2010年09月28日

天皇陛下について54

白人主義、そして、独善的な、キリスト教の野蛮極まりない、侵略、強奪の歴史を、俯瞰した。

それは、すべて、差別観念から、発している。
その差別観念の、思想云々を、論じる暇は無い。

これは、天皇陛下につい、であり、その歴史と、伝統、更に、古代史までも、網羅したいと、考えている。

だが、そのためにも、歴史を俯瞰しておかなければ、ならない。

天皇による、天皇ための、天皇の歴史は、日本には、無い。
天皇の、まつりごと、は、そのまま、奉りであり、政である。
そして、政に関しては、国民に委託しているのである。

平安期までの、貴族政治から、鎌倉に始まる、武家政治。それは、江戸時代までに至る。

そして、明治。
それは、最小限の、血によって、成し遂げようとした、坂本竜馬などの、活躍があってのこと。

その、眼目が、大政奉還である。
一度、政を、天皇に返上しよう。
そこで、新たに、新しい政治を、行う、刷新する、創り上げよう。

尊皇攘夷の、薩長同盟が、勝ちを収める。
しかし、薩長同盟の、延長によって、政治は、成ったのではない。
敵、味方を超えた、政治への、登用を見れば、解る。

勿論、人情の通じる、派閥などは、あったであろう。
それは、当然のこと。

それより、何より、日本のことである。

日本を、欧米の侵略から守り、独立国として、国際社会に立つという、気概である。

明治の、富国強兵は、何より、それが、目的だった。
自衛の、道である。

それを、侵略の第一歩と、考えるのは、左翼思想の持ち主である。
左翼だけでは、飛べない。
勿論、右翼だけでも、飛べない。
全体主義に、陥らないように、左翼も、右翼も、必要である。

更に、日本には、左右の関係は、伝統として、は、無いものである。

日本には、上下の思想があるのみ。

上、かみ、天皇であり、下、しもは、国民である。

どこかの国の議会で、右に座った者、左に座った者、から、その語源が出来たが、日本には、上下の関係のみである。

ただし、天皇、上の席は、決して、国民と、対立して、座するものではない。
天皇は、国民に対して、横向きに、座す。
なんとなれば、国民が、対座するのは、祖霊であり、その祖霊に対して、言葉を述べるのは、天皇の、お仕事であるから、天皇は、横向きに、座すのである。

ただし、天皇から、直接、お言葉を、いただく際は、向かい合うのである。

なんとならば、天皇は、祖霊を代表して、お言葉を、述べられるからである。
天皇の、お言葉は、祖霊の意思として、受け取られる。

それは、皇祖皇宗の、お言葉でもある。

更に、神の代理人の、ローマ法王のようではない。

天皇は、国民の側に立つお立場である。

国民の、願いを、受けて、皇祖皇宗に、対するのである。

更に、そのお言葉は、言霊に、なりあそばし、国民の、安泰と、幸せをもたらす、お言葉の、数々になる。

弥栄を、祈られるお言葉が、言霊になられる。

万葉集、舒明天皇の、国誉めの歌が、その例である。
そのように、あれかし・・・

昭和天皇の、希望します、も、その例である。

今上天皇は、願います、と、仰せられる。

そのように、なれかし・・・
国の、上、かみに、在る者、には、それ以外の言葉は、出ないのである。

大き久しき広き厚き大愛を蒙りて
おほき ひさしき ひろき あつき おほむうつくしみを かかふりて

祖霊の心である。
天皇、すめらみこと、の、心である。

統めら御言
統べる、とは、統治するという意味ではなく、大和言葉では、平らけく安らかに、あれという意味であり、それを、祈る、上の人が、天皇なのである。

更に、言わせて貰えば、君主というのは、世界的認識であるから、天皇は、君主であらせられるが、単なる、君主ではないことは、確かである。
その、歴史と、伝統を有する、天皇は、世界に二人と、いない。

