の需要さえ、十分でなかったにもかかわらず、利益のために、輸出していたのである。

他方、彼らは、国内においては、穀物の買占めを手段とする、投機によって、あくどい商売をしていた。

穀物の隠蔽が、行われていたことは、旧約聖書、箴言の書にも、出ている。

穀物を、しまいこんで、売らない者は、民に呪われる。それを、売る者の頭には、祝福がある。
箴言の書

これ以上、詳しく書かないが、実に、ユダヤ人というものは、自国民にたいしても、冷酷だった。
更に、差別主義である。

古代は、穀物の生産が、自然条件によって、大きく支配されていた。
市場価格を一定に保つことは、問題にならなかったのである。

イエスの、時代は、穀物4セアの、通常値段は、1セラ、1デナリであった。
バケツ一杯ほどの、穀物の値段は、日雇い労働者一日分の、平均給与に当たる、1デナリであった。

そして、エルサレムの市場管理者は、最高価格を抑えることはせず、購買量を制限していた。

このような、大農場経営に、立脚する、古代資本主義経済機構は、ローマ市民共同体から、巨視的に見れば、奴隷を含む、いわゆる外人に対する、そして、これを、属州ユダヤの自治体から見れば、小農民に対する、経済搾取によって、成り立っていた。

ユダヤの、農民は、小土地を私有する独立自営農民の場合でも、多くの場合は、その農具を、大土地所有者から、借金によって、買うか、あるいは、彼らから、一定の額で、現物を貸付されるかして、農業を営む状態だった。

そして、その借金は、補遺率で、禁止されているにも、関わらず、実際には、利息がつけられていたことは、ラビ文献でも、福音書でも、確認される。

このような、生活状態の中で、ある程度生活を安定させるには、小農民は、家内手工業や、小規模な家畜の飼育、そして、ガリラヤでは、漁業を営んでいた。
だが、それでも、生活が出来ない場合は、土地を放棄し、小作人になるか、町に出て、日雇い労働者になるか、負債奴隷となるか、女の場合は、売春である。

ユダヤにおいて、奴隷は、他のローマ属州と違い、七年ごとに来る、安息年に、自動的に開放されるという、掟があったので、比較的、人道的な扱いを、受けていた。
だが、この、掟が、完全に守られていたことは、疑わしい。

解放後に、進んで、奴隷になる人、奴隷と、ならざるを得なかった人もいる。
特に、このような、状態にある者が、障害者となったり、重病になった、場合は、極めて、悲惨だった。

さて、イエスの時代、祭司と民衆の間に、社会層上の、区別は、明確ではなかったという、事実である。

貴族祭司が、大土地所有者であり、大商人であり、最高法院の頂点に立って、ユダヤ自治組織の体制を、動かしていたことは、確かであるが、下級祭司、いわゆる、レビ人たちは、むしろ、小農民と、同列か、それより、低い経済状態を、余儀なくされていたのである。

ユダヤ古代史によれば、
祭司の中資力を失った者たちは、貧困の中に死んでいった
と、ある。

この時代、祭司の間にも、階級ギャップが、生じていたのである。

持てる者は、与えられ、持たざる者は、持てるものまでも取り上げられるであろう
マルコ、マタイ、ルカ福音書

イエスの活動した、ガリラヤは、ユダヤに比べて、自然状況に恵まれていた。
ユダヤは、ガリラヤなしに、経済的に、成り立たなかったといわれる。

エルサレム在住の、貴族祭司、大土地所有者は、その土地の、多くを、ガリラヤに持っていた。更に、律法学者、パリサイ派の人々は、ラビとして、ガリラヤの会堂を支配していたのである。

また、ユダヤで、土地を失った農民が、ガリラヤで、漁師などの、職、仕事をしていたと、考えられる。

また、面白いのは、ユダヤ教の反主流派組織も、多々あった。
それらは、省略する。

更に、メシアと、名乗る人々も多数いた。

福音書に、登場する、サマリアについて、少し書く。

サマリアは、ガリラヤと、ユダヤの中間に、位置する。
この地域は、ガリラヤと共に、アッシリアの一属州に、編入されて以来、イエスの時代に至るまで、ユダヤとは、接触がなかった。

ユダヤ教とは、異なる、サマリア教が、成立していた。
だが、それも、旧約聖書の、モーゼ五書だけを、経典とみなして、エルサレム神殿を拒否していた。

そして、預言者の降臨を待望していた。

そのため、ユダヤ教徒と、争いが、絶えなかった。
ガリラヤ人や、ユダヤ人が、サマリアを通ることさえ、不可能だった。

だが、ローマ帝国から見れば、サマリアも、ユダヤ州の一部であった。

イエスは、生涯の大半を、ガリラヤで過ごし、最後に、エルサレムに上り、その地で、十字架刑という、極刑に処されて、没するのである。

ユダヤ社会においての、差別は、甚だしく、貧者、最悪の場合は、小家畜飼育者、日雇い労働者、売春婦、奴隷、障害者、病人、それらは、農民層から出ていた、人々は、ラビたちから見れば、律法を守らない、宗教的、社会的な、差別の対象だった。

だが、事実は、律法を守らないのではなく、守ることが、出来なかったのである。

あるいは、守ることの出来ない、状況に置かれていた。
彼らは、ローマ当局から、人頭税、間接税を徴収され、ユダヤ自治機構からも、神殿税を課せられていた。

そして、大土地所有者からの、投機による、被害を、直接受けていたのである。

それを、ラビたち、パリサイ派が、宗教的差別の、対象として、攻撃していた。

なんと言っても、宗教というものによって、正当化する、彼らに、対抗できかる、何物もなかった、悲劇の人たちがいる。

イエスは、その、彼らの側に、ついたのである。

つまり、現代で、言えば、決して、社会的権力、権威を持つ、教会の司祭たちの側ではなく、それらに、搾取され、虐げられた、人々の側について、
もし、神がいるなら、それは、あなたたちのために、存在すると、声を上げて、叫んだのである。

キリスト教国がある。
しかし、貧しい人たちは、教会の中にも、入ることが、出来ない。
それを、私は、見ている。

日本の、キリスト教徒を見て、キリスト教徒を、想像しない方が、いい。
日本の、キリスト教徒は、イエスの存在の無い、キリスト教である。

妄想、熱に浮かれた、イメージ信徒、生ぬるい、信仰という、遊戯に遊ぶ、信徒の群れである。

更に、日本の
司祭、牧師たちは、生活の保障がされて、痛くも、痒くもない、安穏とした、状況の中にいる。
そこで、あたかも、悩んだ振りをして、信徒を、導き、尊敬を受けて、実際は、惰眠を続けている。
だが、その中途半端な信仰によって、ユダヤ魔界と、その魔神と、真剣に取り合わないことが、救いでもある。

ちなみに、彼ら、クリスチャンの言うところの、聖霊、そして、霊性なるものは、無い。
妄想である。

もし、本当に、霊性が、あれば、即刻、教会から、離れる。
その神は、魔神であるからだ。

ヤハウェの天の国に、入っても、救われない。
更に、主イエスも、そこには、いない。

嫉妬と、裁きの神の元に、愛の神を、説く、イエスがいれば、イエスの教え自体が嘘であるといことになる。

だが、鋭い、霊能力で、観れば、黒い神が、白い神を、創造したとある。
魔神が、その姿を、見せずに、善なる姿の神を、創造したことになる。

混乱の極みである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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