2010年09月16日

天皇陛下について42

天皇裕仁の昭和史の、河原敏明は、天皇は、シンボル、象徴となり、君主ではなくなったと、書いている。

そこで、問題提起する。

天皇は君主でないという者が出てきた。しかし、憲法では天皇という文字を用いている。天皇とは君主ということである。君主というと、すぐ権力と結びつけて考える人があって、主権を掌握していれば君主、主権を喪えば君主ではないなどというけれども、これはその人の視野が狭く思想が浅いための誤解にすぎない。
天皇とは何か 里見岸雄

多く、共産主義に、かぶれたものが、そのように言うのを、聞いた。
勿論、共産主義といっても、本人が、切磋琢磨して、学んだものではない。
耳学問程度の、知識で、ものを言うのである。

更に、彼らは、言葉の意味を知らない者多く、話の仕様が無い場合も多い。

勿論、先祖の因縁が、悪いからである。
いや、遺伝子が、悪いのか・・・その方が、納得するだろう。

君主の本質は権力にあるのではなく、身分と地位とに存ずる。権力があれば誰でも君主であるとはいえまい。ナチス独逸におけるヒットラーは最高の権力者であり、しかも独裁者であったが、彼は決して君主ではない。単に独逸国民の一人に過ぎなかった。ヒットラーにも増して、否、東西古今のいかなる独裁者にも増して超絶対的主権者であり独裁者であったソ連のスターリンも、一個の国民以上の何者でもなかった。彼は君主といわれる身分があるものではなかったのである。
里見岸雄

要するに、君主といわれる者は、第一に、君主たる身分が、その本質であると、言うのだ。

それでは、身分とは、何か。

国民、あるいは、人民と、呼ばれる者、すなわち一般の人と区別して、特別の、しかも、ただ、一人の人である。
更には、その特別の人が、存在することが、国家構成上、必要であると、観念されているのでなければ、ならないのである。

また、この特定の一人は、単に人個人だけが特別なのではなく、その血統も特定の一統とされるから、国人中の一般国民がこれに代わりえないものとされるものでなければならない。
里見

身分の上に、国民と、区別されている存在。
それを、君主と、観念するものである。

国民が、最高栄誉の身分である、讃えるべき、お方が、君主なのである。

だが、私は言う。

天皇は、君主のみだけではない。
日本の天皇は、祭祀でもあり、君主より、更に、格式が高いのである。

ローマ法王は、祭祀であるが、君主ではない。

つまり、天皇は、ローマ法王より、身分、位が、高いのである。

その下には、国王が、いる。

そして、最大の、違いは、権力を持つものではないということ、である。
では、何を持つのか。

それは、権威である。

権威は、作られない。
権力は、作られる。
天皇は、作られないのである。

伝統と、権威を持つ、お方が、天皇である。

日本の場合、伝統とは、歌道である。
万葉集に、象徴される。
その、万葉集は、国民が、広く、自由に、読むことができる。
更に、多くの、和歌集である。

更に、日本の伝統とは、祖霊に対する、所作である。
それは、天皇が、最高権威者として、受け継いでいる。

それを、誰も、出来ることは、無い。
天皇のみが、出来る所作がある。
伝統である。

論より証拠で、法律たる皇室典範には、天皇の敬称は陛下とすると定めてあるが、陛下というのは、君主に対する尊称として国際的に使用される言葉である。また、日本と国交を回復した諸国家は、いずれも公の文書や言葉の上では必ず、天皇に対し、陛下の尊称を附している。天皇は君主でないなどというのは、日本人の中の愚かな者だけであって、そんな独断は、日本はいうまでもなく世界各国に通用しないのである。天皇は厳然たる日本国家の君主にまします。
里見

愚かな者とは、反日思想、共産主義者などの、者どもを言う。

どうして、彼らが、日本にいるのか、私は、今も、不思議でしょうがない。
共産国家は、まだ、少ないが、存在する。
そちらに、移住すると、良いと思うが、出て行かないのである。

出て行かないどころか、国家権力を嫌い、それを、また、有効に利用するという、精神が、理解不能である。

更に、学者たちで、ある。
頭がいいと、思っていたが、憲法には、象徴と、書いてあり、君主とは、書いていないと、小学生並みのことを、言う。

素人の、私の方が、まだ、少しは、賢いのかもしれない。

元首というのは、文字の起源としては君主を意味するのであるが、今日の用法では、国際法上、国家の全般の国際関係について、外部に対し、国家を代表する一国最高の地位に在る者を指す概念であって、君主国では君主が、共和国では大統領などがそれに該当する。
里見

これは、また、それぞれの、国の歴史によるものである。

それで、日本の歴史は、建国から、今年は、2670年である。
世界で、これほど、長い歴史を有する国があろうか。

中国四千年・・・
あれは、嘘。
中国共産党の歴史は、60年程度。
それまでの、歴史は、中国の歴史できはない。はっきりと、彼らは、それを否定している。否定して、今の、中国を作ったのである。

唯一、2600年以上の、歴史を有するのは、日本のみである。

その、歴史と、伝統の上に、天皇陛下という、存在がある。




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神仏は妄想である 305

私のお気に入りの明らかな矛盾は・・・・
イエスの「告別の説教」の場面に出てくる。これは、イエスが最後の晩餐に弟子たちに話して聞かせる最後の講話で、「ヨハネ」の十三章から十七章まで長々と続く。十三章三十六節では、ペトロがイエスに、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問う。数行後にトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と再び問う。それから数分後に、同じ食事の席で、イエスは弟子を激しく非難して、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のものに行こうとしているが、あなたがたはだれも、「どこへ行くのか」と尋ねない」と言う。イエスの記憶能力に問題があるのか、これらの章の下敷きになった出典が訳ありで、文脈がおかしな具合に断絶してしまったかのどちらかであろう。
アーマン

ところが、聖書解釈に、言わせると、その、矛盾が矛盾ではなくなるという、不思議である。

改めて、イエスが、弟子たちに、問いかける理由があると言う。
それほど、この部分が、重要であるとのこと。
弟子たちと、イエスの、意識の差が、あり過ぎるために、そのように、書いたのだと。

弟子たちは、この世での、行き先を、イエスは、死を通り、別な次元への、行き先を。

何とでも、言える。

このような、初歩的な、間違い、勘違いが、聖典とされると、許されるし、また、それに、大袈裟な講釈が、施される。

ヨハネの福音書は、他の、三つの、共観福音書とでは、質が違う。
弟子のヨハネが、書いたことになっている。
そして、イエスに最も愛された、弟子と、名乗る。
最後の晩餐の時も、一人イエスの胸に寄りかかっている。実に、意味深な関係である。

