2010年09月06日

神仏は妄想である 295

イエスが、その生涯を送った時期、ガリラヤでは、ヘロデ・アンティパスの、そしてユダヤでは、ローマ総督の治世下に当たる。

イエスは、その大部分を、ガリラヤで送り、ガリラヤは、ユダヤに比較して、風土的にも、社会的にも、固有性を持っていた。

しかし、政治的、宗教的にガリラヤは、圧倒的に、ユダヤの支配下に入っていた。
すなはち、政治的には、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスも、ローマのユダヤ総督の傀儡に過ぎず、宗教的には、ガリラヤも、徹底的に、ユダヤ教化されていた。

ユダヤと、サマリア、インドマヤの、領主、アルケラオスは、度重なる失政、特に、ユダヤ教大司祭に対する、弾圧政策と、不当な結婚のゆえに、絶えず、ユダヤ人の反抗を受けていた。

そして、ついに、ユダヤ人の支配者が、不倶戴天の敵、サマリア人と組んで、アルケラオスを、皇帝アウグストゥスに讒訴するのである。

皇帝は、これを、受けて、アルケラオスの領土内における、財産を没収し、彼をガリラヤに追放する。

更に、紀元前四年に、ヘロデ王が、没した年に、ユダヤ人の支配層は、ユダヤ教徒は、神以外に、王を戴かないという、理由で、パレスチナをローマのシリア州に、編入してもらうべく、皇帝に、願い出ていた。

これは、ユダヤ人の、富裕層が、自らの財産を、ヘロデ家の手から、守ろうとする、自衛手段だった。

これは、ユダヤ地方を、直接支配下に置こうという、ローマ側の、利害と一致したのである。

ローマ皇帝は、ユダヤ人支配層に、信仰の自由と、ある程度の、自治を認め、彼らの財産に、保護を与えることを、約束した。
そして、アルケラオスの旧領地を、シリア州と並ぶ、皇帝直轄属州、いわゆる、ユダヤ州にして、皇帝の、直接支配下に置いたのである。

ユダヤ人の、一部の特権階級は、皇帝の保護下に、平和を享受したのである。
だが、大部分のユダヤ人は、アルケラオスの統治下よりも増して、新しく、ローマ側からも、課せられる、重税に、苦しめられることになる。

この以後、ユダヤ州は、ローマの総督によって、統治されることになる。

ポンティウス・ピラトは、ユダヤ州の五代目の総督に当たり、この時代の皇帝は、ティベリウスに変わっていた。

ピラトは、ローマで、皇帝以上に、実験を握っていた、親衛隊長セヤーヌスの庇護を受けて、ユダヤ人に対して、弾圧政策を、取っていた。

ローマ総督が、ユダヤ州において、所有していた、最大の、権限は、徴税権である。
戸籍調査によって、課せられる、人頭税、地租の直接税、移動税、市場税等の間接税から、なり、ローマの大商人、徴税請負人によって、直接的には、出先機関である、ユダヤの取税人によって、徴収された。そして、皇帝財庫に入れられた。

司法権としては、イエスの時代は、政治犯に対する、死刑執行権を持っていた。
これらの、職権以外の、一切は、ユダヤ人の、自治機関である、最高法院に、委託されていた。

その最高法院の、頂点には、大祭司がいたのである。
この職は、ユダヤ人の、元首といわれるほどの、絶対権力を、持っていた。

大祭司職は、伝統的に、世襲制であったが、その経過は、省略する。

紀元後六年、アルケラオスの領地が、皇帝直轄属州に編入された時点で、反アルケラオス運動の功績を認められた、アンナスが、シリアの州総督、クイリニウスによって、大祭司が任命され、以後、ローマ当局の絶対的信任を得て、彼が、職を下りた以後も、五代の長きにわたり、アンナス家から、大祭司が、選ばれた。

イエス時代の、大祭司カヤパの時も、実際には、アンナスが大祭司としての、実権を握っていたのである。

当時の、ユダヤにおいて、宗教、つまり、律法と司法、そして、政治、行政、軍事が、実に、密接に結びついていたのである。

他方、神殿財庫管理者は、収穫の初穂、さらに、祝祭日ごとに、特に、国外在移の、ユダヤ人から、奉納される、莫大な数に上る貢物のほかに、二十歳以上の、すべてのユダヤ人から、毎年徴収する、神殿税を、管理運営することで、ユダヤ国内の、財務を担当した。

さらに、神殿に仕える、祭司たちの生活を支えるために、下級祭司、レビ人を使い、イスラエルに伝統的な、いわゆる、十分の一税を、民衆から、取り立てていた。

最高法院は、大祭司を頭として、70人の、議員によって構成されていた。
それは、祭司長たち、また、役人たちの他に、長老たち、律法学者たちから、成り立っていた。

祭司長、役人たちは、貴族信徒で、大土地所有者であり、長老、律法学者たちは、小市民層の、利益を代表する。

前者は、サドカイ派、後者は、パリサイ派と、呼ばれる。

サドカイ派は、伝統主義、保守主義の立場をとり、モーゼ律法、旧約聖書の最初の、五つの書、モーゼ五書のみを、聖文書として、ここに、認められない、あるいは、これ以降の時代に成立したといわれる、新しい思想を、一切認めなかった。
つまり、モーゼ信仰である。


彼らは、ユダヤ社会の、経済的上層と密着して、外国勢力に対して、一般的に、協調政策を取っていた。
その、保守的国民的主義は、自由主義として、機能することも、できたのである。