何故、共産国などの人々からも、慕われるのかを、考えれば解る。
その歴史と伝統なのである。

作れといっても、作れないものなのである。
建国から、2671年という、歴史は、はい、それではと、作られないのである。

賢そうなアホたちは、天皇を論ずるが、アホは、矢張りアホ。
大和言葉も知らず、更には、大和朝廷以前の、歴史を、認められないアホが、何を言えるのか。

縄文期の文化が、優れていたということ。
それぞれの時代に、それぞれの、文化というものが、あった。
原始時代・・・
それは、何百万年前のこと。

この辺で、止めておく。



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2010年09月29日

天皇陛下について55

1894年、日清戦争勃発。

アヘン戦争で、完璧なままで、敗北した、清は、軍事的に弱く、西欧列強に、めためたにされるのが、目に見えていた。

イギリスは、アヘンを清に、売りつけて、膨大な資金を得ていた。
そこで、起こった、イギリスへの、戦争である。

上海では、今でも、バンドと呼ばれる、地区があり、イギリス統治時代の、そのままである。
イギリスに徹底的に、負けたせいか、現在の中国も、イギリスには、頭が上がらないという、逆説である。

さて、清は、属領と見なしていた、朝鮮半島の、併合を企てる。
清の、朝鮮出兵は、朝鮮南部の農民暴動「東学党の乱」である。

東学党は、西洋のキリスト教に反対する、宗教、東学を信仰する集団で、外国人と、腐敗した、役人を追放するための、暴動である。

当時、日本と清の間には、朝鮮半島を巡り、微妙な関係が生じていた。

日本は、開国した朝鮮の近代化を、援助すべく、軍政改革を推進させた。
朝鮮が、西欧列強の支配に、屈しない自衛力のある、近代国家になるべく、日本は、援助したのである。それは、また、日本の、重要なテーマでもあった。

日本の、安全保障の上で、朝鮮半島は、重要課題であったのだ。

もし、朝鮮半島が、西欧列強の支配に入れば、日本攻撃の、基地となる。

しかし、朝鮮の、宗主国を自任する、清にとっては、日本の影響力が強まることを、恐れる。

1881年、軍政改革に取り残された、朝鮮の一部軍人の、暴動が発生する。
これに乗じた、清は、数千人の軍隊を派遣して、暴動を鎮圧する。

その二年後、明治維新にならって、近代化を計ろうとした、金玉均、キンオクキュン、らが、クーデターを起こそうとする。
この時も、清は、軍隊を派遣する。
そして、親日派を排除しようとした。

日清の確執は、いよいよと、深まる。
そして、1886年、親善を名目にした、清は、購入したばかりの、軍艦「定遠」からなる、北洋艦隊を、長崎に入港させ、日本を威嚇する。

そこで、清の出兵に危惧を抱いた日本は、半島に、軍隊を派遣し、ここにおいて、日清の激突が、起こるのである。
日清戦争の、始まりである。

当時の、国際社会は、日本は、太刀打ちできないと、考えていた。

しかし、予想に反して、日本は、連勝連戦である。
わずか、一年で、清を破り、下関条約が締結された。

明治は、欧米の侵略から、国を守るために、呻吟し、苦悶を重ねた時期である。
そして、懸命に、西洋から学び、防備を固めたのである。

国を守るという、気概のある時代である。

明治政府は、大国清が、何故、西欧に蹂躙されたかを、考え、それは、科挙により、極端な、文民統治を行っていたこと。
中国の古典に精通している、エリートが、君臨して、武力に、関心を払わなかったゆえであると、結論した。

更に、朝鮮半島も、その文明を長い間、無条件に取り入れて、小中華主義に、陥っていたのである。
日本は、武力なき、中国、朝鮮は、このままでは、あえなく、西欧にやられてしまうと、考えたのである。

そこで、明治政府は、富国強兵を持って、国家の目的とした。
軍事力を、蓄えて、西欧列強の侵略に備えたのである。

実に、正しい、先見の明である。

しかし、西欧は、日本開国に対して、日本に、侵略の手を伸ばしていた。
江戸幕府は、開国にあたり、欧米列強から、飲まされた、条項がある。

一つは、プロシア、ドイツが要求した、北海道七重村の租借、二つ目は、アメリカによる、東京と、横浜の鉄道敷設、三番目は、イギリスと、フランスの、横浜への、軍隊駐屯である。