聖典とされると、絶対的、権威があり、その中の矛盾など、吹き飛ぶような、扱いを受ける。

この種の問題は、旧約聖書ではさらに顕著であり、しょっぱなから齟齬をきたしている。・・・
「創世記」一章の天地創造の記述は、二章のそれとは全然違う。言葉遣いや文体が違うということは、テキストをヘブライ語で読めば一目瞭然であり、神を指す呼び名も異なっているが、それだけではない。内容そのものが多くの点で食い違っているのだ。
一章に書かれている全ての出来事を時系列順に書き出して、二章についても同様のリストを作り、二つを比べてみてほしい。一章で書かれているように、動物は人間の前に造られたのか?二章で書かれているように、人間の後に造られたのか?植物は人間の前に造られたのか、それとも後に造られたのか?男は最初に造られた生物なのか?それとも最後に造られた生物なのか?女は男と一緒に造られたのか、別々に造られたのか?さらに、それぞれの記述自体にも意味の通らない箇所がある。
「創世記」一章で「光」が造られたのは天地創造の一日目なのに、太陽や月や星が四日目まで造られなかったのはどういうわけか?太陽や月や星が存在しないなら、光はどこから発せられたのか?太陽がなかったら、一章と二章の最初の三日間に「夜と昼」がどうして存在しえようか?
アーマン
私が、改行している。

これが、ほんの、手始めに過ぎないと、言う。

いかに、旧約聖書、新約聖書に、矛盾と、齟齬が多いかということである。

しかし、聖典となると、必ず、小理屈がつく。
甚だしいのは、神による、啓示と、霊感によって、書かれたという、恐ろしく蒙昧な、屁理屈である。
だから、矛盾があっても、いいのである。

更に、その矛盾にも、意味づけがされるという、不思議である。

聖書を細かく見ていくと、あまたの食い違いや矛盾の他にも問題があることが分かる。神や選民に似つかわしくないと思わざるを得ない価値観に基づいて書かれた箇所が、見受けられるのだ。神が都市の住民を無差別に殺戮するように命じるような存在だと、はたして私たちは考えることができるだろうか?
「ヨシュア記」六章で、神はイスラエルの兵士に、エリコの町を襲い、子どもを含む住民を皆殺しにするよう命じている。神が、選ばれし民がよからぬ影響を受けることを懸念したことについては、一応納得がいく。しかし、神はその目的のために、幼児や乳飲み子まで虐殺するなどという必要性を、本当に感じたのだろうか?一体彼らが邪悪さとどんな関わりがあったというのか?
アーマン
私が改行している。

旧約の神は、嫉妬と、怒り、殺人の神であることは、よくよく、知っていた。
虐殺、殺戮などは、朝飯前である。

いよいよ、キリスト教徒の中にも、その神の、命ずることが、おかしいと、気づき始めたのである。

随分と、年月を経たものである。

皆殺しの好きな、神である。
その名は、ヤハゥエという。

これは、インドの神々と、比べても、魔神の仲間であり、日本で言うと、荒ぶる神になるが、荒ぶる神も、皆殺しなどは、しない。

とんでもない、霊というしかない。

旧約聖書を、精読してゆくと、明らかに、この神なるものは、狂っている。また、化け物である。
神として、崇拝できるような、モノではない。

ところが、聖典であるとする、キリスト教は、兎に角、手間勝手な、屁理屈を持って、その神の行状を、肯定しようと、躍起になる。

このような、神を崇めていれば、人間の精神も、狂う。
だから、私は言う。
キリスト教徒の言う、霊性なるものは、まさしく、魔の神の、霊性を受ける。

こんな、物騒な、神を、我らが主として、崇めているのだから、世界に争いが絶えない。
ユダヤ、キリスト、イスラム教の、神である。

同じ神を、奉ずるものたちが、世界を、争いの、混乱に巻き込むということも、頷ける。

さて、果たして、この聖書研究の行くへは、どうなるのか。
私は、アーマンの、著作から、マタイに絞って、再度、マタイの福音書を、検証する。
そして、再度、聖書全体の、検証をする。

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2010年09月17日

神仏は妄想である 307

ここで、マタイに戻り、マタイ福音書が、如何なるものであるかを、検証する。

なぜイエスは奇跡を行うのだろうか?ほとんどの人は、彼が人びとを憐れみ、人びとを苦痛から解放してあげたかったからだと答えるだろう。事実、この答えは、共観福音書には当てはまる。しかし、それだけではない。共観福音書に出てくる奇跡は、待望の王国が、イエスの内部にすでに到来しつつあることを示唆しているのだ。

主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕われている人に開放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ・・・
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは言った。
ルカ四章

別の箇所で、洗礼者ヨハネの弟子がイエスの下にやって来て、イエスが終末期に出現する人なのか、それとも誰か別の人間が現れるのか聞いている。それに対し、イエスは次のように答えている。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞えない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」マタイ十一章。共観福音書のイエスは、神の国へ人びとをいざなう、永く待たれた人物として描かれている。
以上、アーマン

だが、そうであるにも、関わらず、共観福音書では、彼を信じない人々に、自分が何者であるかを示す、奇跡を行うことを、拒絶するのである。

マタイでは、何人かの、ユダヤ人指導者が、イエスに、先生、奇跡を見せてくださいと、要求するが、イエスは、断固たる口調で、
よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない
と、言う。
そして、ヨナが、大魚の腹の中で、三日三晩死んでいたように、人の子も、大地の中に、三日三晩いるだろうと、述べる。

旧約聖書の、ヨナの書にある、話しである。
アッシリアの首都ニネベに、神は預言者ヨナを、遣わす。しかし、ヨナは、神の命令に背く。そこで、彼は、海に投げ込まれ、大魚に飲み込まれて、三日後に吐き出される。
それ以上、神の命に背かず、ニネベに行き、神の教えを説いて、町の人々を、改宗させる。

イエスは、それと同じ状況を比較したのである。

イエスは、神に楯突く人々に、教えを説くが、彼らは、悔い改めようとしない。
しかし、イエスは、自分が聖なる、存在であることを、証明するために、奇跡を起こすことを、拒む。

マタイは、イエスが、三日三晩、死の眠りついて、再び、その姿を、現すという、復活を最重要テーマとして、福音書を書いている。

アーマンは、マタイの、一貫したテーマが、ここにあると言う。

「マタイ」では、イエスは自分の正体を明かす手段としてしるしを行わない。「マタイ」の中で、奇跡が奇跡と呼ばれ、しるしと呼ばれないのは、そのためである。奇跡は、それを必要とする人びとを助けるための力の発現であり、神の国がまもなく訪れることを示すためのものなのだ。
アーマン

