2010年09月02日

あらっネグロス島へ 2

通常、セブ島といえば、セブシティから、突き出た、マクタン島のことをいう。
そこは、観光地であり、ビーチ沿いに、ホテルが立ち並ぶ。

私たちは、マクタン島ではなく、セブシティに、直行した。
ホテルは、街中を避けて、街の北寄りにある、ホテルにしていた。

一泊、900ペソ、1800円のホテルである。
ホテル周辺は、静かだった。
そこで、二泊し、ネグロス島への、飛行機のチケットを予約し、もし、必要なら、その地区でも、衣服支援をする予定だった。

フィリピン料理は、不味いと、思っていたが、セブ島に来て、その思いが、変わった。
意外に、薄味で、食べられるものである。

ホテル近くの、120ペソ、240円での、食べ放題の店に入った。
驚くべき、安さであり、更に、品揃えが、豊富で、驚いた。
私は、二食分を食べた。

その日は、それで、終わり。
翌日に、旅行代理店のある、ロビンソンデパートに、出向いた。

その時、道端で、寝ている、二人の男の子、ストリートチルドレンを見た。
私は、後で、彼らのために、衣服を持ってこようと、思った。

急ぎ、ネグロス島の、チケットを予約する。
その時、私は、ネグロス島の空港は、バコロド空港のみと、思い込んでいた。
その空港は、2008年に、日本の円借款により、建設されたものである。

ところが、その旅行代理店では、バコロド行きのチケットを、扱っていないのである。だが、それに気づかない。
兎に角、ネグロス島一本やりである。

6日に、行き、9日に、戻る。
そうして、予約した、チケットの内容に、気づいたのは、後のことである。

トゥマゲッティという言葉を、何度か、聞いたが、それが、空港のこととは、理解しなかった。
よく解らない英語だと思い、オッケーを繰り返していた。

さて、急ぎ、ホテルに戻り、男の子の、衣服を持参して、また、ロビンソンに、戻ろうとした。
ところが、通りを歩く、目の前を、五人のストリートチルドレンが、現れた。

そこで、すぐに、手渡すことにした。
彼らは、見つけた時でなければ、渡せないのである。

とても、喜んだ。
二人の少年の、ズボンは、破けて、一人は、チンチンが見え、もう一人は、尻の半分が見えた。

ところが、二人分として、持参したので、足りない。
そこで、彼らに、ここで待っていなさいと、言い、再び、ホテルに戻り、バッグに、多くを詰めて、戻った。

歓声を上げて、喜ぶ。
年は、見た目、八歳から、十歳程度である。だが、栄養不足で、見た目より、年齢が高い場合がある。

一通り、衣服を渡すと、少年の一人が、腹が空いていると言う。
そこで、じゃあ、何か食べ物をと、思った。
すると、また、少年が、すぐ近くに、食堂があるという。

そこに、行くことにした。

地元の人たちの、食堂である。
彼らを連れた、私たちを、食堂の、若い女性が、怪訝な顔をして、見る。

私は、ライスと、おかずを、選んで、彼らに、食べさせるように、言う。
すると、少年たちも、あれが食べたい、これが食べたいと、指定する。

私は、スープも注文した。
ところが、本当に、スープだけを、盛り付ける。
すると、一人の少年が、早口で、女性に言うと、スープに、肉の塊を入れた。

肉を入れてくれと、言ったのだろう。
言った者、勝ちである。

そして、清算をすると、全部で、125ペソ、250円である。
実に、安い。

コータが、彼らの写真を撮ると、皆、一人一人、ご飯を持ったところを、撮って欲しいと言う。
そんなところが、子供らしい。

そして、私たちは、ホテルに戻った。
しばらくして、あっと、気づいた。
私は、ロビンソンの傍の道端で、寝ていた、男の子に、衣服を渡すはずだったと・・・

そして、再度、二人分の、衣服を持って、出掛けた。
しかし、一人は、いなくなっていた。更に、もう一人の少年は、起きる気配がない。

彼の、頭の横に、食べ物が、置かれていた。
誰かが、置いたのであろう。
無理に、起こすのが、躊躇われた。

しばし、様子を見ていたが、全く起きないのである。

彼の横に、衣服を置いても、誰かが、取ってゆくこともあると、私は、諦めた。
そして、もう一度、後で、来てみようと、思った。

外に出ると、汗だくになる。
ペットボトルの水を、三本買って、ホテルに戻ることにした。

次に、街中の、ゲストハウスを探すことにした。
一泊、600ペソ、1200円の、ゲストハウスが見つかった。
私は、拙い英語で、予約した。
ホテルの予約は、すべて私がした。

それを聞いていた、コータが、完璧な英語と、褒める。
だが、通じる場合と、全く、通じない場合がある。

一番、がっかりしたのは、ネグロス島の、ホテルで、従業員と、英語で会話したときに、私は、日本語が出来ませんと、言われたときである。私の英語が、英語として、聞こえないということであった。
ジャパニーズイングリッシュだったのだ。




posted by 天山 at 00:00| あらっネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 291