イエスの、時代には、ローマの傀儡的存在であった、アナンス家の大祭司、祭司長たち、長老たちと、密着することにより、体制を擁護する役割を果たしていたのである。

パリサイ派は、分離者を意味する、ヘブライ語、ペルーシームに由来する。
彼らは、律法を守らない者、いわゆる、地の民の、不浄から、自己を分離することによって、宗教的清浄の理念を、世俗世界に、貫徹させ、その場を、彼らの同志的結合、ハーペールの中に、形成していった。

その際、彼らがとった、手段は、律法の、敷衍解釈である。その目的は、古き律法から、理念を取り出し、それを解釈することによって、新しい時代に、生かそうとするものである。

律法の合理化である。

彼らが、天使論や、復活信仰を受け入れたのも、モーゼ五書に固有な、神の使いの概念や、一元的人間観を、ペルシャから導入された、新思想、マカベア戦争による、殉教者という、新事態に即して、解釈した結果である。

パリサイ派は、預言者の時代は、終わったという、認識に立ち、法理念の、この世における、貫徹の中に、神の国の建設を期待した。

その結果、律法と、その解釈に基づく、細則を守らない者は、救われないという、律法主義に、陥る傾向があった。
この傾向が、特に出てくるのは、紀元後、70年代以後に、この派閥が、ユダヤ教正統の位置についた以後のことであり、イエスの時代は、それほど、強くは無かった。

ユダヤの、最高法院は、社会的には、貴族祭司と、大土地所有者、および、手工業者を中心とする、小市民層との、利益代表者によって、構成されていた。

サドカイ派と、パリサイ派は、それぞれの、社会層の存在を、正当化する、役割を、果たしていたと、いえる。





posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あらっネグロス島へ 6

ネグロス島、トゥマゲッティでの、支援である。

私が、ホテルで、寝ている間に、コータが、街中を、歩いて、支援に相応しい場所を、探した。

それは、川沿いにあった。

下流から、上流にかけて、スラムが、続くという。
その一つの、地区に入り、衣服は、必要ですかと、問い掛けた。すると、声を掛けた、おばさんが、勿論、必要と、いった。そして、それなら、地区を、担当する、事務所に、申し出てくださいと、言ったという。

コータは、すぐに、その示された、事務所に向かった。
そこで、説明を受けた。

場所は、無料診療所と、子供たちの施設としている、建物で、行って欲しいと、言われた。

私が、夕方の四時と、指定していたので、それを、告げると、それでは、地区の人たちに、連絡しておくということになった。

私と、コータは、すべての、支援物資を、持参して、三時半にホテルを出た。
荷物を、持って、地区まで、歩いた。

地区の、入り口に来た。
私は、早速、見つけた、子供たちに、ぬいぐるみを、手渡した。

すると、どんどん、子供たちが、集まる。
歓声が上がる。

準備していた、施設の、おばさんが、こちらに来て、下さいと、呼ぶ。

私たちは、施設の前に、出た。
すると、地区の人たちが、どんどんと、集まる。

担当の、おばさんが、何かいうと、皆、列を作った。

混乱せずに、支援が、出来たのは、おばさんの、助力である。

皆、並んで、私たちの、支援物資を、待った。

とても、いい、雰囲気である。

我先にという、行動はなかった。

私が、支援物資を、一つの、テーブルに、出した。
すると、おばさんが、列を作る人たちに、一人、一つと、渡すのである。

私は、別に、子供たちに、衣服を渡した。

和やかな、雰囲気で、とても、スムーズに、進んだ。
大人物は、担当のおばさんが、一人一人に、合うものを、渡してくれた。

今回は、残念だが、男物は、無い。
子供物と、女物である。

最後に、私が、ハンカチを、渡すことになった。
私は、ママ、ママと、言って、女性たちに、手渡した。
歓声を、上げつつ、女性たちが、それを、受け取る。

すべてを、私終えて、写真を撮る。
皆、とても、嬉しい表情、顔だった。

何枚も撮った。

戻る道々も、多くの人たちと、写真を撮った。
男たちも、何か言う。意味は解らないが、その表情から、ありがとうと、聞こえる。

若い男の子たちも、一緒に写真に、収まった。

兎に角、私たちは、彼らの、敵ではない。
彼らの、味方である、という、意識を感じた。

その、地区の女の子たちは、皆、美人で、肌が、美しい。
とても、セクシーである。

私に、腕を絡ませる、女の子もいた。
少し、ドキドキする。

地区の人たちで、飼っている、ブタがいた。
子豚である。
私が、その檻の前に立つと、男の子が、やって来て、一緒に写真を撮った。

何か、いいたそうである。
何と、悲しいことか・・・
言葉が、分からないのである。

ネクスト、タイムね
また、来るね

日本語で、言うしかない。

最後の最後まで、私たちを、追い掛けて来た、男の子たちが、何か言う。
コータは、現地の、ありがとう、という意味だという。

私も、その言葉を、繰り返して、分かれた。

地区の入り口に出ると、また、人々がいる。

とても、歓迎してくれる。
ジャパニーズは、通用しない。
日本人は、何とかこんとかと、言われる。

よく、聞き取れない。
タガログ語でもない。
ビサヤ諸島の、言葉があるという。

ビサヤ語である。
こうして、私は、また、縁を作るのだ。

posted by 天山 at 00:00| あらっネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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