ここで、マタイは、まもなく、神の国が、訪れることを、示すという。
だが、あれから、二千年を経ても、神の国は、訪れない。
まもなくとは、一億年程度のことか・・・

さて、ヨハネでは、全く違う。

ヨハネでは、イエスの行いは、奇跡ではなく、しるしとして、呼ばれて、更に、イエスが何者かを、証明する。
人々に、彼を信じさせるために、しるしが、行われるのだ。

目を惹くのは、イエスが、ユダヤ人指導者たちに、ヨナのしるし以外のしるしを見せることを拒む「マタイ」の物語が「ヨハネ」には全く見当たらないことである。しかし、なぜだろうか?ヨハネは、イエスがしるしを通して宣教活動を行ったと考えているのだ。「ヨハネ」には、荒野での三つの誘惑についての記述もない。これはどうしてだろうか?ヨハネにとって、奇跡的なしるしによってイエスがそのアイデンティティーを示すことは、決して悪魔の誘惑によるものではないのだ。これこそ、彼の聖なる仕事なのである。
アーマン

これで、十分に、それぞれの、福音書の、記述が、それぞれの、価値観によっているということが、解る。

そして、それは、統一されたものではない、ということ。

つまり、イエスという、人物が、いかなる者であるのかということが、不明なのである。

造られた、イエスなのである。
本物の、イエスは、どこにあるのか・・・
誰も、知らない。

マタイの、物語を解く鍵になるのは、宣教を始める前の、荒野での、悪魔の試みであると、アーマンは、言う。

最初の誘惑
四十日、断食をしていたイエスに、石をパンに変えよと、悪魔が言う。
イエスは、人はパンのみで生きるのではない。神の言葉によると、言う。

二つ目の誘惑は、イエスをユダヤ教の神殿に、連れてゆき、飛び降りろという。すると、天使が助けるだろうと。
この意味は、群集の中で、奇跡を見せて、真に神の子であることを、証明せよと、誘惑されている。
イエスは、言う。
あなたの神である主を、試みてはならない。

三つ目の誘惑は、悪魔を崇めれば、地上の王国を与えるという。
この世の支配である。
しかし、マタイは、イエスが、最後に、この世の支配者になるめことを、知っている。
しかし、そのためには、十字架で、死ぬこと。
この誘惑の意味は、受難など、受けなくていいというもの。

「マタイ」では、超自然的な現象を通して、イエスが自分の正体を立証する場面が、極めて厳格に除外されている一方で、「ヨハネ」では、イエスのアイデンティティーを証明することこそが、奇跡の眼目なのである。
アーマン

少し話は、それるが、エホバの証人などの、新興宗教が、この世は、悪魔が支配するという、その考え方は、マタイ的である。
悪魔を崇拝すれば、地上の支配する権利を有するのである。

カトリックから、プロテスタント、そして、キリスト教新興宗教に至るまで、この、矛盾した、聖書、福音書を、テキストとして、採用している。
更に、聖書主義などは、本当は、迷いに迷うはずであるが、堂々と、妄想全開で、勝手な解釈を平然として、行う。

そして、主イエスは、主なる神、ヤハゥエという、魔神に至るという・・・

聖書作家に、振り回されて、信仰も何も、あったものではない。

すると、敬虔なキリスト教徒、牧師、司祭たちは、言う。
それぞれが、それぞれで、イエスを、書いている。
それを、総合して、イエスという、神の子の、全貌が分かるのである。
嘘である。

それぞれが、別の次元と、価値観で、書いているのであり、改竄、また、改竄しているのである。

自分たちに、都合よく、書き改めている。

イエスキリストは、造られた、創作された、存在なのである。
それは、皆、妄想の産物なのである。

キリスト教の、霊性・・・などいうものは、全く無いものである。
その根拠が、全く無い。

霊性とすれば、自己暗示である。
聖人の中には、脱魂、という、状態もあったというが、あれは、ヒステリーである。


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神仏は妄想である 306

宗教に、入信するといことは、如何なることか。
それは、宗教の与える、神や仏を、信じて、奉るということである。
そして、その教義を受け入れる。
更に、自分の頭で、考えないようにする。

もう一つ、宗教に入信せずとも、それと、同じようになる人もいる。
何々主義者である。
更に、個人崇拝も、そうである。

一旦、信じてしまうと、思考が停止する。
勿論、本人は、考えての末の結論であると、思い込む。
しかし、信じる。任せるということが、心地よくなる。更に、物事の判断を、すべて、その教えや、主義に、帰結させる。

完全に、そうなると、人間は、知性を捨て、理性を捨てる。
勿論、最初から、そんなものが無い人も、いる。

大半が、宗教が何であるのかを、知らずに、近づき、果ては、信じて取り込まれる。
信じる者は、確実に騙される。

大きな、宗教ではなくても、小さな団体でも、所属する人は、その団体の教えに、偏狭になってゆく。

最も、恐ろしいのは、それを、他の人に、説いて、自分と、同じく信じさせようとすることである。

つまり、更に、罪を作るのである。

ある、法華経の講義に出ていた者が、私に、仏教批判を書くなと、言う。
その方法は、すでに、終わった方法である、云々・・・

その頭の悪い者は、一向に、自分が、洗脳されているとは、思わない。
更に悪いことは、それを、受け入れないと、本当に理解していないからだと、言う。
理解していないのは、自分の方であることに、気づかない。
そして、延々と、それの繰り返しをする。

本当に、救われない者に、なってしまう。

救われない。つまり、信じてしまう。信じると、救いは、無い。
人間が、進化して、生成発展してきたのは、考えてきたからである。
信仰は、それを、放棄させる。

そして、私のような、批判をする者を、破綻した論理という。

自分自身が、破綻していることを、知らない。
自分が、信じているものは、良いものである。
だから、あなたも、信じるべきだ、とは、あまりにも、破綻している。

歴史的・批判的聖書研究を、見ている。

復讐に燃える神についての記述は、一部のキリスト教徒が主張するように、旧約聖書にのみ書かれているわけではない。新約聖書の神でさえ、審判と怒りの神であることは、「ヨハネの黙示録」に親しんでいる読者なら知っていよう。燃えたぎる火の池が、神に従わなかった人々を待ち受けている。これは永遠に焼かれることを意味する。例えば二十年間といった一時だけ、神に背いた人々でさえ、永劫にわたって罰せられるという。たった二十年間の間違った生き方と引き換えに、二十兆年もの間、もがき苦しむのだ。しかもこれはほんの序の口に過ぎない。これが本当に神にふさわしい行いだと言えるだろうか?
アーマン