アメリカの場合は、東京と横浜間の、鉄道敷設では、駅、路線の周辺は、治外法権にするとあり、明らかに、植民地化しようとする、意欲である。

ドイツの租借、更に、イギリス、フランスの、横浜の軍隊駐屯は、自国の軍隊を配備するのであるから、すなわち、植民地支配である。

もし、徳川時代が、続けば、確実に、日本は、植民地にされていたのである。

明治政府になり、それらを、白紙にしたのである。

江戸時代の、後半は、イギリスの植民地だったという人も、いる。

明治は、このような、西欧列強の、包囲網にあった、時代なのである。

日清戦争は、そういう意味でも、原因は、西欧のアジア侵略にあると、いえる。

この、わずかな、差を見逃してはならない。
あのまま、国内紛争が、続いていれば、日本は、西欧列強に、食い物にされていたのである。

大政奉還が、いかに、大切なことだったか。

更に、被害の拡大を抑止したのは、天皇、王氏に逆らうことは、子々孫々まで、末代の恥であるという、感性である。

錦の御旗の元では、剣を収める。
最後まで、戦った、会津藩も、その言葉で、降伏を申し出た。
会津藩士は、城を枕に、討ち死にと気勢を、上げたが、藩士以下、家族全員が、死んでは、日本にとって、大損害だった。

会津藩士から、多くの偉人が、出ている。

ここで、日本の伝統である、天皇の存在が、いかに、大きく、そして、国を救うことになったかということ。

全く対立する意見を、治める時の、方法を、日本人は、知恵として、天皇の存在の下では、陛下の、お言葉に従うという、伝統である。

勿論、明治維新には、様々な、思惑があった。
正邪共に、あった。
しかし、結局、王氏、天皇の、御名により、江戸幕府は、身を引き、新しい時代を、創設することが、出来たのである。

国が乱れた時こそ、天皇陛下の、お言葉が、必要になる。
そして、国難を乗り越えるのである。

日本の伝統は、知恵なのである。
国家という、幻想を、支えることの出来る、存在、そして、神話が必要なのである。

昔、父親が、家の柱であり、家族の意見が、乱れた時には、家長である、父親の言葉に、従う。
それが、伝統であり、知恵だった。

建前というものを、置かなければ、前に進まないのである。
平たく言えば、ルールである。

その、ルールを、日本は、2671年、有しているという、奇跡である。

それを、日本辺境論、として、著したのが、内田樹、である。
彼の、その論調を少し、紹介したい。

2010年の、新書大賞に、輝いたという。
あまりに、饒舌で、人を引き込むが、ある面から、見ると、よく、書けている評論である。
新しい、反日という人もいる。
日本では、日本人が、反日的言動をしても、許される。

それは、言論の自由を、認めるということ。
素晴らしい、国である。

私のような、チンケな者でさえ、天皇陛下を、論じられるのである。
この自由を、守りたい。
そして、守るべきである。

天皇陛下とは、国民の声に、耳を傾ける、国唯一の、公人なのである。
決して、それを、遠ざけることは、しない。

その存在も、また、素晴らしい。
日本民族の、知恵の、結集が、天皇陛下で、あらせられる。


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2010年09月30日

天皇陛下について56

ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意思に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以降「辺境人」と呼ぼうと思います。
日本辺境論 内田 樹

そして、辺境人の、定義をする。
辺境とは、中華の対概念であると、言う。

世界の中心の「中華皇帝」が存在する。そこから「王化」の光があまねく四方に広がる。
内田

要するに、その概念は、歴史的に、
日本列島は少なくとも中華皇帝からは久しく朝貢国と見なされていました。朝貢国は皇帝に対して臣下の礼をとり、その代償に「国王」は冊封される。朝貢国は朝鮮、ベトナム、ルソン島、シャム、ビルマ、パレンパンまで広く東アジア、東南アジア全域に拡がってしました。
内田

日本列島の住民たちが彼らを「東夷」と格付けするこの宇宙観に同意署名したのは今から千八百年ほど前のことです、列島の一人の王が実効支配しているという事実について公的認知を中華皇帝に求めました。そして、皇帝から蕃地の自治領の支配者の封爵を授かりました。それが卑弥呼と呼ばれる女王です。
内田

ここで、日本列島における民族意識の発生について私たちがとりあえず言えることは、この地に最初の政治単位が出現したその起点において、その支配者はおのれを極東の蕃地を実効支配している諸侯の一人として認識していたということです。列島の政治意識は辺境人としての自意識から出発したということです。
内田。