マタイ福音書の、冒頭では、イエス・キリストの系図というものが、書かれる。

アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちとを、
ユダはタマルによってペレズとゼラとを・・・・

エッサイはダビデ王を生んだ。

イエスが、ダビデの、子孫であり、約束された、キリスト、メシアであることを、説得するのである。

聖書研究では、アブラハムの名を記したのは、神がアブラハムに約束された、全人類への祝福が、キリストによって、与えられたことを、示すと、いう。

ヤコブはマリアの夫ヨゼフを生んだ。
キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。

だから、イエスは、ユダヤ教の、完成者なのであると、言いたいのである。

しかし、イエスは、聖霊によって、身ごもったのであり、血統ではない、はず。
マリアの子であり、ヨゼフの子ではない。

マタイは、ダビデのすえである、ヨゼフが、妻マリアから生まれる子の、父としての資格を持つことによって、この子こそ約束された、メシアはダビデのすえから出るという、預言を成就するものでると、教える。
とは、聖書研究である。

血の関わりより、聖霊、つまり、神の意思の方が、強いのである。

あまりの、こじ付けに、唖然とする。

処女降誕は長々と書きつられた系図を無効にしてしまう。その意味においても、処女降誕の記事は不可解である。
聖書の読み方 北森嘉蔵

ところが、北森氏は、とんでもないことを、書く。
それこそ「連帯化」の真理にほかならない。連帯化は、一方ではAがBと一体化し内在化することであるが、しかし他方ではAはBから超越して他者性をもっていることを必要とする。処女降誕はその超越的他者性を示すのである。

系図によって人間と一体化した救い主イエス・キリストは、その系図とは無関係な処女降誕によって、人間から超越した他者であることを示すのである。

救いとは、罪びとから超越している聖なる神が、罪びとの世界に内在して罪びとと一体化することによって成り立つのである。

上記、勝手な言い分、勝手な解釈である。
全く、説得力がない。
超越的他者性・・・
詭弁である。

更に、その蒙昧は、続く。

もし罪びとと一体化するだけであるなら、それは罪びとを現状肯定することになってしまうであろう。救い主が罪びとから超越した聖なる存在であることによって、救いが罪びとの現状肯定に終わらず、その現状批判と現状変革とを伴うことになるのである。

これが、神学者である。
系図を取り上げた、マタイの解釈ではなく、希望的願望を、書き上げるという、愚である。

更に
はじめから罪びとと一体化しているだけの存在なら、救いと称しても、結局は「すねに傷持つ身同士」」で傷をなめ合っているようなことになるにすぎない。
と、なる。

この人は、自分が、矛盾しているとは、全く考えていない。
イエス・キリストが、メシアであるという、前提に立ち、解釈するからである。
つまり、信じている。
信じているから、とんでもない、飛躍したことも、平然として、書く。

イエスの、系図の解説を、淡々とするというならば、解る。しかし、そこに、すでに、イエスを、メシアであると、信じることが、前提にあるから、全く、説得力がない。

イエス在世当時の、律法学者と、変わらない。
今、イエスが、目の前に現れると、偽者だと、弾圧するであろうことは、難くない。

責任を負うのは、相手の現状に対する批判と変革とを伴う。この批判と変革は、相手からの超越性によってのみ成り立つ。完全に内在化してしまえば、相手を批判することも変革することもなくなる。
北森

通常の、問題を解決する、手立てとしてならば、それを受け入れられるが、イエスが、メシアだということの、解釈とすれば、受け入れることは、出来ない。

キリストは罪びとの責任を負って十字架の刑罰をうけ、罪びとをその刑罰から救い出す。それは完全な救いであって、人間のがわでのいかなる条件をも要求しない。無条件の救いである。それが系図の中にふくまれるメッセージである。
北森

ここでは、人間を、罪びとであるとする、前提がある。
人間は、罪びとなのである。

しかし、そのキリストは本来的に罪びとであるのではなく、罪から超越した聖なる存在であるままで、罪びとと連帯化するのである。この超越性が処女降誕の中にふくまれるメッセージである。
北森

メシアとして、作られてゆく、イエスであるということだ。

処女降誕を信じることが、クリスチャンの、まず最初の試み。

ユダヤ教の、背景を、見回して、イエスの存在が、アブラハムから、ダビデにつながる、系図の上にある存在を言い、それが、旧約に約束された、メシアであるという、段取りを、マタイ教団は、その、権威と共に、書き上げなければならなかった。