勿論、それは、聖書に書かれていることで、書いた人が、そのように、脅していると、いえる。
果たして、神に、相応しい行い・・・?
全く、神に相応しくないのである。

だから、私は言うのである。

どのようにでも、解釈できるのが、宗教の聖典であると。

牧師、司祭は、信者に、ありがたい・・・教えを、語り、信者を、気持ちよくさせる。
そして、その後では、神の裁きを説いて、信仰を捨てると、このように、神の裁きが下ると、脅すのである。

聖書には、あらゆることが、書かれていて、後で、どうにでも、理屈を付けられるようになっている。

聖書の読み方 北森嘉蔵
旧約における新約
それは、旧い契約が破られて、新しい契約によって回復されるということである。この点をきわめて明確に語っているのは、旧約聖書のエレミヤ書である。(したがって、そのかぎりではエレミヤ書はいちおう旧約に属してはいるが、実は旧約・新約を総括するような立場に立っているといえる)そこには次のように書かれている。―――主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトから導き出した日に立てたようなものではない。私は彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われるーーー

ここに書かれている「エジプトから導き出した日に立てたようなもの」というのは、モーセがイスラエル人をエジプトから脱出させた後、シナイ山において神から与えられた十戒のことである。

第一戒
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

すなわち、人間がただひとりのまことの神のみを愛して、貞潔を誓うことである。それは夫と妻の関係にもたとえられ。しかし、妻たるイスラエルは夫たる神を裏切って、他の神々を愛し求め、姦淫の罪を犯した。これによって、神は契約を破棄して、人間との関係を断とうとした。これが神の怒りである。

しかし今や、神は「新しい契約」を立てることによって、断絶した人間との関係を回復したのである。これが罪のゆるしである。

上記が、牧師や、司祭が、真顔で言う、嘘である。

イスラエル人と、人間全体を、勝手に結び付けている。
新約聖書と、旧約聖書の結びつきを語るが、少し、歴史的・批判的聖書研究をした者には、全く、説得力がない。

エジプトからの、脱出も、嘘だった。
十戒は、モーセが、イスラエル人と、神との契約であったもの。
全人類ではない。

面白いのは、他の神々を、愛し求めていると、他の神の存在を認めている。
つまり、神は、他にも、存在しているのである。

勿論、他の神というのは、偶像であると、断定する。

それを、神が、ヤハゥエが語るのではない。
書いているのは、人間である。

ルカ福音書の中で、イエスが、
モーセの律法と預言者と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する
と、言わせる。

ルカを名乗って、勝手に言うのである。

どこも、かしこも、嘘だらけである。


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天皇陛下について43

第一次大戦終了後及び第二次大戦修了後の各国の革命により、元首の語を使っていた国の憲法も改正され元首の語はほとんど世界各国からその影を没し去り、日本もその一つとなった。
里見岸雄

それでは、元首が、無くなったのかといえば、違う。

しかし、英国憲法に「国王は元首である」と書いてなくても、英国王は英国元首として、また、米国憲法に「大統領は国の元首である」と明規していなくても、米国大統領は米国の元首として、国際法上確認されているのである。現在では伊太利の1947年の共和国憲法が、その第87条に「共和国の大統領は国の元首であり且つ国民の統合を代表する」と規定しているのが、元首の文字を使っている憲法の唯一例となっている。
里見

元首と、書かれていなければ、元首が存在しないのではない。
英米仏独その他の、諸国は、日本も含めて、国家元首のない国となるとは、誰も考えないことである。

天皇は、憲法の定める通り、政治に関する機能を有しない。それ故、天皇が君主であり、元首であるということは、厳密には言えない。とは、へぼ学者が言うことである。

天皇の象徴とは、米国製の、規定であるが、それは、国内法上の地位であり、国際法では、象徴を、元首と区別し、認めているわけではない。

つまり、天皇は、象徴であるというのは、国内法であり、外国では、国交上、天皇を元首と認めて、対応している。
それは、敗戦後から、見ての通りである。

首相は、コロコロ代わろうが、天皇陛下のみは、不動の存在として、ある。
だから、天皇にお目通りすることを、海外の賓客は、求めるし、更に、喜ぶ。
また、日本国民も、それで、面目が立つ。

その、天皇の存在に、代わるものがあるだろうか。

更に、日本には、伝統として、上下の、関係がある。
上は、天皇であり、下は、国民である。

民主化、主権在民・・・
素晴らしい理想である。また、その理想を、取り入れた。
しかし、それは、それ、なのである。

日本民族の、知恵は、上、カミとして、天皇を戴くのである。

更に、理想なのは、天皇、昭和天皇自らが、主権在民を、民主化を、勧めた、求めたことである。

だから、こそ、多くの真っ当な国民感情は、天皇の存在意義を、十分に感じ取り、陛下として、崇敬するのである。

崇敬できないのは、先祖の因縁が悪い。いや、遺伝子が悪いのである。

革新的考え方を、持つといわれた、左派、左翼系の人たちは、そこが、分からない。
随分と、頭の悪いことである。

更に、ここで、天皇制廃止を、唱えた人たちが、敗戦後、日本にいたということである。

これも、天皇制という。
日本には、天皇制は、無い。

制度としての、天皇の存在は無い。

天皇の存在は、制度ではなく、自ずから成るものである。
民族の知恵だといった。

国民を、公宝、おほみたから、と、呼ぶ元首は、他国には、いない。
民ではない。
民は、公の、宝であると、高らかに、宣言した、すめらみこと、の、心は、国民をして、自ずから、成る存在として、天皇を擁立したのである。

便宜上、制度として、考えるのは、簡単でいい。
しかし、事実は、制度ではない。
制度とは、あらかじめ、その制度によるための、準備をして、制度として、機能するように、努力するのである。

それとは、異質である。

慣わし、であり、よすが、であり、拠り所、であり、祖霊に認められた、つまり、神意に認められた、存在であると、考えるのである。

ここで言う、神意とは、欧米の言う、神の意思ではない。
祖霊が、求めたものである。
日本は、祖霊を、神とする。

神は、カミ、カム、カマと、大和言葉からなる。

そもそも、天皇がその御一身をもって日本国を体現され、また国民の統合を体示なさるという性質、即ち象徴性は、憲法によってはじめて生ずるものではなく、遠いむかしから、いつの世にもあったものである。・・・

天皇が象徴であるということは、天皇の社会的機能であって、それは本来、社会的に存在する性質である。明治の憲法の下においても徳川時代においても、それより以前の時代においても、天皇はいつでも日本国の象徴であったのである。
里見