これは、非常に説得力がありそうだが、内田氏の、一つの考え方である。

そして、聖徳太子の隋の煬帝に出した、親書について、それを象徴するという。

聖徳太子は、対等外交を目指した。
ところが、その親書を見た、隋の人たちは、激怒した。最も、激怒したのは、煬帝である。二度と、そんなものを、見せるなと、言った。

そこで、内田氏は、
私はいささか危険な思弁を弄したいと思うのですが、これは先方が採用している外交プロトコルを知らないふりをしたという、かなり高度な外交術ではないかと思うのです。というのも、先方が採用しているルールを知らないふりをして、「実だけは取る」というのは、日本人がその後も採用し続けてきた、今日に至る伝統的な外交戦略だったからです。
内田

と、一つの考え方である。

相手を激怒された親書を持参したのは、小野妹子である。
だが、小野妹子が、帰国する際に、あちらの、政治家が、同行してきたのである。
ハイセイセイ以下、数名の政治家たちである。つまり、煬帝の家臣たちである。

更に、その時に、彼らと、対面したのは、推古天皇ではなく、聖徳太子である。
日本の帝として、である。
更に、彼らは、一度目では、会えなかった。
二度目にして、聖徳太子と、対面する。
それを、指示したのは、小野妹子である。
あくまでも、対等外交を推し進めた。

そして、彼らが、帰国する際に、小野妹子は、再度、隋に同行している。

その、何故かは、私の解釈では、当時、煬帝が、高句麗攻めを行っていて、日本にも、援助をと、考えていたからと、私は、思う。

知らないふりをして、実だけを取る、というのは、今日に至る、伝統的な外交戦略と、内田氏は、言う。
それも、一理ある。

私が、興味を惹かれたのは、内田氏の、戦争の際の日本の対処の仕方を、論じているところである。

例えば、明治維新後、新政府は対馬藩主を介して、李氏朝鮮に政体の変換について告知の文章を送りましたが、これに朝鮮は返信しませんでした。文言が間違っているという理由で無視したのです。「本邦、頃、時勢一変、政権一ニ皇帝に帰ス」という文中の「皇帝」が非礼である、と。李氏朝鮮は太祖李成桂以来五世紀にわたって明、清の冊封を受け、みずからを「小中華」「東方礼儀ノ国」と自称するほどに華夷秩序を内面化していた国です。彼からすれば、「皇」は清国皇帝以外に存在しない。なぜ朝鮮半島よりさらに辺境の蕃地の支配者が「天皇」などという称号を名乗ることができるのか、彼らには信じられない非礼と映ったのでした。
内田

それは、内田氏も、同じである。

何故、日本という、中華と、外れた、東の島国の主を、天皇と、呼ぶのか・・・
これが、日本人の気概だとは、考えないのである。

何をやっても日本人がやることは無知ゆえに間違っている。これは華夷秩序イデオロギーが導く自明の結論です。そして、日本人の側もそういうふうに自分たちが見られているということを知っていた。
内田

「知らないふり」をすることで、こちらの都合に合わせて好きなことをすることができる。これを辺境ならではのメリットとみなすことが可能です。
内田

文明化の、進んだ、中華に対して、そこが、中心で、そこから、遠のくと、辺境なので、辺境人と、日本人を、定義して、内田氏は、書く。

否定は、しないが、別な見方もあるということを、言う。

とても、饒舌で、読んでいて、楽しいし、別の見方からの、日本人というものを、見せてくれるので、それも楽しい。
しかし、それ、一辺倒ではないのである。
日本が、中心であると、考えてもいいのである。

今の、韓国などは、世界の中心である、歴史も、韓国から、始まったと、叫んでいる。
過去、中国の朝貢国だとは、決して言わない。

更に、中国は、朝鮮半島も、わが国の領土であると、平然として、言う時期がくる。

更に、内田氏は、司馬遼太郎氏の、書いたものを掲げている。
李氏朝鮮は、平俗にいえば、中国に在す皇帝をもって本家とし、朝鮮王は分家であるという礼をとった。地理的には蕃であっても、思想的には儒教であるため、大いなる華の一部をなすという考え方だった。
それだけに朝鮮儒教では華夷の差を立てることは過敏だった。当然ながら、この「理」によって日本は蕃国であらねばならない。ただ朝鮮という華に朝貢しに来ないのは、日本がそれだけ無知だったという形式論になる。
と、書いている。

当時の、状況から、そのようであったという、判断である。

辺境人という、その価値判断は、あくまでも、中国を中心とした、歴史観が、主体であるというもの。

私は、素直に、それを、受け入れることは、できない。

だが、書いている、中身は、面白いので、続ける。

posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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