イエスを、メシアとして、作らなければならない、使命があった。

処女降誕だけでも、十分に、説得力があるものだが、ユダヤ教、ユダユ人を、意識しての、記述である。

信仰宣言は、我は全能の神を信じ、乙女マリアから生まれ、死から甦る、主イエスを、信じます、である。

最低限の、それは、信仰宣言である。
が、二千年前の人には、通ずるが、今は、無理である。

神話として、生きているというならば、それもまた、善しであるが、それが、事実であるというのは、あまりにも、無理がある。

それは、完全な救いであって・・・
何を根拠に、完全な、救いというのか。

まさに、妄想というしかない。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天皇陛下について 33

これは、重大なことである。
東京裁判を、開廷した、マッカーサーが、日本は安全保障の必要により、戦争をはじめた。
大東亜戦争は、自存自衛の戦争だった。
そして、東京裁判は、間違いだったというのである。

なのに、何故、今まで、侵略戦争だと、金切り声を上げて、日本人が、言うのか・・・
更に、である。

今では、大東亜戦争を、侵略戦争であるというのは、日本人と、韓国人と、中国人である。
韓国、中国は、真っ当に歴史というものを、学ばないし、検証もしない。答えを先に造り上げ、それに、沿って、歴史を創作するのである。
話にならない。

この、マッカーサーの証言の翌年、1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効して、日本は、独立国として、復帰する。

アメリカは、安全保障条約の同時締結と、東京裁判の堅守を要求する。

条約第十一項に、
日本国は、極東軍事裁判所・・・裁判を受諾し
とある。
しかし、この、裁判という、訳は、誤りで、判決である。
これは、日本の官僚の作為ある、訳である。
これでは、裁判すべてを、受諾するという意味になる。

官僚の中には、売国奴がいるということ。
忘れるな。

マッカーサーの、証言を、日本国民に知らせず、侵略戦争であると、喧伝する、政治家、官僚、そして、政府・・・
それにより、日本は、巨額の賠償金を、支払う。
ここだ。ここに、問題がある。

侵略戦争でなければ、賠償金を、支払う義務はない。

この、賠償金の行方である。
おおよそは、知る。
しかし、その賠償金が、途中搾取されているとしたら・・・
私は、彼らが、それを、途中で、搾取するために、侵略戦争であると、国民に信じ込ませたと、思う。

賠償金を、払うから、後で、いくらか、こちらに、回せと、言える。
そして、そういう、政治家、官僚が、必ず居る。

中国に、支払った金額は、富士山を超える以上の巨額な、金額である。
それで、彼らは、軍事大国になるべく、邁進した。

更に、今の、今でも、韓国、北朝鮮に、戦後保障が、されていないと、言われる。
実に、おかしな話である。
保障は済んでいるのに、まだ、寄越せという。

彼らが、おかしいと、思っていたが、それを、言わせる、日本政府と、それらの政治家に、私は、疑念を抱く。
日本国民より、あちらの、国民の機嫌を取りたい、政治家がいるのである。

何故か。

歴史は、必ず、暴かれる。
時間が、解決する。

さて、その、マッカーサーだが、日本占領で、為したことは、甚だしく、日本精神を、崩壊させるものだった。

それを、俯瞰すれば、欧米の思想というものが、手に取るように、解る。
要するに、理解できないものが無いということを、知らない。

マッカーサーは、日本の神道を、キリスト教のように、考えることしか、出来なかった。
日本の精神的支柱に、神道があると、思い込んだ。

彼らの、一神教は、戦う宗教である。
しかし、日本の神道は、平和の宗教である。

儒教、道教、そして、今では定着した、仏教を、すんなりと、受け入れた。

ホント、マッカーサーが、馬鹿だと、思うのは、神社の焼き払いを、計画したことである。

日本人は、神社などなくても、神道の心は、失わないことを、知らない。
本来は、建物を、置かないのが、神道であり、それは、所作の問題であることも、知らなかった。

勿論、知らなくていい。
彼は、軍人である。
文化人類学者ではない。

だが、占領軍の、日本解体の計画を見れば、欧米の人の、精神というものが、透けて見えるのである。

実に、軽薄短小である。

体と、性器は、大きいが、軽薄短小・・・・

大きすぎて、頭の方は、隙間だらけである。

さて、マッカーサーは、神社焼き討ち、を、計画して、駐日ローマ法王庁代表、バチカン公使代理のフルーノ・ビッテル神父に、意見を聞いた。

神父は言う。
自然の法に基づいて考えると、いかなる国家もその国家のために死んだ人々に対して、敬意を払う権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。無名戦士の墓を想起すれば、以上のことは、自然に理解できるはずです。

更に、続けて
もし、靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は、アメリカの歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残るであろう。歴史はそのような行為を理解しないに違いない。はっきりいって、靖国神社を焼却することは、アメリカの占領政策と相容れない犯罪行為である。

そして、神父は、
われわれは信仰の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰する者であろうと、国家のために死んだ者は、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを、進言するものである。

神父の言葉が、マッカーサーの、アホになるような、行為を止めた。
神父に、尋ねなければ、そんなことも、解らないのである。

カトリックの、したたかさである。
その国の、伝統を守り、その伝統を、有効に利用して、布教をする。
馬鹿な、プロテスタントの、ヒステリーのような、布教はしないのである。

つまり、カトリックは、伝統を、理解できる、伝統があるからである。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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