昔、人は、天皇を、天子様と、呼んだ、
天の子である。
その天を、象徴するもの、太陽を、祖霊と、見立てて、崇敬し、それに続く存在として、天子様を、頂いた。

敗戦後も、日拝といって、太陽を拝する行為が、あった。
もっとも、原始的で、いにしえを、思わせる、自然崇敬の形である。

そして、その先には、矢張り、日拝する、天皇の存在があった。
祖霊と、その子孫を、結ぶもの。
それが、天子様、天皇という、存在であった。

天皇は、いつの時代も、象徴であらせられた。
それを、別名、国体と、お呼びする。

日本国憲法が制定されたが、ゆえに、天皇が象徴とされたのではない。

事象の、徴ではない。
それは、国旗などの、日の丸のことである。

かむながらのみち、といわれる、人の道の、上にある、人格としての、存在。生身の人間が象徴なのである。

かむ ながら の みち
人が、より人になるための、ありうべく姿を、求める生き方である。

そして、日本人として、生まれた以上、現人神、ひととして、あらわれた、よりひととなるべき、生きるべき道を、生きるという、尊称として、それぞれを、そのように、観た。

ちなみに、天皇は、一人特別な存在として、現人御神、あらひとみかみ、と、お呼びする。

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2010年09月18日

天皇陛下について44

東大法学部教授、横田喜三郎
民主主義の徹底という点から見れば、日本の新憲法などは、まだまだ不十分であり、微温的というべきものである。ひとつの例をあげてみれば、天皇制を維持したこと、つまり君主制を保存したことがそうである。天皇が君主であることは、いうまでもない。しかし、君主の存在は、徹底した民主主義とは、あいいれないものである。君主は人民に対立するもので、人民に対して特別な地位に立ち、特別な身分を有し、また特別な権限を有する。しかも、君主は一般に世襲である。かように、特定の人が世襲によって特別な地位、身分、権利を有することは、民主主義の根本理念に反する・けだし、民主主義の根本理念は平等ということにある。いっさいの人が平等なものと認められ、平等な機会を与えられ、平等な権利と義務を有することにある。

という、当時の、アホの発言である。

東大法学部教授という、特権により、その権威により、国民を迷わせ、更に、今に至る、官僚の、売国的、働きを、推し進めた、人物である。

面白いのは、天皇を君主と、認めていることである。
象徴天皇を、君主と、認める。
正しい。

根本理念が、平等だとは、社会主義も、共産主義も、言うが、平等などないのは、歴史を見ての通り。
彼らの、作る、組織なるもの、不平等の巣である。
幹部になれば、組合員を、顎で使う。更に、組合貴族といわれる、一部の者たちの、行状は、更に激しい。

さて、この横田のいう、民主主義が、生まれた国は、イギリスである。
イギリスは、君主制の国。

君主制と、民主主義が、相反すると、主張するのだが、どこかに対する、迎合主義が、丸見えである。

この、横田という者が、いかに、悪人かということは、その後の、日本の世論を、その方向に、従わせたということ。
東大教授という、権威を持って、である。

つまり、戦前の日本の全否定。
その更生のために、武力を放棄し、天皇制を廃止する。
日本の過去、とくに、大東亜戦争では、日本だけが、全面的に、悪かった。
開国以来の、日本の近代史を、全面的に、否定した。

今でも、東大には、ロクな先生はいない。
特に、悪の巣は、法学部。

官僚の多くが、この横田の、思想を受け継いでいる。

自虐史観を、定着させた、功績は、大きい。

当時、GHQが、占領をはじめると、立身出世、自己保身のために、占領政策に、迎合する、学者が、多く出た。

おおよそ、先祖の因縁が悪く、下賎の出である。

彼は、日本人でないかのように、東京裁判の正当性を、訴えて、日本有罪論を展開する。

法学部国際法主任教授の肩書きで、
゛平和に対する罪 ゛は形式的な法の技術的な立場からすると、いくらの不備や弱点はあるが、実質的な法の精神的な立場からすると、やはり、゛戦争犯罪゛としての性質を有することがあきらかにされた。これを処罰することは、十分な理由がある。

上記は、ハーバード大学、グリュック教授の、受け売りである。

兎に角、時代の流れに乗り、我が世の春を、作りたかった。

この時期、東京裁判に対して、世界から、疑問の声が、多数上がる。
アメリカのメディアも、それを取り上げていた。

更に、横田は、あの、パール判事の、意見書の翻訳を担当したといわれる。
東京裁判の無効を訴えた、パール判事である。

だが、横田は、
いずれにしても、第二次世界大戦では、これを戦争犯罪とし、その責任者を実際に処罰した。これによって、重要な先例が作られ、平和に対する罪が戦争犯罪として成立したと考えられる。

と、まあ、知らない者の、代表の面目である。

先例が作られた、だから、平和に対する罪が・・・
これが、法学者とは、思えない、蒙昧。

軍国主義に、出世を、阻まれた、腹いせと、ある方が、断定する。
さも、ありなん。

今も、全共闘世代が、民主党の政権を担っているが、見ての通り。
未成熟なまま、年を重ねた、万年青年の、面影である。

世渡りのうまさから、何と、最高裁長官、そして、大勲章、文化勲章まで、頂く。
否定していたが、そんなことは、忘れての、受賞である。

兎に角、偉くなれば、いい。
兎に角、金を握れば、いいのであり、後のことは、知らない、のである。

東大法学部からは、このような、人間が、わんさと、生まれた。
今も、そうして生きている。

国にことなど、その後のことなど、一切、関係ないのである。
自分の、今さえ、良ければ、いいのである。

そして、死ぬ。
誰も、彼の死後の世界を、見ていないので、私が見る。

行き先が無く、浮遊している。
勲章をつけて、色々な場所に、浮遊する。
卑しい野心を、持つ者に、時に、憑依して、同じことを繰り返して、死の自覚無く、浮遊する。

実に、あはれに、卑しい、のである。

日本の言論を担うべきジャーナリズムを含めて知識人が混乱、狼狽の極みにある時に、このような人物が指導層を輩出する日本最高学府の教授であり、法曹界の権威であったところに日本の深刻な悲劇がありました。日本の伝統を否定する歴史観で日本人を戦後、マインドコントロールし、贖罪意識を植え付け、現世利益、その場限りの現実主義を定着させた横田の罪は誠に大きい。現在に至るまでその呪縛は解けていません。
歴史の真実 前野 徹


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神仏は妄想である 308

また、「偽りの誓いをしてはならない。誓ったことは主に対して果たさなければならない」と昔の人々に命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う、決して誓ってはならない。天にかけて誓ってもいけない。天は神の玉座だからである。地に誓ってもいけない。地は神の足台だからである。・・・
マタイ福音書

聖書研究では、
イエスは、誓いを一切、禁じたのではない。ただ、当時の人々が、やたらに、誓いを立てて、神を汚していたので、これを、厳しく禁じたのである。誓いは、すべて神の権威に関係がある。神の御前に、虚偽は、成り立たない。
と、ある。

何の説明にもなっていない。

これははっきりしていて、疑問をさしはさむ余地はない。一切誓うな、というのだから、一切誓うな、という意味であって、それ以上に説明する必要は全然ない。
田川建三

だが、田川氏は、続ける。
それにもかかわらず、キリスト教社会はいろいろな場面で「誓う」ことを強制してきた。どちらが正しいか、と問う前に、まず確かなこととして確認すべきは、この点でも、イエスとキリスト教は逆の方向を向いている、という事実である。

キリスト教社会、体制社会が、イエス・キリストの御名によって、誓い続けてきた。
矛盾。

その種の神学的な根拠づけは、誓うことを正しい行為としてまず前提し、その上でいろいろ詭弁を並べたてているにすぎないからである。我々が知るべきことは、何故彼らが、相変わらず「誓う」ことに固執してしまうのか、という根拠なのである。
田川

体制社会を、維持するために、その秩序を守ることを、被支配者に誓わせる必要がある。
誓いが、重要なのではない。
誓うことによって、人を秩序に縛り付けておくことが、必要なのである。

誓いという、形式が持つ、宗教的な権威だけで、人を縛り付けることに、十分だったからだ。

宗教的権威の影が薄れた現代社会においては、誓うことはまったく空虚な建前となっているのに、相変わらず人が誓いの形式を保存したがる理由はそこにある。
田川

アメリカ大統領は、聖書に手を置いて、誓う。
何をか。
神の意思を尊重し、国民のために、働く事を。

しかし、大統領が、神の意思で、国民のために、本当に働いたのか・・・
多くは、逆であろう。
実に、滑稽である。

キリスト教が洗礼式、結婚式などにおいて「誓い」をやらせるのは、今となっては、とりたててものを申し上げるほどの必要もない滑稽な矛盾、ということで話がすむかもしれない。それにしても、イエスの言葉にもかかわらず、二千年間こうした「誓い」の形式を護ってきた神経はたいしたものだ、と言わねばなるまい。キリスト教徒ならば誰でも、これはよく知っている矛盾なのである。それをこうして放置していられる、というのは、結局、イエスの「教え」などというものはキリスト教徒にとってそれほどむきになって取り組むつもりもないものであるからにすぎない。さびしい事実だが、事実にちがいない。
田川

イエスと、キリスト教は、別物である。
私も、そのように思う。
イエスの、教えなど、どうでもいいのである。
要するに、教会、あるいは、団体が、信者を騙して、いいように、支配するという目的のためである。

カトリック教会は、今でも、結婚の誓いをした者たちが、離婚した場合は、教会に入ることを、許さないが、そうすると、日本でも、アメリカでも、特に、キリスト教国では、カトリック教会の、信者は、大幅に減るだろう。

結婚も、七つの秘蹟と、呼ばれるうちの、大切な、儀式なのである。

誰の、策略か。
信者の寝室までに、入り込む、宗教家たちの、支配欲というしかない。

現在の、ローマ法王は、コンドームを否定して、フランスでは、大規模な、デモが起きた。

人間の欲望を支配するというのは、宗教の大罪であるが、それに気づかない、蒙昧な歴史を繰り返している。

その点では、イスラムは、男に対して、実に寛容さを示して、一夫多妻を、認めている。その代わり、女は、モノである。
男の所有物。
それは、旧約聖書からの、教えである。

女を、男の支配するモノとした、旧約聖書が、堂々と、この、平等社会を、目指す時代に、聖典とされていることに、疑問を差し挟まない、キリスト教徒である。

矛盾も、何もかも、信仰という、美名の元に、収めてしまう、宗教指導者たちである。
彼らは、確実に、地獄に落ちるだろう。本当に、地獄があれば・・・

それとも、化け物の、ヤハゥエの神の元に、集い、喜び合うのか。
いずれにせよ、真っ当な場所ではない。

イスラムは、ムハンマドが、多数の妻を得ていたから、それが、当たり前になったのか。
当時、人々は、ムハンマドを、女好きの、気の狂ったものとして、認識していた。
ところが、武力でムハンマドが勝つと、従わざるを得なかった。

今でも、イスラムは、基本的に、武力を好む。
教祖の、意識が、そのまま残る。

諸々の、キリスト教新興宗教は、どうか。
これらも、嘘八百の聖書解釈を、掲げて、信者を騙す。
それに加担するのが、頭脳明晰な人たちである。
勿論、大枚な金を得る。

とてもじゃないが、読むに耐えない、教義である。
信じなければ、成り立たないのである。
信じるから、成り立つという、愚昧。

メシア到来を、信じるユダヤ教から、イエスをメシアとする、キリスト教から、メシア、イエスの再臨を信じる教徒たち。
いずれも、救われない人々である。

どんなに、待てど暮らせど、イエスが、雲に乗って、やってくることは、無い。
まして、エホバの、千年王国などは、確実に無い。

あり得るのは、人間の進化による、神無き時代の、希望である。


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2010年09月19日

天皇陛下について45

敗戦後、悪の巣を作った、東大法学部教授、横田喜三郎の、世界国家論という、論文がある。

それには、戦前では、国際連盟、戦後は、国際連合を高く評価している。
世界が、一つの政府になることが、重要だという。
国家の否定。
世界は、国益で動いているという、当たり前のことを、知らない。

この横田の世界観は、日本人の国際政治を見る視座を狂わせただけではなく、国益無視の官僚を生んでしまいました。
前野 徹

国益無視の官僚を、生んだ・・・
そして、今でも、そのようである。

横田は、世界各国仲良くし、軍備は必要ない。日本の、アメリカ製憲法を、高く評価し、理想的な憲法であと、子どもの理想のようなことを、言う。
あの、イカレタ、ジュン・レノンの、薬物中毒の歌のような・・・

東大退官後、外務省の参与となり、対米従属路線を定着させる。

横田の教えを信奉した、教え子たちが、東大法学部を卒業して、官僚となり、国を動かす。
贖罪意識で、謝罪外交を繰り返し、金をばら撒く。
現実主義で、その場限りの、対応に、始終する。
自己保身と、既得権益最優先で、改革には、手をつけない。

アメリカにとっては、またとない、利用価値のある、人間だった。

アメリカは、占領後も、日本を支配下に置くため、用意周到に、システムを作り変える目的があり、日本が、未来永劫、白人、戦勝国、中国、韓国などに、刃向かうことのないような、永続的支配体制を、確立するという、役割である。

憲法も、然り、教育制度も、然り。
そして、最大に、活用しようとしたのが、官僚制度である。

アメリカの、占領政策の、基本は、天皇制の存続。
官僚機構の温存。
マスコミの飼い慣らし。
である。

官僚機構は、自分たちが、コントロールしやすいが、ため。
そして、官僚は、アメリカの意志通りに、動いた。

面白いのは、終戦の日という言葉である。
私は、一貫して、敗戦の日と、呼んでいる。

終戦の日という言葉も、アメリカの意図を汲んだ、官僚のもの。

終戦といえば、誰にも、責任は無い。
二度の、原爆投下、日本の百五十一の都市に行った、無差別空襲という、人類史上初の極悪非道な行為に対する、アメリカの責任も、問われない。

一般市民の攻撃は、国際法にも、違反している。

アメリカの、手先とも、なった、横田喜三郎という、名前は、官僚の腐敗、そして、アメリカ追従の徒として、覚えておくべきである。

更に、アメリカが、恐れたのが、原爆投下による、大量虐殺の罪。
一瞬にして、13万人も、焼き殺した。
後遺症によって、亡くなった方を、含めると、死者は、40万人。
ヒットラーの、ホロコーストに匹敵する、大虐殺である。

いずれ、それが、人道問題として、追求されることを、非常に恐れたアメリカは、綿密に、日本統治計画を練るのである。

更に、恐るべきは、日本という国家、日本人の精神の、徹底破壊。
唯一、白人に、刃向かった、有色人種である、日本人が、二度と、立ち向かえなくするべくの、作戦である。

日本が敗戦したことを、ニューヨークタイムズが、書いた。
この怪物は倒れはしたが、決して命を失っておらず、未だ非常に危険な存在だ。よってこの怪物の牙と骨を徹底的に抜き去り、解体しなければならない。この作業は戦争に勝つよりむずかしいかもしれないが、われわれアメリカのために、世界のためにも永久にでも、この作業を続けなければならない。

それは、アメリカを代表する、白人世界の、思いでもある。

何せ、日本敗戦後の、植民地の、独立運動、戦争で、白人世界は、叩きのめされたのである。すべて、日本が、きっかけだった。

人種差別・・・
それは、今も、そうである。
あわよくば、今も、白人は、色付き人間の国々を、植民地にしたいのである。

この、白人は、世界で、最も、好戦的で、いつの世も、戦いを続けていた。更に、色付き人間の、大量虐殺には、平然としているのである。

甚だしい、差別意識は、今も、存在する。

以前に書いたが、日本の解体は、35年ほど前、セオドア・ルーズベルトの、オレンジ計画からはじまり、フランクリン・ルーズベルトに引き継がれた。

フランクリン・ルーズベルトは、ハイドバーグの大統領私邸で、イギリスのロナルド・キャンベル駐アメリカ大使と会談し、その時、ルーズベルトから、「劣等アジア人種の品種改良」という、提案を受けたと、本国に宛てた、書簡を書き残している。

インド系、あるいはユーラシア系とアジア人種を、さらにヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく、という計画で、ただし、日本人は除外する。もとの島に隔離して衰えさせると、続けたのである。

歴史の事実が、明らかにされている。
それは、質と、次元が違う、レベルである。

天皇の戦争責任、云々と言っている、場合ではないのである。
戦争責任を、言うなら、アメリカであろう。
上記の、激しい、人種差別・・・・

日本が、国際連合で、人種差別撤回を、提案した時、絶対反対だったのが、議長国のアメリカだった。

日本を、戦争にまで、追い詰めたのは、アメリカである。
戦犯は、アメリカである。

原爆投下も、都市への、空襲にも、一度たりとも、謝罪していないのである。
つまり、謝罪する必要はないと、思っている。
その底には、白人主義がある。

その裏返しには、色付き人間が、とても、怖いのである。


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神仏は妄想である 神仏は妄想である 309

だからここで問題の中心となるのは、社会体制の秩序維持、ということである。従ってまた、「一切誓うな」という宣言は、誓いなどというのは空虚な形式なのだから、虚礼は廃止しましょう、などという程度の消極的な意味ではなく、むしろ、誓いの背後にかくれている社会体制の秩序維持に固執する頑強な力に対するはっきりした抵抗の宣言なのだ。またそうでないとすれば、「一切誓うな」というせりふ自体、空虚なおしゃべりとなる。このことは現代においてもなおあてはまる。まして古代においてそういうことを宣言するのは、ものすごいことなのだ。
田川建三

こうして見ると、イエスという、人間は、とても、反骨精神の強い人物である。
ユダヤ教支配の中にあって、明確に、ユダヤ教の、形式を批判している。

今、様々な、教会において、イエスのような、強烈な批判、反骨精神を持って、物を言う者がいるのか。

社会体制ではない。
教会体制に、物申す者である。

どこかで、教会が、方向転換を迫られる。
つまり、聖書の嘘が、ばれて、誰も信用しなくなる。

信仰深い人々は、騙され続けるが、時代は、どんどんと、事実を明確にしている。

兎に角、何でもいいから、信じたい・・・
人間には、何かを、拝むという、本能的なものがあるようである。

だから、宗教が廃れないのか・・・
とすると、結局、宗教という、蒙昧が、いつまでも、まかり通るのか。

安心立命。
人は、何かによって、それを、得たいと思う。

それで、知恵深いキリスト教会は、イエスのこの言葉を(ほかの言葉もそうだが)平気で無視し続けてきた。しかもその無視の仕方は巧みであって、イエスのこの言葉を、いやそれだけではなくイエスについての思い出を全体として、歴史の記録から抹殺してしまうというような露骨なまねはしない。それはそれで保存しておいて、自分たちはこういう「良心的」なせりふも知っているのだぞ、ということを示そうとする。
田川

マタイ福音書の、眼目は、ユダヤ教徒より、より良い、ユダヤ教の確立である。
それを、イエスの言葉を通して、行った。

田川氏の、批判的聖書研究を尊敬するが、マタイの意図を、読み取ることからすると、少々のズレが生ずる。

聖書の、ギリシャ語の解説は、必要であるが、その前に、マタイの意図したものは何か、である。

だが、語彙に関しての、分析は、十分に説得力がある。

ギリシャ語の、誓いという言葉、それを、翻訳した、言葉にも、誓いには、二つの概念があるという。

一つは、宣誓である。
法廷などで、宣誓する。宗教的な意味で、神に対する信仰の誓い。
そして、もう一つは、神かけて誓うという、約束するという意味での、誓いである。

日本語の場合の、誓いという意味も、曖昧である。

要するに、イエスは、いずれの意味でも、誓うな、というのである。

イエス以前のユダヤ教においても、安直に誓うということをいましめる言葉は多く見られる。神かけて誓う、といった類のせりふを濫発するのはいかにも安っぽくなるから、「教育的」な意識をもった教養人はそれをいましめようとするのである。
田川

そこで、
古代のマタイ学派はそのように単純に底が割れるような下手な細工はしない。福音記者マタイの背後に存在している、ないしマタイ自身もその一員であるマタイ学派は、この場合でもはっきりそうとわかるように、ユダヤ教律法学者的な意味でまことに優秀な知識人である。
田川

イエスの「一切誓うな」を何とかして彼らのユダヤ教的心性の中で理由づけようとして、次のような理屈を付け足したのである。
田川

天にかけて誓うな・・・神の玉座である・・・

また、それは、ユダヤ教にある、神の名を、みだりに口にするなという、教えからのものである。

そして、神の代わりに、天や、地という言葉も、駄目だというのである。
議論の根拠を、旧約聖書からの、引用によって、なすという、段取りは、マタイ学派が、いかに、ユダヤ教の知識人たちであったかということだ。

とすれば、イエスの、真意は、何だったのか。
とても、反骨精神の強い人物だと、私は、先に書いたが、イエスの言葉か、マタイ学派の言葉か、解らない。

イエスをダシにして、自分たちの言い分を主張したのか。

宗教の経典というものが、ある人や、ある人々によって、改竄されてゆく過程には、それを書くものたちの、思惑があるということが、明確に解る。

権威を、イエスや、仏陀に置いて、書き付けるものだから、後世の人たちは、迷う。

初期、仏典などより、後世に書かれた、大乗仏典を持って、仏教、仏法などという、輩がいるが、自分の思惑通りに、出来るものを、掲げるのみである。

そして、それが、正しいとなる。

嘘なのだが、それが、正しいと、言い張る。
その心には、何があるのか。

それは、支配欲である。
信じさせて、支配するという、人間の欲望の、高度なもの。

それと、為政者が結託すれば、上々である。


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2010年09月20日

天皇陛下について46

アメリカの、占領政策の、基本戦略に、分割して統治せよというものがある。

日本も、分割された。
サハリン、韓国、北朝鮮、台湾、沖縄である。
それらは、戦争中は、日本の領土だった。

アメリカは、それらを、分割して、お互いに、憎みあう関係を作る。
この戦略により、日本と韓国が、反目するように、仕向けた。

当時の、朝鮮独立運動家である、李承晩に、韓国政府を委ねた。
李は、日本海に、ラインを引いて、一方的に、領海を主張し、侵入した、日本漁船を拿捕して、抑留した。

更に、韓国では、反日教育を進めて、日本を目の仇にして、反日感情を煽る。

日本に対して、教科書を変えろ、靖国神社に詣でるなと、難癖をつければ、謝罪の他に、多額の金を取れることを、学習する。

この、朝鮮半島の緊張は、アメリカにとっても、貴重なもの。

韓国と北朝鮮が、統一し、日本との友好関係が、築かれ、経済的にも、深く結びつけば、東アジアが、巨大な経済・軍事ブロックとなり、国際的にも、力を持つ。
それは、欧米を、脅かすことになるのである。

そして、アメリカにとっては、最も、憂慮すべきことである。

もし、北朝鮮に対して、アメリカが、武力を持って対処すれば、現体制を一気に、崩壊させることができる。
しかし、それを、しない。
何故か。

北朝鮮という、危険な存在が、朝鮮半島に存在していることが、アメリカには、都合がいいからである。

北朝鮮には、中東のような石油利権も、パレスチナ問題もない。
北朝鮮を、崩壊させても、国益にならないのである。

そして、もう一つ、アメリカの核のお陰で、軍事に、金を使わずにいたから、日本は、経済活動が、活発に行われ、世界第二位の経済大国になった・・・

それは、米ソの冷戦が、あったからこそのもの。
共産主義の、砦として、また、東側陣営に、対する、ショールームとしての、日本や、西ドイツの経済発展が必要だったのだ。

マッカーサーが、ワシントン政府から、占領政策の第一号命令は、日本が、再び、連合軍、白人社会の、脅威にならぬように、徹底的に、弱体化させることだった。

国際連盟とは、実は、日本の敵国の集まりである。

日本は、アメリカの、占領政策により、戦争犯罪国家の烙印を押され、謝罪国家として、その償いを永遠に、課されているのである。

そして、現在も、なお、それが、続いているといえる。

世界初の、大戦を、体験した日本である。
そして、世界初の、謝罪国家である。

西欧の、植民地政策の、謝罪など、聞いた事も無い。
また、誰も、それを、責める事が無い。
何故か。
世界は、未だに、白人世界に指揮されているからである。

無意識にも、彼らは、自分たちの優位性を、維持している。

だから、日露戦争に、勝ったということは、とてつもない、大きな希望を、有色人種に与えたのである。

白人たちが、奉じる一神教は、戦いに明け暮れる宗教である。
有色人種の宗教は、多く、共生の思想を持つ。

野蛮で、劣るのは、白人たちの方である。

その際たる、国家が、アメリカに象徴される。

その、アメリカが、今、衰退へと、歩みを進めている。
アメリカは、その建国から、およそ、200年。
そして、その間の、戦争は、200回以上である。
アメリカは、戦争によって、商売をしてきた国である。

それは、今も、変わらない。
世界の警察と、称するが、要は、戦争国家であということである。

さて、そこで、白人たちが、何をしてきたのかを、知るべきである。
そこで、日本に対する、大東亜戦争というものが、いかに、正しいものであったのか、を、知る、手掛かりにする。

日米開戦時に、アジア、アフリカという、有色人種の国で、独立国家だったのは、タイ、トルコ、エチオピア、そして、日本という、数えるほどしかないのである。

アジア、アフリカの大半は、欧米諸国の、支配下に置かれる、植民地だった。

この、欧米の、植民地化に、選別をつけたのが、15,16世紀の、スペインと、ポルトガルである。

15世紀の、ヨーロッパでは、モンゴル、イスラム勢力が迫り、このままでは、征服されてしまうという、危機感があった。

そこで、ヨーロッパの人たちは、海洋に新天地を求めるようになる。
大航海時代の始まりである。

それ以前は、暗黒の西欧だった。

アジアより、進んでいるというのは、大きな嘘。
アジア、イスラム帝国などの方が、より、進んでいたのである。

西欧では、文化、文明が、長らく育たなかったのである。
西欧が、急激な、発展を遂げるのは、15世紀の、ルネッサンスが全盛を向かえ、植民地からの、利益によって、18世紀に、産業革命が起こってからである。

西欧の、覚醒は、東方の文明の刺激があったゆえ。
それまでは、全体的に、野蛮な、未開の、地であり、暗黒の社会だった。

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